5-6『羽村さん、戻りました』
だがまあ、軽い怪我で済んで何よりだと思う。兜一は俺をからかって一日苦しめただけで、昔の不義理を許してくれた。いや、水に流してくれたという方が正確だろうか。
何にせよ無事に帰れたことは最大の幸福だろう。しかし、出る前にこれが最後かもしれないと、俺らしくない真似をたくさんやらかしてきた。今考えるとすごい気恥ずかしいが、相手が重く受け取っていないことを祈ろう。
しかし、余計な心配をさせないためには、このボロボロな格好はなんとかしないといけないだろう。スラックスはともかく、このワイシャツは処分だ妥当か。
あの野郎、弁償してもらうかと思ったが、まだまだ家には代えのワイシャツがあるので気にしないことにした。俺が仕事を始めようとなった時、閉店する紳士服店からジジィが譲り受けてくれた。おかげでうちはワイシャツを正に売るほど蓄えている。
流石に貰い物を転売なんてしないけれど、たくさんあるからと言って使い潰しているときっと痛い目を見る。そう自分を戒めながら歩いているうちに、愛しき我が家に戻ってきた。
早く帰って休もうと思うと、一階の店の前に誰かいることに気付いた。やや小柄な男性で、絹のような白髪にを短く切り揃え、目は青く輝いていた。
煙草を味わいながら俯き加減に腕を組んで佇む老人に、俺は少し警戒しながら観察する。そして、その男性が俺のよく知る人だということに気づく。
「ジジィ、久しぶりじゃんか、戻ってきてたのか」
「あ? なんだよ、全然無事じゃねぇか
どういう意図かわからない返事に首を傾げていると、コルフのジジィは店の壁に煙草押し付けてから、新しい煙草に火を灯した。
自分の店だからってそれはないだろ、しかもアンタ年中孫に店番させているくせして、と突っ込もうとすると、ジジィはスマホを取り出して、慣れた手付きで操作をすると、自分の耳に当てた。
このジジィ、俺を差し置いてそんな文明の利器を手に入れてやがったのか。
「ああ
事態が飲み込めない俺を無視して、ジジィは電話口の孫との会話を続ける。
「ああ、用が済んだらお前は早う帰って、さっさと飯の用意をしろ。俺は帰国したばっかりで疲れてんだ。あんまりチンタラしてるとバイト代減らすぞ阿呆が」
年甲斐もなくチンピラのような口調でまくし立てた後、まだ冷蔵庫くんの抗弁が聞こえる電話を切った。そして、煙草の煙とともに深い息を吐いた後、ジジィは俺の前までゆっくりと歩いてきた。
そのまましばし人の顔をじっと見上げてから、しれっとした様子で俺の右脛を全力で蹴飛ばした。
「あっ……だだだだだだだ! 突拍子もなく何すんだクソジジィ!」
「この野郎、人様に余計な心配かけるような真似しやがって。おかげで俺は飯を食いそびれてんだ。ちったぁ自分のかけた迷惑を省みろぃ、このスットコドッコイが!」
と怒鳴りながら、さらに左の脛を蹴っぽられ、俺は耐えきれなくなって横転した。久々に会って思い出したけど、この爺さんは言うこともやることも無茶苦茶で、とにかく自分本位だ。
「お前ん所の従業員の子がな、心配して礼蔵の奴に探してくれないかって頼みに来やがったんだんだよ」
「え、
「俺が知るかボケナス。お前がバイトを雇うくらい余裕なことすら知らなかったんだぞ」
別に余裕があるわけじゃと言い返したかったが、ジジィは空腹で相当気が立っているらしく、反論を許してはくれなかった。
「あんまりにも真剣だからってんで、アイツ久々に帰ってきた身内を放り捨ててどっか行きやがった。どれもこれも、全部お前のせいだスカタン!」
また蹴られそうになり、俺はかろうじて避け、急いで店の影に隠れた、
「んなボロボロになって帰ってきて、何をしに行ったか知らんがな、人騒がせな奴だ」
「そのボロボロになった人に遠慮なく追い打ちかけるか? 普通」
「阿呆とテレビは引っ叩かなきゃ直らないんだよ」
