第2話 怪文書事件
怪文書
ゴールデンウィークが過ぎた頃である。
通学路の市道ではいつもの登校風景が繰り広げられていたが、きっと新入生たちの何人かは五月病にやられているかもしれない。
私はというと春休みでもずっと勉強漬けだったし、生徒会に入ったこともあり、高校生になってから(正確には高校じゃないけど)一息ついたりはしゃいだりする余裕が無かった。それでも周りのサポートでどうにかついて行っているから、五月病には罹っていない。
ただし、心身に何も問題が無いかと言えばそうではない。生徒会合宿では高倉美和先輩と一悶着あった。百パーセント先輩が悪いのだが、あの夜に見せた悲しげな顔がいまだにはっきりと脳裏に焼き付いていて離れない。
あの夜から、高倉先輩とは会話らしい会話ができていなかった。関係を改善できていないままで、生徒会に顔を出すのは気が重い。五月病より厄介な病に犯されていると言って良い。
クラスメートの
「おはよう菅原さん。久しぶりだね」
「本当に久しぶりだよ。赫多さんたちはゴールデンウィークはどこか行った?」
「聖良を連れて実家の方に里帰りしたよ。で、温泉三昧」
「へー、温泉が出るんだ?」
「うん、八坂市は県内屈指の温泉地で有名なの。おかげで肌がつるつるになったよ。ねえ聖良?」
「うん、つるつる。一緒にこれも飲むと効果は抜群ですよ」
古徳さんがそう言ってポケットをごそごそさせて取り出したのは、茶色い小瓶だった。
「うわ、スッポンの生き血」
これには本当にろくな思い出がない。
「あ、そう言えば菅原さんは飲んだことがあるんでしたっけ。じゃあ話は早い。どうです? なまった体に気づけの一杯でも」
「い、いえ、気持ちだけ受け取っておくよ」
古徳さんは血が大好きで、赫多さんと吸血プレイをするドがつく変態である。現に、赫多さんの右手の五本の指全てにテーピングが施されている。彼女はソフトテニス部に入っているため、周りからすれば指の保護のために巻いていると見られるだろうが、実際は違うと確信している。ゴールデンウィーク中に、聖良さんと濃厚なことを堪能していたに違いなかった。
古徳さんと別れて南校舎エントランスをくぐり、上履きに履き替えて数日ぶりに校舎内に上がると、校内掲示板のあたりに人だかりができていた。
生徒たちのざわめきぶりは殺伐したもので、ただ事ではない雰囲気が漂っている。何だろう一体?
「あ、すがちー! 大変だ! 大変だよ!」
「どうしたの?」
「自分の目で見たらわかる!」
私は古川さんに手を掴まれ、掲示板の前まで引っ張られていった。
そこで見たものに、私は思わず「うわっ!」と口走った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
コンピューター部予算着服問題について
我々はコンピューター部の予算着服について告発したにも関わらず生徒会執行部役員の◯◯◯◯はコンピューター部部長の●●●●と副部長の◎◎◎◎のソンタクを受け全てをもみけした◯◯◯◯は体で今の地位を手に入れた大悪女である◯◯◯◯は●●●●と◎◎◎◎の体を見返りに差し出させたにちがいない藤瀬みや先生が泣いておられるぞいつかきさまに天バツがくだるとおもえ
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
A4用紙にWordで書かれた、改行も句読点も一切入れられていない不気味な怪文書。これが掲示板一面にびっしりと、何枚も貼られていたのである。
「何これ? ほとんど伏せ字の意味ないじゃん!」
赫多さんが怒る。気持ち悪い文章だが、誹謗中傷の類であることは明らかだ。
◯◯◯◯は文字数的に執行部役員全員が当てはまるが、後半部分を読むと恐らく誰もが彼女しかいない、と確信するだろう。
その人物が現れた。彼女が掲示板に近寄ると、モーゼが紅海を割るかのように生徒たちが左右にすっと分かれる。
「誰? 生徒会の印鑑が押されてないのに掲示したのは」
高倉美和先輩はそう言って、表情ひとつ変えずに片っ端から怪文書を引き剥がしてひとまとめにくしゃくしゃに丸め、無造作に投げ捨てた。それから私達に、睨むような目で言いつけた。
