閑話一『お疲れ様です、礼蔵くん』
コンビニのビニール袋片手に、俺は帰路に着く。中には明日を乗り越えるために必要な一食分の食事、菓子パンが入っている、
実入りが悪いとこういう日が長いこと続く。なんとかしなくてはとは思うが、商売柄なかなか宣伝がしづらい。かといってセールスマンのように家々を回るわけにもいかないし。
そうやって頭を悩ませているうちに、俺は自分が暮らすビルまで到着していた。
何度見ても年季が入ったというか、何かの拍子で亀裂が入ったら粉々になりそうな古いビルだ。蔦で覆われてしまったら廃墟と見間違えられるかもしれない。
そんなビルでも、全ての階にテナントが入っている。一階は大家のジジィ、二階は俺、三階は
そして、真っ先に目に入るだろう一階には、ジジィが経営する小さな雑貨屋がある。
旅先で仕入れたちょっと珍しいものをちょくちょく売っている、らしい。らしい、というのは俺がまともに買い物したことないので、話に聞いたことしかないからだ。
隙さえあればあの爺さんは遠出しているけど、ただ遊びに行っているわけでもないみたいだ。まあ、俺には年寄りの道楽に付き合える余裕はないから、今後も買い物することはないだろう。
しかし、思えばあの店に客が入っていく姿を、俺は見た記憶がない。案外昼間寝ているうちに来ているのだろうか?
いや、店番があの無愛想で冷血な孫だから、人が寄り付かないのかもしれない。ジジィはもう少し自分で接客することを覚えたほうがいい。
なんてことを思っていると、冷蔵庫くんが店の中から出てきて、シャッターを締めようとしていた。どうやら今日は閉店らしい。
「意外と真面目に働いてるんだな、冷蔵庫くん」
「
「べ、別に俺だって遊んでるわけじゃないですしー! というか毎日バリバリ営業中ですしー!」
「一日菓子パン一食で生き永らえるてるような死に損ないが、見栄だけは一人前とは、へそが茶を沸かすよ」
俺は思わずビニール袋の中にあるクリームパンを握り潰したい気持ちになった。
このどこまでも性格のねじ曲がった野郎に一言言ってやりたいが、悲しいかな言い返すことができない。
くそ、絶対いつか大量の札束でお前のニヤケ面を叩き倒してやるからな。
……ふっ、頭のなかで宣言するだけならタダだ。
「人生の先輩気取りたいなら、そんな渋い顔する前に、その堕落しきった性根をなんとかするんだな」
と、追い打ちをかけるように言いたい放題言いやがる冷蔵庫に、俺は歯軋りする。
いや落ち着け、俺が怒りにこの身を震わせるほど、奴を喜ばせるだけだ。そうだ、俺は大人の余裕を見せつけて、帰ることにしよう。
「ご忠告どうも……! お仕事お疲れ様……!」
いくつになっても、俺の心は愚直なまでに正直者だった。
翌日、俺は大量の脂汗をかきながら目を覚ました。
どこかの会社で平社員になった俺が、何故か部長の席にいる冷蔵庫に五時間も説教されるという、ここ最近では特に最悪な夢を見たせいだろう。
時刻はもうすぐ昼になるといったところか。なるほど、夢の通りどうやら長い時間悪夢に拘束されたらしい。
とりあえずこの汗臭さではたまらないと、俺はシャワー室で軽く汗を洗い流した。朝シャワーなんて贅沢本来は出来ないが、そんなことは言ってられない。
俺は、まずぽんすけに朝食を与え、昨日買ったクリームパンをじっくり味わいながら食した。そして一息ついた後で、シャワーを浴び火照った身体を冷ますため、軽く外を歩くことにした。
ぽんすけも誘ったが、満腹感から眠たげだったので、今日は一人で歩いてくることにする。猫が入ってこないよう、窓は鍵をかけてしっかり閉じる。
外に出ると、ちょっと雲が多いのか、風は涼しげだった。まあ身体を冷やすには丁度いいと、俺は事務所の鍵を締め、踊り場の階段を降り、上空を確かめる。
やはり日差しはやや控えめだ。雨は降らないだろうが、今日はスッキリしない天気になりそうだ。
そんなことを考えながら散歩に出ようとして、ふと俺は何かいつもと違うことに気づいた。
振り返ると、ビル一階のシャッターが締まり、雑貨屋は静寂に包まれていた。いや、いつも客が居ないからいつも静かではあるけど、今日は人の気配すらなかった。
俺は、シャッターに書いてある定休日を確認する。定休日は平日にニ日程あるが、今日は日曜なので普通に営業日のはずである。
不思議に思った俺は、路地に回って冷蔵庫が住む一階の呼び鈴を鳴らした。
少し待っていると、甲高い悲鳴とともに、中でバタバタと誰かが走り回る音が聞こえてきた。
もしや強盗でも入ったのか、と俺が扉に耳を当てて息を潜めると、この玄関へ誰かが走ってくる音が聞こえてきた。
誰か出てくると察知した俺は後ろに飛び退き、何かの武術のように手刀を構える。
それからすぐ、扉からそいつは飛び出してきた。
「も、申し訳ありません! うっかり寝坊してしまいまして! 店の方に御用なら直ちに」
「……」
「あっ」
目を回しそうな勢いで出てきたのは、寝癖立ちまくりでパジャマ姿のまま現れた冷蔵庫くんだった。
バラエティ番組なら木魚の音でも入れられそうな沈黙がしばし支配した後、我に帰った冷蔵庫くんは途端に怒鳴り始めた。
「貴様ぁ、一体何の用だ!」
「店開いてないから、もしかしたらお前が大学行ってる間にジジィが倒れてるのかと思って。あ、そういや今日は日曜だから、冷蔵庫くんが家に居たか」
「……」
そう指摘すると、冷蔵庫くんは扉を締めて、また家の中でバタバタし始めた。
このまま戻るなら、俺は予定通り出掛けていいのかなと考え始めた頃、奴は身支度を整えて戻ってきた。
「まあ、今更慌てても、午前中に来た客は逃しちゃっただろうな」
「何? 来てたのか!」
「いや、知らないけど。でも居たら、悪いことしちゃったよなぁ。誰とは言わないけど」
「くっ……」
悔しがる冷蔵庫くんを見て、さしもの俺も哀れみを覚えた。
そうだよな、彼はまだ学生なんだ、社会人としての責任とか、そういうのをまだ理解してないよな。
と、自分の実情は脇に置き、俺は彼の失敗を見逃すことにした。そもそも俺はこの店に用はなく、ただ軽く散歩しようとしてただけなのだから。
「おい、何故何も言わない!」
何も言わず去ろうとした俺を、冷蔵庫くんはシャッターの鍵を片手に呼び止めた。
彼なりに罪悪感はあるらしい。それならいいんだ、誰だって失敗はするものなのだから、ネチネチ言う必要なんてない。
何故なら……。
「なんてったって俺は、人生の先輩だから、ね」
「そのニヤケた面のどこに先輩らしさがあるんだぁー!」
その怒鳴り声に背中を突き飛ばされるかのように、俺はビルを飛び出した。
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