第2話:下山にて

 山を下りる。


 桐生丈之助は朝方にそう決めて歩き出したはずであった。しかし、丈之助は未だ山の中にいた。下れども下れども、麓には着かず、引き返せども山頂にも辿り着かないのだ。


「……これはどうしたことか」


 丈之助はガジガジと頭を掻きながら呟いた。いくら霧が濃いとは言えど、丈之助はこの山に住んで既に二十年になるのだ。生活を始めた頃の子供の頃はいざ知らず、今となっては庭のようなものになっていた。


「いやはや、狸にでも化かされたか」


 捕まえてたぬき汁にしてやろうかとひとりごち、丈之助は更に山を下ることにした。とにかく麓か川に当たれば無事に下山できるであろうという考えである。 霧は、未だ薄まりそうも無かった。実際はこの時丈之助は日の本の国ならぬ、この世ならさる別の世界へと足を踏み入れていたのだが、当の本人は知る由もなかった。


 いかほど経ったであろうか。


 相も変わらず山を降り続ける桐生丈之助であったが、ふとその足を止めた。


 ガサリ、ガサリと遠巻きにざわめく草切り音。

 付かず離れず距離を保ち、息を潜める獣の息。


 ――獣臭。


 丈之助が足を止めた理由。獲物を襲い、貪る獣が何処かに確かに存在する。そんな予感。

 時に、使うものはその身一つと前置いた上で、獲物を狩るという行為において、比較した時、果たして優れているのは人と獣、単純にどちらであろうか。それはもちろん獣である。人と獣は体の作りがまるで異なる。人は木々の間を素早く駆け抜ける四肢を持たないし、数十メートル先にいる存在を臭いで判別などできない。もちろん、低姿勢のまま音もなく歩くための体構造を持たないし、狩りの武器となる爪や牙の硬さ鋭さなど比較にもならない。山の中にたかが二十年住んだとはいえ、人が獣に狩りで勝てる道理はないのだ。


 獲物に足音が聞こえ、

 獲物に息遣いが聞こえ、

 獲物に獣の臭いが悟られる距離。


 それは、獣が獲物に対して自分の気配を気取られることを許容した瞬間であり、哀れな獲物に自らが勝てると踏んだ瞬間であり、丈之助が闇に潜む獣にエサと認識された瞬間であった。


 ぼたり。


 まず丈之助に聞こえてきた音は水滴の音。続いて下腹に響くような唸り声が耳に届く。巨木の影からのぞりと覗いた口元。牙と牙の間から伸びた舌よりその本能を抑え切れないとばかりに涎がぼたぼたと滴る。

 それは、まるで森の暗がりがずるりとまろびでたように、ずるりと闇から現れた。丈之助の進路を遮るように現れたそれは、分厚い肉に分厚い毛皮。下手な斧など受け止められてしまいそうな巨躯。太い四肢には鋭い爪、太めの枝を踏むだけでバキリと踏み割る凶悪な重量。それは餓えた意を顔面に惜しみなく貼りつけた山の王。この時代の日本にはいないはずの巨大な羆のお出ましである。


「……熊公かい」


 そう呟く丈之助に、羆はのそり、のそりと周囲を徘徊する。羆が丈之助の風上に回るたびに生臭い獣臭が丈之助の鼻を突いた。そして、その円を狭めようと羆が一歩その歩を進めた時、丈之助が口を開いた。


「……悪いが、喰らわれてはやれんのう」


 羆と丈之助の視線が合う。この時、羆がこの逃げない不思議な餌をどう見ていたかは定かではない。だが彼にとって現段階で決してそれが変わることは無い。しかし、丈之助と視線が会うや否や羆は立ち上がり、諸手を掲げて丈之助を威嚇した。


 丈之助は荷を降ろす。

 羆に向かい、腰を落とし、右半身に構える丈之助の表情に恐れは無く。

 

 ただ、ただ、無邪気に。

 口元を釣り上げ、嗤っていた。


 みしり、と丈之助の体が軋みを上げる。それは、歓喜の震えであり、力みの証であった。

 一歩前に出した右足の指ががっしと大地を掴み、風を切り裂き丈之助の体を前方へと運ぶ。一息で数メートルもの間合いがゼロになり、同様の速度で丈之助の左足がずんと羆の腹へと突き刺さった。そして丈之助は深く突き刺さる左足の感触を味わいつつも、直ぐ様その場で横へと転げる。

 人を打った時よりも何倍もの強固な肉の壁に跳ね返された感触。それが丈之助が左足から感じた感覚だった。

 羆の爪が空を裂く。丈之助の蹴りが埋まった直ぐ後に、羆の右手が横に薙ぎ払われていた。


「はは、やはり熊公に当身は薄いかよ!」


 丈之助はそう叫びながら直ぐに次の行動を始めていた。野生の獣、対して同じ攻撃はできない。彼らの本能と運動能力、そして知能を甘く見てはいけない。彼らは、この凶悪な敵は、この巨躯になるまでこの森で生き残りの螺旋を登ってきたのだ。単純な攻撃は死に直結しかねないだろう。仮に再び同じ踏み込みから再び蹴りを打つようなことがあれば、今度は羆の爪が丈之助の体を引き裂いているだろう。

