第1話 緑葉女学館生徒会

特別補習

 時は遡って昨年の九月。私は父親の仕事の都合で中学三年の二学期という中途半端な時期に東京を離れて遥か西の方にある白沢しらさわ市に引っ越した。


 八王子市にある親戚の家に下宿するという選択肢もあったけど、私は喜んで父さんについていった。特に東京を離れたくなるようなネガティブな理由があったわけではない。白沢市は人口はわずか三万人、どこをとっても緑と川という典型的な田舎であり、それは私が憧れていた場所だったからだ。


 田舎は陰湿な人間が多いから行かないでよ、と友達に引き止められたこともある。その子は両親が田舎特有のしがらみに耐えられずに東京に引っ越してきた私とは逆のパターンだったが、私は同情はしたものの田舎暮らしへの思いは止まなかった。陰湿な人間は東京にもそれなりにいるのだし。とにかく、この無機質なビル群と、複雑に絡み合った道路と鉄道の網から抜け出して山と川に囲まれた生活を送りたかった。


 というわけで、引っ越しを終えた私は市立白沢中学校に転校した。一学年でたった二クラスだけ、生徒はみんな小さい頃からの顔見知りどうしという中で私は珍獣のように扱われたが、みんな優しかった。遠いところからやってきたからお客様のような扱いをしてくれたのかもしれないが、少なくとも陰湿な子は一人もいなかった。


 とはいえ、転入早々息をつく暇もなく高校受験の勉強が待ち受けていた。私は当初、公立の進学校を第一志望にしていた。その高校は桃川ももかわ市という人口七十万の県最大の都市にあるが、電車とバスを乗り継いで片道五十分もかかるところにある。


 通えない距離ではないがバスはともかくとして、電車は山手線とか中央線とか京浜東北線と違って一時間に最大二本しか走らないので、一本でも乗り遅れたら致命傷になり得る。できれば近くの高校に行きたかったが、進学校のほとんどが桃川市に集中していた。


 そんな時、私は緑葉女学館という女子校の存在を知った。私の引っ越し先から自転車で十分もかからない近所にある、進学率100%を誇る伝統校。しかも学費は公立よりやや高い程度で、我が家の家計でも充分払いきれる。


 こんな良い学校が間近にあったなんて! 喜んだ私はここを第一志望に切り替えようとしたのだが、教師曰く「あそこは六年制の中等教育学校だし、編入学試験は一応あるが、毎年若干名しか取らない最難関だ。悪いことは言わないからやめとけ」と。


 しかしそれで諦める私ではない、もう必死のパッチという関西弁的の表現が似合うぐらい猛勉強した。その成果がみのり、編入学試験の合格通知書が届いた時にはクラスメートから万歳三唱で讃えられた。あの時の高揚感といったら二度と味わえるかどうかわからないものがあった。


 やがて卒業式を迎え、わずか半年の間とはいえ仲良くなったクラスメートとの別れに涙した私だったが、感傷に浸るのもそこそこにしてすぐに新天地での学習の準備をしなければならなかった。明くる日に緑葉女学館から「特別補習を実施するので来校するように」と連絡があった。前期課程ではすでに高校の授業内容を先取り学習していて、授業進度の差を埋めるために補習を受けなければならなかったのだ。


 まだ制服が用意できていなかったが、中学校時代の制服で良いというのでセーラー服で緑葉女学館の門をくぐっていった。門前に植えられた桜並木はまだつぼみの段階だった。


 私は中年の女性教師に案内されて管理棟にある職員室の休憩スペースに通されたが、そこには他の生徒は誰もいなかった。


「ちょっと会わせたい人がいるからしばらく待ってちょうだい」

「あの先生、もしかして編入生って私だけですか?」

「ええ。あなたは四十名の受験者の中で唯一の合格者よ」


 私は倍率四十倍を勝ち抜いたことに誇らしげになれず、むしろ寂しくなった。若干名しか取らないと聞いていたけれどもまさか私一人とは……。


「ここは六年制とはいえ、校風に馴染めなかったり、成績不良で後期課程に進級できず出ていっちゃう子もいるの。その穴埋めのために編入学試験を行うのだけれど、今年の新四年生(高校一年)は優秀だから脱落者がいなくてね。けれどもずっと同じ顔ぶれで学習しているとマンネリ化してかえってよくないから、たとえ一人でも外から入学させて刺激を与えよう、ということであなたを取ったの」


 なるほど。私が白沢中に転校してきた直後、クラスのみんなのはしゃぎぶりを思い出した。


「菅原さんは確か、すぐそこの白沢中だったわね?」

「ええ。二学期までは東京に住んでいたので半年しか通っていませんでしたけど」

「あらまあ、菅原さんって東京の子だったの? 大都会から田舎に移って大変だったでしょう? ここはいろいろと不便なことが多いから」

「いいえ、楽しいですよ! 山や川を見ているだけで楽しいですし、この地方って雪があまり降らないから東京みたいに交通麻痺がありませんし」


 先生は大笑いした。


「あなた、ちょっと変わってるわね」

「そうですか?」


 ドアをノックする音がした。


「あ、来た来た。どうぞ!」

「失礼します」


 そう言って入ってきた生徒を見た私は心の中で感嘆の声をあげた。芸能人に負けず劣らずの美人だったからだ。ワンレンボブの髪型にちょっとツリ気味の目。猫を彷彿させる顔だった。左目の下には泣きぼくろがある。


