1-6『羽村さんは命懸け』

 俺の人生、いつだって嫌な予感だけは的中する。神様が暇潰しに俺の人生で遊んでいるんじゃないかと思うくらい。

 正に俺が想像していた通り、広場には歯を剥き出しにした野良犬が居た。その視線の先で震えているのは、弁当の包みを持った少女。

 睨みつけられて足が竦んでいるのか、少女は足をガクガクと震わせて、動けないようだった。顔面蒼白となり、今にも気絶してしまいそうだ。不謹慎だけど、気を失ってくれたほうが行動しやすいんだけど、贅沢は言っていられない。

 俺は、すぐさま全速力で駆け出して、少女の前に立ち塞がった。途中で野良犬は気づいていたが、突然だったせいか反応はできなかったようだ。

『人間に着けられていたか』

 野良犬はさらに犬歯を見せつけ、俺ににじり寄ってきた。よほど空腹が耐えかねているのか、放つ殺気が尋常じゃない。それは人間にとってはわかりやすい恐怖となってまず襲い掛かってくる。しかし気迫に押し負けるわけにはいかなかった。

「あの……!」

「静かに」

 何か言おうとした少女は黙らせておく。ちょっとした人間の声が、怒った野良犬の導火線に火を付け、瞬時に爆発させかねない。

 俺はふぅ、と息を吐いて心を落ち着けると、話しかけた。

「この弁当はお前のものじゃない。諦めて帰れ」

『なっ、コイツ……?』

 今まで唸っていた野良犬は、俺の一言を聞いてキョトンとした。初対面の相手とは大体こういう反応になる。ついでに驚いて逃げてくれれば良いのだが、俺のこれまでの人生と同じく、思い通りにはいかない。

「人間は、自分達に危害を加える奴に容赦しない生き物だってわかるだろ。今この娘を襲ったら、お前は確実に追い殺される」

『このままでも、俺達は腹と背中がくっついて死ぬ。どっちでも地獄を見るなら、俺は悔いを残さない選択をするだけだ』

 ハッキリと言い返した野良犬は、犬歯を剥いて唸ってきた。いつでも俺の身体をズタボロに出来るという意思表示だろう。

 人間を襲うということのリスクを知ったうえで対立するだけあって、少し脅したくらいでビビってはくれない。しかし俺だって、「じゃあ逃げます」と尻尾を巻いて逃げる程、ヤワに育ってはいない。

「猫の連中から、飯はたくさん奪ったんだろう」

『残飯で腹が膨れるか』

「ふっ、残飯でも食えりゃなんとかなるものだよ……」

 つい経験則が口から出てしまう。アホか、今は自分の不幸自慢なんぞしてる場合じゃないだろうに。

「別に俺は殺し合いがしたいわけじゃない。諦めちゃくれないか?」

『その食い扶持を奪われれば、俺達はジワジワと餓死するだけだ。殺されるのと何が違う!』

「もし俺が見過ごしたら、味を占めたお前はまた同じことをする。そうしたら役所の……怖い人間に目を付けられるだけだ。結局、死に近づくのは変わらない」

『俺は今日明日に死ぬ道よりも、長く生き永らえる道を選ぶと言っている!』

 いくら言っても、野良犬は引かなかった。放っておけば、どっちみちこの犬は死ぬだろう。諦めて引き返したら最悪餓死、さりとてこの娘を襲って弁当を奪ったとしたら、周囲に噂が立ってすぐに保健所の人間が飛んでくる。

 そんな後味の悪い結末はゴメンだ。自分をつくづく偽善者だと笑いたく鳴ったが、どうしても納得出来なかった。

 背後で震える娘が血に塗れるのも、この犬がむざむざと人間に殺されていくのも。

 偽善者どころか、俺はただの欲張りだった。

「言い方を変えよう、俺はすごいワガママな人間だ。俺が傷つくのは勿論嫌だし、他の人間が怪我するのも、お前が殺されるのも嫌なんだ。だから、別の方法を考えよう」

『別の方法? お前が俺に飯を恵んでくれるとでも言うのか?』

「そいつは……無理。どの道お前のためにならないし」

『だろうな、恵む気があるなら、こんな押し問答になっていない』

 野良犬の言葉に、思わず乾いた笑いが出てしまう。野良犬は基本的に人間を敵視しているが、コイツはかなり露骨なタイプだ。

 そもそも野良犬が人間から身を守るには、基本的に戦って抗うしかないのがほとんどだ。野良猫ならそのしなやかな身体を活かして縦横無尽に逃げられるが、野良犬となるとそういうわけにはいかない。そもそも下手に逃げれば、車に轢かれたり行き止まりに追い詰められたりと、リスクが大きすぎる。

