嫉妬
体育祭と文化祭の成功に向けて、緑葉女学館生徒会がフルスロットルで動き出した。各クラスから選出された体育祭実行委員と文化祭実行委員と連携しながら、同時並行で円滑に物事を進めなければならない。わずかな休み時間の時に、長いお昼休みの間に、そして早朝、放課後に、時には自宅に持ち帰って。私たちは山盛りになっている案件とがっぷり四つで格闘していった。
そんな目まぐるしい日々を送り出してから一週間と少し経った九月九日の土曜日。この日は三時間目と四時間目が
六学年合わせて約240名が体操服である白い半袖シャツと深緑色のハーフパンツを着用して、各々が出る競技の練習に取り組む。教師はいるがあくまでも付き添いで、練習メニューを考えるのは生徒たちだ。
前期課程の子たちは主に応援合戦の練習に取り組み、曲に合わせて飛んだり跳ねたりしている。その傍らで、私は100メートルリレーのバトンパスの練習と、ムカデ競争の練習と綱引きの練習を行った。
これだけに終わらず、授業が終わった後も下校時刻まで自主練習と準備を行った。自主練習という形を取っているものの、帰ろうとする生徒は全くおらず、部活が無い生徒たちは積極的に練習に参加していた。特に、部活を引退した六年生は受験勉強の憂さ晴らしも兼ねて張り切っている。六年生の先輩たちは文化祭ではお客様として「受験勉強お疲れ様です」と後輩たちに労われる立場になるので、行事の運営に手出ししない。つまり、体育祭は積極的に関われる最後の学校行事だ。志望大学に落ちるのを覚悟で受験勉強をほっぽりだして練習に打ち込んでいる先輩もいると聞くから、私たち後輩は中途半端な真似は一切できない。
自主練習の時間、「玄武」チームは再び河川敷に集まった。私は、今度は騎馬戦の練習に取り組んだ。これが恐ろしいぐらいにきつかった。
「ふんおおおお!!」
私の上でクラスメートの
「凄い、凄い! 私の見立てた通りだ!」
同チームの今津会長が手を叩いて喜んでいる。私はというと、もう腕の力も無くなって疲労困憊の極みにあった。
「ううっ、みんなごめん! もう限界!」
私はとうとう力尽きて、騎馬は土台からガタガタっと崩壊してしまった。
「ふぎゃっ!」
本多さんに押し潰された私の口から、カエルの鳴き声のような悲鳴が飛び出た。
「く、くるしい……」
体重にのしかかられて私は身動きが取れず、息も出来ずで手足をばたつかせる。本多さんはようやく気づいてか「ごめ~ん……」と、のっそりと立ち退いた。無事気道が確保できた私は酸素を胸いっぱい取り込んで二酸化炭素を吐き出したが、起き上がる気力は全く失せてれそのまま地面に這いつくばった。
「おいおいすがちー、力ねえなー」
「い、いえ違うんです。だって……」
「だって?」
その先は本多さんを傷つけるから言えない。身長177センチ体重××キログラムという彼女の巨体を支えるのは三人がかりでもきつい、ということを。同じく騎馬を務めているカクちゃんと
元々四人の中で、一番体重が軽い私が騎手になる予定だった。そして本田さんは料理同好会所属とはいえ、小学生の頃は自治体主催の女子相撲大会で優勝したこともあり、緑葉女学館入学前に靭帯を損傷していなければ柔道部に入っていたと言うぐらいの巨体に見合う怪力の持ち主なのである。だから本来は土台向き、というか土台にしかなれないはずなのだ。それなのに会長は私と本田さんを入れ替えるという、狂気の沙汰ともいえる指示を出した。
「何もちょこまか動かなくていいんだよ。そのままゆっくり歩いて相手に組み敷いたが最後、上背と力を生かして押し潰すだけだ」
「そんなこと言っても、持つだけでも物凄い疲れるんですが……」
「だまらっしゃい!」
会長が吠えたので、私は体をびくつかせた。
「これは諸葛亮孔明もびっくりの必勝の策だ! 本番までとことん鍛えまくってやるからな! 家でも筋トレしろ! プロテイン飲め! ササミを食え!」
「うええ、そんなあ……」
私は仰向けに大の字になった。会長の有無を言わさない態度に頭が痛くなってきた。首を横に向けたらカクちゃんが私に向かって合掌してるし。こんな練習続けてたら本当に浄土に旅立ってしまうかもしれない。
