37

 その手はクノンの胸に当てられる。


「俺は、ただ一緒に過ごしてくれる彼女が好きだった。ここに今まで来ていたのもそう、ここじゃないと彼女に会えない気がした」


 ゆらりと風、呼応するかのようにそれは草を揺らす。ティティが仄かに紅潮をみせ、クノンと目を合わせた。


「歌が、綺麗なんだよ。その声に惹かれて、その容姿に惹かれて、話も面白くて。俺は、ティティの歌で踊りたいなって――もちろん彼女が天使なことなんかとっくに知ってた。それでも彼女も受け入れてくれた」


 その視線はもう一度セドへと移る。安定の表れか、その目は穏やかにさえ見えた。


「セドには意表を突かれたと思っているんだ。確かにそう、〈禁忌〉が存在している、背徳的なことをしていることも十分わかっていたつもりなんだ。ただ友人に真っ向に否定されて、それだけで引き離されるのが……怖かったんだ」


 なにもかもを。目を落としたクノンの声はそこで静まる。イトスは視線を移した。目の先、セドの面持ちはあまり喜ばしくないような感情を含んでいるように見える。聞いたにも関わらず話を継がないセドに代わって、彼は口を開いた。


「ティティ、だっけ? お前は?」

「えっ」


 素っ頓狂な声を上げたティティは、突如自分が兄と思っている者から〈愛の証明〉に親しい言伝を求められ仰天、そして紅潮を強めた。紅い目に注視される碧い目は、言葉として成立するにあたっての思考の整理でもしているのか、目に見て取れる勢いで視線を泳がせている。イトスは呆れた息を吐いた。


「別にお前らの経緯だの俺は興味ねぇよ。ただコイツが今後の判断材料に使いたいだけだろうから軽くでいいんだよ」

「きゅ、急にそんなこと言われても……よ」


 安定した空気をリィノが保っているにも関わらず、恐らく彼女の内心は穏やかではない。――青目っぽい奴は表情に感情が出やすいし移り変わりも激しいのか、はたまた優柔不断なのか――ぼんやりイトスは思い、一瞬だけ比較対象であるセドに目配せした。視線を合わせられたセドは頷く。恐らくその心境は伝わっていない、明らかに大筋だけの合図だ。


 そうしているうちにティティが、大きく深呼吸を薄ら風に混ぜながら言葉を紡いだ。


「実は、お兄ちゃんに似ていたの」

「は?」


 言葉が重なる。兄と彼女が言い表すイトスと、まさに彼女を抱きあやすように腕で包めるクノンがほぼ同時に、だ。だが語弊があるようにとられたと気づいたティティはすぐさま慌てて首を振って言葉を続ける。


「囚われてる気がしてた。自分の固定概念とか、そういうのに。そうじゃなくて。もっと自由でいたくて……」

「さっき〈自由にできて過激な性格〉だとか、俺のこといってなかったか?」

「そう、そうなんだ、その信念がだ! あ、囚われてるっていうのは私の話。クノンは、もっていたの。自分の意思を持って行動するその信念。天使にはない。天使は常に挙動が事務的で義務的なだけ……それに」


 ティティは真っ直ぐに顔と目を向ける。言葉の柔らかさが、いつもの調子なのか固くも、砕けたようにも、音色ごと変わり始めた。


「クノンはいろんなことを楽しそうに教えてくれた。自由な世界の悪魔界って羨ましいって思うぐらい。何をするのも楽しかった。でも、堕天使にはなりたくなかった。堕天使ってのは、名だけのこって、悪魔とか神とかと恋愛したら存在ごと抹消された奴らのこと……光宝にだからこれからお願いするんだ。これから何をやっても、消されない存在になるって」

「気持ちはわかった。本気なんだって伝わった……で、えっと、つまり愛を誓いたい。禁忌だとか、堕天使? という規則に反してもなりたくない。永遠に幸せになりたい。そんなところか?」


 セドが困った表情を見せながら首を傾げた。頷くティティを一瞥したクノンは、黙っていた口をようやく割る。


「セド、手伝ってもらえるか?」

「ん……ちょっとまて」

「無理って表情に書いてる。わかってるんだ。物理的にそれは、いつもセドがいう〈運命〉を操作したところで変えられない根本的な法則だし……だから魔法道具のような存在に願掛けに来たんだ」


 強張っていた表情が言葉を滑らせるごとに、まるで何かを悟ったかのように穏やかへと変化する。


「〈光宝〉はどの世界の種族も関係なく願いを叶える事ができる。……パッシュさんの妹――シエルはこの世界にあるどこかの守人だったらしくて、教えてくれたんだ。シエルは規則を破ってしまったことで森ごと崩壊したんだけど……もっとも、その願いの範囲は狭いから、本当に限定的なものになるけれども、愛を証明したくて、俺はここにやって来た」


