4-終『羽村さんの長い悪夢』

 駅で清子きよこくんと別れた俺は、寄り道せず我が家となる事務所に戻った。

 早速ぽんすけを元のケージに戻し、間食を要求する暴食ハムスターの声は無視して、飲み水だけ取り替える。そして、弱小自営業には似つかわしくない事務机に、突っ伏す。

 一人の時間というのは、気ままで落ち着く。でも、それがぶち壊されるのもまた一興ではないか、と思えてしまう。

 我ながらチョロい人間である。一〇歳以上も年の違う少女の言葉に諭されて、あっさりと浮かれた気分になっているのだから。

 本当なら彼女からきっぱりと拒絶されて、それを機会に全てを昔のように戻そうとしていたはずなのに。

「でも、楽しいって気づいちゃったもんな」

 自嘲気味の笑みを浮かべながら、俺は独りごちる。

 そんな時、事務所の電話が鳴り響いた。

 時間を見ると、今日はもう受付している時間は終了していた。どうやら、うっかり留守番電話に切り替えしていなかったらしい。

 この電話が鳴り響くことは本当に数少ない。というか、連日かかってくるのは創業以来のことかもしれない。

 今日は俺の気分もいいし、特別に時間外の相談も受け付けてあげよう。そんな偉そうな心持ちで、俺は受話器を取った。

「はい、羽村はむら害獣駆除事務所でございますが」

「もしもし、羽村正貴ただきさんのお宅ですかね?」

 電話の相手は、随分野太い声の男性だった。もしこれで女性だったら、俺の耳と感性を疑うほど、鼓膜をじんわり震わせる声音だ。

「はい、そうですけど、どちら様でしょうか?」

「なんだ、気づいてくれねぇのかよ。ハゲタカ」

 ハゲタカ。

 その一言が、俺の頭を一瞬で真っ白にさせた。

「まあ、今はまた正貴って呼んでやらねぇとなぁ。いやはや、その名前を知ってるのはもう俺だけだと思っていたが。こんな辺鄙な所で普通に暮らしてたとは、本当に驚きだ」

 相手はここを見て電話してきているのか? と、俺は慌てて窓を開けて周囲を見渡すが、電話している人間は見当たらない。

 自分は今、きっと刃物を刺された瞬間のような、酷い顔になっているんだろう。実際俺にとって、電話の相手は同等の脅威だ。

「……トンビ」

「ハ、ハハハ! 覚えてくれたのか? おいおいおいおい、嬉しくて涙が出てきちまうなぁ、兄弟。なんなら俺も昔みてぇに名前で呼んでくれよ」

 電話口の相手が話す度に、頭の奥深くに仕舞い込んでいた記憶が放出されていく。自分の持っている受話器が、みしみしと呻き声のような音を立てた。

「返事もなしとは冷てぇな、せっかくの再会だってのに。まさか電話越しの挨拶だけでさようならなんて、寂しいことは言わねぇよな?」

「今、どこにいる」

 自然と唸るような声になってしまい、電話口のトンビはケラケラと笑った。

「そうカリカリした声を出すんじゃねぇよ。女子高生を侍らせて、楽しい人生送ってる男がよ」

 奥歯に力が入った。一体奴は、どこまで俺のことを把握しているのか。

 名前こそ出していないが、女子高生ということは恐らく清子くんのことだろう。それを突いてきたということは、一種の脅しに近い。

「とりあえず、諸々の話は実際に会ってじっくり話そうや」

「今からか? これから世間は夕飯時だってのに。常識のない奴だな、おい」

「まあ、今日はそちらもお疲れだろうよ。明日にでも改めて再会を祝すってのはどうだ?」

 意外と聞き分けの良い答えが返ってくる。しかし、俺に決定権はなく、向こうの指定で「明日の夕方五時、二つ隣の駅にある公園を待ち合わせ」と決められてしまった。

 そこはソフトボールができる程度の広場がある寂れた公園で、近くには墓場、裏には手のつけられていない山があるらしい。おかげで公園なのに人が寄り付くことはほとんどないそうだ。

