波乱

「菅原千秋に一票をお願いしまーす!」

「お願いしまーす!」


 前期課程の生徒がいる北校舎側のエントランスで、私はクラスメートを引き連れて(というか自分の意志でついてきた)ひたすら最後のアピールをする。『人と人の繋がりを大切に』のプラカードを掲げ、ニコニコと笑顔で頭を下げて。反応してくれる子たちが多くて、選挙運動を開始した頃よりも手応えの良さを感じ取っていた。


「スガちゃん、これなかなかいい感じじゃない?」


 カクちゃんも同じ感想だ。


「うん、私も……」


 急に、後ろから黄色い声がする。私は中庭側の窓を背にして立っていた。


「うわ」


 窓の外を見たら、いつの間にか人だかりが出来ているではないか。この原因はすぐに知れた。黒部真矢先輩と清原さんが一緒になって、真奈さんの選挙運動に加わっていたのだ。


「黒部真奈に一票をお願いします!」

「私の可愛い妹に一票を!」


 何か一言しゃべるたびにキャー、という声がする。真奈さんの笑顔は少々ぎこちない気がした。


 よく見たら古徳さんもいて、チラシを配っている。カクちゃんと陣営が違うのでちょっとしたロミオとジュリエット状態だが、当然それで仲がおかしくなるということはなかった。


「本音では私に同調して欲しかったけどね。だけど清原さんと一緒に何かするのもきっとこれで最後だし、聖良が選んだことなら、それで良いと思ってる。スガちゃんには悪いけど」

「ううん、いいよ気にしなくて。さ、こっちはこっち。呼びかけを続けよう」


 真奈さんは声を張り上げていた。彼女もまた恋人と一緒にいられる時間は少ない。清原さんに良い思い出を作るため、勝ちに来ているに違いない。


 でも私だって負けてはいられない。私はあらん限りの元気とやる気を声に出した。


 *


「――以上です、ありがとうございました!」

「完璧!」


 とうとう明日に控えた立会演説会を前に、生徒会室で最後の練習を行っていたけれどラスト一回で美和先輩からお褒めの言葉と拍手を頂いた。演説時間は前の政見放送と違い五分から八分と長くなるので、政見放送に使った原稿用紙に加筆した上で、かつ身振り手振りを混じえるものだからかなりしんどい思いをしたが、先輩のお墨付きを頂いた途端に開放感に変わったのである。


「すがちーお疲れー」


 一緒に聞いていた古川さんが肩をポンポンと叩いて労ってくれたが、彼女の顔はどこかやつれていた。さっきまで散々しごかれていたからだ。特に河邑先輩から。


 今津会長もお疲れ、と声をかけてから話に入った。


「二人とも、今までよく頑張ったな。選挙情勢は今のところ黒部真奈すがちークリボーの三名上位接戦、曽我部と津曲は苦戦といったところだ。これが意味するところは何だ? すがちー」

「え、会長の言った通りですよね? 私と古川さんと真奈さんの実質三人の争いだって」

「メディアにおける選挙情勢では『接戦』と出た場合、先に名前を出した候補者が若干有利と言われている。つまり」

「ええっ、私らもしかして負けてるんスか!?」


 古川さんが会長に掴みかからん勢いで迫った。


「私に文句言うなよ。こいつが独自で世論調査してきた結果を伝えたまでだ」


 会長は親指で団さんを指さした。


「ただ真奈さん有利と言っても本当に僅差だし、全員から統計取ったわけじゃないからね。実際は菅原さん古川さんが勝ってるかもしれないし、当日の立会演説会の結果次第では心変わりして投票先を変える、ってことも考えられるんだから」

「もうこいつが答えを言ってしまったが、そういうことだ」


 つまりは、立会演説会の良し悪しが選挙結果を決めるということ。古川さんから生唾を飲み込む音がした。


「しかも今晩から明日にかけて、珍しいことに雪の予報が出てる。これは明日何かがあるかもな」


 会長が窓の外を見やるので私もそれに合わせて見てみたら、空はもうどんよりと曇っていて太陽の光を遮り、暗闇を形成していた。


 だから雪が降り出す前に下校となるのは当然の流れだった。岩彦駅でみんなと別れた私は自転車にまたがり、凍結防止剤が撒かれている岩彦橋を渡った。その真ん中に差し掛かったとき、頬に冷たい感触が走った。