「千秋さんと古川さん。団さんと茶川さんにも連絡して。お昼に緊急会議を開くから」
*
緊急会議には生徒会執行部だけでなく、常任委員会の委員長も集まった。常任委員会はいわゆる委員会活動を取り仕切る機関で、執行部の下で動いている。
また、当事者であるコンピューター部部長の
生徒会室に集められた各メンバーを前にして、高倉先輩は怪文書を真っ向から否定した。
「告発があったのは事実ですが、調査した結果不正は一切認められませんでした。会計の
パラパラと紙をめくる音があちこちから起こる。
「当然ながら体どうのこうのといった関係もありません。そうでしょう? 杭田さん、長岡さん」
「あ、当たり前だ! 私にはこの子がいるからな!」
「同じく」
杭田先輩が吠え、長岡先輩は静かに同意した。二人は見せつけるように手をぎゅっと繋いでいる。二人はそういう仲なのである。強がってはいるが、本当は不安に駆られているに違いなかった。調査の際に弱みを握られていたし。
「では、誰がこの怪文書を書いたの?」
保健委員長の
「みんな、だいたいわかってんじゃないのかね」
美術部……と誰かがボソっと呟いた。
美術部は予算配分を巡って会議の場でコンピューター部と揉めたあげく、逆に自身の不正会計を追及されて休部状態になっている。追及したのは高倉先輩だ。コンピューター部の予算着服の告発状を送りつけたのは逆恨みした美術部員じゃないかという疑惑があったが、証拠が無いので疑惑止まりになっていた。
「何も美術部に限らないでしょ?」
と口を開いたのは図書委員長の
「はっきり言っちゃうけど、高倉さんのことを快く思っていない人間は大勢いるわ。一切生徒会活動も委員会活動もしてこなかった癖にいきなり副会長なんだから。しかも普段の行動がねえ……」
「竹園」
今津会長が静かに、しかし険しい顔つきで竹園先輩を睨みつけて言った。
「私は選挙前から美和ちゃん……高倉を副会長にすると公言していた。その上で選挙を経て会長に選ばれたんだ。つまり高倉も信任されたということ。君は生徒の民意を否定するのか?」
「民意? 得票率15%しかなかったくせに。立候補者が20人ものどこぞやの知事選並の混戦じゃなかったら落選してたわよ」
「得票率1%も無かった君に言われたかあないな」
「なっ!」
ガタガタ、っとテーブルが揺れる。竹園先輩が立ち上がって今津会長に詰め寄ろうとしたが、
「本について熟知していたから図書委員長に取り立てたけど、やっぱ人格もちゃんと考慮しなきゃいかんよなあ。おいがわちゃ、こいつをつまみ出せ。ダンロップは塩撒いとけ」
「はい」
茶川さんは竹園先輩をズルズルと生徒会室のドアまで引きずり、外に押し出した。さらにダンロップこと
邪魔者を排除して会議を進めた結果、名誉毀損ということで教師を通じて犯人を調査してもらう、ということになった。
各常任委員長が退席した後、執行部メンバーだけでそのまま室内で昼食を取ることになった。あまり時間は無いからさっさとお弁当を食べてしまおうとしたら、高倉先輩が声をかけてきた。
「屋上まで来て。話したいことがあるから」
合宿でのいたずらがあってから、私達の仲は微妙なものとなっていた。三連休に入る前には二日間だけ登校したが、挨拶を交わすだけで特にこれといった会話らしい会話をしていない。だから躊躇していたのだが、このまま人間関係がこじれたままでも良くないというのはわかりきっている。
「わかりました、行きましょう」
私は高倉先輩と一緒に屋上まで上った。
暖かい微風と五月晴れの程よい陽射し。いつぞやの防災倉庫前よりは昼食を取るのに遥かにふさわしい場所である。私はいつもの母さんの作ってくれた弁当だが、高倉先輩は小さな菓子パンとジュースだけ。それだけで足りるのかな、とつい心配する。
合宿での出来事に触れるのかと思ったが、そうではなかった。
「私が生徒会執行部役員に選ばれたのは、特殊なケースなの」
「特殊?」
