昔話終『羽が散る』

 狙撃銃持ちをなんとか片付けたのと同時に、俺達は窓を蹴破った。外へ飛び降りる途中、ロケットランチャーの弾頭がすれ違い様に建物へ突っ込み、派手な爆風を起こした。

「生きてるかよ、ハゲタカ!」

「喋る暇があったら、一人でも片付けろ!」

 なんとか着地に成功した俺達は、既に前線で戦う三人の援護に加わろうと、近場にあった大樹に身を隠した。弾が樹木に当たる音に冷や汗を流しつつ、時折木陰から敵を狙う。

 しかし、相手も森の木陰に隠れているため、なかなか当たってはくれない。森に隠れている敵の方が隠れる場所は断然多い。

 さりとてゆっくりと敵の数を減らしていく暇はない。銃弾が樹木をいつ貫通するかわからないし、何より早く突破しないと黒狼へ追いつけない。

 ハヤブサ達の方に目を向けると、ミサゴが何かを漁っていた。たいした荷持は抱えていなかったはずだが、彼女がそのまま投げ付けると、敵が密集した地点で爆発が起きた。

 何事かとよく見れば、その手には手榴弾が握られていた。

「ハゲタカ達も、そっちの見張りから拝借して!」

 とノスリに大声で言われ、俺達はさっき始末した見張りの死体を引っ張り出し、懐を探ってみる。すると三つくらい手榴弾を見つけ、俺は自分の懐にそそくさとしまった。一方でトンビは見張りの持っていた機関銃を抱えていた。

「盛大な歓迎に感謝を込めて、お返ししないとな」

 俺はトンビの意図を理解し、手榴弾のピンを抜いてから思いっきり投げつけた。そして、敵の足元に落ちる前に、トンビが撃ち抜いて盛大な爆発を起こしてみせた。

 相手が怯んだのを見て、俺達は一気に距離を詰める。隠れる場所の少ないコテージよりも、木々の茂る森へ近づかなくては、突破のための道も開けない。

 しかし木まで駆け抜けると、途中でハヤブサが軽く指差して大声を張り上げた。そこに目を向けると、さっき手榴弾で潰した敵の手から、ピンの抜かれた手榴弾がこぼれ落ちようとしていた。

