間章
寒い川
栗木市は大都会でもないが極端な田舎でもない、なかなか良い場所だとあたしは思っている。
九州は佐賀を離れてこの土地に引っ越してきてまだ半年程度だが、新しい生活にはとっくに慣れきった。ただ唯一、下宿先から原付バイクで半時間かかる
今年の秋分の日は土曜日である。土曜日は朝早く起きて六時台の電車に乗って緑葉女学館まで出勤するのだが、この日、祝日で学校が休みというのを忘れていて、いつものように五時前に目が覚めてしまった。二度寝はしない主義なので仕方なくそのまま布団から身を起こし、下着だけを身に着ける。あたしは寝る時はいつも素っ裸である。この方が寝つきが非常に良いのだ。
ジャムパンとコーヒー牛乳を口にしながら、今日はどうしようかななどと考える。研究室に顔を出すにもせっかくの祝日で勿体無いという気分だ。だけど時間が経って頭が冴えてくるにつれて、やらなければいけない用事を思い出した。
そういうわけで、あたしはお気に入りの自作囚人服を着て原付バイクを転がした。脱走した囚人が盗んだバイクもとい原チャで走り出す、そのような気分を味わいながら向かった先は大学から西側にある住宅街の、民家に囲まれた中にある二階建てのアパートである。駐車場から見て一階の左端のところに、彼女の部屋はあった。
「おはよう! グッモーニン! ボンジュール! グーテンモルゲン!」
寒川恵梨香がドアを開けて顔を見せた時、あたしは朝日のごとく爽やかな笑顔を見せたが相手はあからさまに不機嫌な様子で、低い声で訴えた。
「副島さん、まだ七時過ぎたばかりですよ……」
彼女は花柄のパジャマ姿のままだった。
「ま、ま。朝ごはん買ってきてあげたからさ」
「何を買ってきたんです?」
「おにぎりのツナマヨと明太子、それとお茶」
そう言うと、彼女は無言で通り道を開けてくれた。前もって好きなおにぎりの具をそれとなしに聞いていたのが功を奏したようだ。
寒川恵梨香が一人暮らしなのに2DKの部屋を借りているのは、一室をアトリエに使っているためである。六畳の広さの中に置ける道具は限られてくるものの、あたしのごちゃごちゃした散らかった部屋とは違って整然と並べられていて、絵を描くのに充分な広さは確保されている。
Tシャツにジャージという部屋着に着替えた寒川がアトリエに入ってきた。あたしが買ってきたお茶とコップ二つだけ持って入ってきたが、朝ごはんは後回しにするようだ。
「学校に行かなくていいんですか? 休みでも部活で登校している子がいるでしょうに」
「いいのいいの。基本、好き勝手やらせてるし」
美術部は活動を再開したものの、今年度の大会には一切応募しないことにした。まずは自分の感情の赴くままに創造する。楽しく創り出す。とにかく面白いと思うものは何でもやってみる。部員たちが忘れかけていたものを思い出させるのが先決だったからだ。今、部員たちはワイワイと楽しくやっている。
「あ、そうだ。君に渡したいものがあって来たんだ。この前協力してくれたお礼だよ」
あたしは手提げ袋から一着の長袖Tシャツを取り出した。
「ま、期待はしていませんがね」
寒川は憎まれ口を叩きながらも受け取って広げてみる。すると、思いっきりしかめっ面になったのであたしはしてやったり、という気分になった。
「これ、副島さんだから仕方ないの一言では済まされない問題作ですよ」
寒川がTシャツを翻して、写真がプリントされてある前の部分をあたしに見せつけた。
以前、あたしの下宿先近くを散歩していた犬が敷地内にフンをしやがって飼い主はそのまま放ったらかしたまま去っていったというけしからぬ出来事があった。しかしフンは形といい色といいツヤといい、あまりにも見事だったのでつい写真に収めてしまった。それに画像処理ソフトで陰影をつけて、飛び交うハエの絵と、「快便」という力強い書体の漢字を付け足してTシャツにプリントしたのだ。
「作業着に使いたまえよ。そのために汚しても構わない図にしたんだから」
「要りません……って言ってもどうせ聞かないでしょうね」
寒川はため息をつきながらも、Tシャツを折り畳んで側に置いた。
「でも、自分のクソみたいな人生にぴったりかもしれませんね」
寒川は自嘲するような薄笑いを浮かべた。
「クソは肥やしに変えたらいいじゃないか。これからの人生のね」
あたしがそう言ったら、寒川の笑い方が変わった。美術部が活動停止処分になり、心の中が荒れていた頃でも感情はあまり表には出さなかったものだが。
寒川がはじめて剥き出しの感情を見せたのは、高倉美和君と菅原千秋君が
大学に姿を見せなくなって、あたしが心配して寒川のアパートに行ってチャイムを押したものの返事がなかった。だけどドアは開いていたので思い切って中に入ったら、寒川のやつは未成年にも関わらずアルコール度数9%の500mL缶のチューハイをグビグビ飲んでいやがった。あたしはそいつを取り上げて怒鳴りつけた。するとあいつはわーわー泣きながら、事の次第を詳しく話してくれたのだった。
話を聞く限りでは寒川が悪いのだが、かといって冷たく突き放したら二度と筆を握らなくなるのではないかと思うぐらい精神的に参っている様子だった。だからあたしはもう毒食わば皿までとばかりに、その晩、寒川を行きつけの居酒屋に連れて行って楽しい酒を飲ませて慰めることにしたのである。