「はじめまして、後期課程五年の高倉美和たかくらみわです。この度はご入学おめでとうございます」


 美人は丁寧に頭を下げた。私は礼を言うのも忘れてしばし見とれてしまっていたが、相手の「どうしたの?」という声で我に返った。


「す、すみません。菅原千秋です。よろしくお願いします」


 椅子から立ち上がって礼を言ったが、動揺していた私は座り損ねてしまい、大きな音を立てて椅子ごと転倒してしまった。


「あはははは!」

「ううー……」


 二人に思い切り笑われてしまった。めちゃくちゃ恥ずかしい……。


「倍率四十倍の難関をくぐり抜けてきた優等生って聞いてたけど、もしかしてドジっ子?」

「いえ、そうじゃないんですが……すみません」

「何も謝ることじゃないよ。ほら、立てる?」


 先輩が右手を差し出してきたので、私は好意に甘えて握り返すとそのまま引っ張り上げられた。その流れで、先輩の左手が包み込むように添えられて握手となる。


「こちらこそよろしくね、千秋さん」


 何といきなり下の名前で呼んできたので、ドキッとしてしまった。しかし先輩の笑顔からはなぜか「やめてくださいなんて言わせないぞ」と言わんばかりの圧迫感があり、私はただ愛想笑いしながらコクコクと頷くだけだった。


「高倉さんにはしばらくの間、菅原さんのチューターを務めてもらいます。この緑葉女学館は共学校といろいろ勝手が違うし、菅原さんでも戸惑うところがあるかもしれない。高倉さんは生徒会の副会長で何でも知ってるから、わからないことがあれば遠慮なく聞いてちょうだい」

「生徒会副会長ですか……」


 ただでさえ美人なのに、伝統校の生徒会役員という肩書きが加わると一層美しく見える。


「先生、補習までまだ時間がありますよね? 千秋さんをいろいろ案内してあげたいのですけれど」

「そうね。だけど十分前にはここに戻ってきてちょうだい。それじゃ、あとは若い二人だけでよろしくね」


 先生はなぜかお見合いに付き添う親のようなセリフを言った。


「千秋さん、行こっか」

「あ、はい!」


 私は二人連れで校内を見て回ることにした。


 *


 緑葉女学館の施設を大雑把に紹介すると、前期課程と後期課程のそれぞれの生徒が使う北校舎と南校舎、グラウンド、テニスコート、管理棟、体育館、武道館がある。ただしプールは無く、水泳の授業も無いらしい。


 俯瞰すると中庭を中心としてL字型に二つ校舎が点対称に配置され、北校舎の隣に管理棟が連なり、南校舎の隣には体育館と武道館、テニスコートが併設されている。


 校舎の裏側には山があり、名前は無く生徒達と近隣住民は単に「裏山」と呼んでいるのだそうだ。


 南校舎の西側、坂道を下るとグラウンドが見える。校舎からはやや離れたところにあるものの、立地の制約のために全校生徒が一斉に使える程広くない。だから体育祭では市営グラウンドを借り切って行うとのこと。ここはさすが私立校ならではといったところである。


 さらに西門から出て、歩いて一分少々のところには一級河川の環川たまきがわが流れている。ここの河川敷では生徒たちが部活の練習やレクリエーションで利用することが多い。現にソフトボール部が練習をしている光景に出くわした。部員たちの掛け声がよく通って聞こえてくる。


「自然に囲まれた小さな学び舎。これ程勉学に集中できる環境は他所にはない……って先生は言うんだけれど」


 高倉先輩はそう言って苦笑いする。


「言い換えたら娯楽らしい娯楽は無いってことだから。東京育ちのあなたにとったら死ぬほど退屈かもしれない」

「そんなことありませんよ。山や川を見ているだけで楽しいですし、この地方って雪があまり降らないから東京みたいに交通麻痺がありませんし」


 私は先生に言ったことを高倉先輩にも言った。


「そう? 私は祝部ほうりべ市に住んでたけど田舎暮らしは今でも不便で退屈としか思わないよ」


 祝部市は日本人なら一度は聞いたことがある、東隣の県に位置する有名な大都市である。さすがに東京に比べたら小さいけどオシャレな街で知られているし、そこで育ったら野暮ったい田舎は合わないのかなと思ったりしてしまう。


「でも、今年は楽しめそうかな?」


 高倉先輩が手を私の肩に手を回してきた。これにはまたドキッとさせられた。


「あ、その……」


 年上相手だからというのもあるが、またもや「イヤ」と面と向かって言えない圧迫感のある笑顔を見せている。裏がありそうな、そんな感じの笑みだった。

 要するに、何だかちょっと怖い……。


「そろそろ時間だ。戻ろっか」


 先輩は手を離して、何事もなかったかのように早足で歩きだした。


 一体何なのだろう、この人は。

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