第二章 金のためだ、金のため

        1

 鎌倉平良は、静岡大学工学部の第三講義室で行われている補講に出席していた。

 携帯電話の時計が午後二時を刻むのを見計らって、鎌倉は胸を押さえて、バッターンと盛大に倒れた。

「うっ、苦しい! 心臓が、心臓が、心臓の持病がぁ、死ぬぅう!」

 もちろん、補講を抜け出すための仮病だ。鎌倉は胸を掻き毟る動作をして、横たわったまま、講義室の階段をゴロゴロと派手に転げ落ちた。あらかじめ仕込んであったシャボン液の泡を、口から吹き出して、白目を剥く。補講担当の岩上教授は、突然の鎌倉の発作に驚き、保険医や救急車を呼びに講義室を出ていく。

 鎌倉は岩上教授がいなくなったことを確認すると、身を起こして、口に溜まったシャボンの泡を、ペッペと吐き出した。

「なぁんて、な」

 冗談じゃねえ。補講なんて、生きてく上で何の得にもなりゃしねえ。

 鎌倉は講義室を出て、巡回中で無人の警備員室を堂々と通り抜けた。同級生の久米田と小澤が大学一階に在る実験室から「早く、こっちですよ」と手招きし、鎌倉は実験室へ。

 実験室は、飛行機の模型や部品が入った段ボールが所狭しと犇めき合っており、半ば物置小屋のような状態だ。久米田は段ボールに囲まれながら、そわそわと落ち着かない様子で、鎌倉に聞いた。

「鎌倉さん、授業抜け出して、飛行機、飛ばしに行くんでしょ? 僕たちも手伝いましょうか?」

 誰が、いつ、何時何分何秒に飛行機を飛ばすって? この超絶飛行機馬鹿どもめ。さっきお前らに言ったのは、くそ退屈な補講を抜け出して、羽を伸ばしたいってことだ。羽根ぇ伸ばすイコール飛行機に変換しちまうなんざ、めでたい脳ミソしてやがるぜ、ったくよ。まあ、いいぜ。めでたくても年中正月でも、どうでもいいや。この飛行機部の実験室を通ると、すぐに裏庭だからよ。大学抜け出すには持って来いな近道を毎回提供してもらってんだ。てめえらが、女のケツより飛行機の尾翼を追いかけ回してる、気持ち悪ぅい変態でも、俺は構わねえぜ。通行料は無料だしよ。

「ノーフューチャー、ノーセンキューだ」

 鎌倉はしっしっと久米田と小澤を手で払って、実験室の裏口のドアを蹴り飛ばした。

 人通りの少ない裏庭を抜けて、大学を抜け出すと八幡山を目指す。八幡山とは静岡駅から南に二キロほど南下したところに在る、麓に八幡神社の拝殿、中腹に本殿を抱える標高六十四メートルの小さな山だ。静岡大学は八幡山のすぐ北に位置するため、鎌倉は講義や補講を抜け出しては、ほとぼりが冷めるまで《八幡山アスレチック公園》で昼寝をして時間を潰していた。

 鎌倉は八幡山の麓に続く久能街道の車道を、南へ向かって歩く。

 街道といっても、灯篭や石碑など、歴史を感じるものは一切ない。片側一車線の狭い車道の隅に申し訳程度に白線が引かれ、歩道が設けられているが、摩耗して消えかけている。車道と歩道の境界線は曖昧だが、車道を歩いたところで、車通りが極めて少ないので、撥ねられる可能性は、まず皆無と言っていいだろう。久能街道にコンビニはない。目立つ建物といえば静岡大学と、南幹線という道路を挟んで北側に在るホームセンター《ジャンボ・エンチョー》の建物のみだ。南下するほど、民家が多くなり、空きの多い月極めの駐車場と、昔ながらの個人経営の商店ばかりが目につく。

 鎌倉は久能街道から小道へと入る。新築の民家が三軒並んだ先、通行人の気配に気付くと、家の庭の柵の間からフンフンと鼻を出して尻尾を振る黒い柴犬が飼われている家の角を、東へ曲がる。

「よう、ワン公。今日もクソ暑いなぁ」

 いつものように鎌倉は柴犬に声を掛け、小道を進む。角を曲がってすぐの場所に在る、手芸用品やアニメ・キャラクターをプリントした端切れを扱う《さゆり手芸屋》は子供連れの母親で賑わっているが、鎌倉が見る限り、毎日、同じ顔ぶれだ。南隣りの《小林文具》は最近、なぜか生花とアイスクリームを扱うようになった。

 鎌倉は《小林文具》の周囲の民家の子供が、店の前で「アイス食べたいぃ!」と駄々を捏ねて、激しい戦いの末、涙を流しながらアイスクリームにしゃぶりつく姿を、何度も目撃した。鎌倉は地べたに這いつくばって駄々を捏ねることが労働で、アイスクリームを買ってもらえるのが報酬だとしたら、時給に換算すると結構な稼ぎになるかもしれないな、と考えながら、《原科カメラ》のショーウィンドウを横目で眺める。

《フジカラー》と看板が掲げられた玄関には、つい最近、結婚して父親になった芸能人のアイドル時代のポスターが飾られている。ショーウィンドウに並べられているカメラは、どれも年季が入っているというよりも、ただ単純に古い。

《原科カメラ》を通り過ぎると、畑仕事の道具を入れるトタン屋根の納屋があり、背景にこんもりとした新緑が広がる。視線を上げると、新緑にさらに入道雲がこんもりと重なって、空の青、雲の白、山の緑といった、鮮やかな色彩の風景が広がっていた。

 木々に隠れるようにして石造りの鳥居があり、鎌倉は鳥居を潜って、八幡神社の拝殿横の道を進んだ。拝殿の周囲には木々が生い茂っており、蝉の鳴き声がグワングワンと、波のように押し寄せてくる。

