第一章 ロックンロールと工業は似てるら

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 さて、話は、ミヤコの鉄材窃盗から、約六時間前に遡る。

 静岡市葵区、静岡駅より北西に約二キロメートル進んだところに《浅間通り商店街》は在る。

 南側入口に建つ赤い大鳥居が目印の、全長約一キロメートル、幅員約三メートル、五つの町で構成された、静岡浅間神社の参道として古くから栄える商店街だ。

浅間神社までは、ほぼ一直線に道が続き、道の両脇に設けられたアーケード状になった歩道は、終日かなりの参拝客と買い物客で賑わっている。

 安定した集客は、浅間通り商店街振興組合の面々の弛まぬ努力の成果と言える。近年、組合員の若年層を中心としてホームページを立ち上げて頻繁にイベント情報などを配信するなど、更なる集客に余念がない。特に、八月に開催される浅間大祭では、開催当時の二カ月前から浅間神社青年会も交えて、作戦会議を頻繁に開催するほどである。

 いよいよ大祭が明日に迫って来ると、商店街全体には、浮足立ったような活気が漂っていた。浅間通り商店街の住人たちは、朝から大祭セールと印刷した旗を店先に置いたり、値札を張り替えたりと、忙しく活動していた。

 浅間通り商店街のちょうど中間地点に位置する、創業昭和二十二年の静岡おでんの老舗おおとりいでは、二〇席しかない、こぢんまりとした店内で、おでんの仕込みが行われていた。店を切り盛りするミヤコの母親は、店内の右奥に位置するカウンターを兼ねた台所で、下ごしらえした具材を竹串に刺す作業を、ひたすら繰り返していた。母親はカウンターに置いたラジオから流れるポップ・ミュージックのメロディー・ラインを鼻歌でなぞりながら、具材をトレイの上に積み重ねていく。

「ひえぇ、あっちぃなぁ」

 昼食を終えたミヤコは居間を出て、掌で風を送りながら店舗に足を向ける。腹が膨れたついでに昼寝をしようと思ったが、壁に掛かった温度計を見たら、眠気がすっかり吹き飛んでしまった。ミヤコは冷房機の前に仁王立ちになると、ベージュ色の作業着の裾を捲り、バサバサと羽のように動かして冷風を取り込んだ。母親は左手を伸ばしてラジオのボリュームを小さく絞ると、鼻歌を止め、再び手慣れた様子で次々と、おでんの具材を竹串に刺してトレイの上に積み重ねていく。

「暑いのは、当たり前じゃないの」

 ミヤコは冷房機に背中を向け、冷風にショートカットの髪を揺らしながら笑う。

「確かに。真夏の八月だもんな。涼しいわけはねぇや。午前中だってえのに、カンカン照りだし」

 ミヤコは細い顎から汗を滴らせながら、店の軒先を指差す。軒先の藍色の生地に白く『おおとりい』と染め抜かれた店の暖簾や掻き氷の旗は、微動だにしない。車道に停車した運搬用の軽トラックのフロントガラスに乱反射する光が、日差しの強さを物語っていた。

 唯一、暖簾が動いたのは、今朝、今年の大祭の総監督である商店街振興組合会長の《太公望釣具店》の店主が、むっちりとした首にタオルを巻いて、暖簾を潜ったときだ。聞けば、熱中症対策にスポーツ・ドリンクが入った一・五リットルのペットボトル三本を腰に巻き付けて携帯し、明日の大祭の連絡事項をプリントしたものを、朝の六時から、一軒ずつ声を掛けて渡しているらしい。