「おーい、千秋ー!」
視界の角に、美和先輩が駆け寄ってくるのが見えた。文化祭実行委員長との打ち合わせで自主練習に遅れてくるとのことだったが。私はゆっくりと、重たい体を起こした。
「副島先生が今すぐ第二美術室に来いって」
「先生が?」
一応は美術部員となった私だったが、あくまで生徒会活動と体育祭の練習をメインにするという約束は先生にとりつけている。だけど今週は処理しなければならない案件がたくさんあって、全く顔を出せずじまいだった。そのことが先生のしびれを切らしたのだろうか。
でも騎馬戦の練習という、私にとっては荒行にしか思えない行為と天秤にかけると答えは明白で、渡りに船とばかりに私は会長に頭を下げて、第二美術室のある南校舎に戻ることにした。会長は「仕方ねーな」と言いつつもぶーたれた不満顔を隠さなかった。
*
「菅原くぅん!」
第二美術室に入るなり、長い間ご飯のお預けを食らった仔犬のような悲しい表情をした副島先生の顔が視界一杯に飛び込んできた。
「早く絵の一枚でも描いておくれよお。活動実績を作らないとさぁ!」
「わ、わかりましたからあまり顔を近づけないでください」
「じゃあ、早速お絵描きの時間だ!」
副島先生は画用紙と画板と鉛筆を渡してきた。私は席に着くと、先生の指示に従って机を変形させた。美術室の机は特殊な作りになっていて、甲板部だけを斜めに立てることできる。手前には出っ張りがあるから、斜め状態でそこに画板を乗せれば簡単なイーゼルに早変わりするのである。
「で、何を描いたらよろしいのでしょう?」
「先生の似顔絵を描こうか」
ちゃっかり、一人称が先生になっているのを私は聞き逃さなかった。
確かに私には描きたいものがあるわけではないので、言う通り副島先生を題材にすることにした。
先生は隣の席から椅子を持ってきて、私の机の隣に置いて背もたれを前にして座った。
「画力には期待しないでくださいよ」
「言っただろう、絵は上手下手じゃないって。さあ、君の熱いソウルを画用紙にぶつけてみたまえ」
私は先生の顔をちらちらと横目で見ながら、輪郭の下書きから始めた。先生の輪郭は綺麗な卵型だけれど、私が描くと線がいびつになってしまう。
「うう、何か違う」
「そんなに小難しく考えなくてもいい。リラックスして」
「見られながらというのは緊張しちゃいますよ」
「じゃ、お話しながら描こうか。何か先生に聞きたいことでもあるかい?」
「はい。じゃあ……副島先生は何で芸術の道に進もうと思ったんですか?」
「これしか能が無いから」
「い、意外と消極的なんですね……」
でも、芸術の才能を持っている人はそうそういないものだ。
「だけど絵に彫刻に陶芸に工作に、何でも人一倍はやってきたよ」
「じゃあ、いろんな作品が作れるんですね。その中からファッションデザインの道に進んだきっかけは何だったんです?」
「高校生の時に文化祭でファッションショーをやってね。手芸部の子たちと協力してきらびやかなドレスを作ったんだ」
「それで服作りの面白さ目覚めた、と」
「違うね」
先生が首を横に振った。
「見る奴みんなに酷評されてさ。自分で着たんだけど『こんな悪趣味なドレスを作って着られるその神経がわからん』と面と向かって言ってきた奴もいたよ」
「ええー……」
どんなドレスを作ったか知らないが、そんなこと言われたら私だったら心をへし折られてもう二度と立ち上がれないかもしれない。
「もう腹が立って腹が立って仕方なくてね。だったらとことん悪趣味な服を作って困らせてやると決めて美大に進んだのさ」
「はあ……」
この人は相当ひねくれているなと思った。芸術の才能がある人は少なからずそういう気質があるけれど。
「先生と最初に会った時に着ていた囚人服も自作ですか?」
「そう。自信作の一つだけど、一般的な感性を持ってる人間の目からは悪趣味にしか見えないだろうね。君もそうだろ? 正直なところ」
困った私は「ううん、まあその」と曖昧な答え方をしたが、先生は軽く笑い声を上げた。