 すぐに反応して飛び退いたが、手榴弾は間もなく四散した。




 一瞬気を失いかけたが、銃声が聞こえて俺はすぐに近くの大樹へ身を寄せ、拳銃で敵に応戦する。油断していたおかげか、数人を潰すことに成功した。

 背後を振り返ってみて、俺は言葉を失った。爆風で吹き飛ばされたためか、頭から血を流すハヤブサ、左目を無言で抑えるミサゴ、そしてトンビに庇われていたノスリが見えた。

「ったく、今日の花火は盛大だな……」

 フラつきながら起き上がったハヤブサは、頭の血を拭いながら軽口を叩いた。そして、自分の着衣を破ると、自分より先にミサゴの目を覆った。

「ハゲタカ、なんとか元気そうだな。走れるか」

「頭が痛いくらいで、みんなに比べたらマシだ」

「よし、じゃあ俺達が援護するから、お前は黒狼目指して走れ」

「……そんな状況で、戦えるのか」

 俺はあえて問いかけた。最後まで生きて戦い抜けるのか、という意味で聞いたのだが、ハヤブサはそれを察してか鼻で笑い、まともに答えなかった。

「目標を見失うな。ここで逃がせば全てが無駄になるだけじゃない、もっといろんなものが失われる」

 数年前の記憶が蘇る。共に暮らしてきた仲間が皆殺しにされた光景と、それに絶望して死を選んだ親父の姿。

 もし黒狼を逃がせば、次は首都で血の雨が降るかもしれない。

「大丈夫、ハゲタカの援護はできる」

 と、負傷した目を軽く抑えながらミサゴが立ち上がる。

「私は、足を挫いた以外は問題なしだけど、トンビは……」

「たいしたことはねぇよ。ハゲタカを突っ切らせるくらいのことはできる」

 心配そうに気遣うノスリに対し、トンビはその小さな肩を軽く叩いて応えた。

「とにかく余計な心配しないで、お前さんは全部任されてくれ」

 みんなが各々体勢を整え直す中、ハヤブサが今一度背中を押す。

 もう悩んでいる時間などはなかった。

「……信じてるからな、お前ら」

 俺の言葉に、みんなは手を上げて応じた。それを見た俺は、銃を構えながら体勢をやや低くしつつ突撃した。

 当然敵はここぞとばかりに俺に狙いを定めるが、こっちに意識を向けた敵は次々の撃ち抜かれていった。

 俺はその道中、少しでも皆の負担を減らそうと、隙を見てハヤブサ達を狙う敵を一人でも多く撃ち抜いた。

 皆とまた顔を合わせられる可能性を、少しでも増やすためにも。




 銃撃戦地帯をなんとか抜け、俺は黒狼の向かった先を探る。すると複数人の真新しい足跡が見えたので、俺はそれを辿っていくことにした。

 かなり差が付いてしまっているが、複数で守られながら動いているのであれば十分追いつけるはずだ。俺は距離を詰めるべく、山の急斜面を滑り降りたりしながら、何度か山道をショートカットした。

 やがて、敵集団の背中が見えてきた。四人の護衛に囲まれた男が、細い山道を早足で下っている。

 護衛らしき面々が迷彩服に身を包む一方、真ん中の男だけはフード姿という異様な風貌だった。黒を貴重に灰色など地味な色合いで揃えた服装、サングラスとマスクで隠された顔……あれが恐らくあの幹部の言っていた黒狼なことは間違いない。

 すぐにでも銃弾をぶち込みたいところだが、走りながら銃撃戦をしてもまず当たらない。ここで奇襲を狙うために、俺は近くの斜面をまた一つ滑って降り、先回りを狙うことにした。今度は相手が近いので、極力存在を感じさせないようしっかりと気を配る。

 降りた先には、曲がりくねった細い山道が伸びていた。目を凝らすと、遠くから黒狼の集団がこちらに向かってきているのが見えた。

 俺は近場にあった針葉樹の近くに隠れながら、銃を構える。通信妨害が仇となって、俺だけがあの包囲から抜けたことは知らされていないようだ。

 そして、護衛の一人が一瞬息を吐いて気を緩めたのを見て、俺は樹木から身体を出して発砲した。

 まずは前にいた二人の頭に撃ち込んでやると、敵もすぐに反応し、黒狼の盾になるように前に出ると、反撃してきた。

 肩や頬を銃弾が掠めたが、俺はなんとか怯まずさらに二発を護衛の胸に撃ち込む。

 護衛が潰れるのを見越して、黒狼も懐から拳銃を取り出した。しかし、何故かそこで動きが鈍った。

 好機と見て俺は、すぐに数発の弾を黒狼に撃ち込んだ。相手は少し後ずさった後、仰向けに力なく倒れた。

 あまりのあっけなさに拍子抜けしたが、一度罠にかけられている以上、油断はできない。俺は護衛の銃を全て崖下に蹴り落として心拍を確認しつつ、最後に黒狼と思われる男の前に立つ。

 まだ息はあるようだが、身体は痙攣したように震えるだけだ。恐らく致命傷は確実に与えたはずだが、俺はそれを確かめるためと、その憎き面を拝みたいという一心で、サングラスとマスクを取り払った。