「ったく、早朝六時にピンポーン、ドンドンドン、おおとりいさーん、だぜ? 遠足前にそわそわする小学生みたいだな。あっちぃのに、よく頑張るぜ」

 ミヤコは冷風を顔で受け止めながら大きく笑った。ミヤコの母親は手元に意識を集中させたまま、具材の大根に向かって、ぐりぐりと竹串を突き刺す。

「夏は暑いって分かっているんなら、どうして脱がないの?」

 ミヤコはスカートの裾を持ち上げ、尻に冷風を当てながら、首を傾げる。

「は? 脱ぐって、なにを?」

「あんたの汚い作業着と靴。スカートだって煤まみれだし。丸ごと洗ってやりたいわ」

 目線はおでんの具材に向いているにも拘わらず、さも見えているような言い草だ。

 頭の側面にもう一個、目が付いてるんじゃないかなとミヤコは疑いながら、スカートの裾を下ろして口の先を尖らせた。

「脱げるもんかよ。工業高校生徒にとって作業着は制服であり、普段着なんだ」

 ミヤコは自信たっぷりに左手の親指をぴんと立て、作業着の右胸のポケットを指差す。ポケットには紫色の刺繍糸で『静岡工業高校機械科三年』と縫い取られていた。

 一般的に工業高校には複数の専攻科が設けられており、ミヤコの通う静岡工業高校には機械科、電子機械科、電気科、情報システム科といった四つの専攻科が存在している。

 どの科も毎日一時間以上の実習授業がある。そのため、専攻科ごとに生地の色が違う作業着を入学時に購入することになる。だが、長袖熔接や鋳造、旋盤といった炎や機械実習を主体とする機械科の作業着は機械油や煤などで汚れ、火花で模様のように穴が空く。

 無駄によく動く生徒は膝や尻の部分が破けたりして、三年生にもなると汚れとツギハギだらけとなり、貫録すら出てくる。当然のことながら、作業着は頑丈な綿の生地で作られ、丁寧に縫製されている。しかも、怪我を防ぐために長袖であるから、夏場は猛暑地獄だ。

「だからって、夏休みまで着ている必要ないじゃない……って、毎年しつこく言ってるから、お母さん一応、今年も言うけど」

「じゃあ、アタシも毎年のことだから言うと、そりゃあ、無理って話だ」

「……どうして無理なの? って、お母さん毎年、聞くから、今年も一応、聞くけど」

 ミヤコは鼻息を荒くして胸を張り、腰に巻いたお手製のホルスターから、熔接トーチを手に取った。

 熔接トーチとは、金属熔接を行う際に使用する器具のことだ。可燃性ガスや酸素を熔接トーチ内部で適切な割合で混合し、燃焼させて炎を発生させる構造を持っている。中には金属熔断にも応用することができる両用器も存在する。全長は、平均的なサイズで四〇センチ前後。見た目は金属製の銃といった感じだ。

「工業高校生徒たるもの、いつでも熔接作業に挑める状態であるべし! だから、ほれ、この通り、ちゃんと熔接トーチのボンゾまで持ち歩いてんだ!」

 ちなみに《ボンゾ》とは、ミヤコが自分専用の熔接トーチを溺愛するあまりにつけた愛称であり、ボンゾとはミヤコが敬愛するロックバンド《レッド・ツェッペリン》のドラマー、ジョン・ボーナムの愛称である。

 母親は具材の大根をトレイの上に置くと、目を輝かせながら熔接トーチを構えるミヤコには目もくれず、冷蔵庫から具材の牛すじ肉の塊を取り出した。俎板の上に牛すじ肉を寝かせ、包丁をゴリゴリと動かして、一口サイズに切り分ける。

「ミヤコ、あんたって、本当……超絶の熔接バカね」

 なにを今さら。つうか、そのセリフ、去年も言ったじゃん。あ、でも去年は「熔接バカ」だけだったから、レベルアップしたってことか。まあ、褒められてるんだよな、たぶん。褒められて悪い気はしねえな。よし、いっちょ手伝うか。