朝から晩までミンミンミンミン……馬鹿の一つ覚えみたく、うるせえなぁ。

 鎌倉は指で耳に栓をしながら、空の高いところでジリジリと照る太陽を睨む。日差しが強く、チリチリと首の後ろや背中が焦げる。

 あーもう……太陽、落ちろ。

 顔見知りの神主が、拝殿前で桶に汲んだ水を柄杓で水を撒きながら、鎌倉に声を掛けてきた。

「おや、鎌倉くん、こんにちは。まぁたサボりかい?」

 鎌倉は足を止め、日差しを避けるため拝殿の軒下に避難する。神主から柄杓を借りて、桶の水を背中へ流し込む。井戸から汲み上げた冷たい水が焼けた肌に沁みて、心地良い。

「あー……つんめてぇ。オッサン、人をサボり魔みたく言うんじゃねえよ。今日は、所用だ、所用」

「所用ねえ」

 神主の太い右眉が吊り上がり、引っ張られるようにして口の端も上がる。ふうん、どうだかなぁ? といった疑惑の視線が、鎌倉に向く。

「所用があるから、補講を抜け出したんだ。俺は、よく考えるタイプだから、朝方まで眠らずに所用と補講を天秤に掛けたんだぜ?」

「その天秤、正確なんだろうねぇ?」

「ああ、正確も正確。ほら、エジプトのナントカっていう神様が死者の心臓と羽を天秤に掛けて天国行きか地獄行きかって決めるだろ? 俺の頭の中の天秤も、ソイツと一緒さ」

「良く分からんなぁ、キミの講釈は」

「そんでもって俺の超正確な天秤は、右にグラグラ左にグラグラ、ようやく導き出した答が補講より所用を優先させる、だ。俺だって心苦しいんだ」

 鎌倉は柄杓の水を胸から流し込んで、仮病を使った際のシャボン液を洗い落とす。神主は肩を竦めて笑った。

「軽薄でなによりだ」

「お褒め仕るぜ。言葉を選んで話してたらあっという間に陽が暮れちまう。軽薄ぐらいがちょうどいいんだよ。じゃあな、オッサン、サンキューな」

 鎌倉は柄杓の水をぐぐっと飲み干すと、神主に柄杓を返して、拝殿北側から本殿へと続く山道を目指した。

 山道は樹木の落とす影で拝殿の周囲よりは随分と涼しいが、蝉の鳴き声がとにかくうるさい。ミンミンミンミンがひと固まりになって容赦なく耳へとぶつかってくる。鎌倉は人差し指で耳に栓をして、俺が大統領になったら蝉撲滅、蝉撲滅……と呟きながら斜面に張った木の根とコンクリート・ブロックを組み合わせた階段を上る。噴き出す汗をTシャツの袖で拭い、脚に力を入れる。八幡山は歩き慣れているとはいえ、この暑さでの山登りはちょっとした拷問だ。土や樹木の匂いも暑さで濃縮されており、ちょいとばかり気持ちが悪い。

「俺が、総理大臣に、なっても、蝉撲滅、蝉ぼくめ……おっ!」

 山道の途中に立つ案内板を見付けた鎌倉は足を止めた。呼吸を整え、目を細くして、案内板に描かれた絵地図を睨み、道順を人差し指でなぞる。

 なるほど、この案内板の場所から右、右、左で、右、左だな。……んん? よく分かんねえけど、まだ随分と歩かなきゃなんねえのか。脚がエラくてたまんねえや。

「まあ、金のためだ。煙水さまさま、っとな」

 鎌倉は人差し指で案内板に描かれた目的地煙水花火商会工場をコツコツと叩き、顎から滴り落ちる汗を拭って脚に力を入れて、再び歩き出す。

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「なんだ、俺ぁ、熊かと思ったからよぉ、焦っちまったよ!」

 煙水中の兄で、煙水花火商会の社長でもある煙水長太郎は、鎌倉に向かって爆竹を鳴らした。足元で炸裂する爆竹に驚いた鎌倉は、工場に続く階段を踏み外した。急な斜面を、ゴロゴロと滑落する。鎌倉の悲鳴を聞いた煙水長太郎は、爆竹を投げた相手が熊ではなく、人間なのだという事実に、ようやく気付いたらしい。木の幹に背中を打ちつけて目を回す鎌倉に荷造り用のロープを投げ、引っ張り上げる。

 鎌倉は煙水花火商会工場の事務所に通された。

「いやぁさ、悪かったな! まさか、中の野郎の先輩だったとはなぁ! まあ、適当にくつろいでくれよ!」

 煙水長太郎はガハハと豪快に笑い飛ばした。玄関先に積んだダンボールから缶ジュースを取り出して鎌倉に渡し、椅子に座るように促す。鎌倉は、煙水長太郎に言いたい文句が山ほどあった。そこをどうにか、喉に力を入れてぐっと抑えつけ、ぎこちない笑顔で頷いた。

「……ぐっ、は、はぁい」

 我慢しろ、俺。ここで怒ったら、ここまでやってきた努力が、おじゃんになる。なんのために転がり落ちたと思ってるんだ。全ては金のためだろ、金。煙水中が来るまでは、とりあえず我慢するんだ。……あと、たとえブチギレして喧嘩しても、この筋肉達磨が相手だとすると、絶対に負けるぞ、俺。

 鎌倉は、破れてスポンジが飛び出た丸椅子に腰を下ろし、事務所を観察する。事務所といっても、蔵のような頑丈な造りの工場とは違う。トタン張りの一〇畳程度の平屋だ。靴が辛うじて置ける三和土と、丸椅子が二脚置かれた接客スペース。簡単な事務作業をするための机には、六昔ばかり前の分厚いデスクトップ・パソコンが置かれている。事務所の一番奥には押入れと、畳が敷かれた休憩スペースがあり、冷蔵庫とテレビ、扇風機がスペースの大部分を占領していた。

