運命の九月二十日

 とうとう運命の九月二十日がやってきてしまった。


 前の晩あまり寝付けなかった私は、目をこすりながらカクちゃんと一緒に南校舎のエントランスをくぐったが、校内掲示板のところが何だか騒がしい。たいていこの辺がごった返すのは報道部が『GLタイムス』を掲示する時か文芸部が『リリーホワイト』を頒布する時なのだが、『GLタイムス九月号』は先週から掲示しているし『リリーホワイト』は発刊日ではない。


 不審に思った私は上履きに履き替えて掲示板のところに立ち寄ると、私とカクちゃんが七月に神社に行った時に撮ってもらった写真が載っている『GLタイムス九月号』の隣に、何と私が描いた副島先生の似顔絵が展示されていた。


 それを見た私は素っ頓狂な声を上げた。描いた絵がそのまま展示されていたからではない。目にはは涙が滝のように流れ落ちていて、それは漫画チックで滑稽な表現だったが、私が一切描いた覚えがないものが勝手に描き足されていたのだ。しかも古川さんが私の教科書に落書きしていたように、吹き出しつきのセリフまで書き加えられていた。


『うえーん みんな戻ってきてよー by副島睦美』


 と。


「何なの、これ……?」

「どうしたの?」


 私はカクちゃんに耳打ちして理由を話した。


「これがスガちゃんの絵?」


 カクちゃんは周りに聞こえないよう気を使ってくれたのか、小声で返した。


「うん。先生に描かされたんだけど、誰かが余計なものを描き加えてるししかも生徒会の許可が下りてない状態で掲示されてるんだ……」


 原則、掲示物には生徒会印を直接押してもらうか、生徒会印が押された許可証を添えて掲示しなければならない決まりになっている。


 一体誰がこんなことをしたのか。私の絵はお世辞にも上手とは言えず、ひと目見ただけで副島先生とわかるレベルではない。でも「副島睦美」と書かれているということは、副島睦美の似顔絵と知っている人間の仕業だ。それは私と先生と、一緒についてきた美和先輩しかいないはず。


 まさか美和先輩が、と頭をよぎったものの私はすぐさま否定しにかかった。あの人は副島先生のことを好いていなくても、衆目に晒して恥をかかせるようなことはしない。嫌がらせするにしてももう少し巧いやり方をする、そんな人だからだ。


 もう一人、怪しい容疑者が思い浮かんだ。美術部の一部の人間だ。昨日、大道さんから「菅原さんが本格的に活動しているのを確認したらその時は潰しにかかると言っている」と聞かされた。美術室で何をしているのか、細かいことまで逐次監視されていて筒抜けになっていてもおかしくない。


 私と副島先生を侮辱する。そのために絵を勝手に持ち出して落書きを加えて晒すという行為に及んだとすれば……。


「何これ? ヘッタクソな絵」


 私の視界の隅にいた、パーマがかかったショートヘアの生徒が隣の赤いリボンをつけた生徒に大きな声で言った。


「これ、生徒会の菅原さんが描いたんじゃないの? あの子、最近副島先生と美術室で何かやってるし」

「あ、そっか。副島先生、私達を連れ戻そうとして菅原さんに描かせたんだわきっと」


 やり取りを聞いて、二人が美術部の人間であることがわかった。


「しかし、全然センス無いよねー」

「先生が自分で描いた方が良かったんじゃないの」


 確かに私の絵は人様に見せられるようなものではないし、そもそも人に見られることを前提にして描いていない。馬鹿にされても仕方がない。だけどもし、悪意を持って私の絵に細工していたのであれば話は別だ。


