間章

昭和二十三年の記憶

 生い茂る山々と滔々とうとうと流れる環川たまきがわは全く変わることがない。国破れて山河あり、とはよく言ったものである。


 昭和二十三年(1948年)、戦争に破れた日本が急激な価値観の変化に追いつかず混乱している頃。私、河邑きくは高校三年生という新しい肩書きを手に入れて通学を続けていた。


 緑葉女学館高等女学校はGHQの進めた学制改革によって「緑葉女学館中等部」と「緑葉女学館高等部」に分かれ、本来であれば昨年高等女学校五年生だった私は今年で卒業する予定だった。しかし学制改革は私にもう一年、高校三年生として学ぶ機会を与えたのである。


 河邑家は代々岩彦の地に暮らす農家だったが、江戸時代の末期に環川の治水事業に大きく関わったために富を得ることができ、それを元手にして田畑を大きくしていったという。「河邑家に逆らっては岩彦村で暮らしていけない」と陰で言われる程、地元で影響力を持つに至っていた。


 しかしそれも、GHQの農地改革によって手持ちの田畑を国に二束三文で買い叩かれ、別人の手にタダ当然で渡っていったことで終わってしまった。私も当然勉強どころではなくなって、高等女学生として卒業するかもう一年高校生として過ごすかは選択できたから、迷わず卒業を選択して就職しようとした。だけど緑葉女学館を創られた、藤瀬みや先生はそれを許さなかった。「学費の面倒は見るからもう一年通いなさい」とおっしゃったのだ。その学費の出処が先生の住んでいたお屋敷や土地や家具一式を売り払った金だと知った私は、先生の想いを無碍にするわけにいかず、両親に頭を下げてもう一年学び舎に通うことになったのである。


 私の残留を最も喜んだのは同窓たちだった。下級生は私のことを「きくお姉さま」と呼んで慕い、同級生は隙あらば私の気を引いて特別な仲になろうと画策した。私ではなく河邑家の威光にすがりたいだけの人もいたけれど、没落しても私に群がる生徒たちは絶えなかった。


 顔は良い方だという自覚はある。どうもその他に魔性の力と言うべきか、年頃の女子を惹き付ける何かを持っているらしい。そういえば入学したての頃は上級生に恋文を多数貰ったこともあった。


 藤瀬みや先生が私を残したのは、生徒たちの心の拠り所になって欲しかったからだと思った。敗戦で国民の心は荒んでしまい、それは学問の場にも及んでいる。昨年も旧帝大生が強盗殺人事件を働いて世間を震撼させた。「何もかもが無茶苦茶な世の中だが、緑葉女学館だけは清潔な場であり続けて欲しい」とみや先生は私におっしゃっていたが、そのお気持ちは痛いほど理解できた。


 戦火で親きょうだいを失って心に傷を負った生徒たちを、少なからず私は目の当たりにしてきている。彼女たちの救いになれるのであれば、私の持つ特性をとことん利用してやるつもりだった。


「きくお姉さま、おはようございます!」


 登校すると、十人ほどの後輩たちが校門で列を作って私を出迎える。いつもの光景だ。公平に輪番で出迎え役を決めているらしい。


「おはようございます。今日も一日がんばりましょうね」

「は、はいっ!!」


 後輩たちは上ずった声で返事をして、黄色い声で私に声を掛けてもらったこと喜びをみんなと分かち合った。この後輩たちは身内や親しい人を戦争の中で亡くしている。私の声掛け一つだけで悲しみ、辛さがほんの少しでも癒えてくれたら嬉しい。


 天皇陛下は現人神であることを否定されたが、私は女神のように崇められていた。だけど私とて人の子であることに変わりはなく、落ち込むときはとことん落ち込む。


 ある土曜日のことだった。


「はあ……傘持ってくればよかったわ……」


 新聞の天気予報では雨だったが、その日は朝は晴れていたので傘は要らないと思っていた。しかし帰る間際になって土砂降りになってしまったのである。家はほんのすぐそこだが、ずぶ濡れにならなければいけない。判断を誤った自分に腹が立ち、情けなくなった。