煙草を燻らせながら、コルフのジジィはニヤニヤと笑いかける。嫌な予感しかしないので、俺はとりあえず威嚇の体勢で応答した。
「あんだけ言われて、まだ死に場所探しに出掛けたかと思ったが、その顔を見る限りじゃ余計な心配だったらしいな」
ある程度死を覚悟していた俺は、その指摘にドキリとしてしまった。生きて帰るつもりで出掛けたけど、今思えば昔と同じく死に場所を求めた念があったことは否定できない。
でも俺は兜一と取っ組み合って、ようやく自分がどうしたいかを知ることができた。もうこのジジィに死にたがりと言われることはない、と自分を信じたい。
「それにしてもお前、しばらく見ないうちに元気な顔になったな。儲かってんのか」
「誇れる程に儲かってたらね、お宅のお孫さんに僕は追い回されてないんですよ、お爺さん」
「お前自身の景気は良いんだろ? どんだけ金があったって、景気の悪そうな顔してる奴はゴロゴロと居る。金もないのにそんな顔ができるなら上等だ」
少しだけ嬉しそうに語る爺さんを見ながら、俺は始めて会った時に言われたことを思い出す。
叩き直してやる、と言ったこの爺さん、俺の面倒を見てくれたのは最初だけだった。冷蔵庫くんがこのビルに住むようになってからは毎度旅行で不在になって、半ば放任状態になった。
だが、戻ってくればこうしていつも俺の顔色を見て、好き放題に言ってから去っていく。なんだかんだ言って今日までなあなあでも生きて来られたのは、認めたくないがこのジジィのおかげかもしれない。
「いろいろありがとうな、爺さん」
「感謝の言葉よりもさっさと家賃のツケを払え。万が一俺が死んだら、礼蔵にはいつでもお前を叩き出していいって言ってあるんだからな」
「ならあと数十年は平気だ」
「生意気言うんじゃねぇ、ヘッポコが」
と言って、ジジィは俺の目線までジャンプして、後頭部を遠慮なく引っ叩いた。
俺を散々痛めつけて満足したか、ジジィは欠伸をしながら店の中、もとい久しぶりの自宅へ戻っていった。
それを見送っていると、ふいにジジィが振り返って、俺を睨みながらもう一つだけ言い加えた。
「清子って嬢ちゃんとそのお友達にちゃんと謝っておけ。お前なんぞのために、みんなであちこち探し回ってくれたんだぞ」
「……そ、そうなんだ」
そこまで大事になっていたとは予想外だった。まさかあの張り紙がかえって余計な心配を生んでしまったのだろうか。
……となると、こんなボロボロの格好では余計な心配をさせてしまうと、俺は急いで事務所へ戻ろうとする。
「羽村さん!」
糸で引っ張られたかのように、俺の動きはピタリと止まる。
ゆっくり後ろを振り返ると、息を切らした女の子がこちらを見つめながら立っていた。
それは間違いなく、今一番顔を合わせたくない相手、清子くんだった。
さて、どういう風に対応しようと頭をフル回転させているうちに、清子くんは心底胸を撫で下ろしていた。
「よ、良かったです……あっ!」
何かに気付いた清子くんは、俺にズカズカと詰め寄ってきて、俺の腕を引っ張る。
「なんでこんなにワイシャツ汚れてるんですか! しかもボロボロですし……ああっ! よく見たら羽村さんあちこち怪我してるじゃないですか!」
「まあその、いろいろとありまして……」
さて、これをどうやって説明しようか。黙ってお仕事行ってましただと機嫌を損ねてしまうし、しかし旧友と夕日の下で決闘してきました、なんてこと言えないし。
「言い訳は後で隅から隅まで聞かせて頂きます、今はとりあえず治療が先です! 羽村さんはとりあえず、事務所でおとなしくしていてください!」
「へ、へい……」
俺が弁解の言葉を模索していることを察知され、完全に逃げ道を絶たれた俺は、清子くんの言うことを素直に聞くしかなかった。
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