29

 風穴が開いた場所から部屋へと入ると、まるで外との間に境界線でもあったかのように空気が変わった。見えない空気が揺れ、なにかを塞いでいるような感触。それが室内全体を循環しているような感覚を肌で覚えた。外の惨事など物ともしない。ミドセの練り上げた〈壁〉としての役目を〈見えざる物〉は確実に果たしていた。


 どことなく平和的な安心感を身に染み込ませながらもイトスは歩を進める。できれば後ろは見たくない。こちらに気づいたルディルが這いつくばって襲いかかってこようとしていたとしても、目に今焼き付ける方が不気味すぎて嫌なのだ。動けずに陽動たる存在となったセドは実に不憫だが、運というものだ。イトスはそう暗示しながらあと数歩の距離といったところにある扉へと近づいていた。急ぎ足が最善であることは解っているのだが、のしかかっている疲労感はそう思い通りには動いてくれない。最早、藁をも掴む思いでひたすら進んでいる気分であった。


 扉の取手に手をかけようとした時、勝手にそれは反時計周りに回転した。開いた先はこちらに向かってではないことはわかっていても、一歩の後退を許してしまう。開いた途端空気の流れが再構築されるかのように、奥側のそれと混ざっては変音を耳へと伝わせた。開放主は住人ではなく、むしろ助け舟を願おうとしていたその相手の登場だった。イトスはそんな金色の特徴的な瞳と目が合うが、今ひとつ言葉が見つからない。黙する一方だったか、ミドセの視線はすぐに別に移され、瞳孔が明らかにその奥を捉えた時、割と整った表情が若干の歪みを見せてきた。しかしそれも一瞬たる出来事で、眉を潜めたそれは、口を開くと入れ替わりに平常へと戻る。


「派手にやったね」

「だろ? なあミッチー、何が起こっていると思う?」

「知らないよ。それよりちょっとコレ預かってて」


 ミドセは疑問を投げてきたイトスに視線を戻さず、引き摺るように体を一歩前進させながら、右の手で自らの左腕をさらりと指し示してきた。重圧の原因だろうそれは確実に人の姿をした――いつも以上に体重を片側に預けているリィノだった。ミドセは彼を引き剥がすように腕を払う。特に身構えもできないうちに、リィノはイトスに向かって抵抗なく全身を倒してきた。イトスが半ば反射的に中腰になり、両腕でそれを受け止めると、リィノがイトスの両肩にしがみついてくる。リィノの体はそのまま丸まり、膝を床につけた。どこか気分が悪そうな様子に感じるが、顔色の悪さは相変わらずいつもと同じで、実際にはどうかはわからない。


 ミドセに視線を戻すと大分外側まで動いていた。風穴が大きく開いた丸太壁の断面部に手をつき、更に奥を伺っている。


「何が起こってたか、音で解らなかったのか?」

「住人に配慮して遮音も施してあげていたから、全く耳にも届かなかったよ。どうせ品の無い罵声でも飛ばしていたんだろうしね」


 リィノやセドの異様たる状態とは裏腹に、ミドセは楽しむ余裕を持っているかのような態度を示す。それがむしろ異質なようにも感じ取れた――そういう性格なのは解っているし今に始まったことではないが。とにかくまだまともに会話ができるという意味ではリィノより頼りになるだろう。イトスは状況について再度確認をするために、体を外へと動かそうとする。が、そう簡単にはいかなかった。強い力が急に自らを引っ張ってきた。


「やめて、なんか気持ち悪いのがいる!」


 それこそ果たして本当にリィノなのか耳を疑う程に、感情的な声色が耳を貫いた。鼓膜を直に震わせられ、イトスは不快感を示した。


「なんだよ、お前の好きなオカルトもんだぞ」

「わかってるよ、でもやだ、はきそう」

「んじゃ対処できんじゃねえの、除霊とかしなくていいからさ」

「できるけど! やだ。だいたいミッチーが入り口の始末してないから悪いんだよ」


 普段とは違った態度をイトスは宥めていくが、性分ではないのか上手く事が運ばない。これには剥がしたくなるミドセの気持ちが痛い程理解ができた。対処できると確信しているのがまだ展望性を感じるのだが……。


