メモリー

 夕食は六時から二階の食堂で。仲居さんに部屋番号が書かれたプレートのある席まで案内されたところ、テーブルにはぎっしりと料理が並べられていた。天ぷらにお造りに魚に。コンロに乗っかっている小さな鍋の中を覗いたら安物ではなさそうな肉と野菜が。ご飯もツヤが出ている。これは美味しそうだ。


 仲居さんがコンロの固形燃料に火をつけた。


「ご飯はおかわり自由となっております。デザートもありますので、お声をかけて頂ければお持ちいたします。ではごゆっくりどうぞ」


 仲居さんが引き下がった後も、私たちはすぐに料理に手をつけずまじまじと眺めていた。


「なかなかすごいボリュームですね」

「これでも一人一万円しないんだけどね」


 一万円以内でこれ程の食事ができて、しかも温泉付き。何というコスパの良さか。


「食べようか」

「食べちゃいましょう」


 私たちは手を合わせて、箸をつけた。量だけではなく味も思った通りなかなかのものだ。先輩は口コミサイトで評判の高いところを選んだと言っていたけれど、私も星5つを投稿したいぐらいだ。


 しばらくしたら、女将さんがお皿を持ってやって来た。


「お食事中失礼します」


 テーブルのわずかなスペースにお皿が置かれる。何らかの二種類の肉が盛られていた。


「当ホテルの名物メニュー『馬鹿盛り』でございます」

「ば、馬鹿盛り?」

「はい。こちらが馬刺し、こちらは鹿肉のローストとなっておりまして、つまり馬と鹿で馬鹿、というわけです」

「ああ、そういうことですか。あはははは!」


 あまりもの酷いネーミングに笑いが出てしまった。


「これってサイトに載ってた夕食のメニュー表にありませんでしたよね?」


 美和先輩が笑いをこらえつつも尋ねた。


「せっかく後輩の方たちが遠くからおいでになったので、私からのサービスです」

「ああ、すみません。本当にありがとうございます。遠慮なく頂きます」

「酒のアテにぴったりなので、お二人が二十歳以上だったらお酒もお出ししたのですけれど」


 さすがにそれはダメですよね。


「馬刺しはショウガ醤油で、鹿肉のローストはソースがかかっていますのでそのまま頂いてください」

「はい。ありがとうございます」


 女将さんはしゃがんで、私たちの目線の高さに合わせた。


「ところで、お二人はどういった間柄なのですか?」

「生徒会の先輩後輩です。今度この子が会長選に立候補するので、激励のために」


 美和先輩が答えた。


「あら、生徒会なんですね! いや~かなり優秀なんですね~」

「いえいえ、それ程でもないですよ」


 東大を狙える程の頭脳を持つ先輩が謙遜する。


 女将さんが私の方を向いた。


「立候補に向けて準備万端って言ったところですか?」

「いや、それが公約が全然決まらなくて悩んでるんですよー」

「あら。確かに公約は大切ですもんね。全生徒に向けて政策を約束するわけですから。しかし敢えて、生徒たちが望んでいることではなくて自分の望みを公約にした方が良いのではないでしょうか」

「自分の?」

「はい。私どもは常々お客さまのことを考えて行動していますが、それは『お客さまを喜ばせたい』という自分自身の望みがあるからなんです。それが無ければイヤイヤお仕事をすることになりますから」


 なるほど、まず自分か……。


 確かに、生徒たちの心を響かせるような公約をどうしようかとばかり考えていて私が緑葉をどうしたいかとか一切考えてなかった。思えば今津会長のどこからかパクってきたという公約のフレーズも、自分の描いている緑葉の理想像を表すのにピッタリだったからパクったのだろう。


