第18話 この世で起こる全ての殺人事件

「犯人は貴方ですね、奥さん」


 夜空の境目に残る沈んでいく夕陽の一欠片が、関係者の集まった部屋の中に温もりを届けている。昼と夜が移り替わるその瞬間。曖昧で朧げな時間軸を、長身の探偵の一言が鋭く切り裂いて行った。


 探偵によって突きつけられた真実に、だが中央に立っていた女は氷のように固まったままだった。つい先ほどまでニコニコと笑みを絶やさなかったその女から、どんどん表情が消えていく。能面のように変わり果てる容疑者の顔を、その場にいた誰もが恐る恐る見守った。


「……どうして、分かったの?」

「!」


 やがて長い沈黙の後、とうとう彼女の口からついて出た言葉は、自らの敗北を意味したものだった。探偵以外の全員が、まるで雷にでも打たれたかのように飛び上がった。


「そんな馬鹿な……あれほど命の大切さを説いていた彼女が、殺人だなんて!」

「なんて心機一転な女なんだ!」


 皆が予想しなかった犯人に動揺する中、探偵だけは冷静に彼女の動向を見つめていた。そして最早犯人に抵抗の意思が無いと悟るや否や、彼はくるりと踵を返した。やがて警察や関係者が犯人の女を取り囲み、無事『犯行動機独演会』が開幕し辺りが騒然となっても、彼はその様子を一度も振り返ることなく、静かに扉の向こうへと消えていくのだった。


□□□


「先生! 真田一行目先生!」


 すっかり温度を失くした窓辺で探偵が佇んでいると、暗い廊下の向こうから学生服姿の少女が彼の元へと駆け寄ってきた。

「助手君」

 真田、と呼ばれた探偵は難しい顔をして彼女の呼びかけに応えた。


「やりましたね先生! また一行目で事件を解決してまったんですね!」

「助手君。君はポリオキシエチレンアルキルエーテルというのが何か知っているか?」

「ポリ……? 何ですかそれ?」

 真田の言葉に、少女はきょとんと首をかしげた。真田は肩をすくめた。


「いや……正直なところ、私にも分からん」

「ええぇ……」

「無論、私もそれがトリックに利用されたことだけは分かっていたさ。だからポリなんとかでハッタリをかましているうちに……犯人が勝手に降参してしまったんだ」

「えええぇ……」

「まさか犯人も、そこを突かれるとは思っていなかったのだろう。私も、説明を求められたらどうしようと内心焦っていたんだが……」

「……それでも、事件を解決したことには変わりないんですね!」


 流石です! と、気を取り直した少女が真田を見上げにっこりと微笑んだ。その天真爛漫な笑顔に、果たしてこれで解決したと言えるだろうか、と悩んでいた真田もようやく表情を緩ませた。


□□□


「……それで兄さんがわざわざ入院中の僕のところに来たってことは……よっぽど難しい事件なのかい?」

「……嗚呼」


 真田は備え付けの椅子に腰掛け、難しい顔をしたまま頷いた。それを見た零行目、と呼ばれた青年は、純白のベッドの上で何とも可笑しそうに咳き込んだ。真田はぼんやりと、弟の手首から伸びる半透明のチューブを辿って天井を見上げた。


 幼い頃は双子のように瓜二つだった弟も、今では骨に直接皮膚が乗っかっているかのように全身やせ細っている。胸の辺りまで長く伸びきった髪の毛は色素が薄れ、蛍光灯の光を浴びて透き通って見えた。陽の光を浴びることさえ許されない、窓一つない隔離された病室。ビニールの向こうにいる闘病中の弟にまっすぐな目で見つめられ、真田は危うく目を逸らしてしまいそうになった。