 俺達のような人間が人目を避けて会いたい時には、絶好の機会だというわけだ。

「もし、指定の時間までに来なかったらどうする?」

「人質がないと動けないって言うならいいぜ。今からでもすぐ用意してやるさ」

「聞いてみただけだ。絶対に関係ない奴を巻き込もうとするなよ。もしやるならツケを払うつもりで手を出すんだな」

「へっ、おっかねぇなぁ。調子出てきたんじゃねぇか? 楽しみになってきたぜ」

 歓喜の声を残して、トンビは電話を切った。それに一安心した俺は、ため息をつきながら受話器を置いた。見れば、手に痕が付くほど受話器を握り締めていたらしい。

 せっかく、今のこの賑やかな生活を前向きに受け取ろうとしていたのに。

 待ち合わせ時刻は夕方。それまでに自分が準備しておくべきことは何だろうかと頭を捻る。でも、考えることが多すぎて全然まとまらなかった。むしろ頭は、その現実から逃げるかのように、睡眠を要求してくる。

 そんな場合ではないと思ったが、精神的にも疲れ切っている時に、いくら頭を悩ませても、何も答えは出ないだろう。思い直した俺は、すぐに小さな寝室のベッドへと向かう。

『くがぁ……明日はぁ、たくさん飯をよこせよ羽村ぁ』

 ケージの中で眠るぽんすけが、しょうもない寝言を言っている。いつもならカチンと来るが、今は無性に愛おしく見える。

 安心したせいか、はたまた思っていたより疲労困憊だったのか。俺はベッドに倒れ込むと、気絶するように眠りに身を委ねた。



 まず目に入ってきたのは、やや古ぼけた家が立ち並ぶ風景だ。

 自然の姿をまだ色濃く残しつつも、広く見ればあちこちに人の手が加わり始めている。いよいよ近代化が進み始めた土地が、そこには広がっていた。

 これは、おおよそ二〇年以上前の風景だ。土地の名前も、周囲に住む人の名前も知らないが、自分にとってここがどういうところかはわかる。

 一人の少年が、俺の前を走り去っていった。彼は嬉しそうに自分の家へと入り込んでいく。中古で買ったやや古めかしい木造の一軒家だ。表札はぼやけて見えない。

 ドアノブを捻ると、簡単に玄関が開いた。意外と融通が利くんだなと俺は苦笑いする。

 中に入ってまず聞こえてきたのは、人の頬を思いっきり張った音と、誰かが倒れる音だった。無意識に頬を抑えながら向かった先では、さっきの少年が尻餅をついて倒れていた。

 そこは食卓のようだった。目の部分に影ができて顔立ちがわからない人達が、机を囲んで少年を見下ろしている。平手打ちをしたのは母親らしき人物だった。

 母親の目付きはわからなかったが、そこには汚らわしいものを目の当たりにしたような、軽蔑の意志が感じ取れた。もっとも、相手の本心など俺にはわかりはしないが。

「二度とそんな馬鹿なことを触れ回らないで!」

 少年は頷くことしかできず、そっと食卓から離れて自分の部屋へと戻っていった。肩で息をする母親の後ろで、父親らしき人間は新聞を読んでいた。興味がないのか、呆れ返っているのか。

 表情は読めないが感情は伺い知れる人間達がいる食卓を後にして、俺は少年の部屋へと向かう。迷わず二階へと移動した俺は、遠慮なく引き戸を開ける。

 部屋の中では、幼子に縋り付かれている少年がいた。ようやく立って話せるようになったくらいの年で、何を訴えたいのかはよくわからない。

 その横では、勉強机に向かう少年以上青年未満の男子がいた。学生らしく、ひたすらノートに向かうその姿はとても生真面目で、しかし病的にも見えた。

 どちらも目には影ができていて、やはり顔はわからなかった。でも、少年がどちらのことも嫌いであることは知っている。

 少年は、押し退けても縋ってくる幼子を叩こうとした。すると、青年がすぐさま割って入って、少年の振り上げた腕を掴む。そしてそのまま、容赦なく少年のことを壁に押し付けた。

「うるさい、一々八つ当たりするな」

 打ち付けられた肩を抑えつつ、少年は半泣きで部屋の外へと飛び出した。右肩を回しながら、俺はゆっくりとその後を追う。

 どこに行くかは、やはり俺にはわかってしまう。そう思いながら玄関の扉を開けると、その先は森の中だった。

 鬱蒼と生い茂る木々を軽く見渡してから、俺は右手で後頭部を意味もなくぐっと掴んだ。それから、引き寄せられるかのように歩みだす。

 今日の夢は、とても長くなりそうだ。

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