「そんな天邪鬼な先生でもね、緑葉の制服は素直に凄く良いと思っているよ。上品でいて飾り気がなくて。葉っぱの枚数で学年を表す学年章ってのがまた良いじゃないか。無機質な数字なんかよりよっぽど素敵だよ」
そう言えば数字なんか馬鹿らしい、というようなことを先生は言っていたのを思い出す。テストの点数と順位という数字に一喜一憂し、生徒会の仕事の納期に四苦八苦している私では、到底そんな境地に至ることはできないかもしれない。
先生が机を覗き込んできた。
「お、顔っぽくなってきたね」
輪郭をどうにか描ききって、髪、目、鼻、口に取り掛かる。しかし人並みに描けているかどうかと言われれば、微妙だ。
「すみません、なかなか上手く……」
先生はフグみたいにふくれっ面になって、私の額に人差し指をちょん、と押し付けてきた。
「上手下手じゃない、って何度言わせるつもりだい。先生、怒っちゃうよ?」
「ううっ、すみません」
「すみません、も禁句! さあ、とにかく思うままに手を動かそう!」
「はいっ」
私は鉛筆を再び動かした。
そして気がついたら、もう午後四時手前になっていた。
「よし、今日はこのぐらいにしようか。続きは水曜日にね」
私は先生の指示を受けて、作りかけを準備室の片隅に保管することにした。
続きは水曜日、と言ったのは、先生は水・木・土曜の週三日出勤してくるからである。今はまだ大学では夏休みが続いている最中とはいえ、来月から秋学期が始まったら講義は大丈夫なんだろうかと心配して聞いたら、博士後期課程の講義は基本的に週に二回しかなく土曜は完全休講という答えが返ってきた。土曜授業もある緑葉に比べたらスカスカで楽そうに思えるけど、博士後期課程ともなると教授の指導を受けての創作活動や作品研究がメインになって、教科書読んでテストを受けてはい合格、というような世界ではないとのこと。
「どうだい? 美術部員として絵を描いてみた気分は。綺麗事は要らないから率直な感想を言ってみたまえ」
「とても疲れました」
私が率直にそう答えたら、頭をポンポンと優しく叩かれた。
「それだけ一所懸命取り組んだってことだよ。次も疲れるぐらいやろう」
「はいっ」
「ん、いい返事だ」
先生はくるりとドアの方に向いた。そのまま出ていくかと思ったが、
「おーい、そこは自動ドアじゃないぞー。用があるなら入りたまえよ」
誰かいるらしいが、私は全く気がつかなかった。しかしドアはゆっくりと開いた。
「あ、美和先輩!」
「ずいぶん熱心にご指導されたようですね」
その言い方にはあからさまに棘があった。
美和先輩は腕を組んでいる。教師に向かって取る態度ではないが、私が長い間留守にしていたのを怒っているのだろうか。
「忙しい時にすまなかったね、菅原君を呼び出して」
副島先生は先輩のふてぶてしい態度を咎めはしなかった。
「それは構いませんが、ここには千秋以外に誰もいませんよね。誰か一人でも部に復帰したんですか?」
「いいや」
先生がごく短く答えると、美和先輩はため息をついた。
「先生が結果を出さなかったら千秋が可哀想ですよ。その辺、わかってますか?」
とうとう、攻撃的な態度が言葉に現れだした。教師が生徒にこんな生意気な言われ方をしたら間違いなく怒るだろう。だけど先生は余裕をたっぷりと含んだ笑顔を見せて、こう言った。
「再来週、二十日の水曜日を楽しみに待ちたまえ。その日、ここは部員たちで埋まっているから」
「ええっ!? そ、そんなこと約束して大丈夫なんですか!?」
先生の自信満々な豪語に、私は思わず口に出してしまった。学校からは一ヶ月の猶予を貰っているのに、それを十日も短縮するような真似をするなんて。
「今言いましたね? 確かに二十日、と」
「言ったとも」
「わかりました。では楽しみにお待ちしています。しかし、もし出来なかった場合は、教師としてどう責任を取るおつもりですか?」
ほら、そう来ると思った。でも先生は笑顔を崩さないまま、また豪語したのである。
「『私は高倉美和様の忠実な飼い犬です』の看板をぶら下げて四つん這いになって校内を一周してやるよ」
「えっ、えええっ!」
「千秋、今の言葉しっかりと聞いたよね?」