 丈之助が移動したのは羆の右後方。そして右手を振り回した勢いで羆が右回りで振り返る。それと同時に丈之助の右足が地を蹴たぐる。羆の視界を瞬時に横切り、左回りにて羆の真後ろに回りこみ

 左手で羆の背な毛を掴み、飛び上がった。

 振り上げた右拳の型は人差し指を突出させた一本拳。

 自らの肩口から突如現れた丈之助に羆の心境は如何ばかりか。

 振り出された拳がズブリと突き刺さる。同時に羆の視界半分が赤く塗りつぶされた。

 ぎゃん、と嘶き丈之助を振り落とそうと暴れる羆。しかし、そうは行かぬと丈之助は刺した拳をさらに捩じ込んだ。


『――――!!』


 その瞬間、声にならない叫び声を上げて羆が転げ回った。さすがに丈之助もその膂力に耐え切れず、振り落とされ周囲の木々に叩きつけられた。


 再び同じ距離で対峙する丈之助と羆。

 しかし状況は一変していた。

 エサに思わず手痛い反撃をくらい、片目を失った羆に対して、乾坤一擲の一撃をみまった丈之助。羆は片目から流れ出る血をそのままに、ぐるると低く唸り声を上げていた。


「どうした、其れしきの傷で怖気付いたか」


 その丈之助の声色に羆は激昂した。言葉は通じずとも、もはや命のやり取りをしている関係である。丈之助の嘲りは言語の壁を超えて羆の神経を逆なでした。折れかけた精神を奮い立たせ、ここぞとばかリに羆が吠える。そして体をたわめ、その強靭なる四肢を持って一直線に丈之助に向かい飛びかかる。

 振り上げられる爪、そして牙、さらに丈之助に被さろうとする大きな体躯。

 爪にとらわれれば、牙が刺さり、

 爪を受けても牙が刺さる、

 爪を躱せどその体躯に押しつぶされ、

 体躯を跳ね返す力は人には無し。


「――されど此処で後ろに引くは、武人の恥よ」


 そう言って丈之助はわずかに体軸をずらした。

 爪は躱さない、前に踏み込み根元で腕を受けるのだから。

 体躯は受け止めない、軸をずらすことで中心を外れるのだから。

 牙は受けない、丈之助の目的は、その牙の奥にこそ在るのだから。


「応!!」


 丈之助は大きく右足を踏み込む、羆の腕がラリアットの如く丈之助の体に当たるがお構いなしだ。これがただの人であるならば、体軸をずらそうと何をしようと、今の一撃でふっとばされていただろう。だが彼の体も山育ち。常人よりも鍛え上げられた体は辛うじてその一撃に抗した。衝撃でぶれる視界の中、全力で伸ばした丈之助の拳が羆の牙を通り越し、その口腔の奥まで突き刺さる。同時に、丈之助は体を捻った。羆の突進力を回転力に変えて、自らの身体を基点に突き刺した拳と左手で羆を自分の左後方へ引きずり倒したのだ。

 そして、丈之助はその動きを利用してさらに垂直に拳を突き込んだ。ずっぷと粘膜がこすれる音が聞こえる。拳は羆の気道を塞ぐ形で深く嵌り込む形になった。牙は刺さらない。丈之助の拳と腕が口腔内を占領しているのだ。この状態では多くの生き物は構造的に顎を閉じることは出来ない。羆が暴れる。しかし、喉の奥まで腕ごと差し込んだ拳はそうそう抜けるものではない。されど羆の意識は未だ途切れず、まさに死に物狂いで丈之助の体を削っていった。おまけに、顎が閉じられないといっても完全に閉じれないと言うわけではなく、多少の噛み付きは可能なのだ。


「はっはっは、こうなりゃ根比べよ……」


 そう言って、まるでじゃれ合うよう子供のような笑みを浮かべた後、右腕に伝わる牙の痛みを感じながら、お返しだとばかりに丈之助は残った羆の片目にざっくりと指を突き入れる。


 いかほど経ったであろうか。羆がピクリとも動かなくなる。


 そして、丈之助は拳を突き刺したまま、羆の頭を抱え上げ、体ごとそれを捻った。ゴキリと鈍い音がこの闘いの決着を告げていた。あたりの霧は晴れていて、ふと見れば視線の先には木々が途切れており、流れる川と整備されているらしき道が見える。全身血だらけの身なりと羆の死体。風呂と食事をいっぺんに解決しようかと、丈之助は歩を進めるのであった。

 さて、丈之助が仕留めたこの羆。この世界では、人食い熊として度々街道の旅人を襲う事で有名な賞金首(識別名:リガルド)として手配されている、異常体と呼ばれる凶悪な魔獣であり、ギルドの手には負えず、特例としてイプストリア王国騎士団が出兵する手筈が整えられ、今まさにこの場へ向かっている最中であったりするのだが、この場が未だ日の本の国だと思っている桐生丈之助にとって、その事実はなんら関係の無いことであった。

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