後編『清子先生のお料理教室』
こんなに買い物らしい買い物をしたのはいつ以来だろう?
財布の中が一気に寂しくなったのはゾッとしたが、その分の買い物は出来たはずだと、思いたい。
「教えるためとは言っても、ちょっと恥ずかしかったです。なんだかすごい疲れました」
ああ、そっちでしたか、どの道すまんこってす。
「野菜があんなに安いとは思わなかった。値段に釣られて生で食べようとしたことはあったけど」
「ふぅ、今回はあまり野菜を買わなくてよかったです」
清子くんの一言を聞いて、俺はふと買い物袋を覗き込む。玉ねぎとニンジン、そしてもやしの袋詰めなどが見えるが、確かにそれほど野菜は買い込んでいないようだ。
「料理をよく知らない人が、いきなり闇雲に買い込んでも食材をダメにするだけです。特に、すぐ物を片付けられない人は信用出来ません」
「うごふっ」
ぐうの音も出ないご指摘に、俺はお腹を抑えた。
「さてと、へばってなんかいられません! 次は最低限のお料理を教えていきますからね、覚悟してください
ちょっとくらい休んでからでもいいんじゃないかね、と俺が言う前に、清子くんは料理用のエプロンを取り出した。
そして買い物袋の中身を確認しつつ、リュックから料理本やらメモやらいろいろ取り出して、机に並べ始めた。
実の所、俺自身まったく自炊の経験がないわけではない。が、今まで自分の料理を美味いと思ったことは一度もなく、面倒に思うようになって投げてしまった記憶がある。もう遠い昔、他人に食わせた時なんて「毒薬でも研究してるのか」と酷評されたこともあったっけ。
こうして加工食品に頼るようになって幾年が過ぎ、俺の頭からは自炊という選択肢が抜け落ちて消えてしまった。果たして、そんな俺がいきなりまともな料理が作れるのだろうか。
が、張り切る清子くんを前にして、今更それを口にするのは憚られた。せめて、彼女の頑張りを無駄にしないよう、出来ないなりに頑張るしかない。
「じゃあ今日は、目玉焼きともやし炒めを教えます。簡単ですしお金が大変な時に頼りになるはずですから」
「はい、お願いします、先生!」
俺は、意識して背筋を正した。
台所に立った清子くんは、とても頼もしく見えた。買い物の時も迷いなく商品を選んでいたけど、今はいつにもまして自信に満ち溢れている気がする。
恐らく小さい頃からずっと料理を練習してきて、家事にたくさん貢献しているんだろうなと思う。
「まずは、目玉焼きからにしましょう。フライパンとその蓋に、あとフライ返しと菜箸を持ってきてください」
と、清子くんは机から食材や道具を持ち出しながら俺に指示をした。俺がすぐに一式を用意すると、慣れた手付きでフライパンをコンロの火にかけていく。元はと言えばこれは清子くんがくれたものだし、手に馴染んでいるのだろう。
「フライパンを温めている間に、次はクッキングタオルに油を染み込ませます」
と言って清子くんは小さなティッシュペーパーみたいな箱を開封し、中から紙を一枚だけ取り出した。そして摘めるようなサイズまで折ると、小さな器の中に少量の油を注ぎ、紙を菜箸で掴んで中に軽く突っ込んだ。
「フライパンが程よく温まったら、油を染み込ませたクッキングペーパーで塗るみたいに広げていって」
「えっ!」
俺が思わず驚いて声をあげたせいか、清子くんも「ひゃっ」と声をあげて肩を竦ませた。
「どうしました?」
「紙とか燃えたりしないの? しかも油まで付けて」
「そこからですか……直接火に焚べたりとか限りは大丈夫です。あまり時間をかけすぎずにやってください」
と言いながら、油をフライパンに広げていく清子くんの手先を見て、俺は思わず感嘆の声をあげてしまった。まるで絵の具でも混ぜているような鮮やかな手並み、これはもしかして家庭科ではなく美術の授業なのでは。
「適度に油を広げたら、卵を割ります。卵を割る時は力を入れすぎないで、軽くドアをノックするみたいに、それで力が足りなければ少しずつ強くして」