 が、言い終わるが否や、空気が一転する。リィノが安定を保っているにしてはあまりにも痛ましい。ふわりと、目を閉じていたリィノが、右手指を宙、風に絡ませるような手つきで操りながら瞼を開いた。


「修羅場は流石に、俺は対処できない……まー直接関与したわけではないけどさぁ」


 息を深く落とし、そのままリィノは、鳴りを潜めていたアシュロへと目線を動かす。同時に彼はゆっくりとつま先を地面に打ち付けた。こつりと響くは風を切るような音。


「アシュロ、そのひとから離れて、喋っていい、〈沈黙術〉解いたから」

「ぷは……え、え? どゆこと?」

「この沈黙術すごいな……レンタルキット借りてきただけなのにこーかばつぐん、ま、いいからはなれて」


 ふぅ、と息をついたリィノの動作に首を傾げながらアシュロは距離をとる。確かにイトスからしてもどこか空気がおかしい、その源はたしかに光宝側から感じた。厳密には、そこにいる獣人だ。


「どした?」


 視線を当人流すように、イトスは何気なくオルタに問いかける。うつむいた顔はどこか嫌な予感を感じる。


「そうなん、ですか」


 オルタはそういいながら顔を上げた。その目は絶望にまるで浸されたような。ふと、そういえばとイトスは思い出す。確か今し方クノンが発言した言葉と、オルタの言葉につながりがあるようにも。


「オルタ?」


 しかし鈍いのか、クノンは気づかない。既知であろう獣人の名を呼ぶ。重みのある言葉は、安定した体の重心を整えながら、光宝へと振り返った。


「そうか、彼女は……生きているんだ、なら森ごと呪ったりする必要はなかったんだ」


 白い光を煌々と放つ光宝に一歩一歩、言葉を念じるように唱えながらよろめくように近づいていく。


「安心した、生命を脅かす存在ではなかったんだな……なら俺の願いを叶えてもらったらいいよな」

「ちょ、オルタ!」


 クノンが慌てるように名を呼ぶ。そうしてティティを転がすように解放すると、その足は風の如く、瞬時にオルタの背後へ回る。


「なにを言ってるんだよ、願いなんて無いって。それに、俺達に協力してくれるって前に言ってたじゃないか」

「たしかに……でも、今の言葉、クノンの言葉を聞いて安心した。俺の想い人が生きているなら、もしかしたら言い伝えは間違ってたんだ。主が願うことは禁忌である……そう先祖から教わってきた。身を滅ぼすわけではない、それなら」


 そうしてオルタは、ゆっくりと、何度か見せた印を両手で組み始める。両手でオルタをねじ伏せようとするが、オルタは止めない。少しずつ、印は進行する。クノンが悲痛そうな声を上げた。


「オルタ!」


 イトスはそれをぼんやりと見つめていた。願いってのはそんなに大きな存在なのか、面倒くさい。ただ、それだけが頭に浮かんだ。光に溶けるような長身は、まるで白に包まれていきそうな錯覚すら覚える。


「なーるほど、そりゃミッチーがこないわけだ」


 と、それを、まるでイトスの頭が覚醒したかのように下手で声がした。黙って見下ろすと、座り込んで何かを探していたリィノが上目遣いでイトスと目を合わせた。


「欲望を吸い込むんだってさ、あの光宝。その人の気持ちが強いほど、君も聞いてたっしょ、アシュロ」

「え……えぇ、聞いてた」

「欲望って精神的なところが働かせて、体が動く仕組み。失うものがないって思ってるから、自然にリスクから解放された体が動いてるワケ。……アレがきたら恐らく全知識吸収したくなるだろうから」

「んな話俺はきいて」

「るわけないわよ、イトスがセドと出ていった時だもの」


 アシュロは、もどかしそうに体を動かしながら、光宝をじっと見つめていた。動きそうで動かない、その感覚は、まさにリィノの言葉の意味をなぞらえているようにも見える。


「なあ」


 状況が掴めきれていないセドが、怯えるような顔でリィノを見る。瞬きをして、彼はそれに呼応した。


「このままだったら、誰も得しないんだけど……俺、どうしたら」

「なーんだ、セドは視えてるの? なら止めてきたらいーじゃん。止めるってのも一種の願いなんじゃないの?」

「嫌だ。あの光宝、絶対誰も幸せになんかなれない……また、置いていかれるの、嫌なんだ」


 言葉の懇願。だがセドのそれはリィノに通用しない。疑問の主はそれ以上答えも相槌も返さなかった。セドが目を見開く、誰よりも現実と、この先の危機を察知しているのは他でもない彼だろう。