 私は「こんちくしょう」という気持ちになった。先生が高校生の時に作ったドレスを侮辱された時も、多分こんな気持ちだったのかもしれない。


「すみませんねえ! 下手くそな絵で!」


 私が大声を出すと、二人は振り返った。私の姿を見て「あっ」と驚く仕草を見せたから、多分私がその場にいるとは本当に気がついていなかったのだろう。


 二人とも五芒星状に象られた五つの葉の学年章をつけていた。相手はすぐさま、先輩として上からの目線で物を言い出した。


「ふーん。やっぱり菅原さんだったんだ。大変だよねえ、慣れないことしてさあ」


 私は拳を固く握った。今さら遠回しな言い方をしても遅い。


「私はわざわざここに飾るために描いてませんし、涙や吹き出しは誰かが付け足したものです。もしかして、あなた達の仲間が絵を持ち出して落書きしたんじゃないんですか?」

「はあ!?」

「なっ、何よその言い掛かりは! 証拠でもあんの!」


 赤いリボンの方が私のことを指を差して非難する。


「証拠ですか。確かに物的証拠はありません。だけど私が本格的に活動していたら潰す、って言ってたらしいじゃないですか。そのつもりでこんなことをしたんでしょう?」

「誰が言ったのそんなこと! バカバカしい!」

「確かにあんた達生徒会のことは憎いけどね、だからといってこんなせこいことしないよ!」

「ウソだ!」

「ウソじゃない!」


 二人が詰め寄ってくる。私もすっかりエキサイトしていてお互いに掴み合いになりかけたが、カクちゃんが「やめて!」と間に割って入った。周りのギャラリーも続々と止めに入ってくる。


「誰か先生呼んできて!」


 カクちゃんが叫ぶと、どこからか「先生はここにいるよー」と、緊迫した場面にそぐわないのんびりした声がした。


「ここだよ、ここ」

「わっ!」


 中庭側の窓が開いて、副島先生が顔をニュッ、と覗かせたものだからみんなびっくりした。先生はそのまま「どっこいしょー」とオヤジ臭い掛け声とともに窓を乗り越えて直接廊下に入ってきた。それでもちゃんと靴は脱いでいた。


「いつからそこに……」

「ん、ずーっと前から。菅原君の絵、思った以上に凄い反響だねえ」


 まるで他人事みたいにそう言った。


 私が今までの経緯を訴えようとしたら、ショートパーマの方の美術部員が先に訴えでた。


「先生! 菅原さんが絵に落描きしただろうって因縁をつけてくるんです! どうにかしてくださいよ!」


 さっきまで先生の陰口を叩いていたのを忘れたかのようである。


「えーと、君は五年生の伊東君だったね。伊東君の言い分は全く正しい。早合点した菅原君が悪いね」

「先生!?」


 なぜか私のことを一方的に悪者扱いしてくるものだから、悲鳴じみた声が出た。


「何でそう言い切るんですか!?」

「だって、これ先生がやったんだもん」

「は……?」


 確かによくよく考えてみれば、先生が一番犯行しやすい位置にいる。部活だけでなく授業でも出入りするのだから。


 多分、私の口の動きは餌を求めるコイみたいになっていたと思う。伊東先輩たちは「ほら見なさい」と言わんばかりにきつく私を睨んできたが、その目をまともに見ることができない。


 ――何で? 下手くそでも私なりに頑張って描いたものを何で汚すの?


 脳神経がすっかりパンクして思考回路がグチャグチャになっているところに、先生は告げた。


「伊東君、今から美術部員全員を第二美術室に集めなさい。もちろん、菅原君も来るんだ」


 *


 放課後。


「きっちり約束は果たしてもらわないとね」


 高倉美和先輩は、わざわざ自分でラミネートして作った『私は高倉美和の忠実な飼い犬です』の看板を手にしてウキウキしながら廊下を歩いている。もう副島先生は賭けに負けたものだと確信しているのだ。


「あいにくですが、そうならないと思いますよ」

「何で?」


 私は第二美術室のドアを開けた。


 中は生徒たちで賑わっていた・ある者はイーゼルに向かってデッサンを行い、、ある者は粘土をこねくり回し、ある者は彫刻刀を振るい木工に取り掛かっている。その光景に、美和先輩は目を丸くした。


