昔話『ある男の軌跡』

昔話1『失う少年の話』

 少年は薄暗い裏山で蹲っていた。

 木々の合間に見える空は茜色に染まりつつあった。多くの木々が生い茂り、昼間さえ薄暗いこの山は、夕方になればあっという間に暗くなる。

 近所の大人も滅多に寄り付かない裏山へ、少年は家出のつもりで飛び込んでしまった。意地だけで無謀に山の奥へと突き進んだあげく、気づけば帰路をすっかり見失っていた。

 風が吹き抜けて悲鳴のような音を立て、木々がざわめくように揺れる。未だ感じたことのない恐怖心に苛まれ、少年はただ顔を引き攣らせて震えるしかなかった。

 しばらくすると、少年の耳に足音が聞こえてきた。助けなど来るわけがないと思っていた少年は、誰かが自分を狙っているのだと思った。

 急いで木陰に隠れて相手の様子を伺おうとするが、既に視界は暗闇に包まれ、どこに誰がいるかもわからない。しかし、誰かが近くにいることはなんとなく気配でわかった。

 少年はその存在を気づかれまいと、自分を縛るように膝を抱き、震える全身を抑えようとした。だが震えは止まらず、尻の下にあった落ち葉は嘲笑うように音を立てた。

 可能な限り身体を丸めたが、とうとう少年の存在に気づいたらしい。近くに誰かが寄ってきたのがわかって、少年は半ば諦めた気持ちになりながら、必死に身体を強張らせた。

『人間の子供が、何故ここにいる』

「だ、誰?」

『……貴様、どうなっている?』

 少年の声に驚いた相手は、首を近づけてきたらしい。息遣いが間近に聞こえて、自然と身体が硬直する。

『俺の言葉が話せるのか?』

 そう尋ねてきた相手を、少年は恐る恐る凝視する。夜闇に目が慣れたためか、相手の輪郭がなんとなくわかってきた。

「えっ、鹿?」

 声をかけてきたのは、変質者でも怪物でもなく、大きな角を持つ大柄なオス鹿だった。




 いつからか少年には不思議な力が宿っていた。

 適当に歩いていれば野鳥の井戸端会議が聞こえるし、庭先で飼われている犬が遠吠えで何を訴えているかもわかる。野良猫に話しかければ相手は『喋る人間だ』と驚いて逃げていく。

 言葉というものをはっきり理解できる前からそうだったのか、はたまた何かの要因で目覚めたのかは判然としない。

 しかし、自分のこの力が普通ではないことがわかると、少し誇らしくなった。両親からは取り柄のない奴と半ば見放されていたが、これで褒められるかもしれないと少年は期待した。

 しかし、現実はそんな少年の希望を軽々しく跳ね除けた。

 クラスメイトからは嘘付き呼ばわりされ、一番認めて欲しかった家族からも否定されてしまったのだ。




 こんな力、捨てられるなら捨ててしまいたい。そう思っていた少年を救ったのは、皮肉にもその忌み嫌っていた力の存在だった。

 オス鹿に導かれて下山できた少年は、それ以来裏山へと通うようになり、山中で静かに暮らす動物達と親交を深めた。

 特に命を救ってくれたオス鹿を、少年はよく慕った。相手は群れから離れたはぐれ鹿だったので、最初こそ露骨に迷惑そうな態度を取った。

『相容れない者同士が共に時を過ごしても、不幸になるだけだ』

 だが少年にとってこの裏山は安住の地だった。可愛い小鳥や小動物達は、少年のことを興味本位でも受け入れてくれるのだ。少なくとも人間社会よりずっと過ごしやすい。

 無邪気に動物達を慕う少年の態度を見て、オス鹿もやがて他愛のないに付き合うようになってくれた。

『お前は何故群れから離れたがるんだ』

 ある時、オス鹿は少年に疑問を投げかけた。

「みんな、僕なんて邪魔だって思ってる」

 憎しみ混じりの声で少年は答えた。

 小学校に入って半年以上経っていたが、人間の友達と言える人間は一人としていなかった。動物と会話できるという少年の主張をからかう相手は何人も居たが、裏山に通うようになった少年は、面倒になって何も言い返さなくなっていた。すると相手も飽きてしまい、その存在を無視するようになったのだ。