「……なんだ、こいつ」

 俺は思わず、動揺を口に出してしまった。見覚えのないはずの相手の顔に、どこかで会ったような懐かしさを覚えたからだ。

 それが冷めてくると、記憶の奥底に眠っていた顔と、目の前の顔が段々と結びついてくる。

 そんなはずはないと、俺は首を横に振った。だが、何度見てもそこにあった顔は、他人の空似には思えなかった。

 黒狼の顔は、およそ一〇年前に死んだはずの、実の兄の顔にそっくりだったのだ。その時、客車から運ばれる人の死体を思い出す。あの中に兄が居たのだろうか。

 兄の顔をした黒狼は、俺の目をずっと見つめていたが、やがて命が尽きたのか、目から光がゆっくりと失われていった。

 流石に頭が真っ白になったが、よく考えたら俺が悔やむことなどないじゃないか。

 こいつが俺の記憶の通り兄だとしても、血が繋がっているだけで、家族の思い出など存在しないような、関わりの薄い相手だ。

 いつも勉強ばかりして、自分の邪魔になることをすると怒鳴りつける、そんな仲の悪い兄弟でしかない。

 そんな相手を自分の手で殺したからと言って、どうしてこうまで震える必要があるというのか。

 相手が俺を撃つのを躊躇ったのが、もしかしたら俺のことを思い出したからかもしれない、なんて考えているからか。

 くだらない、むしろ仕事をすんなりと終わらせてくれるキッカケを向こうから作ってくれたのだ。ここはあえて感謝すべきことじゃないだろうか。

『人間がたくさん死んでおる』

 頭上から声がして、俺は咄嗟に銃を構えながら振り返った。

 しかし、そこには誰もいなかった。居るとすれば、針葉樹にいつの間にか止まっていた鳥くらいだ。あの見た目は、恐らくフクロウだろうか。

『どうせならドブネズミでも転がしてくれればいいものを……人間で腹を満たすなど恐れ多いわ』

 ただでさえ困惑を隠せない俺の頭は、さらにパニックとなった。

 フクロウが、人間の言葉を話すだなんて……という言葉が頭に浮かんだ時、俺は幼い頃のことを思い出した。

 何故か動物の言葉がわかったあの時の自分、その記憶が蘇った途端、俺はそれを否定しようと銃を震わせながら構えた。

 あれはただの幻だ。子供時代の自分が、ただそう思い込んでいただけに過ぎない。

 どうして今になってこんな、こんなただの思い込みでしかないはずのものが蘇ったのか。

 そうだ、アイツを撃ち殺してしまえばきっと黙るはずだ。そう思って俺は照準をフクロウの顔面に合わせる。

 引き金を引けば、もう俺の幻聴は聞こえなくなるに違いない。

 だというのに、指はまったく動くことはなかった。

『どうしたことだ、何故人間がワシを恐れるのだ? ああ、自分の飯を奪われると勘違いしているのかもしれん。殺されぬうちに逃げるとしよう』

 俺が躊躇っているうちに、フクロウは悠々と飛び去ってしまった。俺の手は震えたまま、結局それを撃ち落とすことはできなかった。

 放心状態で立ち尽くしていると、ノイズが耳に入ってきた。入れっぱなしだった通信機から、聞き慣れた声が途切れ途切れで聞こえてきた。

 混乱していたせいか、何を言っているかを聞き取る意志すら抜けていたが、やがてそれははっきりとした言葉となった。

「ハゲタカ! 無事なら応答するんだ!」

 それがファルコナーの言葉だと気付いた瞬間、俺はようやく正気を取り戻した。

 いくつか言葉を交わし、黒狼と見られる人間を仕留めたことを知らせた。

 ファルコナーからも、首都で小規模なテロが起こったことを教えられた。もっとも、俺達との通信が途絶した時点で何かを察知して、警備の増員を要請していたそうだ。俺の期待通りにファルコナーが動いたおかげで、警察や軍人から殉職者が出たものの、市民への犠牲はなかったらしい。

 その後、俺は自分以外の仲間の安否はわからないことを告げた。通信妨害は今さっき突然止まったらしいのだが、他の面々とは未だに繋がらない。

 最悪の結末を予想しながら、俺は黒狼の処理という目的を含めてファルコナーと合流する旨を伝え、少し離れた地点で待機することになった。

 その間、まるで亡霊の声でも聞かされているかのように、小鳥の話し声が耳に入ってきて、俺は頭を押し潰すような勢いで両耳を塞いだ。




 ファルコナーと合流して銃撃戦の現場に向かうと、辺りは静けさに包まれていた。

 そして、送り出されたところまで辿り着いた俺は、力が抜けて膝をつき、ファルコナーは絶句して近くの樹に寄りかかった。

 そこに広がっていたのは、血塗れで機関銃を抱えたまま絶命しているハヤブサと、虫の息のトンビ達の姿だったのだ。




 黒狼の死から数ヶ月が経ち、前国主の遺体が発見されたことで、ひとまず旧政府側との闘争は終止符ということになった。

 残党はまだ活動していて、警察や軍はまだ戦々恐々としていたが、俺は結局二度くらいしか手を出さなかった。かつては公僕と呼ぶのも憚られる脆弱さだったが、テロの被害を最小限に防いだ今の組織なら、残党程度に遅れを取ることはないだろう。

