3

 教室の外は少々長めに距離を儲けた廊下空間だった。

 コンクリート材質の床はよく足音を反射させる。見慣れた空間ではあるものの、今日においてはここにしか人気がなかった。それ故にいつもに増して一つ一つの主張性を高めている。

 先ほどの大量の音は微か、もはや幻聴なのかそうでないか程度に落ち着いていた。

 教室に残った物はごく一部だが、これ以上に興味がないのか、注目から逸れ、別の話で弾み始めた者ばかりであった。

 今、廊下にいるのは、セドと、結局は関心を失わなかったアシュロ、それからもう一人の姿のみであった。


「ちょっと……リィノ、どうしたの?」


 気配は捉えていたが、自分の目でセドが認識したのはその声の後。

 廊下と屋外の境目に敷き詰められた、数えるのにも億劫な窓の一つ下に、見慣れた存在はあった。

 この珍しい髪型を見間違えるはずはない。座り込んだ彼に合わせて、アシュロは身を屈め、その腕を引き上げる。

 閉じた目がその振動で生半可に開き、寝ぼけたような表情で見てくる。


「あれ……アシュロー?」

「あんたって夢遊病とかもってたの? その割には随分遠くまで来たみたいだけど」

「んーと」


 欠伸をして、周囲を見渡したリィノは、そのままもう一度アシュロに視線を向けて一息、首を振った。


「俺、忘れ物して、それでめんどくさかったけど、頑張ってここまで来たんだ」

「忘れ物……その本?」


 アシュロはそう言いつつも下へと目線を移す。文庫本が数冊、そこには抱えられていた。面積でみると大したことはないが、見るからにも非力な彼には若干重たげにも感じる。


「そう、楽しみにしてたんだよね、この続き。……で、セドが距離開けてるのはこの本のせい? それともアシュロ?」

「両方に決まってんだろ」


 ようやく口を開いたセドが肩を落とし、真剣な眼差しをリィノに向けた。


「お前さ、クノンどこ行ったか知らね?」

「クノン……? あの褐色肌のお兄ちゃん?」

「そうだよ、お前の速度だったら絶対すれ違ってるだろ」

「あー……それがね」


 首を傾げて、方角的にも門がある場所だろう長く伸びる廊下の消失点を見やる。どこか不安げな眼差しで。


「ここで会ったよ。向こうっ側の教室から帰ってくる途中。すごい怒声……みたいな? そういう声がして思わず振り向いてさ……」

「リィノ、お前なにかやったか?」


 今まで無表情だったセドの顔に訝しげさが映るとほぼ同時に、リィノの肩が微かに跳ねた。間隔は彼自身の体感よりも長く空けられ、やがて口を開く。


「どうだったかな……でも来る道中に、ルディルに会ったよ」

「へぇ珍しいわね、ルディルがここら辺歩いているなんて」

「そう、そうなんだよ。だからちょっと予想外で……」

「ホラーとか好きなアンタにとってはなんか楽しんでそうなイメージなんだけど」


 身を乗り出すかのようにアシュロはそう口にしたが、それが一層に気まずい空気を作り出す。即座に変化に気づいたアシュロが、慌てて取り繕うように言葉を選びなおした。


「アンタは……いや、アンタもね。ルディルは苦手な部類だったかしら」

「苦手っていうか……なんていうか」

「あ? それで? さっさと言えよ、あいつと何かやったのか?」


 声の調子が急速に冷めたセドの声が、痺れを切らしたかのように絞り出される。いつもと違う態度――リィノは身をすくませた。なんだか睨みつけられているようにも感じる。


「なんか、手伝われそうになった。なんだろ……あまりに衝撃過ぎて。セド怖がりそうだからあんまり言いたくない」

「どうせまたなんか死神行儀してたんだろ。遠まわしに言うなよそんな単純明快なこと」

「う……ごめん。だから、ク……? えっと、お友達さんにももしかしたら俺の不安が<感染した>かもしれない」


 リィノの言葉が空気を、今よりも重たげに包んだ。気まずい――その心境に満ちた本人が、その緊迫とした大元に怯え気味に触れる。


「セド……やっぱり怒って、る?」


 おどおどとした状態で、リィノはセドを上目で見据えるが、セドはお構いなしといった具合に無視し、かわりに体を別の方角に向けた。そうして床を蹴り上げては何も言わず遠方に溶けていく。廊下には二人だけが残った。


