海を溶く
あ、と声が出た時には遅かった。あ、と思った瞬間に手をすり抜けた淡青色のショットグラスは一瞬のうちに床へ衝突し、あえなく砕けた。幸か不幸か一人しかいない客へ軽く頭を下げ、溜息を飲み込みながら大きい破片を拾い集める。色々な筋からの厚意で譲ってもらったり安く買ったりした不揃いのグラスはこの店の売りでもあるが、中には特定の酒器に愛着を持つ常連もいて、扱いには殊更慎重さを要する。悲しい姿となってしまったショットグラスには何人の主がいただろうかなどと考えつつ、破片は古新聞に並べて床を掃いた。細かなガラスの粒は光を弾き返しながらごみ箱の中に降る。申し訳ない、お疲れ様、と心ばかりの弔いをし、さて大きい破片も捨てなくてはとカウンターへ戻ると、一人しかいない客がまさにその破片をひとつ摘んで眺めていた。
「あ、危ないですよ」
「ああ、すみませんついね」
穏やかな風貌から想像できる通りの口調で、客は続ける。
「海を、思い出してしまってね」
寂しげな声色はガラス越しに思い出の海を見ていた。そこに立っているのが誰なのか、あるいは誰もいないのか、想像を巡らせるほかないが、一瞬届いた潮騒の幻聴につられ、どうにも感傷的な気持ちがした。客に断り、受け取ったガラス片を無地のグラスに入れた。少しだけ水を入れると、海の色は浮かぶと見せてすぐに元の場所へ戻る。
「こうしておきましょう」
客は控えめに微笑んで、もう一杯、と言った。
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