 私は女将さんに頭を下げた。


「貴重なアドバイスをありがとうございます!」

「あ、いえいえ。こちらこそ差し出がましい真似をいたしました。せっかく貴重なお二人の時間をお邪魔してしまって」


 私はまたいえいえ、と首を横に振った。


「それではお食事と温泉をごゆっくりとお楽しみください。若い頃に仲の良い子と一緒に作った楽しい思い出は、一生心に残ってこれからの人生の糧になりますよ」


 胸を打つ金言だった。


 女将さんはにっこりと微笑んで立ち上がり、別の席にいたお客さんのところまで挨拶回りに向かった。


「良い女将さんですね。私、だいぶ気が楽になりました」

「良かった。これで公約もバッチリ?」

「いける……かもしれませんね」


 一応、断定は避けた。


「あ、お鍋いい感じじゃない?」


 蓋を開けると肉と野菜が、確かにいい感じにグツグツ煮立っていた。


 *


 馬鹿盛りはなかなか美味しかったですね、などと夕食の感想を述べつつ部屋に戻り、私はドアの鍵を開けた。


「ええっ?」


 部屋に上がると布団が敷いてあった。旅館やホテルの和室であれば仲居さんが敷いてくれるからそれ自体珍しいことではない。


 しかし私が面食らったのは、ダブルサイズの布団が一枚しか敷かれていなかったことだ。そして枕だけきっちりと二つ並べられている。だからお一人様だと間違えた、ということは絶対にない。


「女将さん、気を利かせてくれたんだな」

「気を利かせるって……」

「緑葉女学館OGならではのおもてなし」


 ああ、そういうことか……緑葉女学館では友人からワンランク以上先を進んだ関係を持つ生徒は少なくない。そういう校風で育ってきた女将さんは、後輩二人に対して特別な目線を持っているらしい。さっきの「どういった間柄なのですか?」という問いかけは、本当のところは恋仲なのですか、と聞きたかったんじゃないだろうか。それはいいとして、美和先輩が意識しだして私のことを狙ったりしないだろうか。不安感がふつふつと湧き上がってきた。


「さあ、本日二回目のお風呂といきますか」


 先輩が言い出した。とりあえず布団のことは後回しにする。


 タオルは浴場に備え付けのがあるということなので、私たちは着替えと浴衣だけを持って最上階にある浴場に向かった。たまたまタイミングが良かったのか更衣室には誰もいないし、誰かが現在利用している形跡もない。


 先輩の指切りげんまんを信じてはいるが、もし手を出してくるとすればこの時だろう。お互い何も身に着けてない。二人きり。私は警戒しつつ、先輩の後をついて浴場に入った。


 浴場の奥側には石造りの大きな浴槽があり、上諏訪の湯がなみなみと張られている。下諏訪で一度体を洗ったけれど、もう一度念入りに体を洗ってから入ることにした。下諏訪の湯に比べたら熱くはない。


「わー! 千秋ほら、この夜景見て!」


 美和先輩の声が浴場に反響した。窓の外を眺めると、私も声を抑えられないぐらいの感動を覚えた。諏訪湖の周りを取り囲むように煌めく街の灯り。さながら全周十六キロにもおよぶ超大規模なイルミネーションである。


 このきらびやかな夜景を浴槽のヘリにもたれかかって見るのは、いち女子高生にとっては贅沢というレベルを超えていた。何も余計なことを考えずに楽しんでいたけれど、先輩が口を開いたところで、私も思考回路を開いた。


「千秋に一つ黙ってたことがあるの」

「何ですか?」

「この前、千秋につっけんどんな態度取っちゃったことがあったでしょ」

「あれですか。生理と寝不足が重なったら仕方ないですよ。それが何か?」

「寝不足は本当だけど実は生理じゃなくてね、悪い夢を見たんだ」

「悪い夢?」

「うん。千秋とエッチする夢」

「なっ」


 私の体を支えていた腕が浴槽のヘリからずり落ちて、顔が危うく湯に浸かりそうになった。


「な、な、何でそんな露骨なことを……私がどんな気分になるかわからないわけじゃないでしょう?」


 私は警戒心を最大に働かせて、立ち上がった。すぐ逃げられるように。


「確かに気が悪いよね。一層のことそのまま私に幻滅してくれた方が良いかな、ふふっ」

「どういうことです?」


 先輩は諏訪湖の夜景を眺めたままで言った。


「この旅の本当の目的はね、千秋への最後のサービスなの。想いを断ち切る前のね」

「は? それってどういう……」

「千秋、私のこと好き? 恋愛的な意味で」


 先輩は私に顔を向けようとしない。私は躊躇したが、正直に答えた。


「いいえ」

「でしょ? 私はそういう意味で千秋のことが好き。でもね、そんな一方的な感情を抱いたままで今後まともにあなたと付き合えると思う?」

「それは」

「私、いつかまた欲望が暴発するんじゃないかって不安も感じていたの。そんなときにあんな夢を見て。夢の中の千秋は悦んでたけど、目が覚めて夢だとわかった途端に物凄い嫌悪感で吐きそうになった。あの生徒会合宿であなたを犯そうとして後悔したとき比べ物にならないくらいのね」