 適当にくつろげるスペースが、どこにあるって? 丸椅子のスプリングが、さっきからケツに刺さって痛ぇし、ホコリ臭ぇし、狭いし、バカ暑いし……嫌がらせかよ。

 煙水長太郎は、鎌倉の目の動きに気付くと、胸の前で腕を組んで大きく頷く。

「どうだ、狭いだろ?」

「もう、狭いとかって次元じゃなくて、地獄だ」と口からぽろっと零れそうになった。

 慌てて寸前で、缶ジュースで塞ぎ、生温いオレンジジュースで押し流す。オレンジジュースの果肉が喉や舌に纏わりついて、今にも咽せそうだ。

「い……いいえぇ。そんなこと全然ないですよ。文化財級の歴史を感じますよぉ」

 特に、窓のサッシにフッサフサに積もったホコリに。鎌倉は生温いオレンジジュースを口内で持て余しながら、引き攣った笑顔を浮かべた。煙水長太郎は目元に皺を寄せ、白い歯を見せてイッヒッヒと笑う。

「なぁに、世辞は要らんさ! 掃除も、ろくにしてないしな!」

 だろうな。掃除してこの有様なら、軽く怪奇現象だぜ。

 煙水長太郎は酒を呷るようにして、オレンジジュースを美味しそうにグビグビと飲み、今度はワッハッハと笑う。

「冷蔵庫も最近ぶっ壊れちまって、このざまだ!」

「はあ、だから……冷えてないんすね、このジュース」

「うん! そうだな!」

 そうだな! じゃねえだろ、んなもん、客に出すな。出さないほうが、まだマシだわ。

 煙水長太郎がガハハと笑うたびに、鎌倉は頬の筋肉に力を入れて、口角を無理矢理どうにか持ち上げて愛想笑いを作る。陽気な熊を見ているようだと、鎌倉は思う。熊に間違えられるなら、煙水長太郎のほうが理に適っている風体だ。筋骨隆々として背が高く、背が高いのと比例するように、胴回りが太く、肌が日焼けして、とにかく黒い。

 煙水長太郎が川で鮭をバッシャバッシャと採っていても、違和感ねえんだろうな。

 鎌倉は、どうにか口内のオレンジジュースを飲みこむと、上半身を捩じって、事務所の外に視線を投げる。先程、煙水長太郎が工場に向かって声を掛けたが、煙水中が来る気配は、未だゼロ。

 煙水中の野郎……先輩を待たせるたぁ、相変わらず、いい度胸してんじゃねえか。こっちはテメエのやたらと陽気な兄貴と、廃墟寸前の事務所で、何が悲しいかな、サシで生温いオレンジジュースを飲んでるっていうのによぉ。ちくしょう。金のためだ、金のため。

 鎌倉は会話を探す。

「……あのぉ、さっき、俺を熊に間違えたって、言ったじゃないですかぁ? この辺りって、熊が出るんですかぁ?」

 煙水長太郎は、キョトンとした表情をする。首を傾げているが、熊と同様に首が短いので、分からない。つうか、なんだ、その「キョトン」は?

 煙水長太郎は、オレンジジュースの残りを一気に飲み干して、鎌倉の肩を叩いて盛大に笑う。

「なに言ってんだぁ! 熊なんて、こんな小さな山に、出るわけないらぁ!」

 だったら、どうして、さっき、俺に爆竹を投げたんだ、っつうの

 鎌倉は頬に渾身の力を入れて笑顔を作りながら、オレンジジュースを全力で啜る。

「そ、そうです、よねぇ。出るわけ、ないっすよねぇ、熊なんかぁ」

 ちくしょう、煙水中の野郎め、早く来やがれってんだ。ケツ痛ぇし、ホコリ臭ぇし、お前の兄貴、日本語てんで通じねえし。ちくしょう……耐えろ、頑張れ、すごく頑張れ、俺。全ては……そう全ては、金のためだ。

        3

 鎌倉が高校三年生のときのことだ。煙水中は、眼鏡を掛けた弥勒菩薩のような男だ、と噂されていた。ただ単純に、日本史の教科書に掲載されていた京都広隆寺の弥勒菩薩像と、煙水中の長身、細身、無表情、常に落ち着き払っている姿が、なんか似てる、という単純な理由からであって、心が太平洋級に深くて広いわけではない。

 鎌倉は、ようやく事務所にやってきた煙水中を睨みつける。照りつける陽の光を背に事務所の戸口に立つ煙水中は、夏の暑さなど微塵も感じないといった、涼しい顔をしている。煙水中の掛けている、黒のセルフレームの眼鏡から覗く颯爽とした目元と、すっと高い鼻、薄い唇が、無表情と相まって、やはりどこか、弥勒菩薩のようだ。

 煙水長太郎は三本目のオレンジジュースを啜りながら、席を立つ。三和土に転がったスニーカーを足で器用に引き寄せて掃き、煙水中の肩をバッシバッシと叩く。

「おう、中! 遅かったじゃんか! お前の先輩の室町さん、ずーっと待ってたんだぞ!」

 室町じゃなくて、鎌倉だ。ベタな間違いすんなよ、オイ。

 鎌倉は煙水長太郎の広い背中に向かって舌を出す。煙水中は鎌倉に軽く会釈をした。

「お待たせしてすみません。お久しぶりです、鎌倉さん」

 高校時代から変わらない、平べったい口調に、鎌倉は眉間に皺を寄せる。

 モールス信号じゃねえんだから、もっと、分かりやすくハッキリ喋れってんだ。まあ、でも、きっと弥勒菩薩が口を利いたら、こんな感じなんだろうけど。弥勒菩薩のヤロウは、きっと、煙水中のように喜怒哀楽が究極にハッキリしない喋り方で「私は、超有名な仏像であるぞ、皆の者、なむなむしろ」とか言うんだろうな。

