副島睦美先生

 副島睦美そえじまむつみ先生は栗木くりき芸術大学博士後期課程一年生で、ファッションデザインを専攻している。出身は佐賀県で、元々は地元にある佐賀美術大学というところに通って美術の教員免許を取得した。さらに大学院に進んで修士号も取ったものの、その直後に師事している教授が栗木芸術大学に移籍したために後を追ってきたのだそうだ。


 本来ならば今津会長が座っている上座の席に副島先生は片足を組んで座っている。仮にも教師なのにお行儀が悪いが、格好はなかなかサマになっていた。囚人服の変テコな学生の面影は微塵もない。


 生徒会室のエアコン設定は28℃になっているものの、古いせいかあまり効きがよろしくない。だから先生は扇子で顔を扇いでいた。扇子には何だかよくわからない意匠のロゴが施されているが、そのことについて突っ込んで聞こうとする者は誰一人としていない。


佐賀美術大学サガビでも大学院行きながら公立校で非常勤講師やってたけどね、緑葉ここの方が給料が高くていいよ。交通費もしっかり出るし。さすが私立だ!」


 先生は生徒たちに向かって待遇面のことについて正直に話す。でも緑葉ここの教師は他所の私立校に比べたら薄給だとチラッと聞いたことはある。学費は安いのだが分人件費や設備の維持管理費にお金が十分に回らず、その一端がこの古いエアコンに現れていた。


「これしかありませんが、どうぞ」


 今津会長が自ら紙コップに午後ティーを淹れて先生に差し出すと、「オウ、サンクス!」と言って早速、全部飲んでしまった。


「ぷはーっ、この喉越し、最高だ!」


 先生はビールを飲んだ大人のような感想を口にした。


「いい飲みっぷりですね、もう一杯どうです?」

「頂こう」


 会長はペットボトルを両手で持ち、先生もまた両手で紙コップを持って受ける。大学教授である父さんがゼミ生を家に招いて酒を酌み交わす時によく見せられた光景だった。


 先生が二杯目を口につけている最中に、美和先輩が言い出した。


「まさかまたここでお会いするとは思いませんでした」


 先生は半分飲んだところで、紙コップをテーブルに置いた。


「緑葉女学館が急遽美術の非常勤講師の募集を行うことになったって、実は寒川さんから話を聞いてね」

「えっ」

「あの人が……」


 寒川恵梨香かんかわえりか。因縁の人物の名を耳にした美和先輩の顔色が露骨に変わった。


「おおっと、そんなに身構えないでくれよ」

「そう言われるということは、もうご存知なのでしょうね」

「うん、全部寒川さんから聞いてるよ。どういう仲だったかもね」


 それ以上詳しいことを言わなかったところに、美和先輩に対する配慮が見て取れた。


「あの子は美術部の行く末を今でも気にかけていてね。あたしに緑葉に行って美術部を立て直して欲しい、とお願いしてきたんだ。それでまあその、はっきり言ってしまうと寒川さんに学校へ口利きしてもらってだね、うん」


 最後らへんがちょっと小声になったあたり、コネ採用の後ろめたさがあるのかもしれない。


 寒川さんの件は和解が成立したということにして、これ以上は大ごとにはしないというのは教職員たちとも話し合って決めたことである。かなり悪い言い方をすれば「表沙汰にしないで揉み消した」ということだ。


 だけど寒川さんは本当だったら学校や美和先輩に対する名誉毀損、年端もいかない女の子に次々と手を出しいかがわしい行為を撮影した関係で児童ポルノ法違反で訴えられてもおかしくない身である。学校に頼み事をするなんて何と図々しいことかと思うが、教職員採用に関してはいくら生徒会でもどうこうできる立場にはない。学校が副島先生の背後に見え隠れする寒川さんのリスクを承知で採用を決めたのであっても、私達はそれに従う他ないのである。


 今津会長は自分の眼鏡を拭きながら話を聞いていたが、かけ直してから、


「私達生徒会と美術部は非常に仲が悪いです。そのこともご存知ですね?」

「うん。だからこうしてこれからは仲良くやっていこうねと、顧問として挨拶に来たのさ」

「それだけじゃないように思いますけどねえ。まだ何かあるでしょう?」

「えーと、君の名は何だったっけ?」

「今津。今津陽子です」

「ようこ……プロトンかな?」

「そうです。プロトンですよ」


 私は禅問答的な会話に首をかしげたが、その答えを副島先生からバラした。


「ほら、プロトンって『陽子ようし』って意味だから。理科でやったろう? 陽子電子中性子の陽子だよ」


 確かに陽子ようこ陽子ようしとも読めるけれど、回りくどい呼び方をしなくてもいいのに。それに会長はよく即答できたな、と思う。


「で、話の続きだけどねプロトン君」

「はい?」


 まさかそのままあだ名にされるとは思わなかったのか、今津会長の片眉がピクッと上がった。本人は美和先輩以外の役員やサブをあだ名呼びするのに、自分があだ名で呼ばれるのは気に食わないのだろうか。ま、初対面であだ名で呼ばれたら誰だって良い気はしないだろうけれど。