「落ち着けって」

「ううう、なんで俺ばっかりこんな目に遭うわけ? もうやめようよ、水冷たいよ、息できないよ」


 意味不明な言葉が息をあまり溜めることなくリィノの口から吐き出されてきた。手に負うには難が有る、それしか言い様が無いほどにリィノは混乱していた。やはりこちらは話にならない。無理矢理に腕力でリィノを引きずりながら、イトスはミドセに近づいた。


「成程ねぇ」


 観察を続けていたミドセは、こちらに気づいているのか解らない声量でそう零す。イトスはそれを逃さない。


「何が成程なんだ?」

「リィノが奇妙な動きをしはじめた理由がね、こんな単純なものなんだなと」

「単純かはお前の中での納得だろ。対処法があるなら計画を話してくれていいんじゃな――」

「ぐ……」


 と、潰れた声が奥から聞こえてきた。みやればセドがルディルに首を掴まれていた。仲間の名を呼ぼうとするが声が出ない。ましてイトスは自分がどういう感情でその様子をみているのかは自身すらわからなかった。身動きがとれないような状況下なのだろうということと、肉体内の脈拍が異常な揺れ方をしていることだけがぼんやり把握できた、それだけである。これも混乱の一種なのだろうか……だが、なんとかならないかを考えるよりも先に、両目をつぶったセドが、片目を開いてはその腕を掴み、そして大きく掻き払ったのが見えた。一瞬とんだ黒い塊が、地面についたが否や砂埃を上げて数度弾む。恐怖か怒りか、微かに青光りを灯した目を開きながら、再度座り込んだセドは肩で息をしていた。


 ――ここまでの流れをミドセは淡々と顔色ひとつ変えず見ていた。


「対処法はこの限りではわからないけど、原因はこれで確定だな」


 そういって彼女は一回ゆっくりと瞬きをし、それからイトスを見てきた。


「セドが首を絞められた理由は解らないよ。ただあのような形になった理由がね、もうそれがひどく浅はかでさ」


 不気味と言わんばかりにその声色が弾んでいるのを見ると、イトスはこの状況下、不信を露わにする他無い表情でミドセを睨むしかない。しかし彼女はそれを別段気にすることもなく、両肩を上げて見せた後、曲げた人差し指第一関節を、口元に当てて笑ってみせてきた。


「〈吸血鬼の呪い〉に当てられたんだよ」

「どういうことだ?」

「話をしたよね、吸血鬼の呪いがこの森にはかかっている。基本的に吸血鬼は同属とは群れたがらないんだよ。支配圏を持ちたがるからね、だから外側から来た同種を退けるために罠を張る」


 頼んでもいないような説明が始まると、少しだけイトスは安堵する。表情こそ変えないが、やはりまともな思考が動いている存在はいま彼女しかいないのだ。


「お前は吸血鬼なんだろ? なら弱っていたのはその罠のせいなのか? ……いや、違うか、お前ならそのくらい計算しているか」


 だからこそイトスは言葉を繕っては疑問形にして投げる。聞いたものの、聖水のせいで力が弱まっていたことなど、イトスはとうの昔に忘れていた。だがそれに対して、普段なら確実に小言として増える指摘が返ってくるようなことはない。――むしろ〈忘れていた〉という点が非常に好ましかったのだろう。


「まあ、そんな罠安々と掛かるわけがないよ。強いて言うならそうみせないために演技はしたかな。吸血鬼は強大だと考えるのが普通だから」


 結果的に嬉々として、傲慢そのもののミドセが勝ち誇った表情をした。今なら彼女が効率的に状況を打破してくれる気がする程に機嫌が良い。と、いうことは、イトスにとっても都合が良い。


「それで、罠とは?」


 イトスは今度こその期待を胸中に生みながら、再び背を向け、地に伏せたルディルに近づくミドセの様子を伺いながら声をかける。距離は開いているものの、静まった空間では声がよく通る。


「霧化したんでしょう彼。その特性をもつのは精々アンデッド種か、吸血鬼種。加えて血に対して執着心を持つ。本性自ら明かしてしまえばそりゃあ罠が飛びつくよ。恐らく霧になり帰ろうとした際に別の〈何か〉がまとわりついたんじゃない?」