「わ、降ってきた」


 暗闇でよく見えないとはいえ、正体は明らかだ。私は自転車をこぐ速度を上げた。


 こうして平成二十九年度生徒会最後の一日はあっけなく過ぎてしまった。


 *


 明くる日、一月三十一日。私は目覚まし時計よりも先に声で起こされた。


「千秋! 大変よ!」

「ん……母さん? 何? まだ六時回ってないじゃん……」


 目覚まし時計を見た私は少し不機嫌になった。


「外見てよ、外!」

「?」


 私は窓の方を見た途端、眠気が急に冷めはじめた。窓枠のところに白いものがびっしりと付着していたからである。


 さらに外を見ると、眠気は完全に飛んだ。


「うわー……」


 街灯程度の照度でも、はっきりと白い世界が見える。民家の屋根に道路に、何もかもが雪で埋まってしまっている。しかも空からはいまだに絶え間なく雪が降り注いでいた。


「寝る前はこんなに酷くなかったのに……」

「今日は大雪になるってさっき天気予報で言ってたわ。警報は出てないみたいだけれど、今日は自転車で登校するのはやめなさい」

「言われなくても、これじゃ無理だよ」


 とりあえずそのまま朝食を取った後、私は立会演説会の練習を二回ほど繰り返してから、早めに家を出た。見慣れたのどかな田舎の緑の光景が白の世界に変わり果てた中、私は雪を踏みしめて慎重に歩く。雪の上を歩くなんてほとんど経験が無かったから、一歩ずつゆっくりと進んでいった。


 岩彦橋の上だけは凍結防止剤が効いているおかげで雪が溶けていた。しかし降り注ぐ雪の勢いはますます増し、先がよく見えない程になっている。市道に入るといつも通り生徒たちの姿を見かけたから、電車は動いているようだが。


「おっす、おはよう」

「あ、会長。おはようございます!」


 今津会長とは意外なことに登校で顔を合わせるのがこれが初めてのことだ。


「電車が遅れてんだ。普通だったらもうちょい早く着いてるんだが……冗談抜きでこりゃヤバイな。こんなの何年ぶりだよ」

「本当に。今日は大切な日なのに……ッ!?」


 会話に気を取られて足元への注意を怠ったのが運の尽き。足をズルっ、と滑らせた私はドスン、と尻もちをついてしまった。


「おおーいすがちー、大丈夫か」

「はい、何とか……」


 私は傘を拾いながらお尻をさする。痛みはどうってことないものの、ジャンパースカートが濡れてしまった。


「受験生じゃないが、滑る、転ぶなんてちと縁起が悪いな」

「明日何かある、って会長が言うからですよ」


 冗談交じりに抗議したら、会長は笑い飛ばした。多分私が古川さんだったら頭グリグリだったと思う。


 雪を払い落として校舎に入るとすぐさま、暖房が効いた教室に直行した。時間的にはいつも通りだったのに、クラスメートの姿はまばらである。話を聞いたらやはり、上り電車に乗ってくる生徒がまだ到着していないらしい。私は団さんにLINEしてみた。すると上り電車はだいぶ遅れていて、本当だったらとっくに出発していなければならない一本前の電車に乗り込んだという。それでも岩彦駅に着くのはかなり遅れる、と。


 全く、大事な日というのに。


 予鈴が鳴ったあたりで、ガヤガヤとした声が廊下から聞こえてきた。やがて教室に、雪崩をうったように生徒が流れ込んできた。


「セーフ!!」


 カクちゃんが両腕を横に広げて入ってきた。


「おはよう。とんだ災難だったねー」

「全く。ダッシュしようにも道路が凍ってて危ないから早足で歩いて来たんだよ」


 カクちゃんはゼーゼーと息を切らしつつも、間に合ったことで安堵したのか目を細めた。


「私、こけちゃった」

「ええっ、縁起悪ッ」

「普通、先に『大丈夫?』って聞くもんだよ?」

「ごめんごめん」


 私は呆れ笑いしか出なかった。会長ですら身を案じてくれたのに。


 バカ話もつかの間、本鈴が鳴ってすぐに担任が入って来た。


「起立、礼。おはようございまーす」

「おはようございまーす!」


 いつもの挨拶が終わると、担任は「とんでもない雪ですね」と苦笑いした。


「さて、今日の五・六時間目に生徒会長選挙の立会演説会と投票がありますが、あいにく今先程大雪警報が出ました。この後昼にかけてさらに雪の量が増えるとのことですので、本日は一時間目が終わり次第下校となります」


 ざわざわ、と教室が動揺しだす。私は挙手した。


「先生、じゃあ立会演説会と投票は延期ですか?」

「それについて今ちょうど説明しようとしていたところです。よく聞いてくださいね。今回の選挙では立会演説会を中止して、投票のみを実施することになりました」

「ええーっ!?」


 私は自分でも驚くぐらい、大きな声を出してしまった。あれほど練習したのに中止、はない。


「明日に延期できないんですか!?」

「明日から一年生はスキー実習だし、来週からは卒業式の練習が入るのでどうしても今日中に決めてしまいたいのです。菅原さんも一所懸命練習してきたのは私もよくわかっています。だけどこればかりは私の一存ではどうにもできないので……」


 先生の申し訳なさそうな顔を見たら、私はそれ以上抗議できなかった。


 だけど選挙を左右する立会演説会がなくなると、もしも団さんがやってきた「世論調査」の結果が正しければ、私と古川さんにとっては不利になってしまう。全く、冷や水を浴びせられたあげくに凍えるような思いだ。