久しぶりに、美和先輩が怖い笑みを浮かべた。
「は、はい」
「用件はそれだけかな? じゃ、先生はこれで失礼するよ」
副島先生がドアに手をかけたところで、美和先輩が「まだあります」と呼び止めた。
「何だい?」
「寒川恵梨香とはどういう関係なんですか?」
「ふむ、元カノのことがそんなに気になるのかね」
「そうではありません。寒川恵梨香がまだ何か良からぬことを企んでいて、先生と共謀している可能性が否定できません」
「ふむ」
副島先生が急に真顔になったものだから、私は身構えた。
美和先輩の言い分はわかる。寒川さんは嫌がらせをしてきた過去があるのだし、美術部立て直しというのは名目で副島先生を通じてまた小細工してくるかもしれないと、思っていても仕方のないことだ。
しかし先生はそれでも怒らず、先輩を「フフン」と鼻で笑い飛ばした。
「単なるお友達でそれ以上でもそれ未満でもないよ。たまたま彼女の描いた絵を見る機会があってね、それにグッ、ときて、話しかけて知り合った、というだけ。別に高倉君が思い描いているような深い関係ではないね」
「じゃあ何で、その単なるお友達に美術部立て直しをお願いしたんですか?」
「やれやれ、信用ないんだなあ」
副島先生は眉をハの字にしながら自分の頭をポリポリとかいた。
「寒川さんを嫌う気持ちはわかる。だけど彼女は変わりつつあるよ。罪滅ぼししたいという気持ちが募って、そのことを単なるお友達に打ち明けて頼みこむぐらいにはね」
「罪滅ぼし……罪滅ぼしですか」
美和先輩の言葉にはまだまだ信用できない、という感じが滲んでいた。私も正直、美和先輩と同じ気持ちである。寒川さんは美和先輩のことを心底愛しているように言っておきながら、裏では女の子を次々と食い物にしていたのだから。
「まあ、今の君の頑なな態度じゃ先生が何を言っても聞き入れてくれないだろうね。それはそれでいいよ。君にもいろいろあったんだしね。だけどこれだけははっきり言っておく」
「何です?」
「今日の晩ごはんは何かな、とワクワクしていた方がまだ健全だよ。じゃ、今度こそ失礼。シーユー!」
副島先生は手をひらひらと振って美術室を出ていった。
「千秋」
「はいっ」
美和先輩がとてつもなく低い声で私の名前を呼んだので、思わず「気をつけ」の姿勢を取った。だけど先輩の声色はすぐに優しいものに変わった。
「大丈夫? 何もされなかった?」
「え、ええ。大丈夫ですよ。何かされてたらとっくに先輩に訴えてますから」
「それもそうだね。じゃ、戻ろう。自主練習は下校時間まで続くんだからね」
美和先輩は私の手をグイッと引いて、美術室から引きずり出すようにした。
「あ、カギ! カギ閉めさせてくださいよ」
「早くして、早く早く」
先輩がこれでもかと急かしてくるのでカギをカギ穴に入れるのに手間取ってしまったが、どうにか閉めた途端にまた手を引く。そして早足で歩いてグイグイ引っ張るものだからついて行くのに必死だった。
「す、すみません、もうちょっとゆっくり歩いてもらえませんか?」
「ダーメ、時間が惜しいの」
そう言うなり、ますます歩みの速度を上げ、引っ張る力も余計に強くなる。何だか、副島先生への苛立ちを私にぶつけて発散させているようにしか思えなかった。いや、そうに違いなかった。
「ねえ千秋」
「何です?」
「次部活に行く場合、私に一声かけて。一緒に行くから」
「えっ!?」
「えっ、じゃない。千秋が心配なの。あなた、寒川恵梨香に顔が似てるんだし」
私はようやく気がついた。そうか、美和先輩は副島先生が私と親しく接するのが嫌だったのか、と。
――嫉妬
頭の中にこの二文字がボウッ、と浮かぶ。私は先輩をからかうつもりはなかったけれど、試しにこう尋ねてみた。
「先週、副島先生が私に抱きついてきたのはどう思います?」
「嫌」
先輩の答えは短かったが、私の手を引っ張る力がかなり強くなった。
高倉美和はまだ菅原千秋に好意を抱いている。そのことをを改めて認識させられた行動だった。
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