償い

 九月十三日、水曜日の朝。カクちゃんこと赫多かえでさんとその連れの古徳聖良さんと一緒に登校するいつもの風景だったが、私の体はまだ筋肉痛が取れず、自転車を押して歩くだけでも苦痛だった。


「うぐぐぐ……サ◯ンパスが全然効かない……カクちゃんはどう?」

「私はまだマシな方かもね。でも体育祭本番が終わる頃には筋肉ムキムキになってそう。ていうかもう足が心なしか太くなった気がするし、あーやだやだ」


 カクちゃんは嘆いた。


 今日も五・六時間目にLHRロングホームルームの時間を取って体育祭の練習に割り当てられる。そして私達はまた本多さんの巨体を支える苦行に挑むのだ。本人には誠に申し訳ないが、練習というより苦行という言葉がふさわしい。


「かえでちゃんから聞いたけど、会長って相当無茶苦茶なこと言うんですね。私、東組で良かったですよ」

「古徳さん、いつも鉄板入りリュックサックを背負ってるから重たいのも平気でしょ。私とチーム変わる?」

「いやです」


 私の冗談に対して、古徳さんは即答した。


 カクちゃんが「ところでさあ」と切り出して話題を変える。


「スガちゃん美術部に入ったんでしょ。よく入る気になったよね」

「私の意志というか、政治的理由があって」

「政治ねえ。ま、理由はだいたい想像つくわ」


 カクちゃんは背負っているリュックをピョコっと上下させた。


「どうよ、副島先生は」

「うーん、掴みどころがない変な人だなあ、と」


 率直に受けた感じを率直に伝える。


「あの人ホント変わってるよねー。私、美術の授業受けてるからわかるけど」


 そう言えば、カクちゃんは芸術科目では美術を選択していたのだった。副島先生の授業ぶりを聞くいい機会だ。


「先週の授業でギリシャ彫刻の話になったんだけどね、何で男の彫像のアレが小さくて皮がかぶってるのが多いのかって下ネタウンチクを言い出して、それだけで授業の最初の三十分が潰れたからね」


 真面目ちゃんなんて言われてる私でも反応せざるを得ず、吹き出してしまった。同時に体の節々が痛む。


「でも面白くて良い先生だと思うよ、前川先生には悪いけど。真面目なスガちゃんとは相性が合わないかもしれないけどね」

「ううん、そんなことない。今、絵を描かされてるけど『上手下手じゃない』って言ってくれるし」

「何の絵を描いてるの?」

「副島先生の似顔絵」

「コンクールに出すの?」

「出せるわけないじゃない。下手くそなのに」


 緑葉女学館の美術部もスガちゃんの代で終わりかなあ、とカクちゃんは意地悪っぽく言ってみせた。事実、全国大会に出展経験がある部活は存亡の危機に立たされているが。


「大丈夫かなあ、あの先生。私、来年後期課程に進んだら美術を取るつもりなんだけど」


 古徳さんがカクちゃんに話しかける。


「聖良が後期に上がる頃には退任してるよ。聞いた話だけど、副島先生は四月に常勤講師を採用するまでの中継ぎだって」

「え、前川先生は?」


 私は口を挟んだ。


「肺がん、結構進んでたみたいでもう復帰は難しいらしいよ」

「そうなんだ……」


 前川先生とは接点が無く話したこともないけれど、心苦しい気持ちになった。美術部員は果たしてどう思っているのだろうか。


 *


 放課後、私についてきて第二美術室に入った美和先輩は鼻歌を歌うぐらいに上機嫌だった。先輩が警戒している人物がまだ姿を見せていないからに他ならない。


 美和先輩は私の隣の机に座って、英語の問題集とノートを取り出して勉強を始めた。私も題材である先生が来ないと描けないので、それまでに家に帰ってからやろうとしていた漢文の宿題に手をつけることにした。


「あいたた……」


 シャーペンを動かしている最中に、体全体に痛みが走った。さっきまで二時間ぶっ通しでやっていた体育祭の練習の後遺症は深刻である。普段から運動しておけばまだマシだったかもしれないけれど。


「大丈夫? 私、生理痛の鎮痛薬持ってるけど筋肉痛にも効くからあげるよ」

「ください!」


 私はすぐに返事すると、美和先輩は鎮痛薬を手渡した。それをすぐさま水筒のお茶で飲む。すぐに効果が現れるわけではないのだが、気持ちだけ痛みが和らいだ気がした。


「ふー、ありがとうございます」

「マッサージもしてあげようか。どこが痛む? 腕? 肩?」

「いや、そこまでしなくていいですよ」


 と言ったものの、もう先輩の手は肩にかかっていて親指でグリグリと圧迫してきた。


「うわ、カッチカチになってる」

「そりゃあ、まあ、あんだけやりましたら」


 曖昧な言い方をしたけれど、本音は「練習時間の半分以上を騎馬戦に費やして、本多さん長い間持ち上げていたせいで筋肉がボロボロになりました」である。


 美和先輩は私の肩をほぐしながら、教科書を覗き込んできた。


「あ、今『鴻門之会』やってるんだ」


 昔、お父さんが買ってきてくれた『漫画世界の歴史』を読んでいたからあらすじはわかっている。漢王朝の祖、劉邦の人生最大のピンチを切り抜ける場面はそのまま演劇の題材に使えそうなぐらいドラマチックだ。


