1-5『羽村さんの嫌な予感』

 坂道を降りていると、穏やかな風が俺を撫でた。思わずあくびが出るほど眠気を掻き立てられるが、さしもの俺も坂道で突然寝られるほど図太くはない。

 陽の高さを見ると、確かのあの娘が言ってたように昼飯の時間といったところか。自分が思っている以上に結構眠っていたようだ。本当にそうだとすると、今馬鹿正直に帰るのはまずい。恐らく冷蔵庫くんは飯時という時間を見計らって、部屋の前で仁王立ちしていることだろう。

 しかし、冷蔵庫くんもまだまだ甘い。何故ならあの部屋にはぽんすけの食料以外は残っていないからだ。つまり、俺が昼飯目的で戻ることはない。慣れ親しんだ寝床で寝たいという欲望はあるが、それくらいは我慢出来る。

 だから、いくら奴が部屋の前で待っていようと、無駄な時間を浪費するだけなのだ。ざまぁみろ!

『なぁ、そろそろ帰ろうぜぇ。オイラ小腹が空いたんだけどよぉ』

 逆にコイツは、相手の術中にまんまとハマるタイプだ。ぽんすけは運がいい、俺という賢明な人間が側に居るからこそ、命を拾うことが出来るのだから。。

「聞きたまえ、ぽんすけくん。現在、我らが拠点は敵の手中に落ちている。よってしばらくの間は食料の調達が出来ない。男なら我慢だ」

『何言ってるか全然わかんねぇ。とにかくさぁ、育ち盛りのオイラに空腹は毒なんだよぉ』

「……朝、あげたよね? 頬袋に詰めてた奴」

『んなもんとっくに食っちまったぜ。まあオイラには朝飯前……』

「あれが朝飯なんだってばぁぁぁ!」

 そもそもハムスターの食事は人間と同じように三食に分けて与えるものではない。これでは本気で財布が保たないし、あまりコイツの欲望に任せてしまのも健康によろしくない。そろそろ我慢というものを覚えさせるべきか……。

 俺が頭を抱えていると、茂みを掻き分ける音が聞こえてきた。

 音の方に目を向けると、何者かが身を屈めて周囲を伺っているのが見えた。ここに立っていると相手から丸見えなので、こちらも側道に残っている木の一本に身を隠す。

 どうやらこちらに気づいていないようなので、俺は少しだけ顔を出して様子を伺う。

 茂みの中には、一匹の中型犬が居た。麦色の毛は砂埃にまみれ、身体はやせ細り気味、しかし目だけはギラギラと輝いていた。

 さっきゴジュが言っていたのはコイツかもしれない。この公園を寝ぐらとしているのか、よく今まで騒がれなかったもんだ。

『やはり、匂いは上の方からするようだ』

 野良犬が顔を上げたので、俺は思わず木に張り付いて隠れた。いや、よく考えたら犬は鼻が利くのだから、こうして隠れたところで存在はすぐに見つかってしまうじゃんか……。

 しかし、野良犬は俺の方には見向きもしていない様子だった。むしろ、その犬は誰か別の何かに話しかけていた。

『もう少し奥で隠れて待っていろ、すぐに飯を持ってくるからな』

 野良犬は、公園の頂上を目指して駆け出していった。

 ここに、野良犬があそこまで力んで欲しがるような食料があっただろうか? と首を傾げて、ふとあの娘が持っていた弁当箱を思い出した。犬の嗅覚なら、その存在を察知出来るだろう。わざわざ整備されていない斜面を登ってきたのも、人に気づかれないためということか。

 いや、野良犬は人間の恐ろしさを知っている。だからゴジュが言っていたように、人の気配がないうちに残飯を漁っていくんだろうし。人間から食べ物を奪うなんて大きなリスクを犯すとは思えない。

 ……とは思うものの、嫌な予感というのは、一度頭に浮かんでしまうと拭い去ることが出来ないもの。もし野良犬の狙いが弁当だとしたら、飢えた野良犬が何をしでかすかわからない。容赦なくあの少女に噛み付いて、公園の広場を赤く染めることだってあり得る。

「要らぬ節介余計なお世話」という言葉が頭に浮かぶ。俺が首を突っ込んだところで、俺自身には得がないし、むしろ俺だけ怪我をするリスクという最悪の可能性すらある。医者に通う余裕がない俺には、痛手という言葉で済まされる話ですらない。

 しかし、俺の足は踵を返していた。

 今、俺はゴジュとの約束を思い出していた。あのヘトヘトになっている野良猫の顔が浮かんでしまったら、行ってやるしかないじゃないか。

 損得以前に、男として約束を守らないのは、きっと怪我をするよりも俺が傷つく選択になるだろうし。……なんて、似合わない言い訳も横にぶら下がっている。

『んだよ、また寝に行くのかぁ? さっきの人間がまだ居るんじゃねーかぁ?』

「ぽんすけ、もしかしたら俺、野良犬と喧嘩になるかもしれない」

『へぇ、そうなのかぁ。頑張れよぉ、って何いきなり物騒なことになってんだ羽村はむらぁ!』

 ぽんすけが驚愕のあまり、ノリツッコミという新しい芸を覚えた。飯以外頭にないと思っていたが、案外やるじゃないか。

「あくまで可能性だよ。でももし怖いならここで待ってもいい。ただお前だけで待ってるとカラスとか蛇とか、下手するとフラッと散歩にきた猫に見つかるかもしれないけど、どうする?」

『オイラが応援してやるぜぇ! 頑張れよ羽村ぁ!』

 少し震えた声で、ぽんすけが背中を押してくれた。

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