第ニ話『頑張って、ぽんすけくん』

2ー1『ご遠慮します、黒木田さん』

 朝起きて一番にすることは、空気の入れ替えだ。

 窓を全開にして玄関扉を開けると、風がよく通る。このビルの階段は隣のビルに面しているから、隙間風のおかげで風が吹き込みやすい。

 おかげで朝はこれをやるだけで清々しい朝を迎えることが出来るが、強風の日はむしろ部屋を閉じていないと埃が入ってきて困ってしまう。

「おはようございますー。良い天気ですねー、羽村はむらさん」

 一通り換気を済ませた俺が扉を閉めようとすると、頭上から声がしてきた。俺は、どんよりした顔で、ぎこちなく首を向けた。

 笑顔以外の表情を知らないのかというくらい穏やかな顔付きに、ゆったりした紺のシャツとジーンズ。美しい艶を保つ天然の長い黒髪は一本に結ばれ、風を受けてしなやかに揺れていた。

「あ、あはは、そうっすねー、くろさん」

 彼女は三階で占い喫茶なるものを営む女性、黒木田さきさん。歳は確か俺より一つか二つくらい下だけど、俺とは違って女子大生のような若々しさを保っている。

 同じビルで商売をしている超ご近所さんだが、実を言うと普段はあまり絡まない。理由はただ一つ、単に俺が彼女のことを苦手としているからだ。

「昨日は大半お世話になりましたー。羽村さんのおかげでー、営業停止にならなくて済みましたよー」

 昨日のこととは、ネズミ駆除の件だ。

 夫婦で住み着いていたら厄介だったのだが、今回は一匹しかいなかったので繁殖していなかったことが幸いした。侵入して三日も経っていない程度だったので、被害もほとんどなかった。

 おかげで仕事は迅速に終わったし、俺としては自信を持って「朝飯前」と言える案件だった。

 それはそれとして、今の発言は飲食店の主として好ましくないような気がするが? 確かに糞害もほとんどなかったし、ちゃんと消毒や侵入対策もしたとはいえ、本当は報告しないといけないことですよ?

「そ、それは、良かった。俺も久々に仕事した甲斐があったってもんですなー!」

「そうだー、昨日のお礼にサンドイッチでも作りますよー」

「いいえ結構です! お代はジジィから頂きますし、それに今日はちょっと胃が受け付けてなくて」

「そんなー遠慮なさらないでー。あ、昨日のことでしたらもう大丈夫ですよー。今度は間違えませんからー」

 笑顔で手を振る黒木田さんの姿に、俺は思わず総毛立つ。昨日のことを思い出したからだ。

 仕事の後、彼女はクッキーを振る舞ってくれたのだけど、俺の分だけ間違えて塩が入っていたのだ。

 おかげで、幸せな時間になるはずだったおやつの時間が、俺だけ苦い思い出を残すことになってしまった。



 黒木田さんと会うと、俺は絶対ろくな目に合わない。いや、当人に悪気はないのだけど、あの人に絡むと、俺は何かしら不幸な目にあってしまう。

 初めて会った時は、階段の上で握手しようとしたら彼女が躓いて、それを助けようとした俺が階段から転げ落ちた。

 それだけなら偶然で済んだが、以降も不幸は続いた。一番忘れられないのは、五〇〇円玉を握りしめてラーメン屋を目指していた時の話だ。

 町中で黒木田さんとバッタリ出会った俺は、既に天命レベルに相性が悪いことを察していたので、顔を合わせた瞬間警戒した。

 しかし、最早挨拶しあった時点で手遅れだった。果物を分けてくれようとした黒木田さんはリンゴを取り出したが、その途端手を滑らせて、大きなリンゴが俺の手を思いっきり弾いた。

 ビックリした俺は、なけなしの五〇〇円をつい取り落とし、気づけば硬化は筋書きでも書いてあったのかと言うくらい、綺麗に排水口へと吸い込まれた。

 こうして、「創業二五周年ジャンボラーメンワンコインサービスデー」を、俺はみすみす逃し、絶望に暮れた。

 黒木田さんはすぐお金を返そうとしれくれたが、その財布の中には嫌がらせかのように大きな札束しかなかった。圧倒的財力差を見せつけられた俺は、みみっちいことを言うのが恥ずかしくなり、涙の味がするリンゴを齧りながら帰った。



 というわけで、俺と黒木田さんは絶対噛み合うことがない歯車のような関係なのだ。下手に干渉されて、平穏な生活が壊されてしまってはたまらない。

「じ、実は俺、久々にまともな朝飯作ったんっすよ。さっさと食べないと勿体無いし」

「そうですかー……あれー? でもさっきお腹の調子が悪いって言っていたようなー?」

「い、いや、俺本当は大食らいなんですけど、お腹の調子が悪くて自分の分を食べきるので精一杯だなって。今度機会があれば頂きますんで!」

「そうですかー、そういうことでしたら仕方ないですねー。昨日のお礼は近いうちに絶対させていだだきますのでー」

 勘弁してくれ……と口に出したかったが、それより前に黒木田さんは一礼して、自分の店に戻ってしまった。

 俺は一体、どんなお礼をされるんだろう。自分の中で「お礼」の解釈が変わっていきそうな気がした。

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