Epi:1  《正義》は、一夜を巻き込んで

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「あー、もうどうしよ……」


 酷く感情のこもっていない声は、突然空気に溶けた。


 左側サイドテール、緑の髪――独特な風貌を持つリィノは、気怠そうに体を丸めて眠そうな目を擦る。その棒読みはただ広いばかりの室内に小さく溢れた。

 規模は横片側面に敷き詰めた硝子張りの窓にも、余裕で数十歩は歩ける赤い絨毯の向こう側にも届かない音量。

 では独り言かといえばそうでもない。


「退学してきたばっかりなのに、また戻らないといけないみたい」

「それはつまりどういうこと?」


 もう一人が落ち着きのある反応をした。

 一呼吸置いてから聴こえるのは、まずページをめくる音。

 疑問への答えはその次である。


「本、学園に置いてきちゃった。読みかけのホラー小説」

「それはまた残念だね」

「あー、取りに行かないとなぁ……」


 特に有用な言葉を渡すわけでもなく、ただ千種色の髪を持つ少年――ミドセは椅子の背へもたれ掛かり、分厚い装丁の書物に目を通していた。


 鋭く整った面持ちに対して、残念な程髪型は乱雑だ。

 まるで寝癖跡をそのままに、肩よりやや下まである髪を適当に束ねたものを、重力に従って下ろしている。


「ねぇ、今日の同窓会行かないのー?」


 リィノは、興味の薄そうなミドセに耳元で問いかけるが、本に向けられた蛇のような金色の視線はリィノへと動くことはなく、代わりに淡々とした答えが返ってきた。


「行っても馴れ合うだけの祭り事は、僕にとってはただの厄介事でしかないよ。恐らく僕がもし仮に同窓会に参加すればついでに本をとってきてもらえる……とでも思ったんだろうけれども、残念だったね」