 雨中を強行突破しようかしまいか、玄関で二の足を踏んでいると声をかけてくる子がいた。


「き、きくお姉さま。よ、よろしければ私の傘をお貸しいたしますが……」


 おかっぱ頭のその子は頬を赤らめている。「お出迎え」で見たことが無い子だ。


「でも、あなたはどうするの?」

「よ、予備を持っていますので……」


 ならば遠慮はするまい。渡りに船だ。


「では、お言葉に甘えさせて頂くわ。ありがとう」


 私は助かった、という意志を笑みで表した。するとその子はいきなり涙を目に浮かべて、身を震わせたのである。


「あら、私に声をかけるの、そんなに緊張してたの?」

「い、いえ違うんです。そっ、そのっ……」


 ヒック、ヒックと嗚咽混じりになった。感激の涙ではないことは確かだ。


「何かワケがありそうね。よければ私の家でお話を聞かせてもらえるかしら? お昼ご飯も一緒にどう?」

「お、お姉さまのお家でご飯ですか!?」

「変な誤解をされそうだから誰も家に上げたくないのだけれど、今日は特別よ」

「お姉さま……!」


 彼女の涙はたちまち大滝のようになった。今度こそ感激に打ち震えているに違いなかった。


 私達は二つ傘を並べて校門を出た。


 *


 彼女はお茶を飲んで落ち着いたところで、自己紹介をはじめた。


「私、この春から高等部に入学した石崎もなみといいます」

「もなみ? もしかしてフランス語のmon amie(私の友だち)から来てるのかしら?」

「そうです! 周りからは変な名前だってからかわれるんですけど」

「そう? ハイカラで素敵な名前じゃない」

「えっ、そんなこと言われたの、は、初めてです……」


 顔が再び、熟れた柿のように真っ赤っ赤になる。


「きく! ご飯ができたわよ! みんなも呼んできて!」

「家族を呼んでくるからちょっと待ってちょうだいね、もなみちゃん」


 そう言い残して私は台所にいるお母さんに「はーい!」と大声で返事し、納屋で機織りの仕事をしていたおばあちゃんとひいばあちゃんを呼びに行った。帰ってきた時には、もなみちゃんの顔はすっかり茹で上がっていた。私の声一つで顔を赤らめる女の子は多けれど、ここまではっきりわかりやすく可愛らしい反応を見せるのはそうそういない。


「ありゃりゃ、きくがお友達を連れてくるなんて珍しいねえ」

「こりゃ大雨になるわけじゃわ。がははは」


 ばあちゃんとひいばあちゃんが居間に入ってきた。ばあちゃんはもちろん、文久生まれのひいばあちゃんはまだピンピンしている。河邑家の女は総じて長命だった。


 ちゃぶ台にはすでに母さんの手で昼ごはんが並べられていた。今日の献立は野菜の煮付けと麦飯とお味噌汁である。


「いただきます」


 みんなで手を合わせて箸をつける。もなみちゃんは緊張しっぱなしで箸が思うように進んでいないようだったが、家族総出で話しかけて少しずつ緊張感を解いてあげた。そうするうちに笑顔を見せるようになり、会話が弾んだ。


 食事が終わり、二人きりになったところで私は切り出した。


「あの時、何で泣いていたのか教えてくれるかしら?」

「ええ。実は私、報道部に入っていまして」


 報道部は今年できたばかりの部活で、『GLタイムス』という学校新聞を月に一度発行するのを活動としている。


「入部してから個人的に取材していた案件があって、ついに特ダネを掴んだのです。それを部長に報告したら、『今更事件を蒸し返すの』って激怒されて話を聞いてくれなくて……」

「事件? あなた、一体何を追っかけていたの?」

「十七年前に起きた紫雲山の心中事件です」


 その事件は緑葉女学館において話題にすることは禁忌とされているが誰もが知っているという、いわば公然の秘密だった。


「あれね……もなみちゃんには悪いけど、私も亡くなられた方の名誉のためにそっとしてあげるべきだと思うわ。何を知ったのか知らないけれど」

「女学生が実は殺されていた、としたら話は変わってくるでしょう?」


 私はガバッと身を乗り出した。


「お姉さま、お顔が、お顔が近すぎます……」

「あら失敬。でもその特ダネ、ただごとではないわね。どうやって掴んだの?」

「自分の足を使って、現地近くの村まで行って聞き込みをしました」

「まあ、何という行動力!」


 もなみちゃんは最初、心中事件を振り返る目的で現地取材に行ったとのこと。村民への聞き込みも現地で事件がどう扱われていたか聞くためだったが、その中の一人が国鉄北山線の駅で二人の姿を見た、と証言した。それは女学生の遺体が発見された時間の三十分前のことだった。


「証言が正しければ汽車でさらにどこかへ逃げるつもりで、紫雲山に登る理由がありません。例え汽車に乗る直前に追っ手に見つかって駅を離れざるを得なかったとしても、紫雲山までは車でも使わなければ三十分でたどり着けるはずがないのです。バスはありましたが紫雲山近辺に停留所はありませんし、車で移動したとしか考えられません。お二人の家は共に資産家でしたし、車を保有していてもおかしくありません」

「つまり、彼女たちは追っ手によって車で山まで連れ去られて殺されたか、車の中で殺されて亡骸は山に捨てられた、と言いたいの?」

「ええ。でも物的証拠があるかと言えばノーです。勘で言えばイエス、ですけど」


 とは言うものの、もなみちゃんは自分の推理に自信があるようだ。しかし一つだけ根本的な問題がある。


「実の娘を手に掛けるなんて冷酷なことができるの?」

「女性のことを家を守り子どもを産み育てる機械としか考えてないようなのが親だったら、男に興味を示さない娘は排除すべき異物のように思っていてもおかしくありませんよっ」


