第五話『お久しぶりです、元沢さん』

5ー1『しがない羽村さんの始まり』

 夢の中で冷や水をかけられた瞬間、俺は目を覚ました。

 顔を拭ってみると、汗で顔がぐっしょりと濡れていたので、ため息を付きながら濡れタオルで軽く洗い流した。

 顔を拭き終わってから、俺は事務所の中を軽く見渡す。考えても見れば、ここで暮らし始めてから一〇年近く経っていた。

 思えばコルフのジジィ……つまり冷蔵庫くんの爺さんに捕まってしまったのが全ての始まりだった。




 ジジィは俺を無理矢理ビルの二階へと引き連れていった。自分が人に水をかけた癖に、俺が謝罪を無視して立ち去ろうとしたのが気に障ったらしい。おまけに俺の意志とは無関係に、ここで暮らしながら何か商売を始めろ、と言い付けてきたのだ。

 文句を言おうにも精根尽き果ていて怒鳴る元気もなかった。そんな俺にジジィは俺に食料を運んできた。全部賞味期限の切れた加工食品で、個人商店の売れ残りだったが。

 贅沢など言わなかったが、どうしてこんな見ず知らずの俺の世話を焼くのかは気になったので、なんとなく聞いてみると、鼻で笑いながらジジィはこう答えた。

「まだシワもできないような若造が、人生の全てを悟った顔をしているのが気に入らん。だから俺がここで叩き直してやる」

 せっかく食事にありついたというのに、俺はその言葉にげっそりしてしまった。

 それからしばらく、何もしないでベッドもない部屋の中で寝転がる毎日が続いた。しかし、一日一回必ずジジィが俺の背中を蹴飛ばしに来るので、外をぶらぶらとしながら商売を考えるのが日課となった。

 などと言いながらも、実際は何かする気など起きやしなかった。ジジィが愛想を尽かして叩き出すか、その前に俺が夜逃げするかのどちらかだろうなどと思いながら、実のない散歩を続ける日々だ。

 ある日のこと、俺は近所で騒ぎを聞き付け、好奇心で覗いてみた。

 すると、古い木造住宅の前で、小動物用のケージを持ちながら何か弁解している男がいた。しかし結局言い負かされたのか、とぼとぼとケージの中身を見ながらため息を付いていた。

 俺は理由を知りたくてさりげなくすれ違ってみると、何かが騒ぐ声がしたので覗いてしまった。

『おい、何しやがる! さっさと俺を出しやがれ人間!』

 ケージの中には、大きな身体をしたネズミがケージを噛みながら怒鳴り声をあげていたのだ。

「ああ、すいません。驚かせてしまいましたか」

 ギョッとしたところを見られたのか、男はヘコヘコと俺に謝ってきた。実際は俺が興味本位で首を突っ込んだのは俺なのでそんな筋合いはなく、俺はすぐ宥めた。

「コイツ、一昨日くらいにうちへ飛び込んできたネズミでしてね。最初は早く駆除してしまおうと思ってたんですが、なんだか気が引けちゃいまして」

「は、はぁ」

「知ってますか? プロの人はネズミ捕りにかけたネズミを足で踏み潰してしまうんですよ。昔バイト先に駆除の人が来た時に思いっきり見ちゃったですけど、あれを思い出してしまったら、ちょっと」

 見ず知らずの人間相手にエグい話をするなよ、と心の中で突っ込みつつ、俺はなるだけ愛想よく相槌を打った。

「こっそり飼おうかな、なんて思ってたんですけど、妻に見つかって大目玉を食らいましてね。でもどう始末しようか、正直悩んでいたところです」

 確かに改めて男の容姿を見ていると、いかにも気の弱そうな人だった。瓶底眼鏡に直していない寝癖、さらにボロボロの軍手という冴えない風貌も、それを悪い意味で引き立てていた。まあ、冴えない俺が言う台詞ではなかったけれど。

「ならそれ、俺が代わりにやりましょうか」

「え? いやいやそんなダメですよ。今会ったばかりの見ず知らずの君に」

 男がいきなり年上面をしながら断ったので、俺は少しだけむっとした。しかし、そういえばその通りだと思い直して、不快感を鎮めた。あまり意識していなかったが、確かに俺の記憶が定かなら、俺はかろうじて未成年だった。

「別にお金とか対価が欲しいわけじゃないっすから。ただ、俺の方がこういうのは慣れてるんで」

「き、君はじゃあ、さっき言ったような経験があるのかい?」

「まあ、そんなところです」

 相手は小動物じゃなくて、同じ人間だけどな、とは言わなかった。

「なんか見てられなかったんで、お節介だって言うならやめますけど?」

 俺の申し出に、相手は少しだけ悩んでいたが、やがてそれを受けることにした。ケージは後で返しに来るということにしたが、ついでに衛生面を考慮してボロい軍手まで借りることになってしまった。人肌の温もりが残る軍手の付け心地に苦笑いしつつ、俺はケージ片手に出発する。