 ミヤコは、にやけ顔で熔接トーチをホルスターに戻し、母親の立つ台所へと足を向ける。

「……いい、手伝わなくて、いいから」

 母親は淡々とした口調で一口サイズに切り分けた牛すじ肉を竹串に刺していく。

 遠慮しなくてもいいのに。二人で準備したほうが早く片付くら。

 台所に立ったミヤコは流し台で顔と手を洗い、濡れた手を作業着で拭いて具材に手を伸ばす。すぐさま、母親は仕込み作業をする手を止め、ミヤコの腕を掴み上げた。

「いいから、手伝ってもらわなくても、お母さんは大丈夫だから」

「気にすんなって。アタシはこう見えても、器用なんだ」

「……器用とか、不器用とか、そういう問題じゃなくて、ね」

「ああ、任せろ。おでんに掛ける意気込みなら誰にも負けないから」

 額から落ちる汗を拭いながら笑うミヤコを見て、母親は頭を抱える。

「ちょっと、そこで待ってなさい。ストップよ、ストップ」

 母親はミヤコが具材に触れないよう、目を光らせながら、カウンター隅に置いてあるレジスターの会計ボタンを押し、五〇〇円玉を取り出した。

「これ、あげるから、遊んできなさい、ね」

 母親はミヤコの腕を掴み、汗ばんだ手に五〇〇円玉を押しつけるようにして渡すと、背中を押して台所から追い出した。ミヤコは五〇〇円玉に視線を落としながら、眉間に皺を寄せる。

「え、なんだよ、急に。母ちゃんがお小遣いくれるなんて……気持ち悪ぃな」

「いいから、いいから、どっかで遊んできなさい」

「はぁ、でも、商店街の連中はさ、大祭の準備で忙しそうだし。やっぱ、手伝う……」

「いいから、大祭の準備で忙しくないところを探して、とにかく遊んできなさい!」

 母親は張り手でミヤコを店先まで追い出すと、店の玄関の戸をぴしゃりと閉め、準備中の札を掲げて鍵を掛けた。

締め出しを食らったミヤコは、掌の五〇〇円玉をじっと見つめる。

 五〇〇円か……デカイな。今月のお小遣いは、七月に前借して使っちまったから、この五〇〇円は、なんとしても使わずに残しておきたいもんだぜ。

        2

 ミヤコはアーケード状になった歩道を、浅間神社が在る北の方角へ歩きながら、頭の中に浅間通り商店街の地図を広げた。この暑さを無料でやり過ごすことができる場所を、脳内データで探す。

 五番街のオモチャの《かど屋》は行ったら最後、陳列棚の整理を手伝わされる。三番街の《トミカワ電化》は、家電製品の修理を手伝わされる。二番街の《駿府書房》は立ち読みオッケーだけど、小難しい本が多いから、嫌だ。一番街の《佐々木桶店》は、佐々木の爺さんが人懐っこくて話しやすいんだけど、話がとにかく長いからなぁ。この前は宇宙と桶の間に関わる深ーいロマンを、延々と三時間も語られたんだった……。いや、アタシに桶のロマンとか語られても、分かんねえし。あの爺さん、菓子と茶をくれた分、話を聞かせるからな。年中、重い重いって文句を垂れながら、桶と道具を抱えて桶の話をするんだから、相当な桶バカだな。そうそう桶を作ったり修理したりすることなんて、絶対ねえのになぁ。

「年寄りの考えてることは、さっぱり分かんねえなあ……年寄り……爺さん……ジジイ、あっ!」

 ミヤコは顔を上げ、大声で叫ぶ。歩道を歩く参拝客や買い物客が一斉にミヤコに視線を向ける中、ミヤコは全速力で駆け出した。

 あった! 涼しくて、長居ができて、ついでに飲み物が出てくるところ! 目指すは、ライブハウス《ミセス・ロビンソン》だ!

《ミセス・ロビンソン》は、浅間通り商店街一番街、佐々木桶店の隣に在る。元々は辻村の祖母が経営していた喫茶店だった場所を、辻村が貯金を投じて改装し、ライブハウスとして一年前の春に開業した。静岡駅周辺にライブハウスが少なく、ライブの無い日は学生向けの練習スペースとしても安価で貸し出していることから、《ミセス・ロビンソン》は地元で、ある程度の知名度を獲得していた。内装は新しいが、喫煙室のあるロビーの壁は、バンドのステッカーや落書き、フライヤーで埋め尽くされ、煙草のヤニで黄色く汚れているのは、客が入ってライブハウスが繁盛している証拠だろう。

 ミヤコは《ミセス・ロビンソン》のカウンター席に座り、壁に掛けてある液晶テレビを観ながら、作業着の裾をバサバサと捲る。

「あーチクショウ……涼しい、天国、涼しい、冷房すげえ、天国、ここマジで天国」

《ミセス・ロビンソン》は様々な音楽機材を所有しており、温度や湿度を一定に保つ必要があるため、年中空調が稼働している。おまけに事務所とドリンク・チケットの引き換え所を兼ねているので、簡易的キッチンや冷蔵庫、テレビ、パソコンなどの設備が充実している。だから、ミヤコにとって暇を潰すには、持ってこいの場所だ。

