本編終了後掌編
夏特別編『夏祭りですよ、羽村さん』
珍しく、俺は鏡とじっくり睨み合っていた。
灰色のシンプルな浴衣に身を包んだ自分が、冴えない顔をしている。人生で初めて着た浴衣は、不思議な着心地だった。ワイシャツにチノパンという、ピッチリとしたものを普段着ている俺としては、どこか余裕のある感覚があって落ち着かない。
もしかして、腰紐の結び方が緩かったのだろうか。指南書通りに手順は踏んだし、見た目はちゃんとしているけど、なんか今にも解けそうな気がする。
試しに寝室から事務所の応接間を駆け抜けてみた。それなりに広いし、物もほとんどないので、暴れるには丁度良い。がに股で跳ねるとか変な動きも取り入れてみたが、浴衣は特に乱れなかったし、ちゃんと着こなせているのだろうか。
『カタカタうっせぇぞ
でも下駄の甲高い音が響き、早速同居者から苦情の声があがった。俺は無駄に動くのをやめて、寝室に戻った。
「すいませんでしたね、やかましくて」
『んあぁ? なんかいつもと雰囲気が違うじゃねぇかよぉ。毛の色が違うっていうかさぁ』
ケージの中で俺を睨むハムスターは、鉄格子に掴まって訝しげにこちらを眺める。
「これは浴衣って言うんだよ。さっき言ったけど、今日の夕方は神社の夏祭りに誘われたから、これから出かけるの」
『そのナツマツリって奴に、それは必要なのかぁ?』
「いや、そういうわけじゃないけど、成り行きで。ところでお前はまた留守番だけど、大丈夫か?」
『任せとけよぉ、静かに寝てるからよぉ』
それは大丈夫な留守番とは言わない。まあ、ハムスターに本気で留守を任せるつもりはないけど。
カラスなどが入ってこないように窓を完全に閉め、室温が上がりすぎないように空調をかけた俺は、慣れない下駄に翻弄されつつ家を出た。
それにしても祭りなんて遠目で見るくらいだった俺が、浴衣を着て参加することになろうとは。去年までなら想像できなかっただろうな……。
海、山、温泉、そして別荘……。
達、というのは俺が経営する害獣駆除の事務所が入っているビルで暮らす面子のことだ。大家の孫の冷蔵庫くん、もとい
一〇も年の離れた少女達の旅行に付き添うのも気が引けたし、何より俺にとって冷蔵庫くんと黒木田さんの二人は、不快感か不幸を振り撒く厄災そのものだったので、旅行の仲間としては相性最悪だ。さりとて、俺だけ連れて行けなんておこがましい。
だから俺は、今回の夏も変わらない日々を過ごすつもりだった。一ヶ月に来るか来ないかの依頼を事務所で待ち望みつつ、同居するハムスターと適当に声を掛け合う。
こういう時、自分の動物と会話する能力にささやかなありがたみを感じる。ハムスターとの退屈な言葉の投げ合いに飽きれば、外に出て野良猫の集会に耳を立てたり、カラスの噂話を聞いたり、会話にはいろんな意味で事欠かない。
そう、今年の夏も、例年通り惰性で過ぎていくはずだった。
「今月の始まりに神社のお祭りがあるんですけど、一緒に行きましょう!」
夏休みの始め、海水浴の土産を持ってきた清子くんにそう誘われたのが事の始まりだ。
賑やかなのはちょっと、と今回もやんわり断りを入れようとしたが今回は事情が違った。何故なら、彼女達が声をかけたのは義理やお情けではなく、ちゃんとした目的があったのである。
一体何が目的なのかと言えば、俺のこの扱いを見てもらえば、言わずともわかってくれるだろう。
「ほい羽村さん、このあげぱん持ってて」
「すいませーん羽村さん。この今川焼きをちょっとお願いします」
タコ焼きの箱やリンゴ飴の袋を持たされていた俺の手に、また祭りの買い物が追加されていく。清子くんには遠慮があったが、草川さんはさも当然のように置いていくので、俺は愛想笑いするしかなかった。
……というわけで今の俺は、凄まじい人混みから少し離れ、神社の大木の近くでずっと突っ立っている。三人娘の荷物持ちとして。
買った品を俺に任せて、さっさと行ってしまった二人を見送ると、今度は別に聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
