閑話二『さっぱりしよう、羽村さん』

 俺の事務所に、一台の最新式掃除機が置いてある。サイクロン式掃除機という、噂にしか聞いたことが無い家電製品だ。

 昔、うちにも電気で動く掃除機があった。しかし、掃除中うっかり落とした菓子パンの袋をうっかり吸い込み、壊れて粗大ごみとなった。

 以来うちは箒と塵取りという、掃除の原点に返った道具で、定期的に綺麗にしていた。普段することがないから、これだけで一日過ごすこともある。

 そんな昔話はいいとして、今俺の目の前には掃除機がある。しかしこれは俺の所有物ではないし、しかもうちを掃除するために持ち込まれたものでもない。

しなちゃん、大丈夫?」

「あのね、まだ見習いだからこそ、こうしてタダで出来るんだからね。適当な仕事をするつもりはないけど、羽村はむらのおじさんにも文句は言わせないよ、きよ

 俺は今、椅子に座り、マントのようなものを被らされている。くさかわさんはケープと呼んでいた。

「うーん、中年おじさんのテルテル坊主かー。ネットにあげても話題にはならないっすねー」

「寄ってたかって……人を平気な顔しておじさん呼ばわりしないでくれるかな!」

 スマートフォンを構える椿つばきさんを怒鳴りつけると、彼女はピーピーと口笛を吹きながら下がった。

「っていうか、なんで君まで居るの」

「本当はくろさんの所でハーブティ飲むつもりだったんすけどねぇ。お店がお休みだったので、暇潰しに散髪風景でも拝もうかと」

「面と向かって堂々と人を暇潰し扱いとは、良い度胸してるね君」

「おーっと旦那ぁ、あの掃除機持ってきてあげたの、誰だったかお忘れですかな? ムフフ」

 俺の事務所は、今だけ美容院に早変わりしていた。あの夕食会でわかったことだが、彼女は美容師の見習いなんだそうだ。実家が美容室をやっていて、小さい頃から両親に頼んで修行を付けて貰っていたらしい。

 そういえば初対面の時に感じたオシャレな印象は、職業柄が滲み出ていたからだというわけだ。

「ふ、二人とも、羽村さんの前で年齢の話はダメだよ……」

 忘れようとした頃に、清子くんが開いた傷口にわざわざ刃物をねじ込んできた。

「もう、おじさんだろうが、おじいさんだろうがどうでもいいでしょうが」

「いや、すごく大事だよそこ!」

「ああもう、グダグダ言わない! さっきも言ったけど、アタシだって雑な仕事をするつもりないし、伊達に鍛錬積んできたわけじゃないんだから。そんなに信用出来ないなら帰りますけど?」

「い、いえいえいえ、そんな信用出来ないなんてとんでもない!」

 と、口では言ったものの、正直どうなるか怖いというのが本音だ。

 まだ知り合って半年も経っていない清子くんとすら、ようやく最近腹を割って話そうという気が起きた所なのに、片手で数えられる程しか会ってない相手に全幅の信頼を寄せろ、というのは無理があるだろう。

 とは思いつつ、タダに弱い俺は、清子くんから話を通され、勢いで草川さんにお願いしてしまった。

 よく考えたら、商店街にある老舗の床屋にしか行ったことがない俺が、いきなり美容院なんて、まったくもって似合わない。

「これでも実地訓練はお姉ちゃんで十分やってきてるんだから」

「そ、そいつは安心ですなぁ。って、お姉ちゃんで実験してるの?」

「人聞きが悪い! うちのお姉ちゃん、滅多に家から出ない人だから、定期的に母さんから頼まれてるだけ……って、どうでもいいでしょうがそんなこと!」

 と、草川さんに凄まれて、俺はそれ以上言えなかった。ここまでセッティングして貰って、今更辞めますとは言い辛い。それに、実際のところ髪は切りたいし、懐事情を考えると、これは悪い話ではないはずだ。