 煙水長太郎は、工場に置いてある花火の在庫確認をするために、事務所を離れた。

 鎌倉は、煙水長太郎の背中に向かってブンブンと手を振った。姿が見えなくなると椅子にどっかり座り直して、頭を掻く。

「おい、煙水」

 煙水中は、事務机の上を片付けながら、苛立つ鎌倉に顔を向ける。

「鎌倉さん、兄貴は昔から、ああいう性格です」

 鎌倉の強い口調にも、煙水中の無表情は、微動だにしない。

 俺の言わんとしていることに対して、先回りして答えるところも、相変わらずだ。嫌味な野郎だぜ。これだから、インテリは嫌なんだ。なぁにが、ああいう性格ですから、だ。てめーの兄貴だろ、なんとかしろい。マジで。

「へっ、夏は暑いです、みたいな、さも当然な言い方しやがってよぉ。限度があるだろ、限度が。いくら暑いったって、温度計に五〇度以上が存在しないのと同じだ」

 鎌倉はオレンジジュースの空き缶を三和土横のゴミ箱へ放り投げる。空き缶はコーンと壁に当たって、ゴミ箱へ。空き缶が当たった衝撃で天井からポロポロとホコリが舞い落ちる光景を見て、鎌倉は顔を歪める。

「……ついでに、事務所も究極に汚ぇし」

 事務机の上を片付け終わった煙水中は、冷蔵庫の扉を開け、缶ジュースを二本ひょいと取り出すと、鎌倉に渡す。鎌倉は氷の塊のように冷えた缶ジュースを受け取ると、汗ばんだ首の側面に当ててグッと冷やした。

 あれ、冷蔵庫って、ぶっ壊れたんじゃなかったか?

 煙水中は缶ジュースに口を付けて、鎌倉に向かって肩を竦める。

「冷蔵庫は、俺が数日前に修理しました。兄貴にも報告したんですが」

「……抜け落ちたって言いたいのかよ。お前の兄貴の頭ん中を、一度じっくり覗いてみたいもんだぜ」

 鎌倉は首の側面から首の後ろ、頬、額を冷やす。毛穴がギュッと収縮し、汗がピタッと止まった。煙水中は、ようやく丸椅子に腰を下ろすと、缶ジュースを啜りながら、事務机に手を伸ばして、束になった伝票に目を通し始める。涼しい目で、噛み砕くように伝票の数字を追っている様子からして、どうやら頭の中で暗算しているらしい。

 足し算くらい、電卓を使えばいいじゃねえか。嫌味なヤローだぜ。

「売上高の計算なので、足し算だけではありません」

 だから、先回りすんな!

 煙水中は事務机の抽斗から紙とペンを取り出し、さらさらと数字を書き出しながら、思いついたように顔を上げる。

「残念ですが、明日の花火の関係者特別席、鎌倉さんのために用意は、できません」

 だからぁ、先回りすんじゃねえって、このクソ眼鏡っ!

        4

 明日の浅間神社の大祭に併せて、浅間神社の北側の敷地の《賤機山》で花火が打ち上げられる。開会は、浅間神社敷地内に在る舞殿での神楽奉納が終了してから、約一時間後の、午後五時、開演は午後六時だ。一〇号玉やスターマイン、仕掛け花火など、約四千発が夜空を彩る。静岡市では《安倍川花火大会》の次に規模の大きい花火大会だ。毎年、静岡市内の大企業や、浅間通り商店街、個人が協賛に名乗りを上げ、有終の美を飾る大スターマインは出資権利を巡って、毎年抽選が行われるほど人気がある。

 花火の製造から打ち上げを一手に担うのは、煙水花火商会だ。煙水花火商会の創業は、文化十四年、つまり今から約百九十年前の江戸時代と、歴史は古い。煙水長太郎が二十六代目に当たる。

 鎌倉が、大祭終了後に行われる花火大会の特別観覧席の存在を知ったのは、昨日の夕方のことだ。

「俺の通っている大学に、議員の息子がいるんだけどよ。そいつがまた、イケすかねえボンボンで、ブランドもんで爪先から頭の天辺まで、全身コーディネートなんだぜ。お前はイタ公か、ってえの!」

 鎌倉は椅子の上で胡坐を掻いて、膝の上に肘を置き、頬杖をついて熱弁を振るう。煙水中は淡々と伝票を日付順に並べながら、鎌倉の話に耳を傾けていた。

「鎌倉さん、それは、イタリア人に対する偏見です」

「で、そいつが、くっせえ香水なんぞ振りかけやがって、また、それが、臭ぇのなんのって。そいつときたら、親父の権力チラつかせて、講義をサボるし、クラスの女子を可愛い子に、今度ウチでパーティーがあるから来ない? だってよぉ。フランス人かっ、てえんだ。……なあ、そう思うだろ?」

「フランス人が皆、パーティー好きとは限りません」

「いちいち、うるせえなぁ。俺が言いたいことは、外国人ファッキンがどうたらこうたら、じゃなくて……」

「鎌倉さんは議員の息子が気に入らない。しかも、明日の大祭で打ち上げる花火の特別観覧席の存在を餌に、クラスの女子の気を引いていたから、余計に。違いますか?」

「その通りだ、名探偵っ」

 鎌倉は鼻息荒く、膝をバシッと叩く。

 ご名答の大当たりの大正解ってやつだ。会話の先回りも、喋るのが億劫なときは大歓迎。煙水中が人の心中を見透かしているような目つきをしていやがるのは、腹が立つけどな。

「暴力は反対ですよ」

 煙水中は、日付順に並べた伝票を上から下へ、撫でるように見ると、浅く頷いて手際よく付箋を貼っていく。鎌倉はフンと鼻で笑う。

「俺がてめえを殴るって?」

 何だよ、びびってんのか?