「やっぱりセド怒ってた?」

「そうねぇ、あれは多分リィノに対してじゃないと思うわ」

「何かそのお兄ちゃんとあったの」

「あったといえば、あったみたいだけど、多分ルディルの話が大きいと思う。あの子名前出た瞬間目の色変わってたもの」


 アシュロはリィノの右腕を軽く引っ張り、彼らの後ろ姿が溶けた先へリィノごと連れて行こうとする。


「どこいくの」

「血迷ったセド一人だと心配だからねー、だから私たちも行くの」

「えー、めんどくさい」


 感情に起伏なくリィノはそう言い、その場に座り込もうとした。だがアシュロはそんな彼の方向を振り返ると、笑みを浮かべて意地悪そうに口を開く。


「事の発端はリィノじゃないかもだけど、大きくしようとしたのは誰だったかな?」

「う……わかった。行くから」

「じゃあ、とりあえずミッチーに電話でもしとこうかしら」


 仕方なくも手を引かれ歩くことに同意したリィノの様子に、安心したアシュロは、そういって懐から通信機を取り出した。


「えっ……持ってたの」

「私はいつでも持ってるから連絡してねって言ってるじゃない」

「なんだ……それなら最初からしとけばよかったな」


 そうすればこんなことにならなくて済んだのに。リィノはそう思いながら、結局自分とは違った歩調で長い道を歩かされる羽目になる。


「ところで感染したってアンタ言ってたけど、力が暴走しちゃったって感じ?」


 手を引きながらアシュロが尋ねると、リィノは頷いた。


「ルディルに会ってすごくこう、不安になったっていうか、とにかくなんか体がいつも以上に怠い」

「なるほどね」


 アシュロは目線を向けない。ずっと通信機に手を伸ばし、その画面に視線を集中させている。親指が忙しく機械を駆け回っていた。


「<悪魔>として転生して、まだ半年しか経っていないんだっけ? いくらアンタが優遇された悪魔だからって無理もない話よ。他人の精神の調子を弄っちゃうんでしょ。なら余計に仕方ない気もするわ」

「そんなもんなのかな」


 不安げに言葉を返したリィノに、アシュロはようやく翻すように顔を向けた。


「魔力が全てを決めちゃうんだもの。私みたいに普通に生きてても制御はむずかしいの。だから当然って思いなさいな。……もっとも、今回みたいに厄介続きも困るけどね」

「やっぱり、悪魔の体って酷いや」


 リィノはそんな助言どころか、むしろ突き刺すかのような言葉に閉口せざるを得なかった。



――


 外の色、空は紫に移ろいゆく。学園に広く備えられた砂場を抜け、中庭を抜けて、玄関を抜ける。門の外には日常的にも群がるビルの姿があった。現実に返ってきた……そういっても過言ではない景色。


 急ぎ足で校内を駈けていたセドの足がここで止まる。

 見渡す。見慣れた姿が数人点在する。クラスメイトだ。そう認識した瞬間の冷静に動く思考、それに伴った行動が休む暇も惜しいかのようにその“人”に声をかけていた。


「なぁ、クノンの奴どこいったんだ?」


 いつもの調子で首を傾げると、気がついた相手が振り返っては反応を示してきた。


「こっからだと転送装置? あっちの方に行ったぜ」

「転送装置か、やっぱりアイツ本気で考えて……」


 悪寒に身を染めながらもセドは宙を仰ぐ。時間的にも闇が近づいている。

 今はともかくして、先までをみたとき、確実に都合の悪い見立てがいくつか簡単にもついてしまう。

 彼は話しかけた相手にみえないように舌打ちをして、その場を去ろうとするが、言葉にそれをつなぎ止められてしまう。


「なぁ、セド、聞いて欲しいんだけど」

「何だよ?」

「クノン、やけに追い詰めた様子だった。だから俺たちも気になって、それで追いかけたんだけど、きがついたらどうでもよくなって……なんなんだろうか」

「あー、それはまあ、空気読んだんじゃね」


 状況に動揺しながらも、セドは平然とした口振りで返す。話を切るように背を向けるが、再び声が足止めをした。


「それと、さっき死神に遭った」

「マジかよ」

「ごめんな。アイツら、俺も止めたんだけどさ、目を合わせちまってさ」


 鼓動が止まったような感覚である。

 言葉の意味を整理せずとも現状が解ってしまう。冷静である部分とそうでない部分が葛藤した。


 時間がない――足を進めた。


「セド、どこいくんだ」

「決まってんだろ。殺しに行く」


 言葉が聴覚的に曖昧になる。悠長に会話を聞いている余裕も、いまのセドにはなかった。

 幸い、誰も追いかけてきてはいないようで、次第に人の気配は遠のいていく。代わりに言葉をこちらから切った際、耳に飛び込んできた言葉が、何度も彼の頭を反響していた。


 落ち着かない頭で、セドは携帯機を片手間に操作する。

 入力、その間も足取りは進む。寧ろ先程までと比にならない速度で目的地へ向かっていた。

 手の振動。繋がった時の反応。声。

 そのまま受話口を耳にあてがう。


「なぁ、今から出てきてほしいんだけど……いや、ちょっと今物騒なことになっててさ、お前の力が頼りなんだよ」


 自分でも驚くほど、冷静に言葉が紡ぎ出された。

 電話越しの声はどこか気怠そうに、その言葉を返す。


『同窓会の揉め事だったらそっちで片付けろよ』

「いや、そうじゃなくてさ……あー、お前になんて説明したらいいんだよ」

『呼び出しとかだったら俺行かねぇからな』

「頼むって。俺じゃ手に負えないの知ってるんだろ、〈死神〉」

『〈アイツ〉が、なんかしたのか?』


 〈死神〉の言葉に食いつくように、電話越しの態度が変わる。胸をなで下ろしたセドはそのまま突き当たりを曲がった。


「なんか、クノンを面白がって、つけ回しているらしくてさ。本当はぶち殺してやりたいんだけど、そうもいかないから」

『止めたらいいんだな』

「うん、お願いしてもいいか? 場所は――」


 その時足音がした。一つ――いや二つか。

 咄嗟にその音の方角を向く。見知った二人が走っていた。

 褐色気味の一人の姿を追うような姿は、黒づくめの少年。手に届く範囲からは程遠く、あちらも気づいていなかった様子だ。もっともあれだけ必死なら、気づかなくて無理はないが。

 眉を潜めながら、セドは緊迫した様子でそれを見送る。


『おい、セド?』


 怪訝そうな声が奥からしたことで我に返る。


「あぁ、ごめんな。場所は……とりあえず組織のあるビルの前で」


 あくまで何も見ていない声を繕いながら、セドは歩を進めつつ通話を切った。


「クノン……無事に逃げてくれな。頼むから」

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