「立会演説会は中止になりましたが、みなさんの一票が重いことは変わりありません。よくよく考えて投票してください。では、廊下に並びましょう」


 心の準備ができていないまま、サイコロは投げられてしまった。


 *


 体育館の演台の後ろには国旗、校旗、そして巌な表情で私たちを見下ろす藤瀬みや先生の肖像画。本来であれば立候補者たちは緑葉生が心に秘めておくべきものに見守られつつ演説をしていたのだが、今はいち有権者として淡々と自分の名前を用紙に書き込んで投票箱に入れるしかない。


 投票が終わったら、自然と生徒会メンバーたちがストーブの近くで集まりを形成した。この日で任期を終える今津会長が、私と古川さんを見るなり頭を下げてきたからびっくりした。


「すがちーにクリボー、すまん。先公どもに抗議したが突っぱねられた」


 教師を蔑称で呼ぶあたり、今でも相当な悪感情を抱えていると推察できる。


「美和ちゃんカワムーシーモ総出で抗議したんだが、あいつらはあろうことか館長先生を出してきやがった。館長先生直々に勘弁してくれって頭を下げられたから、もうどうしようもできなかった」


 裏を返せば、館長先生でないと会長に太刀打ちできなかったということだろう。


「いえ、私たちのためにありがとうございます」

「御大、ありがとうございます」


 会長は私たちの肩に両手を置いた。


「天命を待とう」

「はい」


 私は会長の遥か後ろ側に、真奈さんの姿を認めた。清原さんと何か話している。学校を去る彼女には選挙権は無かったが、応援のためだけについてきたのかもしれない。心配すんな、と言っているかのような笑顔の清原さんと強張らせた表情の真奈さんが対照的だ。


 結局、みんな不安ということだ。そう考えたら逆説的に、ほんの少しだれど不安感が収まっていった。


 投票はスムーズに行われ、即時開票となった。有権者数は790名。学校を去る六年生と、諸事情で後期課程に進学しない前期課程の生徒を除いた数である。ここに病欠の生徒も加えると実際には総数790票も届かないだろう。


 選挙管理委員会からアナウンスを待つ間、体育館は重たい雰囲気に包まれていた。寒風が叩きつけられて、ガタガタと窓が揺れる音がしている。体育館にたどり着くまでは積もりに積もった雪ではしゃいでた子もいたのに、いまや誰一人とて騒ぎ立てようとしない。


 やがて選挙管理委員長が姿を見せ、マイクを手に取った。館内の空気が一気に張り詰める。


「ただ今、開票作業は全て終了しました。本日欠席の生徒は10名。投票総数は780となりますので、選挙規則に則り投票成立となります。それでは結果を発表させて頂きます」


 委員長が紙を読み上げはじめた。


「菅原千秋さん。242票」


 わあああ、と歓声か悲鳴かよくわからない声がした。242票もあるのか、242票しかないのか、私にもよくわからない。


 ところが次の瞬間、一気に体育館が混迷の渦に巻き込まれたのである。


「古川恵さん。242票」


 ええーっとかうおーっとか、とんでもない声があちこちで起きた。私と古川さんは目を剥いてお互い無言で見つめ合うだけ。先程までの沈黙が嘘のように、体育館全体が鳴動していた。


 ところがこれで終わりではない。


「黒部真奈さん。242票」

「マジで!!??」

「マジかよ!!??」


 私たちは気がつけば、真奈さんのところに駆け寄っていた。真奈さんは両手で口を抑えて呆然と突っ立っている。


「こ、これは一体何なの……? 三人同数って……?」

「いや、私も何が何だかなんだけど……」

「これ、ドッキリじゃねーよなあ……」


 立候補者三人は周りから何とも言えない眼差しを受けながら、起きている事態について整理しようと必死に頭を働かせたが、どだい無理なことだった。


 この中で一番冷静だったのは選挙管理委員長にほかならない。津曲さん曽我部さんの票数をとっくに読み終えた彼女は、淡々と説明に入った。


「ご覧の通り、一位票が三名同数となりました。よって、ただ今から菅原さん、古川さん、黒部さんの三名による決選投票を実施します」


 泡沫候補と呼ばれた二名の票が誰に分配されるのかで、私たちの運命を決めることになってしまった。


 教師があちこちで「早く済ませるように」と指示を飛ばしている。不測の事態が連発で続いて、誰も彼もがもうあっぷあっぷになっている。


「だったら素直に延期しろよなー」


 古川さんが吐き捨てた。


「しょうがないよ。もうここまで来たらどうにでもになれ、だよ」


 私は投票ブースに向かった。すると何者かが、私の手を掴んできた。


 その人は何も言わず、私の目をじっと見つめている。それは何百遍もの言葉よりも効く激励だった。


 私は彼女の手をぎゅっと握り返した。今までの感謝を込めて。

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