第9話 彼女
彼女と最後に言葉を交わした朝も、きれいな冬の青空だった。
「今日も帰りは遅いの?」
「いや、今夜は早めに帰れると思うよ。君は?」
「私はちょっと遅くなるかも。来月が締め切りだし」
「わかった。何か作っておくよ」
でも、この日に私が料理をすることはなかった。
ありきたりな言い方だけれど、彼女とは縁があったのだと思う。
私が設計した建物の機械室に、機械が収まらないと現場担当者が言ってきた。
「そんな訳はないよ。A社のカタログにある通り、必要寸法はクリアしてるんだから。もう一度検討させれば?」と返したが、実際に納入するB社の機械は収まらないらしい。
「まったく。なんで機械に合わせて壁を動かさなきゃならないんだよ」と文句を言いながら修正した。
その機械の製作図を書いていたのが彼女だった。
もちろんその時は知る訳もなく、付き合い始めてから知った。あちらはあちらで、「収まらないものは収まらないんだから。他社のが収まったからって、すべてが収まるとは限らないの。壁を動かすように言ってきて!」とご立腹だったらしい。
そんな彼女は、結婚を機に設計の勉強をしたいと言ってきた。小さいころから興味があったので、ぜひやってみたい、と。
女性も働いた方がいいという考えだった私は、目指すものが私と同じ仕事と言うこともあり喜んで賛成した。周囲は寿退社と思っていたらしいが、実際はすぐに専門学校の試験を受けて二年間通い、卒業の二年後には建築士の資格も取った。
学校に通っている間は課題について教えてあげたり、模型作りを手伝ったり、二人にはとても楽しい時間だった。
ただ、彼女も仕事をするようになってからは、彼女自身の能力を発揮して評価されるようにと思い、設計に関するアドバイスは控えるようにしていた。
それが正しかったのか分からない。
彼女の立場になって考えてみたら……。
もっとそれまで通りアドバイスが欲しかったのかもしれない。一緒に考える作業を望んでいたのかも。
勝手に『彼女のために』と思っていたことが、彼女へ負担を掛けることになっていたのかもしれないけれど、今はもう、確かめる
お互いに忙しい中でも一緒の時間を大切に、それが二人の
もし二人にこどもがいたら……。
三人の生活なら、何かが変わったのだろうか。
「こどもはキライ」彼女はそう言っていた。
本当に嫌いなのではなく、きっと自分が母親となることが不安で自信がなかったのだろう。
彼女は母親に愛されていなかった。
「わたし、お母さんに嫌われてるから」
初めてそう聞いた時には、正直ピンとこなかった。仲が悪いのかな、くらいに思っていたけれど、実際に会うようになってみると彼女の言葉を理解した。
実家への挨拶に行ったとき、お父さんや姉妹とは話をしたけれど、お母さんは途中で少し顔を出しただけ。その後、遊びに行ってもお母さんはほとんど顔を出さない。
結婚式の日取りが決まり、伝えに行ったときは「その日はサークルの集まりがあるから、行けないかも」と言われた。
この言葉には、彼女も「娘の結婚式よりサークルが大事って、信じらんない!」と怒っていたっけ。私もかなりショックを受けた。
自分が母親になった時、こどもを愛せるのか不安で自信がなく、自分の母親のように接してしまうことが怖かったはず。
だから「こどもがキライ」と言って避けていた。
それをそのまま受け取り、こどもはいなくてもいいと言った私は、きっと間違っていたのだろう。
一緒に逃げる道を選ぶのではなく、彼女を励ましながら一緒に向き合う道を選ぶべきだった。子供たちから、たくさんの元気や前に進む力をもらっている、今の私ならそう言えるのだけれど。
彼女の勤務先から携帯へ連絡があったのは、あの日の2時過ぎ。
病院へ駆けつけたときには、既にベッドの上で静かに横たわっていた。
ただ眠っているような穏やかな顔で。
くも膜下出血だった。
朝から頭が痛いと言っていて、午後の打合せが終わるころに倒れたらしい。
突然すぎる
今朝、出掛ける時の彼女の顔と、体調に気づいてあげられなかった自責の念が私の中で渦巻き、その後の記憶があまりない。
ただ淡々と時間だけが過ぎ、その過ぎてゆく時間に比例して私の中の感情が消えていく。
悲しみさえも起きない、虚無の世界。
仕事への気力などとうに消え失せ、担当していた案件に区切りがついたところで辞職した。
空ばかり見ていたのは、思い出に浸っていたからじゃない。
もし、こうしていれば……
あの時、こんなことを言ってあげたら……
自分自身に言い訳をするかのように、変わるはずのない現実を変えたいと願っていた。
何度も、何度も、同じところへ戻ってやり直してみようとするけれど、彼女がいないという現実が変わることはなかった。
大切な人を失ったことをあらためて思い知らされた。
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