菅原千秋、やらかす

 防災倉庫のあのみだらな光景が頭から離れず、一睡もできなかった。しかし当然ながら学校はあるわけで、しかも今日から初めての授業とあってか余計に体が重く感じる。


 環川たまきがわの土手を下り、生徒たちの集団と合流する。昨日と違い、二人連れの生徒たちを見るとどうしても意識してしまう。そういう仲なんじゃないかなと疑った目で見る自分が嫌になる。


 頭の中がいまだにごちゃごちゃしている中、自転車を降りてトボトボと歩いていたら後ろから声をかけられた。


「すがちー、おっはよー!」


 マッシュボブの髪を揺らして、古川恵さんが挨拶してきた。


「あ、おはよう……」

「なした、元気ないなー……っておい、目の下がデーゲームの野球選手みたいになってんぞ」


 どういう意味か最初はわからなかったが、やがてああそういうことかと納得した。私は寝不足のあまり目の下にクマができていた。あまりにもくっきりとしていて、鏡を見た時は何じゃあこりゃあ、とどこぞやの刑事ドラマのキャラクターみたいな声が出そうになったぐらいである。


「いやー、昨晩は全然寝れなくて……」

「なしてよ? 昨日あんだけ研修を受けさせられて眠たかったっしょ」

「あー、まあいろいろとあってね」

「何だか顔色も良くねえな。保健室に行ったら?」

「ん、大丈夫だから」

「本当かあ? 無理はするなよ。授業初日からぶっ倒れたら恥ずかしいぞー」

「うん、適当に頑張る。ありがとう」


 古川さんと別れて北組の教室にたどり着いたら、今度は赫多かえでさんが開口一番、「うわ、顔がゾンビみたいになってる!」と驚きの声を上げた。挨拶するより先にそりゃないだろと思ったけれど、とりあえず昨日のことはバレていないようで安心する。適当に寝不足の理由を捏造してごまかした。


「疲労回復に良いのがあるんだけど、飲んでみる? めちゃくちゃ効くよ」


 そう言って赫多さんはカバンから茶色い小瓶を取り出した。ラベルが貼られておらず、なかなか怪しい。


「それ何?」

「まあ飲んでみてよ。ちょっと味がきついけど、ゆっくりと飲めば大丈夫だから」


 私の返事を待たず、赫多さんは小瓶の栓を開けた。味がきついなんて言われたらますます警戒心を抱かざるを得ないのだが、開栓してしまった以上、仕方なく飲んでみることにした。


 少量なので、一息で飲む。


「ごふっ!!」


 口中を容赦なく蹂躙する酸味と鉄の味に耐えきれず、少しだけ吐き出してしまった。慌ててポケットティッシュで拭き取ったら、血のように真っ赤に染まっている。


「うわっ……な、何じゃあこりゃあ!?」


 一瞬、自分が血を吐いたのかと錯覚してつい叫んでしまった。


「これもしかして、何かの血……?」

「正解。スッポンの生き血だよ」

「ヴェェェ……」


 なんてものを飲ませるんだこの子は……しかしこの酷い味のおかげで、かえって頭の中がシャキッとなった気がする。そう赫多さんに伝えたら、「おかわりどうぞ」ともう一本差し出してきた。今度は鼻を摘んで飲んでみると、どうにか飲めた。


「うぐっ……ぷはぁ。飲んじゃった」

「良い飲みっぷりだねえ。もう一本いっとく?」

「まだあるんだ……」


 結局、三本目をおかわりしてしまった。するとどうだろう、だんだんと体中がカーッと熱くなって心臓が早鐘を打ちはじめたのだ。気だるさは消えて、活力が体の芯からみなぎってくる。


「う、これはヤバイわ」

「でしょ。生き血は美容にも良いからね、欲しくなったらいつでも言ってきて。ツテがあるから」


 どうも、正規で売られている品物ではなさそうだ。変なものが混じってたりしていないだろうな……ま、とりあえずは気にしないでおこう。実際効いているんだし。


 そして授業は始まった。一時間目は現代文である。担当は白髪交じりの壮年の男性教師だった。


 すでに高校一年生の学習内容を先取り学習しているため、教科書の後半のページにある中島敦作『山月記』から始まる。この小説は中学校の読書感想文の課題で読んだことがあるので中身は知っていた。


 教師が『山月記』の概要について軽く触れた後に、本編の朗読に移る。


「じゃあ、誰に読んでもらおうかな……今日は十二日だから出席番号十二番、菅原千秋さん」

「あ、はい!」

「おや、今年編入した子だね。緊張してるかな?」

「いえ! きっ、気合いビンビンです!」


 そう甲高い声で口走ったらみんなに思いっきり笑われた。さっきのスッポン生き血ドリンクが効いて興奮しているせいだろうか、何で変なことを言ってしまったのか自分でもわからない。


「よし、じゃあ気合い入れて読んでみようか」


 少々からかいが混じった教師の一言で私は立ち上がり、読みはじめた。


隴西ろうさい李徴りちょう博学才穎はくがくさいえい天宝てんぽうの末年、若くして虎榜こぼうに連ね、ついで江南尉こうなんいに補せられたが、性……」


 性、という文字が目に飛び込んできた瞬間。私は違う意味のものを連想してしまった。途端にあの昨日の光景がフラッシュバックする。絡み合う舌と舌。喘ぎ声。恍惚の表情。血……血……。