 暇潰しがてらに変なことを引き受けてしまった、と自分でも思う。しかし見てられなかった、というのは本当の気持ちだ。

 しかしそれはあの眼鏡男さんではなく、ケージの中で悲鳴のような声をあげるドブネズミの方だったが。

『畜生人間め! 俺をどうする気だ! 早く俺をここから出せ! 勝負しろ畜生ぉ!』

 そんな虚勢を張るネズミの声を聞きながら、俺は近くにある山の方へと向かった。




 そろそろ日が沈みかけた頃、俺は緩やかな山の奥まで突き進んでいた。一度も来たことのない、きっと誰かの私有地の山だったが、手が付けられていないのを見ると、よほど価値の薄い土地なのだろう。

 そろそろいいだろうと俺はケージを地面に降ろし、ネズミと向き合った。

「おいネズ公、聞こえるか」

『おお人間、ようやく俺と話す気になったか。喧嘩ならいつでも受けて立つって喋ったぞコイツぁ!』

 ひっくり返って驚くネズミを見て、俺はついほくそ笑んでしまった。というか、あの男と話している時に俺の声を聞いていなかったのだろうか。

「喧嘩も勝負もしない。取引をしようっていうんだ」

『な、なんだよ、取引って』

 俺が言葉を話せることにまだ驚いているらしいネズミは、おどおどしながら聞き返してきた。

「お前がここで静かに暮らすって言うなら、俺はお前を殺さない」

『俺を殺すだ? はっ、何偉そうなこと言ってんだ!』

「この先には湖があるんだけどな、そこにこの小屋を沈めれば、お前はあっという間に溺れ死ぬだろうな」

 ネズミがゾッとした顔で息を止めたのがわかった。ちなみに実際この先に湖があるかどうかなんていうのは知らない。いや、恐らく存在するわけがないのだが、別に本当のことを言う必要はなかった。

「二度と人里に降りないと誓えば、この森で逃してやる。しかし、そうでないなら俺はお前をこれから殺す。今、自分の状況わかってるよな?」

 ネズミは息を呑んで答えた。俺がそういうことを躊躇わないということを、雰囲気で感じているらしい。

 約束を守って生きるか、この場で死ぬか、ネズミは前者の選択を取った。

 俺はそういうことならと、ケージからコイツを出してやることにする。だが、出す前に一つ付け加える。

「もし人里に降りてきたら、すぐにわかるからな。人間の連絡網っていうのはすごいんだ。お前の面は割れてるから、人里に来たってわかればすぐ俺の所に知らせがくる。そうしたら、次は問答無用で潰しにいくぞ」

『……は、はいぃ』

 どうやら、約束を破る気満々だったらしいネズミは、それを聞いて引きつった声を出した。これくらい脅しておけば、恐らくは大丈夫だろう。

 しかしどの道、次にコイツと人里で会うことがあれば、その時は俺が容赦なく殺すつもりだった。まあ、かなり遠くまで連れてきたし、リスクを知ればまずやらかさないだろうが。

 俺がケージからネズミを出してやると、そいつはすぐには逃げず、俺の方に向き直った。もし手向かうようなら本気で潰そうと思ったが、ネズミは慎ましく座り込んで俺に声をかけた。

『あ、ありがとうな。俺、危うくあの人間に殺されるところだったんだろ?』

「……まあな」

『俺、もう人間には関わらねぇよ。アンタみてぇなおっかねぇ奴とやり合うより、ここでまだ逃げ切れそうな奴とやり合う方がマシだ』

 すっかり肝を冷やしたのか、そう言い残したネズミは、そそくさと山の奥へと消えてしまった。

 やり終えてから、生態系の問題がどうのこうのという言葉が浮かんできたが、今回だけは勘弁してもらおうと天に向けて手を合わせながら山を降りた。元々この辺りの山で暮らしていたネズミの仲間だろうし、と言い訳しながら。




 男にケージと軍手を返しにいくと、お礼に何かしたいと言うので、俺はすぐに断った。しかし諦めようとしないので適当に食い物と吹っかけると、買いすぎて余っていたという袋麺一セットだけ貰い受けた。

 これでしばらくは腹が満たされるかなと少しだけ喜んでから、俺は愕然とする。そういえばうちに食事用の器がないことに気付いたのだ。




 締まらないオチは付いたが、その一件がキッカケで俺の商売は決まった。それがこの個人営業の害獣駆除事務所だった。

 命を取るまでもない相手はできるだけ生かしてやり、殺すべき相手は俺が責任を持って処理をする。

 動物と言葉を交わせて、かつたくさん血を浴びてきた俺にしかできないことは、きっとこれだけだと思ったからだ。

 それから一〇年、事務所はまるで流行らなかったが、この商売とジジィの手伝いでなんとか今日まで食いつないできた。

 その間に高校進学を迎えた冷蔵庫くんがビルの一階に引っ越してきて、以来ジジィが家に居ることが減り始めたり、三階で黒木田くろきださんが店を開くことになってビルの空き室が埋まったり……。

『おい羽村はむらぁ! もう起きてんならオイラに飯よこせよぉ!』

 夢の余韻で昔の思い出に浸っていると、同居者が朝飯を催促する声が聞こえてきた。俺は深く息を吐きながら、寝室に置いたケージの中にいるぽんすけの飯を用意しにいった。

 もしかしたら今日が最後になるかもしれないけど、なんて思いながら。

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