 テレビでは地方ニュースが放送されている。静岡市の日本平動物園の白クマのロッシーくんが氷で遊んで、静岡市内の小学校が廃校になって解体作業が始まって、清水区の港で早朝、謎の恐竜シミッシーが目撃された……。

 なるほど、どれも平和なニュースばかりだな。清水区の港に現れた謎の恐竜を、清水区にちなんでシミッシーと呼ぶのは、センスがいいとは思えないけど。

「昔と比べて、最近はめっぽう暑いですからねえ」

 カウンター奥のキッチン・スペースでコーヒーを淹れている辻村がミヤコに声を掛けた。

 辻村は弾いたコーヒー豆をフィルターに詰めて、その上からコーヒー・ケトルで「の」の字を描くようにして熱湯を注ぐ。フィルターから琥珀色の液体がぽたぽたと落ち、徐々に耐熱性のグラスポットに溜まると、氷を入れた二つのグラスに注いで一気に冷やし、カウンター席のミヤコに差し出た。ミヤコはグラスを掴むと、大きく口を開けて、氷ごと一気に喉へ流し込む。胃の奥がキュッと冷えて、首の付け根がキーンと痛くなる感覚が、たまらなく爽快だ。

「やっぱ、辻村の淹れるコーヒーは美味えや。このコーヒーと比べたら、他のはぜーんぶ泥水だな、泥水」

 ミヤコは奥歯で氷を噛み砕きながら、辻村にお代わりを要求した。辻村は自分のアイスコーヒーをミヤコに差し出して笑う。

「喫茶店を改装してライブハウスを開業した身としては、いささか複雑な心境ですね」

 辻村の細い目が、笑うとさらに細くなる。辻村は猫に似ていると、ミヤコは思う。顔だけでなく、柔らかな物腰や飄々とした態度も含めて、猫に似ている。

 どちらかってえと、飼い猫より、野良猫だな。なに考えてんだか分かんない、自由気儘なところとか、野良猫。髪の色も四番街の《魚しず》で毎日、餌を貰ってる野良猫のミケと似ている茶色だし、つうか、ミケだな。

「どうしました? 僕の顔に、何か付いていますか?」

 辻村は細い目のまま、右の眉を吊り上げる。ミヤコくんの考えていることは、大体お見通しですよ、と言わんばかりの拗ねた口調だ。

「ん、いや、別に? ミケ、じゃなかった……辻村はさ、手伝わねえの? 総出でやってるけど、明日の大祭の準備」

 ミヤコは二杯目のコーヒーも一気に飲み干し、店の外に視線を投げる。車道を挟んで向かいの《ナガマツ・スポーツ》では従業員が総出で、明日の大祭に併せたセールの商品を店先に並べていた。辻村はノートパソコンを立ち上げ、キーボードを打ちながら肩を竦める。

「手伝っていますとも。商店街のお若い方々に、大祭の協賛企業を紹介する看板の設計を頼まれて、大忙しですよ」

 お若い方々、って辻村、お前も充分に若いじゃねえか。そのジジくささを、隣の佐々木桶店の爺さんに分けてやれば、少しは若々しくなるんじゃねえの?

「ふうん、さすがは、製図の鬼じゃんか」

「よしてくださいよ。自分で名乗っていたわけではありませんし、その名で呼ばれると、どうも背中が痒くなるんですよねぇ」

 辻村は頭を掻いて、身を捩る。

 ミヤコは辻村の製図を数えるほどしか見たことがなかった。だが、辻村の引く線は、コンピューターの引く線と同様に、正確で美しかった記憶がある。辻村が高校三年生のときには、辻村の噂を聞きつけた大学や企業の担当者が進路相談室に列を作って、スカウトに来たほどだ。辻村はその全てを蹴って、ライブハウス経営を選んだんだから、マジで変わり者だ。辻村と付き合いの長い煙水いわく「五十鈴は、愉快犯だ」らしい。