「いえ……」

 煙水中は付箋を貼った伝票を束にして、事務机の抽斗から取り出した輪ゴムで括ると、顔を上げた。

「議員の息子の腰巾着で、一番弱そうな同級生を殴って、特別観覧席の出どころを?」

 鎌倉はイッと小さく唸り、肩をびくつかせ、ぱちぱちと瞬きをして、反論する。

「な……お、俺が殴ったのは、議員の息子、本人だっ。煙水、てめえ、先輩をヘタレのように言いやがって。お、おま、お前のぉ、悪いところは、何でもぉ、そうやって、決め付けるところだ」

「鎌倉さん、声が裏返ってますよ」

「変声期だよ! 第三次くらいの、変声期! どうぞお構いなくぅ!」

 うおお、マジかよ、当たってるよ。そうだよ、俺が殴ったのは議員の息子じゃなくて、ソイツの腰巾着のフナムシみてえ弱っちい男だよ。当たりめぇだろ? だって腐っても議員の息子だぜ? 殴ったら、俺みたいなヒエラルキーの最下層は速攻退学で、最悪、刑務所だって。だから腰巾着のフナムシを、チャリ銭を握って、パンチを重たくしてぶん殴って、ちょっと脅したんだって。くっそ、くっそ、煙水のヤロウ、先輩を小馬鹿にしやがって。

 鎌倉は胸の前で腕を組み、鼻息を荒くして煙水中を睨み付けた。

「いいからっ。特別観覧席ってやつを、とっとと渡しやがれってんだ。弱小貧乏の花火屋に免じて、言い値で買い取ってやる」

 すると、煙水中は人差し指で眼鏡をくっと押し上げて、鎌倉と同じように胸の前で腕を組んだ。

 な、なんだ、やろうってえのか?

「駿府政事録……」

 煙水中は肩を竦める。

 は? 妊婦黙示録? なに、それ? 医学書? それとも、官能小説?

 大きく首を傾げたまま黙り込む鎌倉をよそに、煙水中は続ける。

「駿府政事録という、駿府城の政治を記した文献があります」

 はあ……左様ですか。

「駿府政事録が書かれたのは、今から約四百年前の江戸時代で、今は京都市伏見区の龍谷大学が所蔵しています」

「はぁ……?」

 淡々と続ける煙水中に、さらに鎌倉は、ぐぐぐっと首を傾げる。煙水め、突然やったら難しい話をし始めやがって。ちきしょう、頭が重い。

「駿府政事録の中に、イギリスからの使者が持ってきた花火を、徳川家康が駿府城内にて見学した記述があります。これが日本における最初の花火、いわば花火のルーツです」

 駿府城という、知っている単語に、鎌倉の傾いていた首が、少しだけ元に戻る。

 静岡駅から北北西に一・五キロメートルほど進んだ中心市街地に駿府城は、在る。外堀と内堀の間に、静岡県庁や静岡市葵区役所などの多くの公共施設を抱えて、敷地は約五十一万平方メートルと広い。築城主は、徳川家康。家康没落後の大火で城の大半を焼失したが、現在まで東御門高麗門や東御門櫓門、巽櫓が復元され、車道から見える白塗りの壁が美しく、市のシンボル的存在になっている。また、旧本丸や二ノ丸の場所は駿府公園として整備され、近年では《駿府桜まつり》や《大道芸ワールドカップ》などが開催され、観光客の大きな呼び水になっていた。

「な、舐めんなよ! 駿府城くらい、俺も知ってらぁ。で、なんだ、えーと……その、つまり、静岡が日本で一番最初の花火のルーツってことだら?」

「ええ、記録として残っている限りだと」

「そのことと、今回の特別観覧席と、どういう関係があるってぇんだ?」

 鎌倉はTシャツの袖で汗を拭い、ムキになって熱くなった顔を、缶ジュースで冷やす。すると煙水中は、右手で拳を作り、鎌倉に差し出した。鎌倉は咄嗟に、両手を構えた。殴られるんじゃないかと疑いながら、おそるおそる拳を覗き込む。

「なんだよ、なにか入ってるのか?」

「……その当時の花火は」

 煙水中は右手の拳を広げ、花がパッと咲くような動きを取る。

「うおっ、なんだよ!」

「駿府政事録に記述のある花火は、打上花火ではなく、噴水式のような花火です。このように、筒から火花が吹き出すような形です」

 煙水中は噴水式の花火について説明する。

どうやら江戸時代に徳川の家康さんが見学した花火ってえのは、ヒュー……ドーン! たーまやぁ! てえのじゃなくて、火薬が吹き出すタイプのものらしい。昔のイギリス人もどうして、吹き出すほうを持ってきたかねぇ。打上花火のほうが景気よくって、いいじゃねえか。

「鎌倉さん、球形の花火は日本独自のもので、外国では主流ではありません」

 へえ、そりゃあ、そりゃあ。煙水花火商会の次男様は、えれー博識なこって。

「で、なにが言いたいんだ、煙水。テメエの知識をひけらかして、俺をおちょくってるだけだったら、嫌がらせに、今度、テメエの家の新聞受けにマヨネーズをぶっこんでやる」

 煙水中は右手を引っ込め、鎌倉をジッと見る。鎌倉も負けじと、胸を張り、鼻の穴と頬を膨らませて変な顔で応戦する。

「つまり、鎌倉さん」

「なんだ、クソ眼鏡」

「球形の花火は、どこから見ても、美しいということです」

 鎌倉の膨らんだ鼻の穴と頬からプシューと空気が抜ける。

 なるほど、煙水、テメエが言いたかったのは、そういうことか。頭が良いから、もう少しマシなことを言うかと思って待ってりゃあ、球形の花火は美しい、かよ。

 鎌倉は鼻で笑い、頭の後ろで手を組む。背中の筋肉を伸ばしてから、再び前へ重心を移動させ、煙水中を睨み付ける。

「だから、お引き取りくださいってわけか?」

 煙水中は無表情のまま、鎌倉を見る。首を縦にも横にも振らず、口を閉じたままで、肩を竦める。

 俺がどう出るか、待ってやがるんだろう。つくづく、嫌な奴だ。

「煙水よぉ、花火が丸いから、どこから見ても美しいってえのは、花火屋の美学だ。毎日、神様にお祈りしてれば、テメエだけは天国に行けるってぇ宗教と同じさ。クソの役にも立たなければ、一銭にもならない、厄介なもんだ」