 家族に目を向けてみれば、こちらも少年との仲は良くなかった。

 努力だけでのし上がり出世したというワーカーホリックの父。

 そんな努力家な夫にゾッコンな反面、子供への愛に乏しい母。

 一〇歳近く年が離れていて、熱心に受験勉強へ取り組んでいたドライな兄。

 そして少年以上に自分勝手でワガママばかりな弟。

 少年を含めてこれは血筋なのか揃って我の強い一家で、喧嘩が起こればまずどちらも譲らなかった。夫婦愛が冷めない両親同士を除けば、家族同士が互いの気に入らない部分を嫌い合っていた。

 それを話すとオス鹿は、『群れとしても個人としても中途半端な人間が、どうしてこの世界を牛耳れるようになったかが、不思議だ』と素直な感想を述べた。まあこれは、少年の家族が特殊だったのだが。

『だが、お前は親から食べ物と寝床を与えられているのだろう』

「そうだけど、だから感謝しろってこと?」

『いいや。ただ、俺達の世界では生き抜く力のない子供は完全に見捨てられる。俺も若い頃にそうやって群れから追い出された。俺は運良く一人でも生き残れたが、お前は生かされている。お前が思っている以上に、群れはお前を疎んではいないように思う。あの時も迎えは来たのだろう?』

 そう言われると、少年は言い返せなかった。裏山から無事帰れたその日、裏山の入り口で少年を探していた兄と出くわした。見つかった瞬間、兄は舌打ちと怒りの形相で少年の腕を掴んだ。