 馬鹿だなぁと、見下し笑い、溶けたような顔のルディルの顎を指で持ち上げながらミドセが言う。目を細めているミドセだが、視線はこちらをみている気がした。本人に今、目を見ていないという点を問い詰めれば、なんとなくこの状況すら裏返りそうな気がしてきたため、刺激を最小限にしながら、イトスは疑問を紡いだ、この様子なら、横で震え上がったリィノの力を借りずとも事が上手く進みそうな気分だ。


「で、直す方法はあったのか?」

「さあ? そもそも僕の領分じゃないからね」


 が、それはあっけなく撃ち落とされた。普段なら嘘でも自信満々にできると言ってくれてそうなものだが、そうでもなかったらしい。ミドセはもう一度ルディルを鼻で笑ったあと、再度地面へと転がし直した。つづいてミドセは、体をイトスへ向け直したあと、その不敵な笑みを消す。真面目な表情がまっすぐこちらを見てきた。


「ただ、一つだけ確実に言えることがある」

「な、なんだよおい」


 唐突な変わり方にイトスは言葉を詰まらせながら身構える。それに対してミドセは間を置いて、またもやゆっくりと目を伏せすぐには答えなかった。どこからか風が――梢が一声にざわめき、イトスの肌に影響を与え始める。横切る風は音を鳴らし、幻聴であるとわかっていようとも、まるで悲鳴のように耳を掠めた。それに殺意は感じられない。ただ生命気配が少し増えたような気がした。ミドセは音が盛り上がりを見せ始めた刹那、双眸をゆっくりと開き顔を上げる。月よりも輝きの強い金は自信に満ちあふれていた。


「精神が弱い奴は皆この瘴気にあてられたってことだよ。小屋の住人もね。だから僕はアシュロに頼んだんだよ。間に合ったのは実に運がいい」


 何を言っているのか、イトスは理解できなかった。そんなことはお構い無く事は進み、鈴の音がどこからか、風に紛れて鳴リ始める。数振り、その音を合図にミドセが月に向かって右手を伸ばすと、そこから風の軌道をなぞるように光が不定形に灯り、球の塊を軸として雲のようにまとわり始めた。発動主であるミドセは首を傾け、目線をまるで後ろへとやるようにしながら、迷いなく言葉を発する。


「アシュロ。セドを捕まえて室内まて跳んで!」

「オッケー!」


 言い終わると同時にイトスの視界……いや、月からまるで出てきたかのように、空を飛び舞う朱が――アシュロが嬉々とした表情を輝かせながら現れた。イトスが唖然としているうちに、アシュロが一度地面へと着地すると、セドを抱きかかえ、続いてこちらへと跳んでくる。


「は――?」


 イトスは思わず声を上げた。まるでアシュロが風になったかのような身軽さでこちらに飛んで来る時、セドの特徴的な青だけではなく、もう一つの色がこちらに向かって跳んできたのだ。二つの塊はイトスのすぐ傍で倒れるが、アシュロは慣性力にしたがってくるくると体を前転させる。


「あー、良かったぁ!」


 場に似つかわしくない幸せそうなアシュロの笑い声を、白々しい目でイトスが見つめた後、一体何が起こるのか、ミドセへと顔を向けるが、まるでそれすら許さない白い靄が、風穴を塞ぐように外側に溜まりはじめていた。状況は解らない。だが風の轟々たる音が、まるで竜巻のように、小屋の外で唸っていた。仕方なしに内側……今いる場所を確認すると。アシュロと、横で意識を朦朧とさせるリィノ、床で気を失っているセドの他に、もう一人、耳の生えた獣人が居ることをイトスは把握する――〈コレ〉は誰なのだ。


「ピンクの……耳、やべぇ」


 イトスはやはり奇妙なものを見る表情で、その姿をみて思ったことを素直に口にした。


「素敵な人でしょ。森の新しいご主人様よ」


 それに対してのアシュロの反応は、軽く紅潮した頬と流し目を持ってイトスに教えてくれた。最早隠す気も無いほどに興奮した様子が見て取れる。


「お前……何したんだ」

「それはプライバシーに関わるから秘密」

「お、おう」


 イトスはそんな怪奇的な返答に閉口するしかなかった。

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