閑話・掌編集

本編中掌編

特別掌編『羽村さんの一日』

 俺、羽村はむら正貴ただきの一日は、寝起きで決まると言っていい。

 良い夢を見ていればベッドの上で朝を迎えられるが、酷いと布団から落ちて床で寝ていることがある。酷い時なんて、床に突き立った状態だったことがある。

 今日は普通の朝だ。寝起きと共にベッドに頭を思いっきりぶつけてしまった。おかげで二度寝に誘われることはないが。



 身体を起こして軽く伸びをした後は、ぽんすけに朝飯をやる。毎回ぽんすけは食事量に文句を付ける。

『オイラに対する日頃の感謝はねぇのかよぉ。なんだかんだ手伝ってやってんのにさぁ』

「最近仕事もないし、義理もないじゃんか」

 交渉は出来る限り蹴るのだが、時折哀れっぽくされると情けが出ることもある。

 次は家主である俺の朝飯だ。懐が虫の息になっている時は、朝食が一日分の食事になってしまう。

 本日は、アンパンだ。昨日はスーパーで半額のカツサンドを狙っていたが、奥様方との争奪戦に負けた。こちとら貧乏人なりに命懸けだが、主婦層相手ではそれすら足元に及ばない。好きな人には悪いが、俺にとってアンパンとは敗者の味である。



 それからは、本業である害獣駆除の受付開始……と、一応設定している時間が始まる。その日に依頼された仕事があれば支度をするし、ない時はソファーに寝転んで依頼の電話を待つ。悲しいかな、大体はそのまま寝入っても問題ない日が多い。

 空気の通りを良くしようと窓に手をかけると、シャッターの音が聞こえてきた。家主の孫、冷蔵庫くんが店を開ける音だ。ここで窓を開けると溜まった家賃の催促をされるので、静かにしておく。

 俺と冷蔵庫くんが、笑顔で挨拶出来た日は一度もない。本当はれいぞうという名前だそうだが、礼儀とは程遠い性格をしている。血も涙も無い冷血動物には、冷蔵庫という名前の方がお似合いだ。

 そういえば家主の爺さんは、今頃どこを旅しているのだろうか。休みの日を店番で潰される冷蔵庫くんに、犬猿の仲な俺でも同情を禁じ得ない。



 気づけば一眠りしていた、という程、今日の昼は暇だった。目が覚めたのはサラリーマンが昼休憩を終えている時間だった。カロリーを使っていないので、昼飯は食べない。不健康極まりないのは承知だが、俺の口から石油が産出できない限り、景気対策として極端な節制をするしかないのだから。

 ぼーっとしていると、事務所の扉がノックされた。普通ならお客かと思うだろうが、俺の耳はごまかせない。その前に人が階段を降りる音が聞こえたからだ。

 それはつまり、上階で占い喫店を営むくろさんが訪ねてきたことを意味する。出来れば応対したくなかった。何せ、彼女と俺は運命的なレベルで相性が悪い。

 この間は新作ケーキの試食を頼まれ、空腹に負けて応じた。しかし徹夜で考えていた黒木田さんは寝惚けて分量を間違えていた。俺は味噌の味しかしないケーキという斬新な和風スイーツを食わされた。これがキッカケで、味噌を使ったケーキがあること知ったのはある意味収穫だったかもしれない。

 こんなミスをする癖に、店は隠れた名店として有名で、評判も良いらしい。いや、たぶんあの人は俺の時だけミスをするのだ。あるいは、わざと俺に嫌がらせをしているのかもしれない。

 本当に苦手だけど、仮にもご近所というか同じビルに住む者同士、無下にするわけにはいかない。腫れ物に触るような姿勢で、俺は扉を開ける。

「お忙しいところすいませーん。どうしてもジャムのビンが空かないんですー。羽村さーん、開けて頂けませんかー?」

 顔を真っ赤にして蓋を開けようとする黒木田さんを見て、俺は渋々折れた。ここで断ったら男が廃るし、冷蔵庫くんの耳に入れば、罵詈雑言のネタにされる。赤子の手を捻るように、俺はジャムの蓋を空け、彼女に返す。

「あ、ありが、と、う、ご、ざ、は、は、ハックシュン!」

 受け取った黒木田さんの手が、くしゃみの勢いで俺の顔面にジャム瓶を叩きつけてきた。

 人生の教訓として、俺は後世に伝えたい。鼻血とジャムは混ぜても美味しくないことを。



 ソファーの上に再び寝転んで休んでいると、また扉をノックする音がした。ぼーっとしていた俺は、特に何も考えずに応じる。扉の前には、犬の親子を連れた少女が目をギョッとさせながら立っていた。

