5-7『羽村さんの帰る場所』
頬の傷に消毒薬を当てられ、俺は何度も小さな悲鳴をあげた。すると
「動かないでください」
「すいません」
一通り目立つところの手当てを終えると、清子くんは片付けをしながらため息をついた。
「今日は、お父さんの親戚から頂いたお米をお裾分けしに来たんです」
と言われて見てみると、部屋の隅に米の入った袋が置いてあった。あの大きさだと五キロくらいだろうけど、あんなに重いものをわざわざここまで……。
「そうしたら扉の前に張り紙があって、どうしたんだろうと思って
俺はじんわりと汗が滲むのを感じた。
やることなすこと裏目に出て、清子くんに余計な心配をかけていた。しかも俺の身を案じて取った行動が杞憂でした、という最悪のオチも付き、清子くんの立場もない。
いや、実際俺はいろいろ懸念して行動してたわけだけど、立つ鳥が跡を濁しまくるような形になってしまった。
これはこっ酷く叱られても仕方ない、と俺はひたすら肩を窄めるしかなかった。
「この間、羽村さんが不思議なことを聞いてきたから、それも思い出したらもっと不安になってしまって、消えてしまうんじゃないかって思って」
「……はい」
「でも、なんでもなくて本当に良かったです。皆さんには迷惑をかけてしまいましたが」
薄っすらと目を潤ませるその姿に、俺は重ね重ね罪悪感を覚えた。
実母に捨てられたという清子くんにとって、誰かが消えるということは、あまり良い思い出ではない。それをこんな男のためにトラウマを掘り返してしまう形になってしまったのだから。
「ただ、どうしてそんな怪我をされているかは気になります。何があったんですか」
「昔の友達と久々に顔を合わせて、馬鹿やってました」
嘘は言わずともこれ以上心配を増やさない、我ながら無難な言い回しではないかと思った。
それを聞いた清子くんは少し驚いた顔になって、ぼそりとつぶやいた。
「羽村さんからお友達という言葉を聞くの、なんだか新鮮です」
「いや、否定できないけどさ、その感想は傷つくよ?」
ろくに言い返せない俺は、力なく項垂れしかなかった。
俺はもう、清子くんと顔を突き合わせるうえで、自分の過去を隠すことについて、後ろめたく思うのをやめた。
兜一との縁を肯定しつつ、今の自分も大切にするには、それが一番だと思うから。
腹の中を明かさない人間関係は、人によっては軽蔑したくなるだろう。しかし、清子くんはそれを追求しすぎないし、気になっても受け入れてくれると話してくれた。
一回り年下のご厚意に甘えるなど、年長者の風上にも置けないことはわかっているが、そうやってでしか俺はきっとこれからやっていけない。
もし清子くんがそんな関係にうんざりした時、俺はわざわざ追いかけるつもりはないが、今はとりあえずそれで受け入れてくれるなら、俺も彼女の上司を続けていこうと思う。
「偉そうにしていまいましたけど、今日は無駄に騒いですいませんでした」
「こちらこそ、ご心配をおかけしまして。後で俺が謝っておくよ」
「いいえ、私が余計なことをしただけですから」
「俺が悪いのもそうだけど、一応俺、君の雇い主なんだから、それくらい遠慮せず任せなさい」
少しだけ胸を張ってみせると、清子くんはにっこり笑って「では、頼らせて頂きます」と答えた。少しはこれで威厳を取り戻せたと信じたいところだ。
などとのんびり談笑していると、階段を上がってくる音が聞こえた。誰か来たかなと察すると、事務所の扉が乱暴に開け放たれた。
そこには、クタクタになった冷蔵庫くんが、ぽんすけのケージを持ちながら立っていた。
「あんだけ人を騒がせておいて……自分だけ良い思いしやがって……」
残念ながら、ご機嫌麗しくなさそうだ。俺は今の状況を省みて、どう弁解しようか頭を回らせるが、相手はそんな暇を与えてくれなかった。