 興奮気味にまくし立てるので、私はもなみちゃんの両肩に手を置いて「落ち着いて」となだめた。


「す、すみません」

「決めつけはよくないことよ。確かにそう考える古い人間はまだまだこの世にたくさんいるけれどね。でもこれからの日本は大きく変わっていくに違いないわ。その時こそ緑葉女学館の真価が発揮されるのよ。わかる?」

「わかります。わかりますとも、ええ」


 藤瀬みや先生が女性の自立という想いをこめて創られた緑葉女学館。その先進的な校風は世間の理解を得たと言い難く、女性観を覆すことが今まで叶わなかった。「あんな女学校に行ったらお転婆になって嫁の貰い手がなくなる」と陰口を叩く者もいたぐらいだ。


 だけど日本の新生には必ず女性の力が要ることになる。時間はかかるかもしれないが、藤瀬みや先生の理念が現実化する未来はそう遠くないうちに確実に来ると信じている。


「もなみちゃんの将来の夢は何かしら?」

「夢ですか? それはやはり新聞記者になることです。これからは言論がものを言う時代ですから。お姉さまは?」

「食堂を開いて、安い代金でお客様をお腹いっぱい食べさせたいわ。もなみちゃんに比べたらささやかな夢だけど」

「とんでもありません! 誰もが美味しいものを食べられる世の中を作り上げていきましょう」

「そうね」

「お姉さま!」


 もなみちゃんが急に私の手を握ってきた。打って変わっての積極的な態度に私は目を白黒させたけれど、もなみちゃんの瞳はメラメラと燃えていた。


「絶対に夢を叶えて、新しい時代の女性として、新しい日本づくりに貢献しましょう。それが亡くなった女学生の無念を晴らすことにも繋がると思います。そして、彼女たちの分まで長生きましょう!」

「わかったわ。じゃあ、約束よ」


 私達は指切りげんまんをして、誓いを立てたのだった。


 * * *


「はぁ?」


 私が手に耳を当てて聞き返すと、孫娘はより一層大きな声を出した。


「おーばーあーちゃーん! お友達から手紙が来てますよ!」

「おお。持ってきておくれ」


 孫娘が差し出した手紙を、私は老眼鏡越しに読む。かつてお姉さまと慕っていた河邑きくさんからの手紙だった。高等部一年、もとい後期課程四年生(何でこんな呼び方に変わったんだか)に上がったばかりのひ孫の撫子ちゃんと一緒に写っている写真が同封されていたが、もうすぐ米寿だというのにまだまだお元気そうで何よりだ。


 年のせいもあって直接会いに行くことはできなくなったものの、今でも手紙でのやり取りは続いている。私は早速返事を書くために便箋とペンを取り出したが、そのたびに若い頃を思い出す。


 私は緑葉女学館を卒業した後、東大に進学した。その頃は里帰りするたびにきくさんの実家に顔を出していたが、当時のきくさんは村役場に勤めていてすぐに同僚の男性と結婚し、娘の梅乃さんを産んでいた。かといって退職するわけではなく、食堂を開くという夢を叶えるために一所懸命働いていた。


 ある日、きくさんにカレーライスの作り方を教えたらこれが大好評だった。海軍士官だった父親から教わったカレーのレシピを元に、野菜をふんだんに使ってアレンジしたものだったが、後にこれがきくさんの開いた食堂の名物メニューになるとは当時思っていなった。その食堂も今は閉めてしまったので、みんなの口に入ることがなくなったのが残念である。


 私はというと、東大を卒業後に大手新聞社の記者になり、夢を叶えることができた。社会部に所属して激動の昭和の中で起きた様々な事件の取材に駆けずり回ったものだ。おかげで結婚できたのはきくさんよりも遥かに遅い三十歳の頃で、今の世ならいざ知らず当時は相当な晩婚扱いだった。仕事一筋に生きるつもりで結婚する気が無かったのに、父親に心配されて止む無くお見合い結婚したのだ。そのまま寿退社となったが仕事は辞めず、子育てをしつつフリーランスの記者として日本を飛び回った。筆を置いたのはつい二十年前のことだ。


 手紙には「撫子に紫雲山心中事件の真相について話したらなかなかウケが良かった」といったことが書かれてあった。もうあの事件を知っている者はほとんどいまい。卒業後も交流があった同窓たちも、大半が鬼籍に入ってしまった。


 だけど私がかつて追いかけて、手に入れて、握りつぶされた事件の真相はこうして今でも伝えられている。私はペンに「撫子ちゃんも後世に伝えてくれることを期待します」と願いを託した。


 悲劇の女学生がいたのだという事実は風化させてはならない。そして彼女たちの分まで長生きするという約束を、これからも果たしていくのだ。

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