「いやぁ、着いた着いた。羽村の旦那が居ると、アタシみたいなチビがはぐれなくて済んで助かるっすねぇ。良い仕事してますよ、旦那ァ!」
「うごっ」
小学生並の体躯しかない椿さんが、俺の背後で飛び跳ねたかと思うと、何か大きな荷物を俺に背中に乗せてきた。
……今回、俺が呼ばれた一番の理由は、椿さんにあった。背の低い椿さんは、いつも祭りで仲間とはぐれたり、せっかく買ったものを人混みで潰されたりして大変な思いをしていたという。何度も携帯をかけるのも手間らしい。
そこで、比較的背の高い俺に目印となって欲しいと呼び声がかかり、俺は荷物持ちにして三人の目印となった。
一応、お祭りグルメを何か奢って貰うことを条件としてもらったので、この程度苦ではない。ただ、少しだけ心が寂しいというだけだ。
しかし、カカシ同然の俺がどういうわけか、あれよあれよと浴衣まで着る羽目になった理由だけはよくわからない。そんな疑問をふと口にすると、椿さんはにかっと笑いながら答えた。
「旦那、周りを見てご覧なさいよ。こんな所にスーツ姿で立ってたら、雰囲気ぶち壊しだったと思いますぜ」
「むしろ、スーツで目立った方が、目印としては良かったと思うんだけども」
ちなみにこの浴衣は、椿さんの実家で働く老執事さんのお古だ。借りるだけのつもりが、もう使わないし捨てるくらいなら……と、半ば無理矢理押し付けられ、今では俺の所有物である。
正直、当面着ることはないと思うし、下手すると二度と着ないまま終わるかもしれないので、どう扱おうか困っているんだけど。
「いやいやいやいや、世間体を考えてみなさいな旦那。会社帰りで疲れたオッサンに荷物持ちやらせてる女子高生なんて、白い目で見られたくはないっしょ?」
「えっ、俺普段そんな風に見えてるの?」
「まあ、うら若き浴衣三人娘が、逆に恐縮しちゃいそうなくらいには、ねぇ」
衝撃的な事実を告げられ、俺は落ち込んで俯く。すると、背中に放られた荷物が俺に伸し掛かってきた。
「ところで、微妙に鬱陶しいデカさなんだけど、背中に何を乗せたんだね?」
「ああ、ワタシが射的で勝ち取った巨大ヒグマちゃんのぬいぐるみっす。屋台の親父に勝った証でございやすよ!」
いやこれ、絶対俺を困らせるために取ってきたでしょ。という疑念を口にする前に、椿さんはまた人混みに潰されながら消えていった。絶対また面倒くさいものを探しに行ったのだ。はぐれたくないんじゃなかったのか、貴様。
まあ、終わったら好きなものをいくらか頼んで奢ってくれる約束だし、疑問を感じても口にはしない。
……学生に交換条件を突きつける自分が情けなく思えてきた。いや、冷静になるんだ、俺よ。相手の椿さんは大金持ち、遠慮なんてしてやる必要があるもんかよ。
しばらく、特に何も考えずにぼーっと神社の風景を眺めていたら、見知った顔が人混みを掻き分けてくるのが見えた。銀縁の眼鏡に紺色の浴衣姿、大家の孫の冷血男、冷蔵庫くんだった。
「あっ! お前なんでこんな所に! しかもその浴衣と大量の買い物はなんだ!」
そして、俺の存在を見つけるや否や、鬱陶しいテンションで絡んできたので、俺は相応の対応をしてやることにする。
「おや、お一人様ですか?」
「やかましいわ! 祭りの手伝いをしてたんだよ!」
冷蔵庫くんの祖父は、俺の事務所が入っているビルの大家にして、町内会の中心人物である。そのくせ椿さんには遠く及ばないが小金を貯めてきたようで、老後を満喫しようと海外を飛び回ったり、国内の温泉を巡ったりしているので、普段はほとんど家に居ない。
そこで孫の冷蔵庫くんが町内の雑事を任されたり、手伝わされたりすることがしばしばある。普段からビルの一階で、爺さんが道楽で経営する輸入雑貨店の店番までやらされているだけに、少し気の毒に思う。
これで心温かい性格であれば、心底同情できたんだけど。
「って、そういうお前はお一人様じゃないのか……って、まさかっ」
「一応、女子高生三人組の荷物持ちを任されてるから、団体様の一員ではある」
まあこうして突っ立ってるとすごい孤独だけどな!