 ページをめくると、信じられないものが目に飛び込んできた。私は「あーっ!」と声を荒げて、先輩はクスクスと笑いだした。


 挿絵には落書きがされていた。剣舞で攻防を繰り広げている武将たちに『あの子は私を愛しているのよ』『何よこのどろぼう猫!』と吹き出しつきのセリフが書き込まれ、天幕に乱入しようとしている樊ロ會はんかいには『やめて! 私のために争わないで!』とあった。緊迫したシーンが女同士の痴話喧嘩になってしまっていた。


「ふ~る~か~わ~! あいつー!」


 私は犯人の名前を呼び捨てにして呻いた。なぜ古川恵が犯人と断定できるのか。それは一時間目が始まる前に奴は北組の教室にやって来て漢文の教科書を忘れたから貸して欲しい、と拝み倒してきたからである。困った時はお互い様だし快く貸してあげたのに、仇で返すなんて悪ふざけが過ぎる。ボールペンじゃなくシャーペンで書き込んでいるだけ、まだ良心のかけらはあったようだけれど。


「今度、千秋が古川さんの教科書借りて落書きしてやればいいんだよ」

「そんなことしても面白がってますます調子に乗るだけかと。はあ~……もうっ」


 私は今度古川さんに会ったら会長みたいに頭グリグリしてやるんだ、という決意を胸に秘めつつ消しゴムで落書きを消そうとしたら、そのタイミングでドアが開いた。


「グッドアフタヌーン!」


 副島先生が英語教師みたいな挨拶をして入室してきた。


「おや、高倉君もいるじゃないか。何しに来たのかね」

「遊びに来たんです」


 先輩はそう言うなり、肩を揉んでいた手を胸のところにやり、私の頭の上にアゴを乗せてきた。


「ひゃっ」


 心の準備が出来ていなかった私は体がビクッ、となった。普通だったら教師がいる手前、離れて然るべきなのに堂々とくっついたままである。まるで私を守ろうとしているかのようだ。


「ハハハ、仲が良いんだねえ」


 賞賛か皮肉かわからないような笑い方だった。


「入学前からお世話してますから。ねえ千秋?」

「そうなの?」

「え、ええ。私、後期課程からの編入生なんで授業に追いつくために春休みじゅうずっと補習を受けてまして、美和先輩からもいろいろ教えてもらったんです」

「へえ~、そりゃ大変だったろう。でも良い先輩に巡り会えて良かったじゃないか」


 私の頭の上で美和先輩がフフン、と得意げに鼻で笑うのが聞こえた。


 でも、先生はそんなことに全く気に留めてないようだった。準備室から描きかけの絵を持ち出してきたから、私は勉強用具一式をカバンにしまった。その際、さすがに先輩が邪魔だったので「すみません」と断って退いてもらった。


「じゃあ続きをやろうか。高倉君は生徒会の仕事は大丈夫なのかい?」

「今津さんがいますから」


 美術室に居座るつもり満々である。それでも先生は嫌な顔ひとつせず、千円札を取り出して先輩に手渡した。


「じゃあ、何でもいいから先生に飲み物買ってきてよ。菅原君にも。お釣りはお駄賃で取っておいて」

「ありがとうございます。ごちそうさまです」


 私はてっきり美和先輩が「ご自分で買いに行かれたらどうですか?」なんて言い出さないかとヒヤヒヤしていたけれど、素直に受け取って美術室から退出していった。


「仲良くしてもらうためには金と物で釣るのが一番の近道なんだよね。ゲスな手段だけど。先生は高倉君のこと全然嫌いじゃないんだけどねえ」


 と、先生はお手上げのポーズをしてみせた。


「あの」

「何だい?」


 先輩がこの場にいない今、私は聞きたいことを聞くことにした。


「寒川さん、まだ美和先輩のことを何か言ってたりしてますか……?」

「いいや、何も。今は油絵の勉強に集中しているよ」


 先生は続けて言う。


栗木芸術大学クリゲイには推薦入試でトップの成績を収めた学生の作品を新入生歓迎展示会に展示する習わしがあるんだけどね。油絵コースでは寒川さんがトップだったから、彼女の作品が展示されたんだ」

「えっ、そうなんですか。凄い。さすが、全国大会に出展しただけありますね」


 この点は素直に褒めることにした。


「どんな作品だったんですか?」

「うん。抽象画だったけど何かこう、言葉で上手く言い表せないけど曲線を多様して色の塗り方もグニャグニャしていて、気持ち悪いなと思った。だけどそれが何だか癖になって何度も見返してしまうんだ。推薦を受けるだけの力はあると思ったね」


 私は頭の中でどんな絵か想像しようと試みた。とにかく曲線を多様していてグニャグニャで、副島先生も作品を審査したであろう教授たちの心も打った作品。うん、私の乏しい才能では想像するのは無理だ。