 愉快犯でも連続殺人犯でも、露出狂でも、とにかく何でもいいから、もう一度、辻村の製図作業をじっくり見物してみたいもんだ。

 辻村はノートパソコンをいじりながら、ミヤコをじっと見て笑う。

「何だよ、さっきからじっと見て、気持ち悪ぃな」

「いやいや、これは失敬。いやね、ミヤコくんのその格好を見る限りだと、熔接・熔断の鬼として、暑さと戦いながら、人のコーヒーを飲み干しながら、切磋琢磨しているんだなぁと思いまして」

「よせやい。照れるじゃねえかよ」

 ミヤコは、にまっと笑い、頭を掻くと、グラスに残った氷を口いっぱいに頬張って一気に噛み砕いた。

「……あの、嫌味のつもりで言ったんですけど……」

 頬を掻く辻村に、ミヤコが空のグラスを突き出す。

「なあ、コーヒーもう一杯、お代わりっ。あー……なんだか腹が減ってきた。なあ、ついでに、なんか作ってくれよ。ホットケーキでいいや」

 腹をポンポンと叩くミヤコに、辻村は眉間と目の下に深い皺を寄せ、口を「へ」の字に曲げて渋い顔をする。

 うわぁ、クサヤの干物を貰ったときのミケの顔と、そっくり。超ブサイクだぜ、その顔。

        3

 ミヤコが熔接・熔断の魅力に取り憑かれたのは、中学校三年生の夏休みだった。

 進学希望の高校の体験入学に参加するという夏休みの宿題をすっかり忘れていたミヤコは「浅間通り商店街からバカ近いで、いいら」といった超単純な理由で、夏休み最後の週に静岡工業高校に体験入学を申し込んだ。

 静岡工業高校の体育館で一通りの学校の説明を受けて、自由行動が許されると、ミヤコは工場棟に足を向ける。静岡工業高校には幼馴染の煙水中が通っていたからだ。

 廊下ですれ違った生徒に聞けば、煙水は工場棟に入り浸っているらしい。

 あいつ、真面目に高校生してんのかな? よし、いっちょ、からかってやるか。

 ミヤコは工場棟に足を踏み入れる。

 工場棟の入口両側には靴箱が置かれ、キッチリと靴が並べられている。下駄箱の側面にはプラスティック板に赤いペンキで「安全靴をケンカに使うべからず」と力強く書かれていた。どうやら下駄箱に並んでいる靴は安全靴と呼ぶらしい。ミヤコは下駄箱を通って、工場棟の奥へと進む。工場棟は、しんと静まり返っている。うるさい蝉の大合唱も、ここでは微かに聞こえる程度だ。授業用の校舎と違って、陽の光があまり届かず、やけに涼しい。涼しいけれど、どこか湿っぽくて、あまり快適とは言えない。天井から吊り下げた板には黒いペンキで「安全第一」の文字が書かれている。視線を落とせば、見たことがない巨大な機械が並んでいた。

 一体全体、これで何を作るんだ? 油まみれだし、解読不可能な記号が書かれてるし、工業高校って、そもそも謎だよな。ああこれ、もしかして変形型の悪のロボットか?

 ミヤコは、しばらく見た経験のない巨大な機械と睨み合っていた。そこで、シューシューと、何かが噴き出るような音に気付き、東側の部屋へと進んでいく。シューシューという音の間に、カランカラン、ガチャンと固いものが地面に転がる音がする。

 ミヤコは柱の陰から、恐る恐る東側の部屋の様子を窺った。七人のベージュ色の作業着姿の男子生徒が、作業をしている。一人は棒状の鉄材を、巨大な入れ歯のような機械で切断し、もう一人が切断した鉄材を電動鑢のようなもので削って、形を整えている。奥の部屋で、残りの五人が横に並んで切り出した鉄材を使って、巨大な骨組みのようなものを作っている。両脇の二人が鉄材を支え、中央の一人が熔接作業を行っている。

 ミヤコは、中央の一人が煙水中だと気付いた。

 煙水中が右手に持った細い銃のようなものがバチバチと火花を散らし、熱せられた鉄が赤く輝いているのが見える。どうやら左手に持った細い鉄の棒を熔かして、鉄材同士をくっつけているようだ。