「き、清子さんが来ているのか! しかも、ゆ、浴衣を着て?」
「そりゃ、浴衣に縁のない奴のためにわざわざ用意するくらいの人達だし、みんな着てたけどさ」
そう答えると、冷蔵庫くんは返事もせずに踵を返し、混雑の中に飛び込んだ。
「おいおいおい冷蔵庫くん、急にどうした」
「天女を探しに行く!」
わけのわからない発言を残して、冷蔵庫くんは人混みに飲まれて消えていく。ここで待っていれば、お目当ての清子くんがいずれ来るだろうに……まあ、アイツと並んで時を過ごすという地獄は味わいたくないから、好都合だったけど。
ほっとしていると、噂をすればなんとやら、清子くんがこちらに戻ってきたではないか。なんとタイミングの悪すぎる、悲しきすれ違いだった。
「青年よ、強く生きろ」
「え、ど、どうかしたんですか?」
同情のあまり出た独り言を、清子くんに聞かれた俺は、空咳でごまかした。
「清子くんこそ。草川さんと椿さんが居ないけど」
「
と言って、清子くんは俺に持たせていたりんご飴に手を付け、代わりに鯛焼きの入ったビニール袋を持たされる。清子くんまでなんか遠慮なくなってないか。
「その、今回は羽村さんを強引に連れ出してしまいました。人混みとかがお嫌いなのは承知していますけど、やっぱりみんなで何か思い出が作りたいなって」
「どうも出不精に旅行って気が重くて。まあ冷蔵庫くんと黒木田さんは一緒に行ったんだし、充分じゃないかね」
「それで三人で相談したら、科子ちゃんが、何か羽村さんを必要とする理由を作れば、来てくれるんじゃないかって。伊智子ちゃんが人混みで迷いやすいのは、本当に困っていましたし」
どうやら、草川さんにまんまと乗せられたらしい。顔を合わせた回数は指折り数えられる程度だけど、いろいろ見透かされているな、と俺は少し恐怖する。
それから清子くんは、この間はできなかった旅行の思い出話をしてくれた。同行した冷蔵庫くんや黒木田さんがどんな風だったのか、少し気になっていたので、暇潰しには丁度良かった。
海に行った時の話を楽しく聞かせて貰っていた時、足元を何かが通過する気配を感じた。すぐ下を見ると、毛並みの悪い三毛猫が、フランクフルトを咥えて木陰に隠れようとしているところだった。
「そいつは人間の食べ物だ、猫が食べたら身体壊しちまうぞ」
清子くんの話をさりげなく止めた俺は、隠れて盗品を食べる野良猫に声をかけた。猫は一瞬毛を逆立てて怒ったが、俺のことを知っているのか、顔を見た途端鼻で笑った。
『うるせぇ、食えなくて死ぬよりはマシだ』
野良猫は、俺の忠告を聞かずに、さらに力強く齧り付いている。一体どうやって盗んだのかは知らないけど、これは恐らく常習犯だろう。
「人間に目をつけられたら、病気でコロリと死ぬ前に、人間に捕まって殺される。程々にしておけよ」
『フン、人間はどいつもこいつもトロ臭ぇんだよ。ぼーっとしてるとお前も貰っちまうぞ』
脅された俺は、思わず身を縮こませて荷物を守る姿勢を取った。
「猫さん、食べ物を離してくれませんね……」
「人間と同じで、聞かん坊はいくらだって居るさ。無理強いなんてできないよ」
健康と今を天秤にかけて、コイツは今を取ったってだけのことだ。まあ、大体の野良はその日暮らしだから、仕方ないことなんだけど。
「清子くんは、自分の手が届く範囲で気をつければいい。ベンとフォンの食事に気をつけるとか」
「……はい、これからもちゃんと気をつけようと思います」
茂みの奥に消えていく野良猫を見送りながら、清子くんは深く頷いた。