 煙水中は黙ったままだ。鎌倉は続ける。

「花火屋の美学が、テメエに時給を払ってくれるのか? 違うだろ? 花火を作って打上げるのは花火屋かもしれねえが、土台は花火に金を落としても構わねぇっていう奇特な野郎共だ。その奇特な野郎共に、寸志でくれてやる席を、俺は言い値で買い取ってやるって言ってんだ。言い値だぜ、言い値、分かるか? 言、い、値」

 鎌倉は人差し指で煙水中を差す。煙水中は瞬き以外、ぴくりとも動かない。

 煙水の野郎、分かってるのか? 俺が言い値で買い取るってことは、弱小貧乏花火屋のお前らの家計が助かるってことじゃねえか。花火の協賛企業には、菓子折り一つでも持って、世間話程度に頭を下げればいい。いくら弱小貧乏花火屋つったって、大祭を仕切っている浅間通り商店街の老舗の花火屋だ。関係者特別席が欲しいよぉって、駄々を捏ねる協賛企業なんざ、ねーだろ。お前は儲かる。んで、俺も関係者特別席を教授や金持ちのボンボンに言い値以上で売り払って、儲かる。全ては金の力で丸く収まる。全ては金なんだっつぅの、金。

「なるほど。鎌倉さんの考えは、分かりました」

 煙水中は浅く頷くと、席を立って事務所の戸口へと向かう。鎌倉は身を捩じり、煙水中の背中に視線を投げる。

 おっ、煙水のヤツ、その気になって、兄貴のところに打診しに行くのか?やっぱ頭の良いヤツは理解も早いぜ。鎌倉さんの言うことを大人しく聞いとけば、間違いねーからな。

 煙水中は戸口に手を掛けて振り返る。

「鎌倉さんが仰っていることは分かります。ですが、やはり席は用意できません」

「はぁ? どうしてだよ」

 鎌倉はバランスを崩し、転がるように席を立つと、戸口を開けて外へ出る煙水の後を追う。鎌倉が詰め寄るより先に、煙水中が口を開く。

「関係者特別席は、ウチではなく、市が管理しているからです」

「は、はぁっ? なんだってえぇ!」

「俺のクソの役にも立たない美学を聞いてもらったので、俺も鎌倉さんの現金至上主義の話に耳を貸さなくてはと思いまして。軸がブレていないようで、なによりです」

 煙水中は突き刺すような日差しの中を、涼しい顔のまま、工場に向かって早足で歩く。

 鎌倉は前につんのめりながら、煙水中を追い掛ける。掴み懸かろうにも、スニーカーの紐がほどけて、上手く走れない。

 ちょっと待て、関係者特別席は、市が管理してるだぁ? どういうこった。俺は、腰巾着のフナムシに……。あっ、だから煙水の野郎、関係者特別席の件は議員の息子に直に聞いたんじゃねえって、気付いたのか。つうか、つうかよ、はなっから市が管理してるって、言いやがれよ、このっ、この、クソ眼鏡ぇえっ。

 鎌倉は歩幅を稼ごうと、怒りに任せて力の限り、前へ跳ぶ。しかし、右足で左足の靴紐を踏みつけ、バランスを崩して、後ろに転がる。転がったところには運悪く、工場から運び出す予定のコンテナが積まれていた。鎌倉はコンテナに側頭部を強く打ちつけた。ゴスッと鈍い音を聞いた煙水中が振り返り、歩み寄ってくる。

「大丈夫ですか?」

 とは、とても思ってない、まるで感情がこもってない口調だ。

 あーもう……踏んだり蹴ったりとは、このことだぜ、チキショウめ。もう、怒りを通り越して、情けなくなってくらぁ。

 鎌倉は尻餅をついたまま、側頭部の痛みに悶絶。ふらふらしながら、ぶつけた衝撃で目の前にバチバチと飛んでいる星を手で振り払う。

「うっせえ、鎌倉さんは……無敵なんだよ」

「そうですか。ところで、無敵の鎌倉さん、鼻血が出てますよ」

        5

 鎌倉は八幡山を下山する。側頭部をぶつけた余波で、視界が滲み、地面がグワングワンと揺れている。鎌倉は、足の裏で地面をしっかりと踏みしめ、慎重に階段を下りる。煙水花火工場を訪ねたときよりも陽が傾いて、蝉の鳴き声は多少は静かになったが、暑さは少しも引かない。鎌倉は汗を垂らしながら、振り返る。

「おい、煙水、従いてくんな」

 鎌倉に追従する煙水中の涼しい顔には汗一つ浮かんでいない。足場の悪い斜面も、颯爽と下って行く。

「下山の途中に鎌倉さんに死なれると、後味が悪いので」

 こいつ、縁起でもないことを、サラッと言いやがって。

 鎌倉は煙水の足元に目がけて唾を吐き、前方に向き直る。

「脳が軽く揺れただけだっつうの。勝手に殺すんじゃねえ」

 頭に血が上ると、側頭部にできたタンコブが鈍く痛み出す。鎌倉は奥歯を強く噛んで、大声で叫びたい衝動を擦り潰した。

「それに、麓に停車させたトラックから、幾つか事務所に運ぶ物がありますから」

「へえへえ、そうかよ。貧乏ヒマなしって言うからな。せいぜい、頑張って働けぃ。あーあ、貧乏は悲しいなぁ。想像しただけで震えちまうぜ、び、ん、ぼ、う、は」

 鎌倉は、ここぞとばかりに反撃する。ところが、煙水中は平べったい口調で「そうでもないです。食べるのには困ってませんし」と、さらっと否定する。

「よく言うぜ。花火屋なんて見切りをつけて、さっさと店ぇ畳んだほうが、楽だぜ」

 そうでもないわけねぇだろ。貧乏は悲しいんだ。飯や着るものは粗末だし、なにより惨めで、悲観的になる。ガキの頃、ランドセルも買ってもらえなかった悲しみが、まさに、その感情だ。貧乏反対、金持ち大賛成。金があれば、人生、勝ったも同然じゃねえか。