「で、その後に寒川さん本人に会って、そこから何回も会って話すうちにお友達になったんだけどね。ある日彼女が自分の描いた絵を見て欲しい、って言ってきたんだ。で、また抽象画を見せられたんだけどこれまた気持ち悪さに拍車がかかっていてね。こいつ何か心に闇でも抱えてんじゃないかと思ったよ、正直。だけどね、やっぱり何度も見返しちゃうんだ。そう、油ギトギトで化学調味料にまみれたラーメンのスープが体に悪いとわかっていてもつい飲んでしまう、あの感じさ」


 乱暴な例え方だが、これはどういう感じなのか私にも何となくわかる。私はラーメンを食べる時にはスープまで飲んでしまう派だからだ。


「心の闇の理由を打ち明けてくれたのは、君たちが栗木芸術大学クリゲイに来た直後だったね。急に大学に姿を見せなくなったんで心配して下宿先に行ったら、まあ未成年の癖に酒びたりになっていて、生まれて初めて本気で怒ったよ」

「で、どうなったんです?」

「旨い酒飲ませてやるっつって居酒屋に連れて行った。で、朝まで愚痴なり何なり聞いてやったさ」

「先生だって飲ませてるんじゃないですか!」


 仮にも教員免許を持っている人間がやっちゃいけないことだろうと、私は突っ込まざるを得なかった。でも先生は笑って受け流す。


「だけどね、その日から寒川さんは変わっていったよ。吹っ切れて作品作りに没頭するようになったし、作風もガラリと変わった。絵から気持ち悪さがすっきりなくなってね」

「良かったじゃないですか」


 私は言った。だけど先生は「うーん」と首をひねった。


「まだ、何か問題が?」

「確かに絵からは気持ち悪さがなくなったけど、どうも中途半端になってあまり魅力的でなくなってしまったんだ。まるで暑い日にぬるいコーラを飲んでしまったような」


 また変な例え方をしたが、これもわかる。いくら美味しいコーラでも冷えてなければがっかりするものだ。


「だけど、それは本人もスランプだと認めているところだ。その原因は、何だかわかるかい?」

「美術部への心残りと、今までしてきたことへの後悔でしょうか」


 私が答えを言ってみると、副島先生は「完璧な回答」と親指を立てた。


「あの子はもう二度と緑葉女学館に関わらないと約束させられて、本人も美術部のことを忘れようとしていた。部員とももう連絡も取ってないしね。だけど別経由でふと、美術部の現状があの子の耳に入ったんだ。やっぱり思い出の場所って簡単に棄てられないものでね、それであたしに美術部を立て直して欲しいと頼んできたってわけ。彼女なりに償いをすることで、寒川恵梨香自身にまだこびりついている怨念を祓おうとしているんだ」


 寒川さんが美術部や美和先輩の周辺をかき回して過去は変えられないし、その点は反省をしてもらわなければならない。私も寒川さんにきついことを言った。償いをしたいという気持ちまでは無碍に拒絶することはできない。あの人自身も苦しんでいるのであれば尚更のことだ。


「よし、話はここまでにして描こうか」

「いろいろ話してくださってありがとうございました」

「お? 今日の菅原君、何だかこの前よりいい眼をしてないかい?」

「そうですか?」


 褒められて、ちょっとくすぐったい気分になった。


「お待たせしました」


 美和先輩が戻ってきた。先生より先に私に冷たいレモン味の炭酸水を渡してきたあたりに微妙な悪意を感じたが、実際はもっと露骨だった。先生が缶コーヒーを手にした途端、「おおおう!」という声を出した。


「高倉くぅん、何で熱いのを買ってきたのさ!? ホワイ!?」

「何でもいい、とおっしゃいましたが?」


 副島先生は美和先輩の前に出てきて、いきなり片手を振りかざした。


「あっ!」


 まさか先輩を殴る……のかと思ったらその手は肩の上にポンと置かれて、先生は頭を深々と垂れた。


「ちゃんと言わなかった先生が悪かったね。反省!」

「……こちらこそすみませんでした。気が利かなくて」


 美和先輩の謝り方は心底申し訳ないという気持ちから出たものではなく、謝らなきゃ後々で面倒になるから仕方なくという感じだった。どっちにしろ、先輩は先生のペースに巻き込まれてしまったようだ。


 そして似顔絵を描く作業は続けられた。その日のうちにスケッチは終わって、翌日木曜、中一日あけて土曜と色鉛筆を使って色塗りをした。塗りも全然ダメダメだったが、どうにか完成にこぎつけた。


 できた副島先生の似顔絵の出来を、美和先輩は「まあまあじゃない?」と評して副島先生は「完成させることができたね、偉い」と言ってくれた。私の自己評価はというと「美術部員と名乗るには申し訳ないぐらい下手」でしかなかった。先生は作業中含めて一言も「上手い」と言わなかったあたり、そういう評価なのだろうなあと勘ぐらざるを得なかった


 だけどひと仕事終えたからか、言いようのないぐらい良い気分になることができたのである。


 肝心の美術部員は、結局土曜日まで一人も戻って来なかった。

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