「むー」


 図星を含んで、期待を裏切られたリィノは、重力を預けていた椅子の裏側から身を切り離す。

 やがて姿勢を整えると、見た目おぼつかない足取りで離れた扉へと向かい始めた。

 距離は十歩程。


「わかった。この際めんどくさいけど、自分の足で行ってくる」

「気をつけてね。大丈夫だとは思っているけれど」

「道端で倒れてる事態になったら〈〉のせいだから」


 淡々とした静かな皮肉。彼らにとって日常茶飯事であるものの、リィノが外に出ること自体は珍しいことだった。

 ゆえに続く言葉とすれば、外出に対してなにかしらの忠告を渡されそうなものだが、現実は非情である。


「ま、どうせそうなっても死にはしないから」

「悪魔の体ってやっぱりひどい。これじゃ仮病とか利用できないわけだ」


 嘲笑うようなミドセの返答から逃げるように、リィノはため息と不満を吐いて部屋を後にした。


 扉を抜け、廊下を歩き、エレベーターで最下階まで。

 玄関から外の空気に当たってから、今度こそリィノが吐くのは独り言である。


「眠……学園が来てくれたら楽なのになぁ」


 頭上に広がる空の色は天候的によくある曇り空で、落ち着いた日照と大して抵抗のない風が交わって、どこか生ぬるい空気を演出していた。

 半崩壊にそびえ立つビル群は至るところに点在し、町並みを埋め尽くしているように見える。お世辞にも地面は整備されてるとは言えない。

 瓦礫や廃棄物といった小物は、舗装の必要な道に乱雑に放置されていた。荒廃的な空間ではあるが、なにも〈此処だけ〉ではない。

 人の気配が少ないことも含めてどこかしこで見れる風景である。


 辛うじて足場はあるものの、安全性に関して保証が一切ないそんな道を、リィノはただゆっくりと歩いていた。

 幸いにもこの複雑で不安定な放棄品が、上手い具合に手すりとしての作用を発揮していたため、転倒には至らない。


「皆どうせなら通信手段とか持ってくれたらいいのに……」


 大きく息と心情を吐き捨てる。目的地までの距離は彼からしたら十分すぎるほど長旅だ。

 休み休み体を動かすも、足は既に鉛のようだ。できればあまり動かしたくはない。


 それでも努力すること数分。

 突然一層の重みがリィノを襲う。感覚的な脅威が、見えない形で行く手を阻んだ。


「なんか……ヤな感じ」


 鈍い足を停止し、リィノは青寄りの紫で染めた視線でじっとりと辺りを警戒する。

 隊列を組む建築物、気が付けば赤と紫が混じり変わっていた空、別路地に続く脇道、別段変わった所はない。


 首を傾げる。

 ――ではこの違和感は何なのだ。

 彼は確かに心霊現象に興味がある。とはいえ巻き込まれるのは現状としてはごめんだ。


 悪いことが起きないように願いながら自分を中心に視界を回した。結果は自分だけの独擅場であるとの確信。それでも構えるに越したことはない。


「なんか、いるんだろうなぁこれは」


 嬉しくもない不安を胸に抱きながら、歩く空気は実に重かった。


 再び進行。

 錆びたような異臭が風の中に混じり始めた。

 息を呑みながら出処だろう細い角へと入れば、整備されていないコンクリート性の床や小石の擦れる音が響く。

 あと二つほど角を曲がれば学園。できることならばこのまま怪異も事件も起こることなく過ぎ去って欲しい。


「うえ……」


 しかし願うも虚しく、事は起こってしまう。


 鉄の匂いが鼻につく〈それ〉を目の当たりにしたリィノは、吐き気を覚え口元へ黒い袖元をあてがったまま後ずさった。


 目で捉えたものは不気味では言い表せない。

 単純に不快な空気を全身に浴びつつ五感に響く音は、粘質、肉、骨。


 ――娯楽的に、モニタ越しに見る怪異はなんとも爽快なものなのに、どうしてこんなものを具現化してしまったのだ。

 リィノは、見慣れてはいるため失神には至らない。だが引き裂かれ、積み上げられた〈ヒトの山〉をみて正気を保てるわけがなかった。


 さて、山の前には肩を震わせて小さく少年が居た。

 黒づくめの衣装を纏っている為、金の短髪は面白いくらいに映える。

 背中を見ているわけだから目が合ったわけではない、それでも警鐘と認識が確実に危ないものであるということは嫌でも理解させてくる。


 リィノは知っていた。この〈異質〉を創り出した元凶を。

 何故か一人だけ〈特例〉として、禁忌を犯しても無罪放免となっている〈クラスメイトだった少年〉を。


 ――の異名を持つルディルである。


 不快すぎる展開に足止めを食らったリィノだったが、そんな驚きの反応に対し、控えめに音無き欠伸を浮かべる。


 ――さて、どうやって逃げようか。


 解っていた、この状況は危ない。

 彼に気づかれるととてつもなく厄介だ。