 物騒な単語を使うあたり、もう嫌われても構わないと言わんばかりだ。


「こんな苦しい思いをするぐらいだったら、千秋とは距離を置こうと決めた。この旅が終わったら単なる先輩と後輩の関係になって、できたら千秋が生徒会長になるのを見届けて私は受験勉強に専念するだけ」

「……」


 そんなこと急につらつらと告白されても。じゃあ私が誘いに乗ったときの喜び様は何だったのか。最後に私に良い思いをさせてあげられるから?


 口では何とでも言えるけど、本当は嫌われるのが怖いんじゃないのか。私を旅行に連れて来たのも、ワンクッション置いて嫌悪感を和らげようとするためじゃないのか。そうとしか考えられない。


 要するに、先輩は未練たらたらだ。


 腸が煮えくり返りそうになったが、怒ったところできっと先輩の思う壺だ。誰が乗ってやるもんか。私は深呼吸して心を落ち着かせてから、


「先輩、そこまで思い詰めてたなんて知りませんでした。でもそれはきっと受験勉強でストレスが溜まりすぎてるせいですよ。変な夢を見たのもきっとそのせいです。私も緑葉の受験勉強でイライラしてたことがあって、そういう時ってどうしてもネガティブなことしか頭に浮かばなくなりましたから。でも合格した後はさっぱり忘れることができました。だから先輩も温泉で心身を癒やしてゆっくりしたら治りますよ、ね?」


 先輩がこちらを向いた。私が怒り出すどころか笑顔になっているものだから、アテが外れたようでキョトンとしている。


「でもそりためには、最低限この場で後味が悪くなるようなことを言うのはやめましょうか。旅行は最初から最後まで楽しくないと。さっき女将さんも言ってたじゃないですか。『若い頃に仲の良い子と一緒に作った楽しい思い出は、一生心に残ってこれからの人生の糧になりますよ』って。私も先輩も、せっかくなんだし楽しい思い出を作りましょうよ」

「千秋……」


 美和先輩は何を思ったか、急に湯の中に潜った。すぐに頭は出したが、入浴マナーに反する行為だ。


「何してるんですか!?」

「馬鹿なこと考えてた頭の治療」

「はあ?」

「千秋ごめん、私、本当にどうかしてた。よくぞ言ってくれたって感じだよ。古川さんに悪いけど、次の会長はやっぱ千秋じゃないとダメだね」

「い、いや。そこまで褒めて頂かなくても」


 気を取り直してくれたのなら、それはそれで結構なことだ。私は安堵した。


「でも結局、千秋と遊んであげられるのは多分これが最後。来年は受験だからね」

「志望校は東大ですか? ちょっと噂に聞きましたけど」


 大学受験のことを聞いてみる。湿っぽい空気を変える良い機会だ。


「そ。私、兄と姉が一人ずついるけど二人とも東大出てるの」

「うわ」


 とんでもないきょうだいだ。親から相当なプレッシャーをかけられているのは想像に難くない。


「でも先輩って末っ子だったんですね。私一人っ子だから良くわかりませんけど、末っ子だと比較的自由にさせてもらってるってイメージです」

「だから敢えて進学校に進んだの。県外に越境してまでね。上二人が苦労して東大入ったのに自分だけノホホンとしているわけにはいかないでしょ」


 良いこと嫌なこといっぱいあったけど緑葉に来て良かった、と先輩は言った。私は緑葉生となってまだ一年も満たない。あと二年、どうなるかまだ知る由もない。でも今日この日は大切な一日として私の心のなかのアルバムにしまわれて、この先ときどき見返すことになるだろう。


 先輩だってきっと同じことだ。例えこの先お互い離れ離れになったとしても、諏訪湖の綺麗な夜景を私と一緒に見たことを楽しい思い出として記憶に残してくれれば。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る