 勉強を邪魔されたことを愚痴りながらも、兄は強く少年の手を握り締めた。

「余計な心配をかけるな」

 その時の少年にとっては、いつもと変わらない叱り文句でしかない。だが兄は兄なりに、自分の弟のことを考えて心配をしてくれていたのだ。

 しかし少年がその気持ちに気づくことはなかった。




 それは、少年が裏山に通い始めてから一年くらい経った頃のことだった。

 裏山の地主が土地を売り払い、そこに新しい住宅街が建設されることになったのだ。人付き合いが希薄だった少年がそれを知ったのは、工事が始まる本当に少し前だった。

 大急ぎで少年はそのことを伝えに走った。只ならぬ様子に気づいたオス鹿が事情を聞くと少しだけ黙り込んでから、静かに口を開いた。

『お前は二度とこの山へは来るな』

「ちょっと待ってよ。どうして?」

 食い下がってきた少年に、オス鹿は少し呆れたように答えた。

『俺達はこの山を離れることになる。そうなればお前が訪れる理由もなくなるだろう』

「じゃあ、僕も一緒に行くよ」

『ふざけたことをほざくな!』

 鋭い眼光を光らせながらオス鹿が怒鳴った。今までにない怒声を浴びせられ固まる少年に対し、さらに鹿は巨大な角を向ける。

『何故俺が、お前を素直に受け入れようとしなかったか、いつも言っていたはずだ。相容れない者同士が付き合っても不幸になるだけだと。その不幸が少し早く来ただけのこと』

「僕は、学校や家族なんかより、みんなの方が大事なんだよ!」

『俺達に人間の小僧を養う力などない。そんなに別れるのが嫌なら、お前が人間達の侵略を止めてくれるか?』

 さしもの少年にも、それが不可能だと感じた。両親にも敵わない人間が、建設計画を止めることなどできるはずもない。

 言い返せなくなった少年を見やると、オス鹿は踵を返す。少年は何か言葉をかけようとしたが、何も出てこなかった。

『お前は俺のようになるな。人間と共に生きろ』

 それが、少年とオス鹿の交わした最後の言葉だった。

 しばらくして、工事の重機が入るという話を聞いて、少年は諦めきれずに裏山へと潜り込んだ。

 しかし、そこに見知った顔はどこにもなかった。たまたまここで羽休めしていた渡り鳥が、飛び去っていくのは見えたが。

 少年は、大事な友達を全て失ってしまった事実を改めて噛み締めた。背後では重機が唸り声みたいなエンジン音をあげ、斜面を登っていた。




 半年後、少年は生まれて初めての飛行機に乗っていた。

 父親の海外転勤により、突然海を越えて知らない国へ飛ぶことになってしまったからだ。左遷なのか栄転なのかはわからないが、少なくとも父親の機嫌は良さそうだった。

 飛行機に乗るのも初めてなら、外国の地に足を踏み入れるのも少年は初めてだ。

 しかしその心に子供らしい好奇心はない。むしろ、二度とあの土地に戻ることがないという現実が救いだった。

 裏山が形を変えていく光景をもう見なくて済むし、顔を合わせるのも嫌な連中とも縁切れだ。そう考えないと少年はやりきれなかった。

 結局、動物達とちゃんと別れができず、それが心残りとなってか学校での友人関係はまるで改善されなかった。

 一方で、家族関係は以前よりはマシになっていた。というより、手向かう気力を失っていたのだ。

 以前は誇示しようとしていた不思議な力も、今では邪魔に感じつつあった。少年は、半ば消去法で家族に縋ったのだ。

 その影響か、父親の外国行きを少年はすんなりと受け入れた。そもそも国内に残ろうにも、頼れるような仲の親戚も知り合いもいない。

 何より少年は、自分が一人では生きていけないことを思い知らされたばかりだった。




 到着したその足で、少年の家族は三カ国を跨ぐという国際列車へと乗車した。

 乗ったのは始発から終点まで六時間以上かかるという長距離鉄道だ。五人家族がなんとか過ごせる広さの個室に荷物を下ろし、家族は思い思いに時間を潰し始めた。

 少年は長時間鉄道に乗るのも初めてだったし、車両の中に個室があるのを見るのも初めてである。しかし、そんな物珍しい光景を見ても子供らしからぬ冷めた表情のままだ。

 なんとなく窓の外を眺めていると、中折帽にトレンチコートを着た男が通っているのが見えた。

 視線に気づいたのか、一瞬男が窓の方を見やる。冷たく鋭い視線に気圧された少年は、顔を伏せてから全力で背もたれに寄りかかる。殺意すら感じた男の眼光は、目を瞑っても瞼の裏に焼き付くように強烈だった。

 悪寒を感じて震えていた少年を見かねてか、兄は珍しく気を遣って飲み物を買ってこようと申し出た。しかし少年は頑なに断り、そのまま椅子に座ったまま顔を伏せてしまった。知らない人に睨まれて怯える姿を家族に見せまいと、変な意地を張っていたのだ。