「どうして?」

「理由を知りたいかね?」


 後ろから声がしたから振り返ると、副島先生が立っていた。スーツ姿ではなく、半袖Tシャツに前掛けという格好である。その前掛けはススがかかったように黒く汚れていた。


「先生、どんな魔法を使ったんですか?」

「菅原君から直接聞いた方が早いね」


 ご指名に預かった私は、美和先輩に事の次第を話した。


 *


 朝、先生は私と美術部員全員を職員室に集めるや、美術部員たちに私の絵について一人ずつ正直な感想を述べさせた。大道さんも含めた全員が「下手」というコメントをしてきたが、それはまあそうだろうなと思っていたから特になんとも思わなかった。


 それよりも私の絵を先生が落描きしたことへのショックと、伊東先輩に濡れ衣を着せてしまったことへの罪悪感が胸を締め付けていた。


 私の苦しみをよそに、先生は椅子に足を組んで言った。


「確かに君たちから見たら下手だろうね。だけど菅原君は、体育祭と文化祭の準備があって忙しい中一生懸命描いてくれたんだよ。で、君たちはどうだい? なーんも作ってないよね? いくら下手だと論評しても、君たちは曲りなりにも作品を仕上げた菅原君に負けてると言っても言い過ぎじゃないだろう?」

「先生の論は乱暴すぎやしませんか」


 伊東先輩が噛み付いたが、飄々とした態度を変えない。


「乱暴かねえ。いつまでも意地張って部活に来ない君たちの方が乱暴じゃないかね。君たちや卒業していった作品を見せてもらったけど、どれもすごく良く出来ている。並大抵の努力をしなきゃ作れないものばかりだよ。そうやって積み上げてきた美術部の歴史を、君たちは全部ぶち壊そうとしているんだから」


 淡々とした口調でも、一つ一つの言葉は力強く、その力の前に伊東先輩は何も言わなくなった。


 先生は、掲示板から剥がしてきた私の絵を広げた。


「これね、正確には先生が付け足したんじゃないんだ。君たちのよく知っている人間に描き加えてもらったの」

「まさか」


 私と伊東先輩は異口同音に声を発した。


「そう。君たちの偉大なる先輩にして私の大切な友人さ。君たちが退部するって話、ショックを受けたら困るから今まで本人には黙っていたけどね。教えたらこんなことになるなんて思ってもいなかった、って泣きながら描き加えてくれたよ。この絵の先生の涙は彼女の涙でもあるわけだ」

「う……」


 伊東先輩は体を震わせながら、私の絵を見つめていた。きっと、ヘッタクソだとこき下ろした絵にあの人の手が加えられていたことを知っての後悔とか、あの人に対する申し訳無さとか、いろんな感情が入り混じっているのだろう。それは他のみんなも同じではないだろうか。

 

「先生に言いたいことは山程あるだろうね。でも、美術部だったら作品で語ってみたまえ。今日の放課後、待っているよ」


 先生は美術部員にだけ、解散を命じて私は残された。部員たちがいなくなると、座っていた椅子から飛び降りて地面に這いつくばった。


「菅原君、本当にすまないことをした! この通り、君の作品を利用したことを心から詫びる」

「やっ、やめてくださいよ」


 私は先生を抱え起こした。


「でも先生、人が悪いです。はじめからそういう腹積もりで描かせたんですね。一言前もって教えてくだされば良かったのに……」

「いや、そうすると余計な意識が働いてわざとらしい感じの作品になってしまうと思ったんだ。どんなに下手でも先生のために、と一所懸命描いてくれた絵じゃないと説得力が生まれないからね」

