23
鬱蒼とした森の中、鬱陶しい程の混色が体に纏わりつき、一層に重々しさを募らせる。――ああ重い、座り込んでしまいたい。イトスにとっていつもの倦怠感が更に強まったように思え、そのことに嫌悪感を覚えていた。とにかく動きにくい状況だと身を持ってわかる。これが時に呑まれ、道を誤ってしまった感覚にして末路なのか、と考えたがどうも違うようだ。
幸い、視界全てがこの〈混色〉に成り果てたわけではなかった。よく目を凝らせば見える程度の余裕はある。ところで照明も無いはずなのに何故色や状況が解るのか、こうなるまで全く気にも留めていなかったイトスだが、視野を移動させ、ぼんやりと霞む光の〈円〉が目に入ったことで察しがついた。そういえば森から小屋に移動する際、ミドセが今宵〈満月〉であるという説明をしていたことを思い出す。暗闇の中では小さな満月も見事な光源だった。
状況が何となく理解できたところで、すっかりこの場にいるもう一人、セドの存在を失念していたことを思い出し、近場に居るはずの彼を探す。セドは警告をした手前一人で逃げるような性分では無いことは解っているし、人の気配が充分にあることを考えるとそう距離が遠いわけではないだろうが、状況にどこか違和感がある。第一声が聞こえないのだ。そもそも呼吸の音さえ耳に届かない。
「セド?」
思わず声を発して確認をする。ただでさえ薄ら寒い空間だというのに、徐々に体温が削がれている感覚があった。もっともそこまで危機と感じているわけではないのだが、居心地が悪いことに変わりはない。結果、森は静まり返ったまま、特に変化はなかった。
と、なると霧が音でも吸い込んでいるのか。状況を一つずつ把握するため、視覚を集中させ、途中に見えた特徴的な〈空色〉が混じる部分を凝視すると、その〈像〉が座り込んでいる様子が確認できた。多少ぼやけては居るが、跳ね気味の短髪はそう真似できるものではない。確実にセドはそこにいる。
「セド、聞こえねぇのか?」
像の方角に向かい発したイトスの言葉に、青い像が動いて反応した。相手側の声は相変わらず聞こえないが、何か反応を示している辺り音は届いているのだろう。表情まではよく見えないが、少なくとも何もかも霧に奪われたわけではないことは解る。
それでは、重苦しい霧の正体は一体何なのだろうか、形を成すわけでもない〈それ〉に、イトスは改めて向き直った。本来は面倒くさいし考えたくもない。現に頭痛もするのだ、相当にうんざりしていた。早く解決して楽になりたい気持ちが先行する。
「ト、ス」
だが決定打への一押しがどうしても足りなかった。できれば無駄な動きはしたくない――そう考えていたところにやっとセドの声が届いた。けれどもその声には違和感がある。やや高めの声質は紛れも無く彼を表しているものの、震えた声が悲痛そうに、あるいはなにか詰まった印象とみるに、この霧が少なくとも何かしらの有害因子を持っていることは間違いなかった。
「面倒くせぇ……」
一拍、イトスはまず大きく息を吐いた。呼吸は幸い出来る。それからこんな景色ならさほど必要がないだろうが目を閉じた。全ては一度思考を空白と化すため。続いて数を、〈何者〉かの気配を数える。
一、ニ――多くはないが数体は確認できる。それがこの霧からなのかに関しては不確定ではあるが、行動を移すに越したことはないだろう。現にこの状況を打破するにはそれしか方法がない。
鈍い体を、まず利き腕から動かした。懐に忍ばせた一つの銃身に左手を伸ばし、把手を握る。手首を軽く回して自らの動作を確認した。問題ない。そのまま照準を目先に、方角としては足止めを喰らうまで向かっていた方角か。〈混色〉が月の光を吸い上げ気味が悪い色の霧として漂う。その色が特に濃いと感じた場所に銃口を向けた。
それから特に見定めることもなく深呼吸。引き金をそのまま絞る様に引いては起動する。