「うん。普通は執行部サブや委員会活動で経験を積んでから、その実績を引っさげて生徒会会長選挙に望むの。落選しても会長の手で役員や委員長に取り立てて貰える可能性があるからみんな必死になってね。そのことは、河邑さんの:研修で教わったよね?」
「はい。でも昨年は20人も立候補者が出たんでしたよね?」
「立候補自体は新五年生であれば誰でもできるからね。多分この年はたまたま、多くの生徒が万が一を狙って立候補したんだろうけど。ちなみに最有力候補は河邑さんだった。何せ、彼女は緑葉のサラブレッドだからね」
「でも、結局は今津先輩が勝ったんですよね」
「うん。最初は不利だったけど、陽子は広報委員会をやってたからその知識を活かして宣伝戦略で少しずつ支持者を増やして。でもあの子、クセがある性格でしょ? だから反今津派も結構いたの。だけど反今津票が河邑さん以外の18人に分散してしまったせいで得票数が伸びず、結果としてあの子が最多得票を記録した、と」
「なるほど。実際の選挙でもよくある構図ですね」
「で、私は選挙で陽子のお手伝いをしていたから。そのご褒美ってわけじゃないけど、副会長の座を貰ったわけ。でも私は生徒会活動を一切経験したことがなくて。執行部役員にサブどころか委員会活動未経験者が選ばれるのって異例なことだったから、もう認証式は荒れに荒れたっけ」
高倉先輩はまるで他人事のように話した。菓子パンの袋の封を切ったきりで一口も食べていない。
「何で会長は、高倉先輩を副会長に選んだんでしょう?」
「そりゃ、私とだと一番やりやすいからじゃない? お互い、入学してからずっと同じクラスだったし。でもよくやるよねえ、私の悪評を知った上で懐刀にしようってんだから」
「悪評、ですか?」
「知らないの? 私の女癖の悪さ」
そういうことに関しては赫多さんから予め聞かされていたが、本人の口から語られるのはこれが初めてである。合宿の件でそういう性的嗜好だと私に悟られた、と思い打ち明けたのだろう。
「だけどね……」
高倉先輩は大きく深呼吸した。それから意を決したように大きな声で、
「正直に言う。あの合宿の晩、いたずらじゃなくて本気だったの。力づくでもあなたを手に入れようとしてた。その、元カレの話を聞いて何というか、嫉妬というか……」
こんなにしどろもどろになる先輩は初めて見る。
「つまり……私のことが好き、と?」
高倉先輩は大きくうなずいた。
やっぱり、という感じで、特に驚きは無かった。今までのきっと最初に私を見た時から好意を持っていたに違いない。
だけど、私はそれに応えることができない。
――いつかは飽きてポイされるだけだから
という忠告をかつて赫多さんから受けたことがある。別にそれに従うというわけではない。
ただ単純に、私はやはり同性を恋愛の対象として見ることができないのだ。
高倉美和と菅原千秋は良き先輩、後輩の間柄。それではいけないのですか?
「先輩の気持ちはわかりましたが……受け取れません。すみません」
そう言ってから一拍置いて、高倉先輩は微笑んだ。よく浮かべる怖い笑みとは違う、柔らかい笑みだった。
「わかった……でも千秋さんならそう答えると思ってた」
「本当に、すみません」
「謝らないといけないことがあるのはこっち。実は、あなたにちょっかいかけた後に凄く後悔したの。こんな気持ちになったの初めてだった。だから心の整理がつかなくて、どうしていいかわからなくて、謝りそびれちゃった。ごめんなさい、千秋さん」
先輩が、頭を深々と下げた。そこまでされたら、かえってこちらが申し訳ないような気持ちになってしまう。
「もう過ぎたことです。水に流しましょう」
「あれ? 何これ……」
高倉先輩の瞳からは、水ではないものが流れている。
「え、何? やだ、何で流れるの……ごめん。また後でね」
最後の方は声が震えていて、逃げ出すように出入り口を駆け下りていった。一口もつけられなかった菓子パンを置き去りにしたまま。
もしかしたら先輩との仲が本当にこれで終わってしまうかもしれない。そう思った途端、私の鼻の奥がツン、となった。
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