「ど、どうしたんですか羽村さん! 顔に酷い痣が……」

「不幸な事故だよきよくん。そう、これは不幸な事故だ」

 黒木田さんのジャム瓶パンチの威力は凄まじく、顔にはくっきりと瓶口の跡が残っていた。取り返しの付かない怪我じゃないが、この顔で人前に出るのはやはり公序良俗的に、いや、世間体を考えると最悪なようだ。

「て、手当ては?」

「ああ、不幸の元凶が一通りやってくれたよ。無事に済んで良かった、本当に」

 たぶん、そう語る俺の目は死んでいたと思う。あんなに恐ろしく感じる看病が、今まであっただろうか。などとと、自分の不幸を嘆く前に、まずは客人を事務所にお通しするのが先だ。俺はとりあえず、キョトンとする彼女を招き入れた。



 客と言っても、清子くんは今やうちの非常勤助手である。しかし、今日は別に勤務日ではない。俺が世話を頼んだ、元野良犬の親子を見せに来たのだ。

『最近、フォンが俺の言うことを聞きやしない。清子が何を言ってるかはまだよくわからんが、アイツは親の俺よりも、清子に合わせたがる。何故だ』

 父犬であるベンは、俺にそう愚痴った。初対面の時は一触即発の事態にもなったが、今では独身の俺相手に、子育ての悩みを相談してくるまでになった。

 俺は、「清子くんへの態度も悪くなってから心配するといいよ」と、ためにならないアドバイスをした。

 動物の言葉がわかる俺に、親子の体調を確認して欲しいという清子くんの願いで、この習は始まった。今や俺は、本業の害獣駆除業務を忘れ、エセカウンセラーになりつつあった。

 それから、いつも清子くんは他愛のない話をする。ベンとフォンが家でどうしているかに始まり、俺も知っている彼女の友人二人と、あちこちへ遊びに行った話などなど。

 今日も清子くんは、自宅で作ったクッキーを持ってきてくれた。いつも悪いなーと思いつつ遠慮なく口にしたそれは、いつぞや誰かさんに食わされた海味のクッキーと違い、甘くて美味しかった。いや、あの人も本来はきっと美味しいものを作るんだろうけどもさ。

「失礼しまーす。羽村さーん、お加減はいかが……あ、清子ちゃんだー!」

 と、噂をすればなんとやら。黒木田さんが俺の様子を見にやってきた。清子くんを見て嬉しそうに手を合わせた黒木田さんは、今お茶を持ってきますねと笑顔で戻っていった。店の商売品をそんなホイホイ人に振る舞って良いのだろうか。それとも、ちゃっかり後で料金を請求されるのだろうか。

「はい、これは羽村さんへのお詫びです」

 と、俺はお詫びのハーブティーを渡される。施し、という言質を確認しつつ、俺は警戒して慎重に口を付けたが、今回は素直に美味しかった。流石、喫茶店経営者、しばしば俺に提供される破壊的な味は、あくまでも不運の産物なのだ。

 もしかすると、清子くんは俺の黒木田さんの絶望的な相性の悪さを中和しているのかもしれない。人間、誰が救いになるかわからないものだ。



 しばし三人でティータイムを楽しんでいると、下階から乱暴な足取りで人が登ってくるのが聞こえた。これはほぼ間違いなく、冷蔵庫くんだ。

「おい、滞納者! さっきの騒ぎは一体……って、なんだその面は!」

 眼鏡を抑えながら驚く彼に、俺は苦笑いしながら答える。

「まあこれにはいろいろと……」

「き、清子さん! 本日はお日柄もよく!」

 一瞬でも、俺を心配してくれる情が残っていたのか、と思った俺が馬鹿だった。

「よろしければ礼蔵さんもどうぞ、手作りのクッキーです」

「あ、あ、ありがたき幸せであります!」

 今にも号泣しそうな冷血青年を見て、俺は呆れを通り越し微笑ましい気持ちになった。

「はぁー、もう死んでもいい……」

「青年よ、ラッキーだな。君の背中には窓があるぞ」

「お、ま、え、に、言ってないんだよ……!」

 清子くんに聞こえないよう、精一杯ボリュームを下げた声で凄まれても、まったく堪えなかった。



 賑やかな時間はすぐに終わり、冷蔵庫くんは店番に戻り、黒木田さんは閉店の準備、清子くんは残ったクッキーを皆に配ってから帰っていった。ぽんすけが『オイラにも食わせろ』と言ったが、それはダメときっぱり断った。

「なんつーか、また騒がしい日だったな」

 鈍痛に顔を歪ませつつも、俺は今日という日を振り返った。今までは、冷蔵庫くんが家賃の催促にくるか、黒木田さんが災いを持ってくるかで、人が来るとろくなことにならないのが俺の毎日だった。しかし、清子くんが来てからそれは少しだけ変わっている。

「ちゃんと、お仕事として助手を呼べるようにしないとな」

 俺は、電話に手を合わせてから、事務所奥の手狭な寝室スペースへと戻る。

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