閑話三『お静かに、皆々さま』

 体調不良で寝込んでから、二日が過ぎた。

 大分楽にはなったけどまだ頭が重たい。これだけ寝込んだのはいつ以来か、やはりあの塩おかゆが悪い意味で効いたようだ。

 しかし朝は大食いハムスターが朝飯を大音量で催促してくる。どんなにしんどくても、これだけは飼い主となってしまった俺がやるしかない。

『なんかよぉ、昨日からお前のくれる飯あっちぃなぁ』

 申し訳ございませんお客様、何分体調がグズグズでして。

 そんなわけで朝っぱらから億劫な気持ちで一杯な俺は、朝から誰とも会いたくない気分で一杯だった。

 が、残念ながら朝っぱらから黒木田くろきださんが俺の様子を見にくる予定となっている。塩おかゆなる不健康食を持ち込んだ張本人に面倒を見られるというのも複雑だ。

 昔なら居留守を使って断っていたし、そうすりゃ黒木田さんも必要以上に干渉してはこなかった。しかし最近はどうにも状況が変わってしまった。清子きよこくんが通うようになり、事務所が以前よりもオープンな空間になったためだろうか。

 まず、平気で黒木田さんが訪ねてくるようになった。最近は俺のことを相棒呼ばわりしてきて、余計馴れ馴れしさが増している。確かに付き合いはこの町中じゃ長い方ではあるけど、そんな気安い仲になった覚えはない。

 そしてこれまでは家賃の催促以外顔も見せなかった冷蔵庫くんも、清子くんが来たと分かれば、鼻の下を伸ばしながらやってくる。最近は茶菓子まで出すようになったけど、うちは食事スペースじゃないんだぞ。

 それはいいとして、一番困ったのは黒木田さんの申し出を断りにくくなったことだ。看病の話だって断ったのに、「水臭い」の一言と、清子くんの「そんなこと言ってる場合ですか」というお叱りの言葉でゴリ押されてしまった。

 言われたとおり受け入れたのはいいが、案の定、黒木田さんと絡むとお馴染みのハプニングが巻き起こる。

 一番ひどかったのは昨日、黒木田さんが濡れタオルを交換しようとした時だ。鼻歌を歌いながらタンスで蹴躓き、そのまま俺の腹に全体重をかけたエルボーを叩き込んできた。

 いやはや、彼女は俺を看病しに来たのか抹殺しにきたのか、おかげで弱った食欲がさらに失せてしまった。

 このまま世話になっていたら、俺は黒木田さんの手で緩やかに殺されてしまうんじゃないかと不安が過る。

 ここがもう少し静かだった頃は、体調を崩したら数日寝込み、根性で治していたのに、と昔を懐かしんでしまう。

 重ね重ね言うようだが、黒木田さんは決して悪い人ではない。人に尊敬される技能だって持っている。ただ、俺が同じ星に生まれてはいけなかっただけだ。

「おはようございますー、お加減はいかがですかー?」

 噂をすればなんとやら、疫病神がやってきた。食欲が皆無と口を酸っぱくして言ったからか、食事は持ってきていないようだ。次はタバスコがゆかと覚悟していたから、助かった。

「ではではー、早速検温しますよー」

 黒木田さん、もしかしてこの状況を楽しんでいないか。

「熱下がりませんねー。やっぱりご飯食べないと身体も元気でないですよ?」

 昨日アンタからエルボー食らってなきゃもうちょっと食欲出してるよ、と言いたいところだが、わざとじゃないし、あくまで悪いのは神様なので怒るに怒れない。

「お水ここに置いておきますからね。そーっと、そーっと」

 何度もやらかしているからか、さしもの黒木田さんも過剰なまでに慎重になっている。って、そのわりにはコップ持ってる手元震え過ぎなんだけど!

「お、落ち着いて」

「は、はいー、大丈夫ですよー。フー、フー、深呼吸、スーハーヒーハー」

 冷静な顔で混乱するのやめてくれませんか。

 と、朝は珍しく何事も起こらず平和に終わった。

 ただ、心労のせいで身体の不調感は起きた時より悪化している気がする。結局どう転んでも被害は受ける宿命らしい。

 苦しみから逃れるには眠りに逃げるしかない、と俺は布団を深く被った。




「あれ、あれ? この冷蔵庫、電気付いてない! どうしよう、要冷蔵なのに」

「ま、冷蔵庫はあの人の天敵だからねー」

「伊(い)智子(ちこ)、礼(れい)蔵(ぞう)さんの前でそれ言うのだけはやめてよ。面倒くさいから」

 おかしい、うちの事務所で女の子達の賑やかな会話が聞こえる。悪夢を通り越してふしだらな夢でも見るようになったのか。

 真相を確かめるため、俺は寝室の扉を開け放つ。

「あ、すいません羽村はむらさん、起こしちゃいましたね」

 見ると、俺の事務所に清子くん、草川くさかわさん、椿つばきさんら三人娘が立っていた。黒木田さんめ、事務所の扉、鍵開けっ放しか?