「こちとら、世話したことないハムスターのために、ネットで検索したり、黒木田さんに頼んで図書館から世話の本借りてきたり。一日大変だったってのにお前を探して振り回され、ようやく帰ってきたらクソジジィに回し蹴り食らわされて……」
「あ、えっと、礼蔵さん。本当にごめんなさい、私がお騒がせしたばっかりに」
「よしてください、清子さんはこれっぽっちも悪くありません! 悪いのはこのウスラトンカチです!」
思いっきり指差されて俺は身を引いた。しかし今回はまったくもってその通りなので何も言い返せない。
すると冷蔵庫くんは歯軋りしながらもズカズカと中に上がり込んできて、俺にケージをそっと渡した。
「二度とこんな頼みは受けないからな! あーまったく、これからジジィの夕飯も作らないといけないってのに」
頭から蒸気を出しそうなくらい怒る冷蔵庫くん、と言葉にしてみるとおかしな場面を見ながら、俺はケージの中のぽんすけに目をやる。
うるさくて眠れないのは嫌だ、とか言いつつこの状況でコイツはすやすやと眠りについていた。臆病なくせにこういうところは神経が図太い。
「あー、本当に羽村さん帰られてますねー。丁度今完成したところなんですよー」
開けっ放しの入り口から、今度は黒木田さんが入ってきた。手にはバスケットがぶら下がっていて、中にはいろいろ焼き菓子が入っていた。
黒木田さんにも変な心配をかけてしまったらしいな、と軽く会釈してから俺は、バスケットを目にして凍り付いた。
ここを出る時は黒木田さんのお菓子を食べてハズレを引いてもいいやと思えていた。しかしいざ無事に戻ってみると、あのバスケットから凄まじい妖気と感じるようになっていた。
「クッキーにスコーン、ガレットもありますよー」
「わぁ、また美味しそうですね」
興味津々そうにバスケットを眺める清子くんと冷蔵庫くんの二人。ああ、君達にとってはそうかもしれないよ。しかし、俺にとってそれは、ただ見えているトラップなんだよ。
さっきと打って変わって思いっきりドン引きしていると、今度は清子さんのお友達、
「なんだ、マジでなんともないんじゃん……はぁ、疲れた」
「ちょっと旦那、人をあれだけ走らせておいて黒木田さんのお菓子を独り占めなんて、それはないんじゃないですかい?」
俺は二人にもヘコヘコと頭を下げながら、なんとかこの場から逃げようと画策する。しかし、入ってきた女子二人がお菓子を選んでいるうちに、俺の手にクッキーがいつの間にか渡っていた。
「本日は皆さんお疲れ様でしたー、羽村さんも何事もなくてよかったってことでー、お疲れ様でしたー!」
そして何故か音頭を取り始めた黒木田さんに周囲は飲まれ、焼き菓子で乾杯のようなポーズを取る。
俺の一応ポーズは取りつつ、手の中に転がっているクッキーと見つめ合う。
いや、もう絶対にオチはわかっているよ。でも食べ物を粗末にしたら場の空気が悪くなるしさ、食べるしかない状況だってわかりきってるよ。
でもこの俺だけが絶対損するロシアンルーレットにわざわざ飛び込んでいくのも馬鹿馬鹿しいと思うわけで……。
「羽村さーん! 今度は大丈夫ですからー、安心してさっくり食べちゃってください! ドドーンって!」
と背中を思いっきり叩かれた勢いで、俺は手に持っていたクッキーを思いっきり口に突っ込んだ。
咀嚼してみると、口の中に焼き菓子のサクサク感と、中に入ったクリームの甘みがじんわりと染み込んできた。
「おお、これはいける。すごく甘辛ぁぁぁぁぁぁ!」
やはり運命の神様はやはり俺と黒木田さんの間を隔てる深い溝を作っていたようだ。中にマグマをたっぷりと入れて。
「羽村さん? た、大変、今水持ってきますから! 気を確かに持ってください! ああ、ソファーからずり落ちてる!」
そんな俺を必死に復活させようとしてくれる清子くんの姿を見て、胸にジーンとしたものを感じながら、俺は静かに意識を失っていった。
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