長らく使っているこの銃は、特に固形の銃弾など必要なかった。天界では自分の〈能力〉として、想像した物を自らの魔力で制御し落としこむ手法を学ぶ。イトスはたまたま銃弾を模した〈形〉を魔力で具現化し、銃の仕組みを理解した上で組み合わせ、銃弾――即ち〈能力〉として利用してきた。それが彼の中でもっとも容易な使い方だ。そしてそれは、その軌跡や目標が例え見えずとも、決して外しはしない。
反動込みの起爆音。取手を持っていた左手が若干しびれる。目標など知る由もないが、当たった。直感ではない、空気中の霧色が薄まったことがなによりの証拠だ。見えざるものは果たして思惑通りの結果になったかまではわからないが、状況はその場しのぎにしても好転した。セドの呼吸が耳に届く。悲痛そうな息をしていた。座り込んでいたセドの元までイトスは少しだけ近づく。意識はあるようだ。そのまま声を掛ける。
「おい大丈夫か、なんか居るんだろ? よく解かんねぇけど」
「ここ、いっぱい、ゆう、れ」
癪に障る言葉の細切れ加減にイトスは眉をひそめた。が、なんとなく語群から察しがつく。セドは幽霊が苦手なのだ。
「まだいるのか?」
しかし彼の調子に合わせていたら話は進まない。おかまいなくイトスは自分の疑問を投げかける。若干涙目で顔を歪めるセドはその言葉にただ首を縦に振った。セドの目先だがこちらをみているわけではない。ただ森の先を見ている。目線を辿ると先ほど退けた霧。それがまたこちらに向かってきていた。
「そこまで恐怖に感じるなら目ぇくらい瞑っとけよ」
イトスは舌打ちをしながらその霧を睨みつける。霧がどことなく形を――元から保たれた形などしていないが――変え始めた。変える、いうより濃度を上げるべく集結しているというべきか。次第に形状は大きさを増していく。セドが言う限りだと幽霊とのことだが、果たして実際どのような姿をしているのやら。憂さ晴らしに軽くそう思考を回しつつ銃を向けた。
一発。赤い炎の矢が無事に中心に向かって飛び立っては無形のそれに張り付く。しかし想像していたような結果ではなく、そのまま吸い込まれる様に弾丸の赤は溶けていった。まるで煙が同化したかのようだ。心なしかそれにより霧の色が更に濃さを増した様にも感じる。
「イトス――」
セドがイトスの名を呼んだ刹那、霧は再度イトスを正面から呑み込んだ。セドは何か言っているようだが、霞に阻まれたイトスには聞こえもしない。おかまいなく襲ってきた霧が先程以上に体に絡みついた。――重い、今度は呼吸まで薄らぎそうだと、イトスは危惧する。とはいっても、悪魔としての体は呼吸が止まろうが死に至るわけではない、したがってどうにかなるだろう気もしていた。何か忠告をされていた気もするが。
再度体の動きを確認した。金縛りではない、先程より少々動きが鈍っている程度だ。関節が少し錆付きはじめたり、あるいは酷使されたらこのくらいになるのだろうか。しっかりと手持部分を持ち改めたイトスは、もう一度その濃い霧に銃口を向けた。銃弾の装填が必要がないことがここまで便利であると――もちろん事前準備はいるが――この点の不安は少しも考えなくていい。もう一度引き金を引く。
――が、撃てなかった。正確には〈銃弾〉となる物質が出てこなかったのである。イトスはその愛用銃の応答に眉をひそめた。
「チッ、ついにボロ出しやがったか、この〈エスツェット〉」
予想だのしなかった事態にまるで銃に吐き捨てる様に名称を呟く。引き金は確かに引いた。いくら自らが怠惰性極まりがないことを認めていようがそこまでの失念してはいない。おかしい、となると湿気か、それともそれ以前の問題で、装填動作の代用となる〈魔力の補充〉でも忘れていたか。目視で確認しようとしたがこの視界の悪さだとそれも正確にはできないだろう。
「面倒くせぇな……」
イトスは苦しさと鬱陶しさで朦朧とし始めた思考回路の中、出来る限りの行動を移す。先程までは他人事でどうでも良かった。しかし、現状のこの現象は確実に自分に影響を及ぼしているものだ、苛立ちにならないわけがない。そうした上で咄嗟に浮かんだ答えが、利き腕に集中していたことで自らも忘却していた〈もう片腕〉の存在への可能性に賭けることだった。こうしてイトスは右腰に忍ばせたホルダーに手を掛け、そのまま力づくで空気抵抗に逆らうように腕を伸ばす。