「急な出費があれば、稼げばいいだけですし」

「アテでもあんのかよ? 手っ取り早く稼げる仕事なんざ、そうそう有るわけもねえ」

「有りますよ」

「強がりやがって。この強がり眼鏡。いっちょまえに手に職でもあるのかよ? じゃあ、言ってみろ。その稼げる職業ってえのを」

 鎌倉は舌打ちして足を止め、振り返り、煙水中を睨み付ける。煙水中は無表情のまま左手で右腕を軽く叩く。

「西中原鉄工所で、普通旋盤を少々」

 途端に鎌倉は眉間に皺を寄せ、肩をびくつかせる。

 ゲッ、そういや、煙水は俺と同じく、静岡工業高校出身だった。つうか、俺、今、すっげえ威張ったけど、俺が高校三年生のときに、高校一年生だったコイツの凄まじい旋盤技術と、辻村の製図で随分と小銭を稼がせてもらった気がする。……いや、気のせいだ。稼がせてもらったとき、煙水と辻村に支払う予定の報酬を踏み倒したのも、側頭部をぶつけた衝撃で記憶が――。うん。心なしか煙水の視線が冷たいのも、幻覚だ。そう、全部が全部、気のせいで、幻覚。俺、悪くないモン。

「あ、な、なんか、俺、元気が出てきた、かもぉ」

 鎌倉は引き攣った笑顔を浮かべながら踵を返すと、一気に山道を駆け下りる。

        6

 煙水中は高校時代には《旋盤の鬼》と呼ばれていた。

 旋盤とは鉄など材料をバイトと呼ばれる刃で切削加工し、工業製品の部品を作るための機械で、工業製品の母体となることから《マザーマシン》の異名を持つ。旋盤にはいくつか種類があり、手動で切削加工を行うものは普通旋盤と呼ばれ、背凭れのないソファーの上に巨大なミシンを取り付けたような構造と大きさが、一般的なものだ。その他にも、コンピューターに切削条件を入力し、自動で切削加工を行うNC旋盤や、角物の材料を加工するフライス盤などが有る。自動車部品など、部品を量産する工場ではNC旋盤を用いるのが一般的だ。しかし、機械では不可能な緻密な切削加工を施して部品を作る工場では《普通旋盤》と熟練の技を持った旋盤工が必要とされていた。

 煙水中は静岡工業高校に入学した年の夏には、熟練の技を持った旋盤工に適う技術を習得した。普通旋盤の経験は浅いが、それを補うだけの頭脳と器用さを持っており、なにより花火屋という家系に生まれたことで、完成形を頭の中で組み立てることができる想像力と、完成形を把握できる勘が備わっていた。

 煙水中が高校一年生の夏休み前に、当時、煙水中のクラス担任だった日向先生が、静岡市駿河区に在る西中原鉄工所の工場長に講演を依頼し、西中原鉄工所で唯一の製作および出荷している航空機の数種類の部品を見せ、冗談で生徒に提案した。

「この部品と全く同じものを作ったら、夏休みの宿題を、ゼロにしてやろう。言っておくが、見た目だけ同じでは認められんぞ。重さも超精密デジタル・スケールで千分の一ミリまで正確に計測するからな」

 煙水中が興味を示したクラスメイトと旋盤チームを結成し、寸分違わぬ部品を普通旋盤で削り出したのは、講演が終わった放課後だ。完成した部品を計測し、職員室で談笑していた日向先生と西中原鉄工所の工場長が甲高い悲鳴を上げたエピソードは、今も伝説となっている。

        7

 鎌倉は山道を抜け、おぼつかない足取りで八幡神社の拝殿まで辿り着くと、軒下にどっかりと腰を下ろした。山道を駆け下りる途中、木の根に足を引っかけ、ド派手に転んだ。土が柔らかく、傷はないが、全身べっとり土まみれだ。

社務所の売店で御守りを並べる神主が、鎌倉を二度見して、大きく口を開けて笑う。

 オッサン、笑うな。あ? 講義サボるからだ、だって? うっせえっつうの、御守り、売れなくなれ。

 鎌倉は肩の土を払い落しながら、顔を上げる。煙水中は社務所北側に停車させた荷台にホロの付いたトラックに飛び乗り、慣れた手つきでホロを外し、両手で絡め取って行く。畳んだホロを荷台の隅に置き、木製のコンテナと金属製の筒を、軽々と持ち上げて、荷台から降りる。

 他人の話を聞かない暴走熊の兄貴ならともかく、弥勒菩薩みたいに細いあいつが、どうしてあんな怪力なんだ。

 煙水中はコンテナを拝殿の軒下に座る鎌倉の横に積み上げる。鎌倉はコンテナを足で蹴って、煙水中を睨み付けた。

「おい、まさか、運べってんじゃねえだろうな」

「まさか。ウチの手伝いが来るまで見張っていてください」

「こんな空き箱、誰も盗まねえよ」

「意外と高価なんです」

 へえ、このタダの空き箱がねえ。見たところ小学生の工作みてえな感じだけど。

 煙水中は再びトラックへ。鎌倉がコンテナを叩いて匂いを嗅いでいると、八幡神社の鳥居を潜り、一台の黒色のスポーツバイクがエンジン音を響かせてやってきた。スポーツバイクは段々とスピードを落とし、拝殿前で停車する。赤色のハーフ・ヘルメットを被った半袖の作業着姿の少年が鎌倉にペコリと頭を下げた。

「こんちゃっす、鎌倉さん」

「お、おう」

 誰だ、こいつ。鶏冠みたくおっ立てた金髪に、ピアスに、グリグリした大きな目の派手な顔……なんだ不良か? テメエみたいな野郎は知らねえぞ。

 鎌倉は作業着姿の少年を観察する。薄紫色の作業着の胸ポケットに紫色の刺繍糸で『静岡工業高校情報システム科二年』と縫い取られている。

 情報システム科つうことは、俺の後輩だな。……俺のファンか?

