第28話 朱に交われば殺人事件
「犯人は貴方ですね、奥さん」
鬱蒼と生い茂る森の片隅で、ひょろ長の男の低い声が静かに響き渡った。
男の名は真田一行目。今時トレンチコートに鹿撃ち帽を被り、パイプを口に咥えた”時代遅れ”の探偵であった。彼に集められたコテージの宿泊客達が、一斉に指名された一人の女性を振り返った。どこからともなく吹いてきた風に乗って、夜の森全体が騒めく。彼女は氷のように固まったまま、その虚ろな目は人々や探偵、景色すらも通り越して、遥か彼方を彷徨っていた。
「か、彼女が犯人だって!?」
「そんな……まさか犯行に使われた凶器は燻製ニシンじゃなくて、塩漬けのニシンだったなんて!」
「何て塩分多めな女なんだ!」
次々に夜の森を舞う人々の驚きの声に、とうとう女性は顔を奇妙に歪ませ、両手で口元を覆った。
「……教えて、探偵さん。一体いつ、私が犯人だと気付いたの?」
「!」
「…………」
水を打ったかのように辺りは静まり返り、その場にいた誰もが言葉を失った。それは、この三日間人々を恐怖に陥れた凶悪犯による、事実上の敗北宣言だった。嗚咽と共に漏れた彼女のか細い声を聞き、探偵は「ふう」と一息、口元から煙を揺蕩わせながら呟いた。
「……一行目、ですよ」
「え……?」
「ですから、一行目です」
「一体……?」
戸惑う観客達を尻目に、真田はゆっくりと残り香を漂わせコテージへと戻って行った。
□□□
「先生! 真田一行目先生!」
コテージに戻ると、学生服姿の少女が真田の元へと駆け寄ってきた。
「助手君」
「また一行目で事件を解決してしまったんですね! 先生!」
「嗚呼。だけど何故だろう、最近虚しくてしょうがないんだ。どんな難事件を解決しても、『どうせ一行目なんだろう?』なんて言われるしな……」
「光栄なことじゃないですか」
「それでも時々、とても不安になるよ……もしかしたら私は、とんでもない間違いを犯してるんじゃないか、って」
「そんな時は、はい」
「?」
助手と呼ばれた学生服姿の少女が、ポケットから真田に燻製ニシンを差し出した。
「これは……」
「燻製ニシンですよ。焦ったり、不安になったりしてる時は、あったかいものがよく効くんです。これを食べれば、先生もきっと元気になりますよ」
「なるほど……燻製ニシンを食べれば、か。そんな話は全く聞いたこともないし、実際これはあったかくもないが、ありがとう」
「どういたしまして」
真田の口元に無理やり燻製ニシンを詰め込みながら、少女が微笑んだ。真田は口内で暴れ回るニシンの群れと共に、ソファに倒れこむように座った。
「君は『燻製ニシンの虚偽』というのを知っているか?」
「レッド・へリング……ミステリ小説でいう、所謂『騙し』のテクニックですね?」
「そうだ。余りにも有名な奴だな。如何にも怪しげな証拠や登場人物、意味深な言葉を読者に提示しておいて、誤った認識……ミスリードを誘う一つの技法さ。今回の事件で犯人が使ったトリックは正にそれ……燻製と見せかけて、凶器は実は、塩漬けだったなんて!」
真田が疲れた顔で両手を大げさに掲げて見せ、ニシンを口から発射した。
「私が驚いたのは、最初に谷底に消えた被害者が実は女ではなくて、男だったと言うところです」
「確かに……それに魚が好きなんじゃなくて、本当は魚の内臓が好きだったとはね」
「みんなすっかり騙されましたね……私もてっきり、先生に指摘されるまで、被害者は大根おろし派だとばかり思っていました」
「実はレモン派だったのさ……意外な盲点だったな」
「しかし、この事件にはまだ謎も多い……」
「何か気になることでもあるんですか?」
「嗚呼。私も事件が終わってから気がついたんだが、実は彼の部屋に女性用のマスカラが残っていたんだ」
「女性用の、マスカラ……?」
「その時ふと思った。彼はもしかして女のフリをした男、じゃなくて、女のフリをした男のフリをした女だったんじゃないか、とな」
「ええ!?」
「それだけじゃない。昨日の晩、思い返してみれば……被害者は魚の外側の皮だけを残して、綺麗に中身を食べていた……」
「器用というか、不気味というか……妙に野生的な食べ方ですね」
「最初は単に内臓好きなのかと思ったが、その時ふとこうも思った。彼はもしかして女のフリをした男のフリをした女、じゃなくて、女のフリをした男のフリをした女のフリをした男だったんじゃないか、とな」
「えええ!?」
「思い出してもみてくれ。彼が大根おろしをテーブルの下に隠し、レモンをこっそり使っていた場面を……」
「先生が指摘してくれた時ですね。柑橘系というか、モダン的というか……妙に可愛らしい食べ方ですね」
「最初は単なる好みの問題かとも思ったが、その時またしてもふとこう思った。彼はもしかして女のフリをした男のフリをした女のフリをした男、じゃなくて、女のフリをした男のフリをした女のフリをした男のフリをした女だったんじゃないか、とな」
「何ですって!?」
「考え出したらキリがない……全く、頭が混乱しそうになるよ」
真田が両手を天井に掲げ、腹立たしげに燻製ニシンを飲み込んだ。
「そんな時は、はい」
「?」
学生服姿の少女が、ポケットから真田に追加の燻製ニシンを取り出した。
「これは……」
「燻製ニシンですよ。頭が混乱したり、燻製しそうになったら、塩分の強いものが良く効くんです。これを食べれば、きっと先生も燻製になれますよ」
「なるほど……まさかまたしても燻製ニシン、か。私は燻製になりたくは全くないし、二回目は『実は……』なんてレッド・ヘリングを期待していたが、ありがとう」
「どういたしまして」
真田の口元に無理やり燻製ニシンを詰め込みながら、少女が微笑んだ。真田は再び口内で暴れ回るニシンの群れと共に、ソファに倒れこむように座り直した。
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