「フフ……兄さんに解けない事件なんてないだろう? 泣く子も黙る名探偵・真田一行目……」

「そんなことないさ。いいから黙って聞け。今回の事件なんだが……」

「嗚呼。ポリオキシエチレンアルキルエーテルを使った巧妙なトリックだったね。暇だったから兄さんが来る前に解いておいた」

「な……!?」


 真田が事件の概要を説明する前に、零行目はさらりとそう言ってのけた。相変わらず神がかった推理に、真田は腰が抜けそうになった。一体どこで事件のことを知ったのだろうか。それとも、『何も知らなかった』のだろうか。そんな荒唐無稽な超推理も、目の前の男なら或いは……とつい思ってしまう。


「……流石だな。真田零行目探偵」

「一行目兄さんには敵わないよ」


 淡々といってのけるその言葉にも、どこか余裕が感じられる。真田は椅子に座りなおしながら、内心舌を巻いた。


 真田零行目。


 真田一行目の弟にして、関わった事件の全てを、起きる前に解決して来た伝説の名探偵。彼が一度現場に赴けば、どんな犯人もたちまち改心し、殺したいほど憎んでいた相手と涙交じりに抱擁し和解する……と言う、都市伝説さえ残されていた。


 まさかそんなファンタジーなことが現実にあり得たとは思えない……が、それでもその卓越した洞察力と周到な準備で、現役の時は犯人に事件を起こすことさえ許さない、正に完全無欠の名探偵だった。自分の弟ながらこいつにだけは敵わないと、真田は常日頃から彼に一目置いていた。


□□□


「ポリオキシエチレンアルキルエーテルは、兄さんも勿論知ってるだろう?」


 そう言いながら、零行目は目の前に用意された机の上に方眼紙を広げ、さらさらと難解な化学式を書き込んでいく。真田は喉から曖昧な音を出して小さく頷いた。仕切られたビニールの向こうで、零行目がちらりと真田を見上げ満足そうに頷いた。


「なら話は早い。過去にこれが大量に川に廃棄され、そこに住む魚が死滅する事件も起こった。だけど、これ自体の毒素が強いわけじゃないんだ。どんな薬も、大量に摂取すれば致死量に至る……兄さん、オースチン・バークリーの『夾竹桃審判』を読んだことは?」

「あるよ」

 弟が質問し終わる前に被せ気味に、真田はとりあえずで速攻頷いた。


「それは良かった。じゃあ毒薬ミステリの傑作とも呼ばれる、レイモンド・T・トバイモンの『ナザニエルの娘』は?」

「当然だ。どっちも三回は読んだ。あのなあ、こう見えても俺は現役の探偵だぞ」

「そうか。まあどっちも今僕が考えた、でっち上げなんだけど……」

「…………」


 零行目がペンを走らせながらさらりとそう言ってのけた。ビニール越しでなければ殴ってるところだ、と真田は拳を握りしめた。そんな兄の様子などどこ吹く風で、零行目は書き上げた化学式を隙間から差し出した。びっしりと書き込まれた暗号のような『知的な何か』を受け取り、真田は目を細めてそれを覗き込んだ。


「出来た。これを警察関係者に見せてもらえればいい。専門知識のある者なら、その図式を見ればトリックは一目瞭然だ」

「成る程……これが……!」

「兄さん、それ逆だよ」

 明晰なる弟の欠伸交じりの訂正に、真田は渋々方眼紙をひっくり返した。


□□□


「……じゃあな。手伝ってくれて悪かったな、ありがとうよ」

「もう帰るの?」

 カバンの中に受け取った化学式を丸めて押し込む真田を見て、零行目が名残惜しそうに咳き込んだ。だがその目はすでに微睡んで、向こうの世界に半分旅立っている。零行目が起きていられる時間も、そう長くはなさそうだった。真田は重い腰を上げた。


「嗚呼。全く……お前が早く元気になってくれれば、この世で起こる全ての殺人事件は即解決してしまうのにな」

「フフ……そうなったら、兄さんは廃業だよ」

「阿呆……」


  軽く憎まれ口を叩きながら、真田は静かに病室を後にした。


□□□


「そうならないために……俺は今日もこの世界を駆けずり回っているんだ」

 帰り際、病院の外で誰に聞かせるわけでもなく、星の瞬く空を見上げながら真田がぽつりと呟いた。

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