 よって、野良犬は最初から人間に弱みを見せまいと、殺気を丸出しにする輩が多い。少なくとも俺が出会ってきた連中に限るが。

「お前がこの社会で生き残るには、人間と暮らすしかない」

『暮らす? 腑抜けた飼い犬のように、人間に媚びろというのか、馬鹿馬鹿しい』

「お前さっき言ったよな、生き永らえたいって。悔しいかもしれないけど、この方法しか……」

『いいか、俺の妻は人間に捕まって消えた。恐らく殺されたんだろう。妻の仇に媚びろというのか!』

「…………」

 俺は、何も言い返せなかった。この野良犬にとって、人間の評価は最低にまで落ちている。自分の命を脅かす天敵の下で暮らせなどというのは、軽率だったかもしれない。

 相手の怒りに油を注いでしまった以上、いつ爆発するかわからない。俺は念を入れてぽんすけの安全を確保することにした。

『お、おいおいおいぃ! 何する気だ羽村はむらぁ!』

 ポケットからぽんすけを取り出すと、また何か喚き始めた。それを無視して、後ろで震える少女に手を伸ばしながら、声をかけた。

「君、いきなり勝手な頼みをしちゃうんだけど」

「えっ? 私、ですか?」

 少女は、あまりにも困惑しすぎていたのか、放心していたようだ。俺が逆の立場なら、彼女の同じ状態になるだろう。

「今、俺の手にハムスターが乗ってるだろ? 預かってほしいんだ」

「……は、はあ」

 という返事とともに、手から重みが消えた。戸惑いながらも、少女はぽんすけを受け取ってくれたようだ。

『な、何だよぉ! 本当に何しようとしてんだよぉ!』

 ぽんすけは、少女の手に乗ってからもうるさかった。

「可愛がってもらえよ」

『何言ってんだ羽村ぁ!』

 あまり騒ぐと相手を刺激するので、俺はぽんすけの訴えを無視した。これ以上、野良犬から意識を逸しておきたくない。

「俺があの野良犬に襲われたら、すぐに逃げて」

「襲われたらって、あなたはどうするんですか?」

「お兄さん、実は害獣駆除で飯食ってるんだ。つまり、後の事はプロにお任せってこと」

 ちょっと格好つけて、俺は指で丸を作った。残念ながら、この言葉に保証書は付けられない。まあ、彼女と仕事の契約を交わしたわけでもないし、元からそんなものは必要ないか。

『くどくどくどくど、うるさい人間だ。噛み殺してやる!』

 野良犬が一歩踏み込んでくる。唸り声はさらに激しさを増し、その形相は悪魔を思わせるほど憤怒で満ちていた。正に一触即発、少しでも俺が隙を見せたり、火に油を注いだりすれば、犬はすぐ俺を襲うだろう。

 正直、相手がこっちの提案を受け入れる気持ちに欠けているので、話し合いで解決するのは最早無理な状態だ。それでも俺は、この犬を傷つけるつもりは一切ないし、殺すという選択肢は論外だ。しかし、相手は俺のことを殺すのも厭わないだろう。

 相手を殺す覚悟、それは動物にとっては命を懸けた選択だ。なら俺も、同じ心持ちでコイツと向き合うしかない。覚悟を決めた俺は、身体から極力力を抜いて、言葉をかけた。

「なら、俺を殺したら昔の事は水に流して、人間と暮らしてくれるか?」

『何?』

 野良犬は、今までで一番動揺した声をあげた。後ろからも息を呑むような音がした。

 和解も駄目、対決も駄目、となれば、俺が降伏するしかない。そう考えたのだけど、思った以上に相手は驚いていた。

『正気か?』

「どうだろう? よく考えたら、俺がお前達とこうして話してること自体、おかしな話なんだよな。実は、俺全部狂ってるのかもしれない」

 流石の野良犬も、言葉を失った。もしかすると俺の言葉が理解しきれていないのか。

『冗談はやめろ』

「まあ正直言うとさ、俺も死にたくはない。だけど、我を通すなら俺も覚悟を決めようと思って」

 そう言って俺は、犬の目の前でゆっくりと座り込んでみせた。言葉だけではなく、少しでも態度で自分の意志が伝わるように。

 しかし犬は、訝しげにこちらを睨んでいた。生存本能を何よりも優先させる動物の価値観的に、俺の行動は不可思議極まりないことだろう。もしかすると、混乱を産んだだけだったかも。

 自分の判断に自信がなくなってきた頃、犬は容赦なく俺に飛びかかってきた。

「ああっ!」

『羽村ぁ!』

 外野の悲鳴が聞こえてきたが、俺自身は地面に押し付けられて少し呻くだけで済んだ。

 犬は、俺の肩をがっちりと抑えつけ、じっと俺の様子を伺っていた。

 いつ自分の顔が血塗れにされてもおかしくなかったが、驚くほどに恐怖心はなかった。正直、襲われる前は背筋に寒気が走るくらい怖かったのに、ここにきて気味が悪いくらい、平然としていられる。

 相手に生殺与奪権を握られるという危険状態は長い間続いた後、犬は急に力を抜いた。

『本当に抵抗しないとは』

「ああいや、いきなりだったからビックリして動けないのかも」

 俺が苦笑いすると、野良犬は呆れたように鼻でため息をついた。

『そんな腑抜けに毒気を抜かれるとは、俺も焼きが回ったな』

 そう言って、野良犬は俺の肩から前足をどけて、静かに後退りした。

 俺が身体を起こすと、倒された時に身体を打った衝撃が今になって響いてきた。じーんと痛みが染みてきた肩を回していると、犬の方から声をかけてきた。

『俺の名前はベンだ、お前の名はさっき誰かが叫んでたな。確か……』

「羽村、そう呼んでくれればいい」

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