 煙水中は椅子に腰を下ろし、飛び散る火花に臆することなく次々に鉄材を熔接していく。

 鉄材を組み合わせと思った瞬間には、もう次の熔接へ。

 速い、とにかく速い。

 まるで、世界一のドラムロールを見ているようだと、ミヤコは思った。

        4

「だからさ、その時、アタシの頭の中で、モビー・ディックが流れたんだって」

 ミヤコは三杯目のアイスコーヒーを飲み干し、ホットケーキをむしゃむしゃと頬張りながら、熱弁を振るう。辻村はパソコンのキーボードを操作しながら、ミヤコの話に耳を傾けて相槌を打つ。

 ミヤコの言う『モビー・ディック』とは、イギリスのロックバンド《レッド・ツェッペリン》の曲だ。ドラムのジョン・ボーナムこと、ボンゾのために作られた曲といっても、過言ではない。イントロからジミー・ペイジのギターと、ジョン・ポール・ジョーンズのベース、ボンゾのドラムが巧み睨み合い、やがてボンゾのドラミングへと流れ込む。

 ドッシリと重いドラミングは、変拍子にも即応し、一つのバスドラムで、凄まじく速いリズムを刻む。全てが圧倒的、それが『モビー・ディック』だ。

「ええ、そのお話は、何度も聞きましたよ。ロックの話をする時、ミヤコくんは必ずレッド・ツェッペリンの話をしますからねえ」

 辻村は右手で頬杖をつきながら、左手でパソコンにテンキーで数字を打ちこむ。やれやれといった口調だが、ロックンロール談義はまんざらでもないといった表情だ。ミヤコは口一杯に頬張ったホットケーキをモゴモゴさせる。

 当たり前じゃねえか。アタシの中では、ロックンロール=レッド・ツェッペリンなんだ。ロックンロールを語るには絶対に避けては通れない道なんだよ。海外に行きたいと思ったら飛行機に乗るだろ? 映画を観たいと思ったら、映画館に行くだろ? つまり、そういうことだよ。行きつく先っていうか、原点っつうか、コイツなしでは語れないっていうか!

 言い返そうにもホットケーキが喉に詰まって思うように言い返せないミヤコを見かねた辻村が、飲みかけのアイスコーヒーを差し出す。

「言いたいことは分かりますよ。ライブに行きたいと思ったらライブハウスに行く、そういうことでしょう?」

「ふぉう、ほうひふこと」(そう、そういうこと)

「あとは好みの問題ですね。はい、僕の飲みかけでよかったら、どうぞ」

「ほ、はんひゅう」(オ、サンキュー)

 さすが辻村だな、ロックンロールのことを分かってんじゃねえか。そうなんだよ、そう、ロックンロールっていう音楽は山ほどあるけど、最終的には好みの問題。音楽の構成とか、使ってる楽器とか、メンバーの見た目とかな。でも、ロックンロールを好きなヤツの「ロックが好き!」っていう土台には、絶対的なロックンロールの基礎みたいのが在って、アタシの場合、それが《レッド・ツェッペリン》なんだ。だから、ロックンロールが好きなヤツの中に《ザ・フー》が好きなヤツや《ピンク・フロイド》を愛しているヤツ、《ビートルズ》こそがロックンロールの王道って言い張るヤツがいたって、アタシは別に構わない。あれもいいよね、これもいいよね、ってハッキリしないヤツが、アタシは嫌だ。

 ミヤコは天を仰ぎ、ぐびぐびとコーヒーを飲み干してプッハァと息を吐き、半ば叩きつけるようにグラスをカウンターに置く。

「カッコイイって思うことは、そういうことだら?」

 辻村はカウンターに飛び散った水滴を布巾で拭きとりながら浅く頷く。

「ええ。ミヤコくんは、レッド・ツェッペリンも、ジョン・ボーナムも、そして熔接作業もカッコイイと思ったわけですね?」

「そう、その通り! ロックンロールと工業って、似てると思うんだよな、アタシは」

 そう、アタシは煙水中の熔接作業を見て、すげえ、熔接やりてえ! って思って静岡工業高校に入学した。入学して最初の実習授業で、実習講師の先生のお手本作業を見て気付いたんだけど、ロックンロールと工業は似ている。ギターをジャカジャカするように、鉄を研磨したり、ベースを指で弾くように電気配線をしたり、ドラムロールをぶちかますように熔接したり。ロックンロールを作り上げていく過程は、ものづくりの過程と、そっくりなんだ。