「おい、退けよ、鬱陶しい」
そして本音を乗せた声を活性化させるかのように、右手に持ったもう一丁の銃の引き金を引いた。左手より大きく振動しながら飛び立った弾は、赤き閃光を放ち濃厚な霧の間を切り拓くように進んでいく。やがて霧を抜け、一筋の軌道を描いた弾丸は見えなくなる、爆発したような音もしない。それほどの距離まで走っていったか、それともこの弾ですら〈時に呑まれた〉とでもいうのか。
やや時を経て赤い残像は、周囲の温度を下げた後、色を沈ませ消えていった。
一方分断された霧は、左右でそれぞれ霧というよりも視認できる蒸気のように固まりそこに漂い留まっている。構えて数拍、動きはない。セドから見ればなにかしらの人や動物の形でもしているのだろうか。
「大丈夫か?」
そう思いつつイトスは一呼吸置き、横目で腰を抜かし座り込んでいるセドを見やる。直後声に気づいたらしいセドは表情を強張らせながら、イトスを見返してきた。その後表情に笑みを浮かべては口を開いてくる。
「ありがとな、怖かったけど、大丈夫だ」
「あっそ……震えながら言われても説得力ねぇぞ」
気まずさのような、今後の事を考えると調子が狂いそうな感覚に、イトスは思わずセドの安堵した目つきから視線を逸らした。そうしてやり場にこまった目線を銃に向ける。
左右に握った銃は天界で改造を施した対式の二丁拳銃だ。トリガーガードに隣接した位置、銃口直下に据え付けたタンク状の弾倉、と認識している部位は可視化できるようにしていた。ここに溶岩の如く高熱を帯びた液体を、〈事前準備〉としてイトス自らの魔力から蓄えておけば、今回のような実戦の際にわざわざ銃弾を頭に描かなくても、引き金を引くだけで事が進むのだ。
そのため起動する力だけで本来銃の役目が果たせるはずが、左手用の銃だけが上手く動かなかった点がどうも引っかかったのだった。原因としてはその液体不足か、或いは銃そのものに年季が入っているために不調であるか、その二択しか考えられない。
応急的な点検をイトスは万が一に備えて行う。両方の銃には通常通り魔力の液体は蓄積されていたし、試しに近場の大木に向かって発砲してみたがこれも通常通り赤い銃弾をまっすぐ射出させては幹に小さな穴を開け、結局大きな異常と見受けられるものは確認できなかった。
訝しげに思いながらも、しかし問題なく動作するならとイトスはここで思考を切り替える。視点も霧へと移動した――途端にイトスは顔をしかめ、思わず体勢を整えていたセドに言葉を投げた。おかしい、先程と何か違う。
「なあセド、さっき俺は霧を真っ二つにしたよな?」
「き、霧? いや、イトスが銃を撃った先にずっとあるのは、人の形の群れ、だけど」
「んじゃ、なんかでっかくなってるみたいなんだけど、それは」
「でかく?」
セドが疑問を浮かべながらも、イトスが見る霧の方向を恐るおそる見始めた。こういう時に互いの目に映っているものが異なると説明が非常にややこしくなることは解っていた。が、やむを得ない。現にイトスには、先程二分化した霧が、目を離した隙にまとまっては肥大化しているようにしか見えなかったからだ。背の高さよりやや上までの大きさだったそれが、今や月に向かって塔を成すように伸びては霧として集束している。
垣間見た横目でセドを捉える、どう見えているかは解らないが表情が青ざめている辺りただごとではないのだろう。
「人の姿した亡霊かなんかがタワーでもつくってんの?」
「いや、なんていうか……説明させないで。っ……イトス、危ない!」
恐怖でもはや混乱状態に陥っていても可笑しくない涙声のセドが、言葉を続けている途中で、唐突に我に返ったようにイトスに言葉をはっきりと投げてきた。イトスはその声に応じるかのように後退する。霧が、まるで手のような塊としてイトスに向かっては、また呑み込もうとしていた。