「実はだね、美術部の状況は君達が思っている以上に深刻なのだよ。これを見てくれ」


 副島先生はパンツのポケットから輪ゴムでまとめられた、カードケースサイズの紙の束を取り出して私達に見せた。それが部員全員分の退部届だと知らされるや「ええ?」とか「うわ!」といった声が上がる。


「仕事の引き継ぎの時に一緒に渡されて参ったよ。一応は保留扱いにしているけれど、上から一ヶ月以内に復帰させるようお達しがあってね。もし叶わない時は……これ以上は言わなくてもわかるよね」


 会長は舌打ちして唇を歪めた。


「何でさあ再出発だ、という時に一斉退部してどうしようってんですかねえ。また新種の嫌がらせか? あいつら全く、何考えてんだかさっぱりわからん。猛暑にやられてとうとうヤケクソになったか?」

「さあね。退部届には退部理由を書くところが無いからあたしにもわかんないよ。きっと君の言うことも当たりだろうし、新参のあたしへの反発もあるかもしれない。もしかしたら前川先生の突然の入院が美術部に取って『呪い』に見えてしまって、モチベーションが無くなった、とかあり得るかもね」

「呪い、ですか」


 呪い、という言葉に反応してつい古川さんを見てしまった。古川さんも意図に気づいてか、『違うっつーの』と口パクで伝えつつ顔をしかめた。


「どんな理由にせよ、ただ単に『戻って来い』って説得するだけじゃ無理だね。もう一度美術部に戻ってやろう、と向こうから思わせないと」

「先生は何か良い考えを持っているんですか?」

「うん、まずは菅原君を部員として迎えたいんだ」

「……」


 何を言っているのかわからなかったが、みんなもそうに違いなかった。変な沈黙がそれを如実に物語っている。部員を部に戻すために私を部員にするって、理屈が全然わからないし。だけど今津会長だけはポン、と手を打った。


「わかった。部員ゼロの危機に直面した美術部の惨状を聞きつけた生徒会が、対立を乗り越えて体を張って助けようとしている、と見せつけてやるわけですね」

「ザッツライト! つまり、菅原君には生徒会と美術部の和解の架け橋になってもらうということだね」

「ちょ、ちょっと待ってください。何で私なんですか」

「ん? 何となく」


 私はパイプ椅子から転げ落ちそうになった。何となく、て……。


「別にコンクールに出せって無茶は言わない。何か描きたいものがあれば好きに描いたらいいよ」

「いやいや。私、絵心がほとんどないですよ? 芸術科目選択も美術を避けたぐらいですし……」

「いいんじゃないかな? 私は賛成だな」


 と、私が言い終わる前に口を挟んだのは下敷領鈴しもしきりょうすず先輩だった。


「サブで部活入っていないの菅原だけだろ。菅原がここに来たばかりの時にも言ったけど、部活には入った方が良いんだって。例え形だけでもこれを機会に、どうだろう?」


 古川さんは郷土研究会、茶川さんは科学部。そして忘れかけていたけど団さんも料理研究同好会に入っている。確かに部活に入っていないのは私だけなのだ。だからと言って私に白羽の矢を立てる理由にならないだろう。


「ですが……」

「絵ってのは上手下手じゃないんだ。一ヶ月の間でいいんだ、とりあえずやってみなよ」


 先生は扇子を私に向けて扇いだ。汗がにじみ出ているせいか、送られてくる風が冷たく感じる。


「……もし一ヶ月で部員が戻らなかったら?」

「廃部なんてできないからね、正式に部員になってもらうよ」


 周りは私を見ている。特に会長からは「ウンと言わんかい」という無言の圧力が、眼鏡越しの鋭い目線にありありと現れている。きっと私が断っても口に出して命令するだけだろう。実質的に「はい」か「イエス」の二択に等しかった。


「……わかりました。一応、やってみます」

「はい、じゃあここに一筆書いてね」


 副島先生は胸ポケットから二本指でシュッ、と流れ良く入部届を取り出した。何と手際の良いことか。


 私はその場で名前を書かされて、美術部員になってしまったのだった。

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