 そうしているうちに印の形は先程みたものへ。この儀式が長いというよりは、クノンの妨害が阻んでいるゆえの進行度だろう。まるで時間稼ぎでもクノンがしているかのように……無理もない、クノンも〈光宝〉で願いを叶えたいのだ。だとしたら、あのよくわからない舞のような印を先に組めばよかったのにと思うのだが、恐らく頭はまわっていないだろう。


「ティティ」


 イトスは、目は光宝とニつの影を見つめながら、勝手に妹だと妄語している存在に声をかける。


「あの姿にもときめくのか? 囚われてたりしているようにはみえねぇか?」

「えっ……うぅん、言われてみれば――お兄ちゃん?」


 答えなど、正直イトスは求めていなかった。自問自答するように、話しただけだ。言いながら、虚空へ回答するティティの答えを聞きながら、イトスは利き手に銃を備える。引き金近くを爪弾き音を鳴らした。


 その後銃口は真っ直ぐに二つの影へ、慌ててティティが叫ぶ。


「やめて! あの二人に銃は向けないで」

「おう」

「ならなんで。やめてよ! その構え本気なんだろ? やめて」

「お前は、本当にあいつらに撃つとおもってんのか」


 静かに、そう紡ぎながらイトスは引き金を引いた。勢い良く走る光線は一直線。銃身の振動、掠った空気が避けた音。それはまるで時を遅めたようにゆっくりと、宙を駆け、オルタとクノンへ近づく、反射的に気づいたのかクノンは目を丸くした。――が、〈疾風〉の名を持つ彼でも、鼻先を掠める弾丸との距離を変えることはできなかったようだ。


 弾はそのままオルタの髪をも軽くすり抜け、置き土産として若干の風圧を彼らに明け渡す。光はそのまま白の中に黒点のように溶け。そのまま消えた。


「え?」


 思わず、見守ることしかできなかったティティが兄の銃口と恋人への位置を交互に見やる。それは一瞬の出来事だった。


 ほんの僅かに風が、動きを止めた。鳴りを潜め静まり返った世界。


「イトス、今、何を」

「いや、自由ってさ束縛ありきなんだよな。それがあってはじめて得られる。むしろそれがないと自由への充実感がないっつーか」


 唖然としているクノンには目もくれず、短く細い息を吹いて銃口からの煙を撒いた。その痕跡は決して先程の一線が幻でないことを証明する。一通り様子をみたあと、イトスは右手を番となる銃へと落とし、そのまま操るように自らの首元へと向けた。最終的には銃はイトスの手によって、右に左に枝分かれし、その銃はクノンと


「お兄ちゃん?」


 自らに得物口を向けられ一瞬で血の気が引いた表情へと変化したティティが、震わせた声を、息をつまらせるように吐き出す。


「なあ、お前らは知ってるんだろ? 外界であれば〈恋愛していい〉ってこと。んじゃなきゃきてねぇよな――だったら、〈願い叶える宝〉に執着しなくてよくね? いや、帰ってこなきゃよくね?」

「イトス!」

「セドもさ、クノンが消えるのが嫌だったわけで、消えなかったらいいんだろ? 会いたきゃこっちからくればいいんだしよ」

「あ――」


 ティティが目を丸くして、言葉を呑み込んだ。安心したような空気が再びティティを包む。つづいてクノン……彼もまた、的を得たような顔をしていた。イトスはそれを確認したあと銃を懐へと仕舞う。


「オルタ? がどんな願い持ってたかわかんねぇけど、俺達〈悪魔〉は別に最初から自由だったわけではねぇんだよ。最終的に得られる結果はそこの馬鹿でかいボールが決めたり叶えるわけじゃねぇ――多分、自分だ。もっといえば、コイツがよく云う〈運命〉サマとやらだ」


 イトスの声だけが響いていた森は、そこまで紡がれると一気に沈黙へと移動した。重くも軽くもない、ただ、それぞれが何かを実感したような空気。


 それは、一瞬だけ、なにかがヒビを作るような音とともに、オルタの声を持って割れる。


「光宝が――」


 恐る恐る、間近で音がしただろう場所をオルタが見つめた。発光した白はゆっくりと光を失い、その明度を減衰させていく。ヒビのような――否、球体に突如現れた亀裂は、次第に球全体へと感染していく。まるで風というよりは川が水量を増したような音が、獣特有敏感そうな彼の耳を間近で苛みはじめたのだ、腰が抜けたように地面を這いながらオルタは耳を塞ぐ。


「まってくれ、光宝が砕けたら、この森はどうなるんだ!」

「森、がなんか問題あんのか?」

「この森を守ってくれていた光宝なんだ……なんてことをしてくれたんだ!」


 音を立てながら形を崩していく球体は、やがて砂のように原型を失おうとしていた。


「そういや、そこまでは考えてなかったな。争いの火種なくなりゃ普通に面倒事消えるとおもったんだけど」

「イトス……」


 呆れたような表情で、イトスと親しい友人は大きく息を吐いた。

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