「お、お任せします。あんまり短くなりすぎなければなんでも……」

「ふぅ、わかりましたよ。それじゃ、始めていきますか」

 その一言で、草川さんの空気が一変した。

 俺のことをじっと眺める清子くんと椿さん、そして何より俺自身も思わず息を呑んだ。




 風呂場を行ったり来たりしつつ、一通りの散髪を終え、俺は清子くんから手渡された鏡を見る。すかさず背後に移動した椿さんが手鏡を掲げてくれたので、後頭部の様子も見せてもらえた。

 ボサボサだった髪は、量を大分減らして貰いつつ、むさ苦しさを感じない程度に長さを切り揃えて貰った。

 さっぱりした自分の姿をじっと見つめた後、俺は率直な感想を述べた。

「明日から自分のお店を開いていいと思うよ」

「そんな甘い世界じゃないんで。まぁ、満足して頂けたなら、こっちも悪い気持ちはしないけど」

 と、草川さんは事も無げに、しかしちょっとだけ自慢げに答えた。

 他二名は、散髪後の俺をぼーっと眺めていた。そんなに物珍しいだろうか。

「ほー、普通っすね」

「ぶ、無難に仕上がってよかったですね」

 清子くん、気を遣ってくれたんだろうが、それ椿さんと言ってること変わらないからな。

「何? 本人が満足してるのに、アタシの散髪に何かご不満でも」

「そ、そんなことないよ科子ちゃん」

「まあ、強いてナッコに苦言を呈するなら、モヒカンとか冒険させてあげても良かったんじゃないかなーって」

 自分のモヒカン姿を想像して、俺は怖気で身を震わせた。お兄さんと呼ばれたいけど若作りに熱心と思われたくない年頃、それがアラサーという生き物なんだよ、椿さん……。

「へぇ、そんなにモヒカンがお好みなら、まずアンタやってみる?」

「草川先生、素晴らしいカッティングでありました!」

 椿さんは、背筋を正してそう答えた。




 掃除や片付けを終えて、俺は撤収する三人を見送りに出た。

 外では呼びつけられたらしいすなしろくんが待っていた。彼は、自分のスマートフォンを見ながらクスクスと笑っていた。本当、自由だなコイツ。

「今日は本当にありがとうね。草川さんの美容師修行に少しでも役に立ったかな?」

「まあ、アタシが見習い卒業するまでは、タダで切ってあげてもいいですよ。ノークレームノーリターンですけどね」

 ノークレームはともかく、どうやってリターンするんだろう。

「さっぱりして良かったですね。頭洗うのとかも楽になりますよ」

「この人、切る前は本当に洗うの大変だったからね……」

 すいません、と俺はヘコヘコするしかなかった。

「いやぁ、しかし今日はお風呂入るの楽しみだ」

 なんて言った途端、何かが破裂する音とともに、不愉快な粘着質なものが俺の身体にかかった。それと同時に、形容し難い不快な臭気が鼻を支配する。

「…………あれ?」

「ごめんなさーい! ゴミ袋落としちゃいましてー、あぁ、羽村さんじゃないですかー!」

 この聞き覚えのある呑気な声、俺は錆びたブリキ人形のようにゆっくりと振り向く。

 そこには「どうしましょうー」とあたふたする黒木田さんの姿があった。

「あぁ、本当にごめんなさーい! 階段で蹴躓いてしまってー、持ってたゴミ袋が飛んでしまってー。と、とにかく、今すぐにタオル持ってきますからねー! 少々お待ちになってくださーい!」

 と、深刻なんだかなんとも思っていないんだかよくわからない口調で、黒木田さんは階段を駆け上っていく。

 さっぱりしたはずの俺は、ゴミをぶっかけられてねっとりした空気に支配されていた。

 振り返って前を見ると、三人の少女がどんよりとした様子で俺を眺めていた。その後ろで、笑い上戸な使用人が人を指差してゲラゲラと笑っていた。

 しばし、使用人が馬鹿笑いする以外、誰も口を開かなかった。

「いやぁ、しかし今日はお風呂入るの楽しみだ」

 半泣きで、俺は同じ台詞を吐いた。

 やはり黒木田さんは、俺にとっての悪魔である。

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