 辻村はパソコンを操作する手を止め、目を細くして深く頷く。

「一見派手なロックですが、作り上げる段階は非常に地味ですからね。性格の尖った精鋭たちが頭を遣わせて、ギターやベース、ドラム、ボーカルの微調整を何度も繰り返すのは、工業でいうところの開発段階と言ったところでしょうか」

「そう、まさにそれ。辻村、お前、偉い!」

 ロッカーと工業に関わる人って、結構、気質が似ているって思う。職人気質っていうかさ、どっか尖がってるっていうか「俺は、ここだけは譲れない」って、こだわりが強いんだよな。他のことはどうでもいいのに、ここだけは! ってさ。

 ミヤコは人差し指をぴんと立て、辻村に向ける。辻村は日向ぼっこ中の猫のように、ご機嫌な表情でニーッと笑い、続ける。

「それでいてロックンロールは、ライブで演奏になるとアドリブに次ぐアドリブの繰り返し。でもそれは基礎があってこその、計り知れない練習と経験、メンバー同士の信頼があってこそ完成するものですからね。ロックンロールのアドリブは、工業で言うところの、目盛りに無い千分の一ミリを削り出したり、設計図無しで電気回路を組み立てたりといった日々の技術の鍛錬、職人の技……といったところでしょうねえ」

 ミヤコは興奮してフンフンと鼻息を荒くし、右手で拳を作り「その通り!」と天井へ突き上げて足をバタバタと動かす。辻村は倒れそうになるグラスを抑えながら、笑う。

「ですがね、ときより、出てきちゃうんですよね」

 ミヤコは興奮して突き上げた拳をそのままに、辻村をジッと見る。

「え、なにが? 出るって……ウンコが?」

「違いますよ」

 辻村はガックリと首を垂れる。

 よかった。ウンコじゃなかったのか。アタシは、てっきり辻村がウンコでも漏らしたのかと思った。

 辻村は頬杖をついて、パソコンの画面を指差す。

「僕が言いたいのは、練習や経験が必要ない人間、つまり天才が時おり世に出てくる、ということです」

 辻村はパソコンを回転させて、ミヤコに向ける。辻村のパソコン画面には計算表が表示されており、数字でびっしりと埋まっている。ミヤコは計算表を睨む。

「うわ、数字がぎっしりで、フナ虫みてえ。さっきからカタカタやってたのは、これかよ……で、何、これ?」

「うちのライブハウスの収支表ですよ。ここを見てください」

 辻村は得意気に計算表を指差しながら《ミセス・ロビンソン》が売り上げを伸ばしている状況を説明する。ミヤコはパソコン画面に顔を近づけて、数字を数える。

 えーと……ゼロが、いち、じゅう、ひゃく……

「おお、スゲエ、十万単位で儲かってるじゃねえか!」

 辻村は得意気に胸を張り、目を細くして、ニマニマと笑う。

「タイラーズのお陰です」

「タイラーズ……ああ、バカの鎌倉平良のバンドか」

 鎌倉平良は、静岡駅から南に二キロほど行ったところに在る《静岡大学工学部》に通う大学生一年生で、ミヤコの通う静岡工業高校のOBだ。せっかく国立大学に推薦入学したものの、金の匂いがする話に首を突っ込んでばかりいるので、もう二年も留年している。