「って、こんなクソ真面目な話、無粋だからやめやめ。それよりも清子くんは、俺の荷物を少しでも減らせるよう、戦利品の消費活動を頑張ってくれたまえ」
と、柄にもない雰囲気を自らぶち壊して、俺は行動を制限する荷物の始末を薦めた。
「あ、せっかくだから、買ってきた鯛焼き食べません? 私はちょっと食べ過ぎちゃったので」
食べていいなら貰おうか、と言清子くんに鯛焼きの袋を渡し、俺は四苦八苦の末に荷物を整理して右手をフリーにする。そして一匹渡された俺は、重たい右手でゆっくりと口まで運んだ。
前に食べたのはいつだったか、なんて考えつつ味わっていると、こちらに向かってくる人影が見えた。草川さんと、彼女に手を引かれた椿さんと……。
「く、黒木田さん……」
「こんばんわー、お祭り楽しんでますかー?」
美味しく味わっていた鯛焼きが、不幸のオーラで味が曇った気がしたが、流石に気のせいだろう。
よく見ると、黒木田さんの両手は、無数の水ヨーヨーで埋まっていた。どういうことなのか伺っていると、同じく水ヨーヨーをたくさん掴んでいた椿さんが、少し不貞腐れたように説明する。
「せっかくワタシが大活躍してたのに、黒木田さんが横から参戦して全部取っちゃったんすよ」
「商売にならないって、最後は店の親父さんにアタシもまとめて追い出されちゃって。それにしても黒木田さんの手捌き、プロか何かですか……?」
訝しげに問いかける草川さんに、黒木田さんはいつも通り朗らかな返事をした。
「偶然ですよー。昔お婆ちゃんに教わってた時はー、全然取れなくて泣きついてましたからー。その後お婆ちゃんが全部取ってくれたのが懐かしいですー!」
結局血筋に負けたんかい、とガッカリする椿さんだったが、すぐ気を取り直して、俺に水ヨーヨーを差し出してきた。
「っつーことで、旦那の出番ですぜ」
「ん? まさかその水ヨーヨー、全部持ってろっていうつもりか?」
ジャグラーの道具か何かと見紛う程の数に、俺は圧倒された。しかもまだ鯛焼き食べてるのに、それをやめて荷物を持てだなんて、あんまりではないか。
「流石に羽村さん一人じゃ無理ですよー。私が持ちますー」
と、椿さんから受け取った瞬間、黒木田さんがよろけた。一瞬だったが、彼女の足元を走り抜ける猫の姿が見えた。
さっきのアイツか、と確認する間もなく、黒木田さんが俺に向かって前のめりで倒れてきた。
同時に、彼女が思わず振り下ろした手から、無数の水ヨーヨーが俺に打ち下ろされた。
水ヨーヨーが連なって俺に襲いかかってくる光景を、俺は一生忘れることはないだろう。
『風邪ってよぉ、夏にはほとんど無ぇんじゃなかったのかぁ?』
翌日、俺は夏風邪で寝込んでいた。
破裂した水ヨーヨーの汚い水を一身に浴びて、浴衣も鯛焼きも台無しにされ、あげく体調までダメにされてしまった。
ちなみに転倒した黒木田さんは、すぐに気付いた草川さんに抱きかかえられ、打撲も捻挫もなく、そして倒れもせず完全に無事だった。
「大丈夫ですか? なんか、その、ごめんなさい」
見舞いに来た清子くんが申し訳なさそうに謝りながら、夏風邪用に作ったポタージュを置いてくれる。
そんな彼女を見て、俺は少しヤケクソ混じりで、思い切り笑い飛ばした。
「まあ、俺らしい思い出になったよ。こういうックシィン!」
情けないクシャミが、事務所中に轟いた。
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