 彼等の代わりに屍の山を築いてきたことは、無駄ではなかったと信じたいものだった。

 国主曰く、最大の功労者と呼ばれた俺達は、当然ながらその功績は表に出されることはない。表向きには軍の特殊部隊の功績とされている。

 功績の有無など、少なくとも俺にはどうでもいい。それ以上に失われたものは大きかった。

 ハヤブサの火葬には、ファルコナー以外立ち会えなかった。機密指令を受けた軍人の殉職、と表の理由を付け、ハヤブサの身分は徹底的に隠された。

 それ以外の面々は、なんとか一命はとりとめたそうだ。しかしミサゴの左目は完全にダメになり、ノスリも半年は病院から抜け出せない傷を負ったという。

 トンビは本来なら絶対安静なはずが、最近では勝手に筋トレを始めていると聞いた。アイツらしいなと俺は苦笑いしたが、立場上見舞いにはいけなかった。

 いや、そもそも俺は見舞いに行く気などさらさらなかった。顔を見る気になれなかったのもそうだが、あれ以来、外に出ることを極力避けていたからだ。

 何故なら外に出れば野鳥達の喧騒が耳に入り込み、路地裏に逃げ込めばドブネズミの愚痴や悲鳴が耳に入る。

 子供以来久々に遭遇したこの感覚に、俺はなかなか慣れることができなかった。




 ファルコナーと話がしたいと申し出ると、俺は彼の隠れ家に案内された。

 小さいながらも小奇麗にしてあり、まるで政治家の別荘のような雰囲気を醸し出している。

 俺は合鍵を使って中に入り、別荘の書斎へ直接向かった。扉を開けると、ファルコナーは背中を向けて窓の光りを浴びながら立っていた。

「要件は大体想像が付く」

 開口一番にそう言われて、出鼻を挫かれた俺は頭を掻いてそっぽを向いた。

「理由は聞かない。だが、ハヤブサの様を見て腰抜けになるようなお前ではないはずだ」

「どうとでも思ってくれていいよ。腰抜けになったっていうのは結構当たってる」

 俺は投げ遣りに答えた。

 残党鎮圧の仕事を受けた際、俺は結局全員生け捕りにすることしかできなかった。おかげで二度目の任務で敵と取っ組み合いになった時は、肩を外されて痛い目を見た。

 それも理由だが、あの日を境にすっかり気力が失せたことを自覚した俺は、自ら廃業の道を選ぶことにした。入院中のトンビにすらそのことは知らせていない。

「しかし困ったな、お前は機密事項の塊で、政府にとっては爆弾そのものだ」

 そう言いながら振り返ったファルコナーの手には、銃が握られていた。

「考え直す気はないのか」

「まったくない」

 驚くほどすんなりと言葉が出た。銃を向けられているというのに、身体が反応することもなかった。

 空気が抜けた風船のように覇気の失せた自分を自嘲しながら、俺はその場から動かず話を続けた。

「……そういうことなら仕方ない」

 と言うと、ファルコナーは自分の持っていた銃を隣に放り投げた。ふとそちらに目を向けると、どこから出てきたのか小柄な少女がその拳銃を受け取り、流れるような動作で俺に撃ち込んできた。

「うぐっ!」

 俺は腹に衝撃を受けて、静かに崩れ落ちた。何故か笑いが漏れる自分を不思議に思いつつ腹を撫でてみると、そこからは何も吹き出てはいなかった。

「それはゴム弾、でも直撃すれば人を行動不能にできる」

「……使ったことはなくても知ってるよ、ミサゴ」

 丁寧に解説してくれたのは、左目を革製の眼帯で覆ったミサゴだった。眼帯は半円型で、顔の左側を覆うくらい広く、ハヤブサが褒めていた顔立ちが台無しになっていた。

「ハゲタカは今日この場で死んだ。後の処理はミサゴ、君に任せよう」

「御意」

「今生の別れだ。この国から逃げる以上、二度とこの地を踏むことは許されん」

 当然のことだったので、俺は素直に頷いた。つまりファルコナー達ともトンビとも会えなくなるし、親父の墓代わりの火山を見舞うこともできなくなるが、それは覚悟の上であった。