「そうだったんですか……」


 先生は説明を終えると、私の手をとってぎゅっと握りしめてきた。その瞬間、心の中のどす黒い塊が柔らかくほぐれていくのを感じた。


「ありがとう。これで美術部は蘇るよ」

「みんな、帰って来ますでしょうか」

「ああ、必ず。君の絵は間違いなく彼女たちの心を動かした」


 私はこの時、副島先生の笑顔をまともに直視できなかった。笑顔が眩しすぎたのと、自分の絵をお世辞抜きで褒められた喜びから来る照れのせいで。


 *


「ふーん、なるほど。可愛い可愛い私の後輩を利用したのですね」

「先輩!」


 私はさすがに、美和先輩の物の言い方の悪さをたしなめた。それでも先生は大口を開けて笑い飛ばしてくれた。


「菅原君の絵じゃなきゃこうはならなかったよ。あまり人から見て上手過ぎたら部員たちが自信なくすからね。それにしても君、良い後輩を持ったね。大切に育てなよ」


 美和先輩は困ったような顔つきになったが、やがて苦笑いに変わった。


「先生には敵いませんね」


 先輩はラミネート看板をくるくると丸めた。負けましたと意思表示をしているかのようだった。


「あ、しまった!」


 先生が叫ぶ。


「どうしました?」

「逆に部員たちがちゃんと戻ってきた場合、高倉君にどうしてもらうか条件を出しとくんだったな。あちゃー」


 先生は頬に手を添えて、心底残念そうになった。


「今さら後付けで条件を出してもダメですからね」

「むむむ、でも何だか不公平だぞ……」


 先生が首をひねる。何かしら自分の納得いくものを提案しようしているのがミエミエだった。そこに、先生の後ろから一人の部員がひょこっと現れた。


「あっ、伊東先輩……」


 私は先輩に詫びなければならない。


「朝は本当に申し訳ありませんでした!」


 70°の角度で頭を深々と下げると、やや間を置いて、


「言葉では何とでも言えるのよねえ」


 伊東先輩の冷たい声が耳に入ってきた。謝罪を拒絶されるか、何かしらきつい和解条件を突きつけられる覚悟はしている。濡れ衣を着せるようなことを言ってしまった罰は受けなければいけない。


「先生、この子はまだ部に籍を置いてますよね」

「うん、そうだよ」

「じゃあ、部の先輩として命令。菅原さん、私の絵のモデルになりなさい」


 モデルか。もっときつい命令かと思ったけれどそれで済むのならありがたいと思った。最も、ヌードモデルとかじゃなきゃいいのだが。


「高倉さん、それで良いよね? あなた自身に条件は出してないのだし。これはあくまでも菅原さんに対する罰だから。わかった?」

「わかった」

「菅原さんもわかった?」


 私には「わかりました」以外の返事はできなかった。


「でも、この子は大切に扱ってあげてね。諍いはこれで終わりにしましょう」


 美和先輩が手を差し出すと、伊東先輩は「フン」とそっぽを向きながら握り返した。生徒会とは和解はするが、個人としては仲良くしてあげないぞ、ということだろうか。


 でもこれで、一応は結着したと言えるだろう。


「よかった、めでたし、めでたしだ!」 


 副島先生は扇子を取り出して満足げに顔を扇いだ。さっき頬に手を添えたところが黒く汚れているのも知らずに。


 その後、私はヌードモデルにはならなかったが、椅子にロダンの『考える人』のようなポーズで座らされ、少しでも動いたら怒られて。それが約二時間もの間、ずーっと続いたのだった。


 ようやく解放された私は重い足取りでエントランスに向かったが、美和先輩が待っていてくれていた。すでに下校時刻に差し掛かっていて、校舎内には蛍光灯が灯っていた。


「お疲れ様」


 先輩がそう言って差し出してきた缶コーヒーはとても冷たかった。


「ごちそうさまです。すみません、もう少し早く終わったのですが副島先生の話がしつこくて」

「しょうがないねえ、あの人は」


 先輩はクスッと笑った。


「さ、帰ろ帰ろ。もう日が落ちるの、だいぶ早くなったしね」


 エントランスから出て空を見上げると、鰯雲が夕陽に照らされてオレンジ色に輝いている。


 太陽はあと少しで沈んでしまうが、沈んだまま終わることはない。半日後にはまた私達や、緑葉の校舎を照らしてくれる。


 その繰り返しがあと十七回続けば、いよいよ二学期一つ目の山場、体育祭だ。その日が来るまでは長いようで短い。

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