 そんな少年の態度を見て、兄は鼻でため息をつきながら個室を出ていった。

 壁に顔を押し付けながら目を瞑っているうちに、少年の意識は静かに夢の中へと沈んでいく。

 次に目覚めた時が、家族との今生の別れとなるとは知らずに。




 いくらか時間が経ってから、文字通り少年は揺り起こされた。

 電車が急停止したために椅子から転げ落ちそうになり、周囲を見れば弟を庇う母親と、珍しく引きつった表情を見せる父親の姿がある。しかし、兄だけは個室内に姿がなかった。

 キョトンとしていると、何かが弾けるような音と、甲高い悲鳴が聞こえてきて、少年の息が詰まった。

 何が起こったか確認しようと、父親が個室から飛び出した。それを止めようとする母親が後に続くと、また何かが弾ける音がした。

 すると、聞いたことのある声が呻く音と、母親の狂ったような悲鳴が少年の耳に入ってきた。背筋が凍りつくのを感じつつ、少年は個室から顔だけを覗かせて様子を伺う。

 思わず声が出そうになった。

 血溜まりの上に仰向けで倒れる父親と、それに泣きつく母親の姿があった。

 それを見下ろしているのは、口元にバンダナを巻き、サングラスで顔を隠した男だ。男は映画で見たことがある銃を抱え、何か言っているが言葉がわからない。

 動けないでいる少年の横を、弟がとことこと歩いていく。止めなくちゃ、と思ったが身体も動かず声も出ない。弟に目線が向きそうになって、少年は咄嗟に身を引っ込めた。

 悪漢に捕まったのか凄まじい声で泣き喚く弟の声と、ヒステリックに命乞いをする母親の声が聞こえてきて、少年はそれを聞かないようにしながら、隠れられるような場所を死に物狂いで探す。やがて椅子の下に低い隙間があるのを見つけて、必死に身体を滑り込ませた。

 それからは母と弟の悲鳴が遠くなるまで身を縮こませて、ただ時が過ぎるのを待った。少しして、何者かが部屋の荷物を少し物色した後、乱暴に扉を閉めてから去った。その間も少年はずっと息を殺し、そして身体を強張らせていた。




 遠くから聞こえていた発砲音や悲鳴がかなり収まり、少年はそっと椅子の下から出た。

 そして、物音に気を配りつつ個室の扉を少しだけ開けて、慎重に廊下を確認する。ところが家族どころか悪漢の姿すらも見当たらない。床に飛び散った血痕や血溜まりは残っていたが。

 あの光景が悪夢の中で見た幻でなく現実なのだ、ということを再認識した少年は、腰が抜けて廊下に思わず転げ落ちる。

 それを聞きつけてか、こちらに足音が近づいてくるのが聞こえた。

「ど、どうしよう」

 パニックになりながらも、少年は這い蹲って目の前にあった個室に飛び込む。そして室内を見渡して、思わず尻餅をついた。

 見覚えのある男が、机に突っ伏していた。少年を睨んできたトレンチコートの男だとすぐに思い出したが、撃たれてしまったのか動く気配がない。

 その対面には別の男が頭から血を流して背もたれでぐったりとしていた。それが死体だということに気づいた少年は、思わず声をあげてしまった。

 その悲鳴に気づき、誰かがこの個室に駆け寄ってくる音がした。急いで隠れようとするが手遅れで。覆面バンダナの男が個室の扉を勢いよく開けてきた。

 隠れる暇もなかった少年は死を覚悟するが、悪漢は少年ではない方を見て立ち尽くした。頭から流血する男を見て動揺しているようだった。

 すると、何かが抜けたような音がして、突然悪漢の額に穴が空いた。卒倒して動かなくなった男を間近に見てしまった少年は、今度こそ大きな悲鳴をあげる。

 その時、何者かが少年を背後から羽交い締めにし、口を塞いだ。

 相手は耳元に何かを話しかけてきたが、悪漢と同じく言葉がまるでわからない。声量こそ低いが、威圧感のある声だった。

「静かにしろ」

 しばらく抵抗していると、男はようやく少年の分かる言葉を話した。それと同時に男が自分に何かを向けてきた。目線だけで確認した少年は、表情を強張らせた。

 まだ熱を持った銃が、自分に突き付けられていることを知り、急いで少年が両手をあげる。しかし男は拳銃を向けたままじっとこちらを睨んでいた。

「殺しを見られたからには、お前の口を封じる必要がある」

 悪寒を覚える程に冷徹な口調で男は告げた。別に見たくて見たわけではないので、少年からすれば身勝手極まりない話だ。しかし、相手が事情を慮ってくれる人間ではないことは明白だった。

 自分も家族の後を追うのか、と覚悟を決めたその時、男は少年の手を掴んだ。

「だが今は、銃の弾が勿体無いんでな」

 そしてそのまま少年を担いでから、窓の外へと放り投げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る