 ファルコナーの言葉を聞きながら、ミサゴはポケットから黒い布袋を取り出して、俺の頭に被せようと広げる。

 するとその前に、ファルコナーはさらに言葉を続けた。

「旅立つ前に話しておこう。お前がこの国で果たした仕事は、全て我々政府の責任によるものであり、罪に問うことはない。よってこの先、お前が過去に苦しむ必要はないことだけは覚えておいてくれ」

「……」

 ファルコナーの気遣いだったようだが、俺は正直半分聞き流していた。

「トンビに話を通しておくか?」

「いや、やめて欲しい」

「わかった、お前は任務の途中で死んだと伝えよう」

 見舞いに行きたいと言わず、アイツに相談しなかったのは、絶対に止められるからとわかっていたからだ。

 だから、今更相談する気もなかった。意見が割れれば、奴との無用な争いを生むだけになる。

 兄弟と思われる人間を手に掛けたが、兄弟同然の人間と殺し合いをするのだけは避けたかった。

「達者で暮らせよ」

「……なるだけな」

「私は死に場所を与えるためにお前を逃がすわけではない。それだけは忘れてくれるな」

 別れの言葉を伝えられたのと同時に、俺の意識は急に途切れた。






 それからのことは、あっという間で細かくは覚えていない。

 気づくとミサゴの運転する車の中で、懐にはファルコナーからの餞別として封筒一杯の現金が入っていた。

 移送された先で、偽造屋にパスポートと戸籍を用意すると言われた。俺はそこに記す名前として、「羽村はむら正貴ただき」をなんとなく選んでしまった。

 思いつかなかったのか、過去に未練があったのかはわからないが、気づけば俺はその名前が記されたパスポートを与えられていた。

 ミサゴとは空港の前で別れた。いつも無口だったはずの彼女も、車から降ろす時にはファルコナーと同じように「平穏に、生きて」と伝えてきた。

 興味本位でこれからミサゴにどうするのかを聞くと、珍しく笑顔を見せて答えた。

「無論、ファルコナーのために尽くす。あとは、ハヤブサの魂に寄り添えたら……」

 そう語るミサゴの姿は、本当に年相応の少女のようだった。





 一〇年以上ぶりに戻ってきた祖国に対する感慨はなかった。

 どこに住んでいたかは、その地名すら思い出せないし、ひとまず充てがわれた街で暮らしたが、一ヶ月も保たずに俺は放浪することになった。

 ファルコナーとミサゴには生きろと言われたが、正直俺はあの場で殺されることを望んでいた。ただ、ゴム弾を食らった時に悶え苦しんだ自分に気づき、まだ生きようとする意識はあるのかもしれないと、ひとまず生き続けることを受け入れた。

 しかしいざ暮らしてみると、普通の生活を受け入れるのは自分には無理なように感じられた。さりとてあの国での殺伐とした日々に戻りたいとも思えない。

 一体自分はどうして生きているのだろうか、そんなことを思いつつも自分で命を絶つ勇気もなく、目的など考えずにあちこちを放浪した。

 ファルコナーからの餞別としてもらった封筒は、みるみるうちに薄くなっていった。そしてある時、チンピラに因縁を付けられてタコ殴りにされた後、奪われてしまった。

 それでも死にきれなかった俺は、それからしばらく道に沿って歩き続けた。適当に体力を使っていれば自然と力尽きるだろうと思いながら。

 いつの間にか動物達の喧騒も俺の中で馴染み始めたのか、あまり気にならなくなっていた。いや、単に不快感すらどうでもよくなったのかもしれないが。

 そして一週間くらい水道水だけの生活を続けた後、いよいよ意識が朦朧とし始めた。

 ようやく自分にもお迎えがきたのかと、少しだけ安堵しながらも、俺の足は進み続けた。

 そして、視界に入っていた青空が、ゆっくりと黒色に侵食されているのを見ながら、俺は重力に全身を委ねることにした。




 顔面に何かが叩き付けられた。

 それがヒンヤリとした水の感触だと気づくのに、数秒を要した。

 消えかけた意識が強引に引き戻され、俺は何事かと目を凝らす。

 すると、目の前にはバケツを持った老人がこちらを睨みながら、誠意のない詫びの言葉をかけていた。

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