3-4『羽村さんの五〇メートル走』
選手宣誓には冷蔵庫くんの木崎の婆さんが代表として立っていた。隣に立つ婆さんは、背丈こそ椿さんとどっこいだが、足腰は年の割にしっかりしているように見える。
宣誓を終えた後、二人は握手をした。が、冷蔵庫くんの顔が即座に歪んだ。ざわめく参加者をよそに、握手を終えた婆さんは平然と自分のチームへと戻っていった。
後で彼に何があったか聞くと、あの老婆にすごい力で手を握られたという。
「情けないなぁ君は……冷蔵庫くんはやっぱ運動会って柄じゃないた痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
「これを平気で握り返してくる婆さんだぞ。僕の握力ですら半泣きのお前に笑われる筋合いはないな!」
そのまま手を握り潰されそうになった俺は、強引に振り解いた。これから健全に身体を動かそうという人間に対し、なんという仕打ちか。
「あの
「おっと、遅れるところだった。それじゃあ、行ってくる」
清子くんに促され、俺は冷蔵庫くんへの怒りはひとまず捨てて、いざ戦場へと赴く。
この運動会、先の通り個人と団体の二種類があり、それぞれの成績でポイントが加算される。個人競技であれば、所属選手がより多くの上位に入るほど、得点が多く入る仕組みになっている。俺はチームの勝ち負け次第で、生活が楽になるか苦しいままかが決まるので、他の参加者と俺とでは、やる気が段違いだ。
運動会を最後にやったのがいつかは、もう覚えていない。だが、そんな記憶なくとも、五〇メートル走でやるべきことは明瞭だ。
しかもこの運動会、身体の衰えを訴え始める中年から老年が多くを占めている。つまり、この身に若さが有り余っているはずの俺なら余裕で勝てる相手だ。
待機列で準備運動を軽くしていると、いよいよゼッケン番号の呼び出しがかかった。さあ、そんな本気で走る俺の相手は……。
「こりゃまた歯応えのなさそうな面子だね」
男性走者が揃う中、一人だけ背の低い老婆が立っている。よく見るとそれは
あれ、こういうのって、男女別じゃないの? 一応レーンの幅は広く開けられてはいるけど、これはその配慮なのかもしれない。流石は片田舎の学校、土地だけは広いからこそ出来る無駄遣いだ。こうまでするとは、プログラムを分けるのが面倒なのか?
「お婆さん、どこぞのジジィと病院でデートしたくなかったら、やめといたほうが良いんじゃないっすか?」
「あん? アンタ、あのクソジジィの知り合いか。無駄口叩くしか能がないなら、お家に帰ってテレビに野次でも飛ばしてた方が有意義だよ」
なるほど、面と向かって話してみるとその強烈さがよくわかる。俺の軽口など、風で飛んできたチリ紙が当たったくらいにしか感じていないようだ。
ちなみにうちの事務所にテレビはないので、婆さんの忠告は聞けない。
スターターピストルを持った男が、「位置について」と掛け声で合図をする。婆さんには気の毒だが、引導を渡すのも若者の役目だ。
ピストルの音とともに、走者が一斉に駆け出す。その瞬間、小さな老婆の背中が遠くに見えた。
「へっ? えっ?」
「遅いわ小童どもが!」
木崎の婆さんは、あっという間に並み居る男達を抜き去り、ダントツでトップに躍り出る。
五〇メートルはこんなに短いのに、婆さんの背中は遥か彼方のままだった。
正に一瞬、気づくと俺は他の面子にも次々と抜かされていた。
「……なんてことだ」
終わってみれば、俺は五人中四位という、散々な成績に終わった。愕然していると背後に気配を感じ、俺は振り返る。背の低い老婆が、不敵な笑みを浮かべながら、腕を組んでいた。
「おいヘナチョコ、デカイ口叩くならせめて私の後ろを走ることだね」
それだけ言うと、婆さんはカッカッカッと笑いながら、俺の前から去っていった。
「あんのハトムギババァ……!」
俺の口から、覚えたての罵倒文句が飛び出した。
戻ってくると、皆冷たい目で俺のことを見ていた。
「はぁ、予想以上に使えないな、お前は。声かけるんじゃなかった」
冷蔵庫くんには役立たず扱いされ、
「いくらなんでも四位って、本当にやる気あるんですか?」
「あの中で、旦那は一番若かったと思うんですけどねぇ、ウフフ」
「あー、次私ですねー。頑張ってきますよー」
「…………」
そして、清子くんには何も言ってもらえなかった。
穴があったら入りたいとはこのことだった。
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