「礼蔵さんから合鍵借りてきちゃいました」

「ああ、そういう……」

 ってそれはそれで問題だ。アイツ、いくら大家代理だからって人の許可なく入れてんじゃねぇぞ。

「って、羽村さん顔真っ赤ですよ! 寝ててください!」

 と、顔を出して早々清子くんに押し戻され、俺はまるで巻き戻しされたテープ映像みたいに、ベッドへ舞い戻った。すると、開いたままのドア越しから、うら若き少女達三人が顔を出す。

「うっわ、すごい狭い部屋。これ、何か二時間ドラマで見た気がする。なんだっけかな」

「独房」

「それだナッコ!」

 最近の女子高生は、人の部屋に入ってきて失礼千万なこと言うのが流行っているのだろうか。もう遺憾の意を表す気力もない。

「もう、二人とも、今日は羽村さんのお見舞いに来たんだから、疲れさせるようなこと言っちゃダメだよ」

 二人は苦笑いしながら「はいはい」と答えた。あの二人だけはお見舞いに来たのか俺を玩具にしにきたのかわかったもんじゃ……いや、絶対後者だ。

 などと脱力したら寒気が襲ってきたので、俺は掛け布団を深く被った。

「大丈夫ですか? ちゃんとご飯食べてるんですか?」

「いや、とてもとても」

 喋るのがしんどいので、どうしても短い言葉になる。

「きよちー、そうだろうと思って差し入れにコレ買ってきたじゃん。一つでも食べて貰えばどう?」

 俺は、横目で椿さんがビニールから取り出した商品を見る。キューインゼリーと書いてある。

「ワタシも食欲ない時はこれで済ませてるし」

「つくづく金持ちが喜んで買い漁るもんじゃないと思うんだけど」

「ナッコ、美味いものに値段や形は関係ないんだよ」

「アンタみたいなのが政治家やったら意外とウケるかもね。アタシは絶対投票しないけど」

 なんか話が勝手に進んでいるが、俺はキューインゼリーなるものを口に入れたことがない。所謂ゼリー飲料って奴で、吸って食べるものというのは当然知っているけど、高いし味がないイメージしかないので、自分で手を出したことがない。

 こんな状況だと、なんだか点滴を直に吸っているようなイメージしか湧いてこなかった。

「あ、ちょっと嫌そうな顔してやがりますなこの人。差し入れにケチ付けるのは感心しませんですぞ、旦那」

 椿さんが良い遊びを見つけたとばかりにグイグイと俺にゼリー飲料を押し付けてくる。この断りづらい感じ、黒木田さんの看病話の時と流れが似ている。

「嫌いなのか何なのかは知りませんけど、苦い処方薬じゃないんですから。大体、栄養失調で病院行って入院費毟り取られるのと、苦手でも食べないよりはマシと我慢するのと、どっちが賢い人生の生き方だと思います?」

 子供にでもわかるよね、という感じで草川さんに言われ、俺は反対する気も失せる。

「羽村さんが吐いちゃったりしたらむしろ大変なんじゃ……」

「普通ならアタシだってあんまり無理強いはしないよ。食欲ない時に食べても毒だからね。だけどこの人の場合、普段が栄養不足過ぎるでしょうが」

 指摘を受けた清子くんが頭を抑えて俯く。ちょっと何ですか、その地味に傷つく反応は。

「本気で無理っていうならやめますけど、こういうのも食べられないくらいしんどいんですか?」

「ほれほれー、美味しいっすよぉー」

 草川さんが俺に尋ねる後ろで、椿さんがちゃっかり一本開けていた。腰に手を当てて豪快に食す、いや飲み干していくその姿は、銭湯上がりにコーヒー牛乳を一本飲み干す下町の人間のようだ。アンタ本当に金持ちの令嬢なのか。

 しかし、そんな椿さんの幸せそうな顔を見ていると、じわじわと食欲が湧いてくるのを感じた。量もそんなに多そうじゃないし、吐くようなことはないはずだ。

「……じゃ、じゃあ」

 俺は布団から人差し指を立て、一本だけ試しに食べますと伝える。すると椿さんが食べかけの容器を咥えたまま、もう一本取り出して蓋を開けた。それを「オラァ!」と勢い良く俺の口にぶち込もうとしたところで、草川さんの手刀が入った。