幸いにも間一髪。体勢を崩すが転ばないように、下手に滑り倒れない様に体重を足に乗せた。相手の霧も人という形としては再びこちらを呑もうと構えているのだろうか、また動きが止まる。
「えげつねえな」
「動き、さっきので鈍ってるみたいんだけど、イトスが発砲したから目つけてるっぽい」
「面倒くせぇな……どうなってるんだよこの森は!」
油断しないように塊を凝視しながらイトスは銃を構えた。液体が銃身に向かって吸い上げられ、引き金を引くことで銃口が火を噴く。間違いなく塊を貫いたが、先程と違って対策でも覚えたと言わんばかりに形が崩れない、それどころか勢いをつけてこちらを再び呑み込もうとしていた。
大きな得体のしれない霧がまるで腕の遠心力を振るうか如くこちらに向かってくる。咄嗟の判断でイトスは回避するべく下がった。目標とされている点はわかるが一緒に居るはずのセドに被害が及ばないのがどこか腑に落ちない。それに今文句を付けるどころでは無いため、ひたすら回避と、反撃の頃合いを見計らってこちらから射撃して抵抗するくらいしかできない。こんな時このような不定形に強い者でも存在すれば楽であるというのに……。
イトスが他力本願な思考へと傾いたちょうどその時、まるでその願いを待っていたとばかりに現れた白紫の矢が上空から霧に殴りかかった。矢は雨の如く地面へと振り叩いては霧を縫い付け、やがて塊としての形が若干崩れる程までに至った。
もはや脅威になりかけていた不定形とは違う。状況は心持ち好転したのではないか。霧の塊は雷が直撃したかのように電流を纏っているそれを呆気にとられるように見ながらも、イトスは胸をなでおろした。いや、雷と喩えるのも可笑しいのかもしれない。その〈発動主〉がやはり気配も無く現れたのだから。
「霊群なんてまったく運が悪いねー」
イトスと、セドの開けた距離の中間から声がした。続いて何も無かった場所から形が浮かび、見慣れた姿と色へと変わる。
――リィノだ。悠長なその形は半ば幽霊の如く脚を透過させたまま、浮いているかの如くそこに留まっている。
「リィノ、お前……」
「せつめいは後、俺足止めはできるけど〈完全に〉消すの苦手なんだよね」
言いながら華奢な体躯、その両腕を天に向って伸ばした後、掻き分けながらそれぞれ左右に広げ、リィノはゆるやかに、時間すら減速するように腕を動かしては手のひらを地面に向け、上腕ごと下ろした。それを合図に月の光をそのまま落とした様に落雷が、塊に鞭打っては起き上がろうとしていた動きを止める。
そこまでの様子を伺った後、ここにきてはじめてイトスに顔を向けたリィノが、霧に向かって左腕を広げては指し示してきた。
「これなら命中するっしょ? とびきりでかいのぶつけちゃってよ、イトス」
「は? トドメでも刺せってことかよ」
「そ」
リィノは頷いた後欠伸をし、もう一度霧を顎で指す。
「ちょっと面倒な手順踏めば〈浄化弾〉撃てるって聞いてるよ」
「あーわかったわかった」
イトスは左手首を遊ばせながらそれに行動で応じた。まずは左手銃を対象へ、続いて右手銃を目標へ、その後互いの銃身を併せる、それから神経を指に籠める。目の前の化物を一瞬にして溶かし尽くす色彩。通常の赤と非常の青。細かいことは考えない。とにかく幽霊とやらを消し去る。
動作と感覚を脳裏に浮かべ、直後左右同時に誘発、合成樹脂を打ち付けた音は燃焼音に変わり、火炎放射のごとく二色の色彩が銃口から躍り出た。〈混色〉の霧が歪んだ色を漂わせる一方、炎は赤と青を螺旋状に交差させ目標にたどり着く頃には鮮やかな紫炎へと変貌し、容易く霧そのものを呑み込んだのである。
文字通りの雲散霧消。霧は炎と共鳴するかのように姿を互いに消し、そこに残ったのは静寂な森と若干の木が炭化したような匂い。それから三つの生きし存在の気配であった。
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