とにかく酒は強かったが、あたしには少し敵わなかったようで三時間ほど飲みまくった後はベロベロになっていた。タクシーを呼んで部屋まで送り届けて、それに乗ってあたしも家まで帰ろうとしたら泊まってください、としつこく引き止めてきたものだから仕方なく泊まることになった。
家に上がるなり、寒川は抱きついてきて酒の臭いが混じった吐息とともにこう囁いた。
「抱いてください」
その蠱惑的な目はいったい何人の女子を虜にしたのだろうか。
あたしは唇を近づけると、寒川は目を閉じて待ち構えた。だけど触れたのは額だった。
「何で……?」
再び開いた目は潤んでいた。
「体で解決できるもんだったら、これ程苦しんでないだろうに。とりあえず今はおやすみ」
そう言い聞かせてやったら、寒川は目から大粒の涙をこぼした。
あたしはこの日だけは服を着たまま、寒川に添い寝してあげた。寝顔はとても可愛くて無邪気な子どものようだった。
あの日から寒川は良い方向へと変わりだしたが、まだ美術部に対する未練は残っていた。そこに彼女の元に舞い込んできた緑葉女学館美術部稼働停止解除と、非常勤講師募集の話。実は栗木市内の公立高校も非常勤講師募集をかけていたのでそっちに応募しようとしていたのだが、彼女から美術部を立て直して欲しい、と熱心にお願いされて翻意した。
こうして、私は来年三月までの契約で緑葉女学館後期課程の美術教師となった。赴任直後の引き継ぎで美術部全員の退部届まで引き継がされて一時どうなるかとかと思ったけれど、菅原君と寒川の協力のおかげで活動再開に成功した。
それを知った寒川は、憑き物が落ちたような良い笑顔を見せた。ようやく、彼女は自分を縛り付けていた鎖から解放されたのだ。これからはもっと素晴らしい絵を描いてくれるに違いない。
「今から研究室ですか?」
寒川が尋ねてきたのであたしは「うんにゃ」と首を横に振った。
「でしたら、今からツーリングに行きましょう。こっちも原付持ってるんで」
「原チャでツーリング? どこへ?」
「近くの海ですよ。最近、気分転換に良くウロウロするんです」
*
栗木市の海岸は大規模なコンビナート群になっていて、波止場からその無機質な姿が一望できる。しかし工場の煙突から吐き出される煙はいわば呼吸のようであり、警告灯を明滅させている巨大な鉄塔はいわば心臓の鼓動のようであり、見ようによってはびくとも動かない巨大な生き物にも見えた。
寒川はあたしが買ってきた朝ごはんのうちツナマヨおにぎりだけ手にして、明太子おにぎりはあたしにくれた。すでに朝ごはんを食べていたけれど、せっかくだからいただくことにした。
コンビナート群を見るのもそこそこにして、あたしは視線の先を海に変えた。
「うーみーはひろいーなーおーきーいーなー、っと」
大海原の潮の香りを味わいながら、明太子の塩味を味わうのはなかなか乙なものだ。
「寒川さん、最近はうんこシャツ以外に何か作ってますか?」
「うんこシャツて……」
言葉の響きの良さに吹き出しそうになる。だけどさすがに食べている最中に彼女の口から汚い単語を出してほしくなかった。あたしの自業自得だけど。
寒川に遅れてあたしもおにぎりを食べ終えると、スマートフォンに写した画像を見せた。
「これ。まだ作りかけだけど」
「うん……? 灰を使って描いてますね」
「ザッツライト!」
私は親指を立てた。何で描いたのかすぐ見抜いたあたり、さすが寒川だ。
「黒く太い曲線にところどころ浮かぶ白い筋。川の絵でしょうか?」
「パーフェクトだよ! お見事!」
あたしは寒川の体を思い切り抱きしめてやった。
「ちょっと、痛いですよ」
「オゥ、ソーリーソーリー」
あたしは体を離す。嬉しくなるとつい力が入ってしまうのは、わかっちゃいるけど直せないあたしの癖だ。
「こいつは退部届を燃やした灰を使って描いたんだ」
「なかなか味なことをしますね。あ、ということは川は『今までのことを水に流す』という暗喩が含まれているとか」
「そう! そして作品名も決めてある。ずばり『寒い川』だ」
ワンテンポ遅れて、寒川はクスクスと笑いだした。ダジャレのつもりで名づけたんじゃないのだから、そこは感心して欲しかったなあとばかりにあたしは口を尖らせると、寒川は「すみません」と軽く謝罪してきた。
「まあいいや。これからは、この川が君の代わりに美術部の支えになるだろうよ」
「ありがとうございます。もうこれで思い残すことは全て無くなりました」
その時、海鳥の群れがけたたましく鳴きながら海を飛んでいくのが見えた。
「ほら、カモメさんが寒川におめでとうって唄っているよ」
「あれ、カモメじゃないです。シギですよ」
「どっちだっていいだろうよ」
あたしは寒川の肩を抱き寄せてやった。特に反発するとか、逆に身を寄せてくるといったことは無かったが、それからは黙りこくってあたしと一緒に時間を経つのも忘れるぐらい、大海原を眺め続けたのだった。
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