「あ、鎌倉さん。今、俺のこと、誰だ、この金髪って思ったっしょ?」

 少年の大きな黒目がグリンと鎌倉に向く。おお、なんか、柴犬みてえな顔だ。

「いんや、別に」

 おう、その通り。誰だ、お前、俺のファンの柴犬少年か? 

「つか、なんで、そんな土まみれなんすか? え? マジで、なにゆえっすか?」

「うるせえ、名誉の負傷だ」

「は? なんすか、それ? 俺、英語、よく分かんねえっす」

 柴犬少年はニヒヒと歯を見せて笑い、積み上がったコンテナを担いでスポーツバイクの前まで運ぶ。タンクバッグから紐と布を取り出して、座席後部に布を敷いて平らにすると、その上にコンテナを括り付けた。柴犬少年は固定したコンテナの上に更にコンテナを重ねる。

「それにしても、兄ちゃんも人づかい荒いっすわ。俺、今日、マジでデートの可能性あったんすよ。パーセンテージでいうと、若干、四割っすけど。ハイ、ビミョー」

 は? おい、柴犬少年、お前、今、なんつった。兄ちゃんがどうのこうの、って。

「終治郎、ついでに、こいつも載せてくれ」

 トラック作業を終えた煙水中が、トラックのホロを柴犬少年こと煙水終治郎に投げる。煙水終治郎は顔面でホロを受け取ると、頬を膨らませる。

「あのねえ、兄ちゃん。俺のバイクは、蕎麦屋のスクーターじゃないっつうの。ヤマハなの。ヤマハのSR四〇〇つってね、そりゃあ、すげえバイクなの」

 兄ちゃんって……マジかよ。お前ら煙水三兄弟、ほんと、似てねえ!

        8

「マジで可愛いんですって。ロシアかどっかの出身らしいっすけどね」

 煙水終治郎は作業の合間に、煙水中の目を盗んで携帯電話を操作しては、鎌倉に画像を見せる。携帯電話の画面には金髪碧眼のポニーテールの細身の少女が、こちらに向かって微笑んでいる。

 確かに、ツンと尖った鼻が可愛い。だが、俺は、もっと乳がデカい女のほうが好きだ。

 鎌倉は煙水終治郎から携帯電話を取り上げて、画像を食い入るように見る。

「で、この画像、どこのエロサイトで落としてきたんだ?」

「エロサイトじゃねえっす。浅間通り商店街に、今、ガチでいます。せっかく仲良くなって、デートまで、あと一歩のところだったんすけど」

 煙水終治郎は悔しそうな顔で、金髪をバリバリと掻く。

 さっき四割って言ったのは、どこのどいつだ。お前の一歩は六割か? つか、携帯電話の画像、さっきから外国人ばっかりだな。なんだこの、全身刺青の外国人は?

「浅間通り商店街に、なんで外国人がいるんだよ? あの死にかけ、商店街に何の用があるってんだ?」

「鎌倉さん、人の話、マジで聞いてないっしょ?」

 人の話を聞かねえのは、お前の熊兄貴だ、バーカ。

 煙水終治郎はスポーツバイクにコンテナを積み終わると、手で押して崩れないかを確かめた。トラックのホロにビニール紐を括り付けてリュックサックのように背負い、「や、まぁじで、蕎麦屋の出前みたいっすね」と高く積み上がったコンテナを見上げて、鎌倉から携帯電話を受け取った。

「大道芸っすよ、大道芸。明日の大祭に併せて、人を沢山、呼び込めるようにって、商店街が呼んだんっす。世界中から、わんさか来てるんすよ、大道芸人さんが。で、シベリアかどっかの出身のこの子も、大道芸人さんって、そういうわけっす」

「大道芸人ねぇ。金の匂いがしねえ職業だな」

「は? なんすか? 金って、匂いあるんすか?」

「あるよ。鼻水くっ垂らしてる貧乏人には、嗅ぐこたぁできねえだろうけどな」

「はあ? よく分かんないっすけど、稼ぎは少ないけど楽しいって、アラスカかどっか出身の子も言ってたっすけど」

 ふぅん、つまり、金髪の女子は大道芸人で、寒い国から来たってことだろ。そういう可愛い見た目の女子に限って、貧乏に腹空かして、カエルやヘビやトカゲの生皮を剥いで、醤油に浸けて、たいそう美味そうに食ってたりするんだぜ。

 煙水終治郎は積み込み作業が終わったことの報告に、社務所の売店に向かった。社務所の売店では、神主と煙水中が、世間話をしていた。煙水終治郎が会話に割って入り、両手で大きな四角を描いて、必死に煙水中になにかを説明している。

鎌倉は聞き耳を立てる。

 なになに、落下傘花火の在庫が、工場にかなり残ってる? アホらし。金儲けにならない話ばかりじゃねえか。大道芸人だって、どうせ投げ銭が収入源だろ? ……待てよ。つうことは、今から俺が浅間通り商店街に行って大道芸人をスカウトする。町を案内するついでに、大道芸人どもに、明日の大祭前まで、静岡駅前とかでパフォーマンスさせて、投げ銭で儲けさせる。仲介手数料として俺が何割かを貰う。イコール、俺、丸儲け。いいじゃねえか、名案! いざ、浅間通り商店街!

 鎌倉はガッツポーズを取り、手水舎に駆け込んだ。柄杓を除けて水の中に顔を突っ込んで、ゴシゴシと洗う。何事かと視線を向ける煙水中と煙水終治郎、神主をよそに、鎌倉は勢いよく駆け出した。

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