 鎌倉は、金儲け主義だ。利益が絡んでいないと梃子でも動かないが、逆を返せば、利益が絡めば足の裏にキャスターが付いたように、学問そっちのけでスルーッと金の匂いがする話へと流れていく。《タイラーズ》というバンド活動も金儲け活動だ。ボーカル不在のバンドに流れ込んでは、一曲歌うごとに五千円という破格の料金で、ヘルプという形でボーカルを引き受けている。つまりは客寄せ、金儲け重視のバンドで、鎌倉にとって音楽性やジャンルは、どうでもいい。金払いが悪くなったり、メンバーが鎌倉の正式加入やバンド名の変更を求めてきたり、鎌倉が面倒だと思った時点で、即解散となる。ライブは主に《ミセス・ロビンソン》で行われるので、鎌倉とミヤコは《ミセス・ロビンソン》に入り浸っている者同士、いつの間にか顔見知りになった。鎌倉曰く、辻村、煙水とは元々かなり付き合いがあるらしい。

「へえ、タイラーズさまさまだな、今月までは。なんか、噂で聞いたけどよ、金払いが悪いって理由で、鎌倉の野郎がバンド解散させちまったんだろ?」

「……そう、来月からまた爪に火を灯して暮らす生活ですよ」

 辻村は焦点の合わない目をして肩を落とすと、空いたグラスと皿を持ち、席を立つ。キッチン・スペースに備え付けの流し台にグラスを置いて、水道の蛇口を捻って水を出し、スポンジに洗剤を付けて、手早くキュッキュッと洗う。

「鎌倉さんは天才なんですよ。経験も努力も必要ない、天才」

「そうだな」とミヤコは頷く。鎌倉は超絶に歌が上手い。

 ミヤコは、鎌倉の歌をまともに聴いたことはなかった。それでも、ライブの打ち上げで酒を飲んでベロベロに酔っぱらった鎌倉が《ミセス・ロビンソン》の前で志村けんの「変なおじさん」の曲を大声で歌っているところなら、目撃したことがあった。

 ゲロ塗れで酒浸しなのに、変なおじさんを繰り返すだけの歌詞なのに、鎌倉の歌声は透き通っていて、美しかった。そのあと、ゲロと酒と割れた酒瓶が散乱した《ミセス・ロビンソン》の片付けを手伝わされることになっても、夜明けまでゲロ塗れになった煙水中と辻村の愚痴を聞かされることになっても、不思議と腹が立たなかったくらいだ。

 あれが天才と言うなら、たぶんそうだし、バカと言うならクソバカなんだろうけどな。

「まあ、天才はいつの世も気紛れですからね。振り回されて腐るだけ損というものです」

 辻村はグラスと食器を洗い終えると、水回りを片付けて、腕時計に視線を落とす。辻村はミヤコに向かってニマッと笑い、左手を上げて腕時計を見せる。

「ちょうど……午後二時ですね。そろそろ、行きましょう」

「行きましょうって、どこに?」

 ミヤコは、口元に付いたホットケーキのチョコレート・ソースを作業着の袖で拭いながら、窓の外を見る。さっきまで店先で大祭のセールの準備を行っていた《ナガマツ・スポーツ》の従業員も準備を中断して、どこかに出かける様子だ。辻村は窓を施錠してテレビの電源を切る。

「商店街の皆さんがね、明日の大祭で沢山のお客さんを呼ぶために、海外から大道芸人さんを沢山、お呼びしたみたいなんですよ。そろそろ集まっている時間帯ですからね」

「へえ、そいつは面白そうだなぁ。行こうぜ、チンタラすんな!」

 ミヤコは椅子から立ち上がり、冷房機の前で作業着の裾をバサバサと動かして、さっそく冷気を取り込む。

 よし、冷えてきた。外へ出るための準備は万端だぜ。

 ミヤコは店の外へ駆け出すと、店のドアを施錠する辻村の後方で足踏みをする。

「早くしろよ、早く。暑いんだって、冷気が逃げちゃうだろ」

「大道芸人さんは逃げませんよ。それに、どこに行くか、僕はまだ言ってませんし」

「え、知らねえよ。けど、なんか走り回ってれば、そのうち到着するだろ」

「……確実に干乾びますね。お浅間さんの社務所ですよ」

「よっしゃ、お浅間さんだな」

 ミヤコは北へ向かって一気に駆け出す。辻村は店のドアを施錠して鍵が掛かっていることを確認して振り返った。南隣の佐々木桶店に「ちょっと、お浅間さんまで出かけてきます」と声を掛け、浅間神社の在る北の方角へ足を向ける。

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