「ぐぅ、後ろから攻撃とは卑怯な」

「病人を痛めつけようとする腐れ外道が言うな。バカはさておき、羽村さんが自分で食べられないなら手伝いますけど?」

 年頃の少女に食べさせて貰う光景を想像したらげんなりしたので、俺は手を震わせながら差し出して、自分で食べると意思表示する。

「無理しないでくださいね」

 心配してくれた清子くんに対し、俺は弱々しく親指を立てて返した。




 カラスの鳴き声がして目が覚める。窓を見ると空が赤く染まり始めていた。

 人の気配は感じない。寝ている間に清子くん達は帰ったようだが、ふと横目で枕元を見ると、書き置きが残されていた。

『差し入れは全部冷蔵庫に入れさせて頂きました。ゆっくり休んでくださいね』

 三人の名前入りのメモが、今はなんだか微笑ましい。

 独りでもなんとかしてたのに、なんて朝は意気込んでいたけど、なんだかんだ人の助けのおかげで元気が出た気がする。

 寝る前に頂いたキューインゼリーで栄養が取れたのもあって、朝よりも身体が楽になっている。ああいうのは軍人なんかが食べているレーションとかと同じものだと思っていたけど、侮れない。

 水分補給やトイレに起きるくらいなら、もう苦ではないだろう。まだ起き上がるだけで視界がブレる感覚があるので、無理は禁物だろうが。

 とりあえず水でも飲もうとした瞬間、事務所の玄関から扉をノックする音が聞こえた。応対しようとしたが、それより前に鍵がガチャリと開いた。

 顔を出したのは人間の方の冷蔵庫くんと、背の低い老婆……木崎きざきの婆さんだった。

「何、しに」

 その取り合わせはなんだと突っ込もうとしたが、体力が足りなくてそこまで言葉が出なかった。

「ジジィのついでに見舞いへ来てやったのさ。ったく、そんなフラフラな身体でウロウロしてると治らないよ」

 御老体の健康にまつわる言葉はズシンと重い。俺は水だけ補給して、いそいそとベッドへ戻る。

「まあ、こういうのが喉を通るなら上等さ」

「おのれ、清子さんからこんな見舞いの品まで。鍵開けるんじゃなかった……!」

 と、ゼリー飲料の空き容器をちらりと見る婆さんの背後から、殺気立った眼鏡男に睨まれたので、俺は布団を静かに、そしてさりげなく深く被った。

「ほれ、健康茶だ。愛用の奴をわざわざ持ってきてやったぞ」

 と、婆さんは小さな水筒を取り出すと、俺が水を飲んだ後のコップに注いだ。

 早く飲めということなのか、婆さんはこっちをじっと見てくる。仕方ないので、俺は渋々身体を起こし、コップに注がれたお茶をさっさと飲み干す。

 最初は特にこれといった味は感じなかった。そう、最初だけは……。

「どうだね」

「こ……れ、な……に?」

「自宅で作った漢方茶だ。健康の秘訣さ。ほれ、お前も飲んでみ」

 と促された冷蔵庫くんは、少し嫌そうな顔をしてから、水筒の蓋に注がれた漢方茶を飲んだ。一気に飲み干した後、彼の顔が一気に青くなる。

「げほっ! 草と土みたいな味がする!」

「アンタ、そんなもの食ったことあんのかい?」

「鼻を通る味がそんな感じなんだよ!」

「ふん、不健康な生活してる連中にゃぁ、不味く感じるんだろうね」

 と言いながら、婆さんは水筒から直接漢方茶を一気飲みした。体調最悪の俺は勿論、俺よりは健康であるはずの冷蔵庫までげっそりした顔になっていた。

「ま、せいぜい死なない程度に苦しんでおきな。そんで元気になったら、ちゃんと身体を鍛え直すんだね」

 病人で遊んで満足したのか、木崎の婆さんは高笑いをしながら事務所を後にした。冷蔵庫くんはまだ後味で苦しんでいるのか、口を抑えながら俺を睨む。

「くそ、お前なんかに構ってたらこの様だ! とっとと土に還れ、この社会不適合者がっ!」

 俺のせいかよ、と言い返したくても元気がない。なので陰気な笑みを返してやると、冷蔵庫くんはそのままドタドタとやかましく床を踏み鳴らしながら、事務所を出ていった。

 鍵が閉まる音がして、これでようやく静かになった……なんて安心した途端、俺の意識はまた吹っ飛んだ。




 健康第一、今回ほどその言葉の重みを深く噛み締めたことはない。

 その翌日も寝込んで苦しむ中、黒木田さんに濡れタオルを顔に叩き付けられるという大ハプニングこそ起きたが、俺は三日間の療養を経て復活した。

 ただ、あの漢方茶は俺のトラウマになってしまった。あの日以来、黒木田さんが漢方茶と青汁を混ぜた特性超スペシャルミラクル健康茶を作って現れる夢を、しばしば見るようになった。

 体調こそ戻ったけど、自分の悲鳴で夜中目が覚める日々が終わるのは、一体いつになることやら。

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