説明しつつ清子くんが卵を三回ノックすると、卵が割れた音が聞こえた。見れば中身は出ない程度に殻だけに亀裂だけ走っているではないか。
「心配ならもう一つ器を用意して、卵だけ出しておきましょう。もし殻が入ってしまっても、この時点で取り除けます」
言葉通り器に卵を入れた清子くんは、それをフライパンの中心でゆっくり傾けて投入する。フライパンの中で透明だった液体状の白身が、文字通り白く変色しながら固まっていく。
それを全て見届ける前に、清子くんはフライパンに蓋をする。窓が付いているおかげで、ぼやけてはいるが、なんとなく中の状況がわかるようになっているみたいだ。
油が弾ける音が、見事に俺の食欲をそそってきやがる。思わず蓋に手が伸びてしまうが、清子くんはすかさず制止した。
「ダメですよ、ちゃんと二、三分程度待ってからです。あまり固めすぎてはいけません。目玉焼きは半熟が丁度いいんです。あ、待ってる間にお米を研ぎましょう。炊飯器の使い方も教えますね」
清子くんは、目玉焼きを一旦放置して米を用意してきた。まさかうちで米を自ら炊く日がやってくるとは、夢にも思わなかった。
それから米の計量の仕方、研ぎ方をざっくりと教わると、それを自分でやっておくように言われたので、俺は言う通りに米を研ぎ始める。冬場の水仕事が辛いのはこういうところもあるんだろうな。
「そろそろいいかな……はい、これで目玉焼きの完成です」
と、清子くんがフライパンの蓋を開け、フライ返しで目玉焼きを皿に乗せているところだった。もう出来上がったのかと、俺は米研ぎの手を止めてそれを見に行く。
思わず感動のため息が漏れた。
俺がイメージしていた目玉焼きは、漠然と言うといかにも焼けてるものだった。しかし清子くんの作った半熟目玉焼きはそれとはまるで違う。すぐにでも齧り付きたくなる弾力感は、一つの芸術品のようにすら見えた。
ちょっと大袈裟な感動に打ち震えている俺に、清子くんは笑顔で箸を差し出した。
「食べてみてください」
「あ、いただきます」
米ぬかで汚れた手を軽く洗い流し、俺が箸で黄身に切り込みを入れると、まるで運河が出来上がる過程を見ているかのように、中身が流れ出ていった。
ああ、なんて美しい料理だろう。食べてしまうのが勿体無い……なんてことはなく、俺は礼儀作法もクソもなく目玉焼きに齧りついた。
「ふぁー」
「ど、どうしました? 変な声出して」
「いや、なんか美味しすぎて力抜けそうになっちゃって」
「は、はぁ……。じゃあこれからは、ご自分で作って感動できるようにしてください。次は羽村さんご自身にも作って貰いますよ」
俺は、その言葉に対し、ぼーっと天を仰ぎながら、本音をつぶやく。
「……自信ない」
「情けないこと言わないでください! ご自分でなんとかしてもらうようにしたんですからね。さあ、今日はもやし炒めも教えたいですし、お昼時もとっくに過ぎてますからとにかく時間がありません。テキパキとやりましょう!」
我ながら情けなく肩を竦めつつ、俺は本格的に清子くんからの指導を受けることとなった。
■
あっという間に夕暮れ時となり、清子くんが帰る時間になった。
目玉焼きともやし炒めの作り方、お米の炊き方、トーストの焼き方……。
覚えるべきことをあれこれと詰め込まれたので、久々に頭がパンクしそうだ。でもおかげで、目玉焼きともやし炒めは一人で作れる自信はついた。米炊きとトーストはまだ不安だが、清子くんのメモさえあればきっと思い出せる。
たくさん練習したおかげで、今日の昼飯は久々にボリューム満点だった。しかしこれだけ作って地元の一杯五〇〇円ラーメンより経費が安いなんて。
「まあ、実際の経費と見合うかは、俺の自炊の上手い下手にかかってるけど」
「料理は科学という言葉もあります。手順と火加減さえ守れば出来ないはずはありません。頑張ってください」
そうやって逆にぐーんとハードル下げられてしまうと、むしろ不安で仕方なくなるのですが。いや、教わったことをちゃんとやったら作れたんだし、あんまり卑屈になるのも良くないか。