「せ、性……狷介けんかい、自らたのむところすこぶる厚く、せ、賤吏……」

「菅原さん!!」

「はいっ!」


 優しそうな先生が怒鳴るように言った。私、何かまずいことでもやらかしたんだろうか。


「鼻! 鼻血が出てる!」

「え」


 鼻を拭うと、真っ赤な液体がべっとりと手についていた。今度は正真正銘、自分の血だった。そう自覚した途端、頭がグラグラとなって意識が朦朧と。体は前のめりに。ガタガタン、と音がしたがどうやら机の上に倒れこんだみたいだ。クラスメートの悲鳴じみた声が聞こえたのが最後の記憶だった。


 *


「うーん、ちょっと効きすぎたかな……」


 赫多さんが心底申し訳なさそうだったので「気にしないで」と返した。調子に乗って三本も飲んだ自分が悪いのだ。その後遺症で、まだ頭がクラクラしている。


 気がついたら私は保健室のベッドの上に寝かされていた。鼻に謎の感触があるのはガーゼを詰め込まれていたからだと知った。赫多さんに運ばれてきたらしいがそこまでの記憶が全て欠落している。目が覚めて時計を見たら、現代文どころか四時間目も終わって昼休みになっていた。寝不足だったせいでグーグー眠っていて、教師も気を利かせてか全く起こしてくれなかったとのことである。なんてこった。


 保健室には今、私達以外誰もいない。これ幸いにと、やっぱり昨日のことについて正直に話そうと思った。


「あのね、昨日の夕方、見ちゃったんだ。その、防災倉庫で赫多さんと古徳さんがしているところ……」


 赫多さんは一瞬キョトンとしていたが、すぐに口を押さえて笑いだした。怒られるのを覚悟していたのだけれど。


「やっぱり菅原さん、あそこにいたんだ。外で何やらゴソゴソしてる気がしてたんだけど。鼻血の原因も昨日のことを思い出して興奮しちゃったから?」

「うん。多分、そうだと思う」


 赫多さんの笑い声がひときわ大きくなった。


「覗き見しちゃってごめん……」

「いいよいいよ。そもそも覗き穴を教えたのは私なんだし」


 赫多さんはあっさりと許してくれた。


「でも血を啜ったりなんかして、怖かったな」


 私は赫多さんの右手の親指に巻かれた絆創膏を見た。


「言っておくけど、しょっちゅう変態プレイをやってるわけじゃないからね? あの時は聖良がどうしても我慢できないって言うから仕方なく」

「その割には赫多さんも気持ちよさそうだったけど……」

「だって。私もドがつく程の変態なんだから」


 自分からそう言い張った。こんなに堂々と言われてしまったら文句をつけようがない。


 私から聞きたいと求めたわけでもないのに、赫多さんはいかにして変態道に堕ちたのか語りだした。


 赫多さんがまだ古徳さんとともに故郷に住んでいたいた頃、公園で二人で遊んでいたところジャングルジムから落ちてケガをしたことがあったそうだ。腕から流れる血を見てパニックになっていたところ、古徳さんは血を啜り、傷を舐めて治そうとしたのである。その時、赫多さんは全身にビリビリと電気を流されたかのような快感に襲われた。古徳さんも血の味を覚えた瞬間、同じくビリビリに襲われたらしい。幸いケガは打撲と擦り傷で済んだのだが、お互い変な性癖が身についてしまった、というわけである。


「私はともかく、聖良は血を飲みたいがために、下手したら他人や自分を傷つけかねないからね。だから衝動を抑えるためにいつも飲んでるんだ。スッポンの生き血をね」

「そうか、アレって古徳さんのおすそ分けだったんだ」


 古徳さんの父親は健康オタクで、市販されていない怪しい漢方薬やらサプリメントやらを非正規のルートで手に入れており、そのツテでスッポンの生き血を買って娘に与えているとのこと。人の血に手を出す前にスッポンの血を飲ませて満足させてあげよう、という親心である。


「それでも完全に衝動が抑えきれなくて、時たま吸血ごっこをやってたんだ。特に緑葉に入ってからはソッチに目覚めてしまった生徒たちの姿を見るにつれて自分達も妖しい空気に染まっていって、そのノリで体の方も一緒に、って……」


 私の鼻の奥がじわっ、と熱を帯びるのを感じた。


「あ、これ以上話すと鼻血が悪化しそうだからやめとくね。とりあえずお腹空いたでしょ?」

「うん。でもお弁当、教室に置いたままなんだよね」

「というわけで、菅原さんのお弁当を持ってきてあげたよ。カバンを勝手に開けて申し訳なかったけど」

「あ、とんでもないよ! ありがとう」

「じゃあ、ごゆっくり」


 赫多さんが保健室を出ていった後、私はお弁当に箸をつけた。味を全く感じなかったのは鼻のガーゼが嗅覚を封じていたせいだけではないだろう。

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