 なのに体が動かない。だからいっそ、気づかないでほしい。


 そんな願いばかりが思考を巡る。

 どうしようか、あれこれ悩む。そうしているうちに見たこともない頭が一つ、べちょりと崩れ地面を転がった。

 必然的に黒づくめの少年がこちらを振り返る。

 どことなく狂気のある紅き左目と禍々しいくらいに黒い右目。


 気づかれた。ぞわぞわと体中の血が騒ぐ。


 狂った色をした〈死神〉の目が、細くこちらを見据えた。

 病的にも見える顔色に笑顔、その姿は明らかにリィノに興味を示した様子だ。


 咄嗟に視線を離す。見ていたら恐らく、あの死体の仲間入りだ。

 〈死神〉と目が合えば、魔力で出来た体は四散する――そんなミドセから得た知識がこんな所で役に立とうとは思ってもみなかった。


 それならば尚の事逃げたい。

 でも足は重い。

 リィノからみた化物はそれでも自分へと目を向けられている。

 混乱と絶望。まるで溺れるようにリィノはできる限りの行動案を思索する。


「やぁ、こんにちわ~」


 伸びきったテープのような声が、こちらの恐怖など物ともせず、恐ろしいほど空間に転がった。

 突然の挨拶には耳を疑ったが、明確に認識されたことで、思考がいよいよ墜落した。


「久し振りだねぇ~、リィノくんだっけぇ~中退したって聞いたから心配してたんだよぉ~」


 様子を見る限り殺意はない、少なくとも自分に対しては。

 リィノは体内の速い拍子を抑えるように言葉を絞り出した。


「なに」

「キミと会えたの嬉しくて声かけたんだけどぉ~、やっぱり嫌われてるみたいだ……ねぇ~」

「なに、してるの。何の用」


 こちらは全く嬉しくない。そんな思惑を噛み殺しながら、リィノは適当にあしらおうとする。

 油断はならない。〈ただの罠〉という可能性は大いにあるのだ。

 そもそもこんな気狂いが、自分に対してここまで友好的なわけがない。


 もし手を出してくるならば、自分の〈能力〉である〈精神操作〉でもして足止めをしようか。いよいよその案が浮かんだところで、ゆっくりすぎる死神の言葉が口から垂れ落ちた。


「あのねぇ、ちょうどリィノみたいな人を探していたんだよぉ~、手伝って欲しい~」


 不安定になりそうな、実際にも不均一な言葉遣いに顔をしかめながらも、リィノは首を傾げる。

 手伝う? 最後まで聞かずとも既に拒否したい心境だったが、そう簡単には済まない予感は目に入れた瞬間からあった。


「なんの手伝い?」

「ん~、なんていったらいいんだろ~」


 とりあえず今は無難に切り返した方が身のためだろう。そう彼は判断し、敢えて冷静に尋ねたが、内情嫌な予感は膨らみ続けていた。


「そう、この分解した山をねぇ~片付けたいんだぁ~、皆時間が経ったら元の形に戻っちゃうでしょぉ~」


 予想が的中して息を呑むのと、ルディルが彼の背面を指差す時間は絶妙に重なった。


「リィノならぁ~、根っこからとめられるよね?」


 そう嬉々として話す表情は、笑顔のまま見開かれた奇妙なものであった。その言葉が何を指しているか、リィノは解っている。


「こんなナリになっても死体は実は生きてるから、〈精神操作〉でトドメ刺せ。そんなこといってるの?」

「そう~」

「自分で、できるでしょ」

「一気には無理ぃ~お手軽のほうがいいぃ~同じ怠惰悪魔ならぁ~解るよねぇ?」


 冗談じゃない、小さく吐き捨てる。

 そう、不思議なのだ。この死神は、同じ悪魔の生命を弄ぶ。


 確か、聞いていたのは何だったか。とにかく悪魔を死まで追い込めるのだ。

 肉体さえあれば時間経過で元の状態まで復元できる〈その体〉を、敢えて死神本人がではなく、自分が根本まで断ち切れだなんて、一体何を考えているのか。そう考えると沸々と、体内で抑えきれない衝動に駆られてくる。


 撹乱し、簡単に思考が整理できない、もはやどうしたらいいのか。


 〈あの時〉と同じように存在する、いまや何の機能を果たしているか解らない心臓部分の音が突然止まった。


「あ――」


 皮切りにリィノが目を見開く。死神がこちらにゆっくりと近づいていた。朧げな視界、溺れるような感覚。わけも分からぬ浮遊感が突如襲い、割れるような痛みに思わず座り込む。


「どーしたのぉ?」


 右から左へと流れる声の意味も意図も解らない。ただ体の中から、何か血でも噴き上がるのではないかという感覚が全身を轟かせた。嗚呼、もう一度自分は。


「――」


 揺らぐ視界の中、リィノは自分の言葉で空中を引き裂いた。なんと口にしたかは、自分でもよく分かっていなかった。

 

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