「ま、これなら最悪、毎日目玉焼きかもやし炒めで生きていける」
「今は仕方ないですけど、なるべくバランスの良い食生活を目指してください」
偏った食生活はもう許さないと釘を差され、俺は萎れたように脱力した。
やがて、帰り支度を整えた清子くんを、ビルの外まで見送りに行く。疲れてぶっ倒れてしまいたいところだが、それでは恩知らずもいいところだ。そういえばちゃんとお礼も言ってないし。
「今日はありがとう清子くん。わざわざこんな時間まで付き合ってもらって」
「全然構いませんよ。むしろ羽村さんがこの間みたいに体調崩して倒れてしまうほうが、よっぽど心配になりますから」
なんて痛い所を突かれているうちに、すぐビルの出入り口に着く。
外を見上げると、まだ夕陽がはっきりと見えるくらいには明るかった。しかし、本格的な夏にはまだ遠いこの季節、恐らくあっという間に暗くなってしまうだろう。
「帰り道には十分気をつけてね。先生にはまだ教えて貰わないといけないでございますから」
「お気遣いありがとうございます。でも途中でバイト帰りの
早速メモを見ながら今日の夕飯を考えてみる。
いつもなら一日一食、下手すれば一口だった男の行動とは思えない。これまでは空腹を忘れるために寝ることさえあったのに。
今日教えられたことを物にするためにも目玉焼きかもやし炒めにでもするか。いや、安く買えたインスタントカレーを試してみるのも……。昼の米はまだ残っているし。
『なんか今日はいい匂いがすんなぁ、腹減ったなぁ』
ぽんすけの呑気な声が耳に入ってくる。調理したものはあげられないけど、たまには余った野菜とかをあげてみるのもいいか。今度また食べさせていいものを調べておこう。
って、なんで今から残飯処理のことを考えているのか、そうじゃなくてまずは自分の夕飯だろうが。
なんて頭を抱えている時間が勿体ない。ここは自分だけではできなかった半熟目玉焼きに挑戦してみることにしよう。調味料をかければ違う味が楽しめると清子先生も言っていたし。
決めたところで俺はコンロに火を付けて、フライパンに熱を通していく。鼻歌混じりに油と卵を用意しながら。
しかし、そんな鼻歌を邪魔するように、聞き慣れない甲高い音が響いてきた。
一体どこのどいつがこんな変な音を流しているんだ……と考えて、ふとその音の正体を思い出す。
「で、ででででで、電話だぁ!」
俺は反射的に走り出し、受話器を取った。これで依頼の電話じゃなかったらずっこけもいいところだったが。
「はい、はい、はい! では明日、事務所の方でお話をお伺い致しますので、毎度どうも……」
見えない客相手にヘコヘコと頭を下げながら、俺は受話器をゆっくりと置いた。久々に真っ当な依頼の電話だ。明日は久々に客がこの事務所へとやってくる。
後で掃除しなきゃなぁと思いつつ、俺はうきうきと台所へと戻る。
「いやぁ、良いことっていうのは続くもんだねぇ」
なんて、料理のド素人が浮かれた気分で台所に立ったのがよくなかった。
俺はうっかり手順を失念してフライパンにそのまま油を投入してしまったのだ。
「ってうぅおぉぉぉわああああ! 油がなんかヤバイ! ヤバイヤバイヤバイ!」
地獄の窯が顕現したと見紛うほどに油が音を立てて弾ける様を見た俺は、すっかりパニックを起こしてしまった。
■
穏やかな午後。
このフレーズから始まる光景と言えば、普通はどんなものを想像するだろう?
ラジオを楽しむ老婆、犬の散歩で振り回される女性、外食先で談笑する勤め人達……とまあ、俺ならそんな何気ない一幕をイメージする。
そんな穏やかな一時において、俺は事務所の床で正座させられていた。隣のソファーではなく、土足の人間が普通に歩く床で。
何も言ってくれない清子先生の睨んでいる先は、小さな我が家の台所。
火事だと騒ぎ立てる俺の声を聞きつけた冷蔵庫くんが、消化器をぶっかけた悲劇の跡地だった。
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