第10話 リアルorファンタジー

 学校サーバーには各生徒用にデータ領域が用意されている。心得のある人間はそこに仮想空間を構築して電脳歴を伸ばすことが一般的となっていた。アキラも今それと同様にして仮想空間を訪れている。

 設定した環境は男子トイレ。アキラはその個室にいて、現実でも同じように便座で腰を下ろしてから電脳深度を上げた。

 感覚を切った現実ではルーシーが合わせて動いてくれている。そう信じて、ズボンとパンツを下ろす。我慢していた力を緩める。

 感覚も体液も音声も、ここではすべてアキラが想定して再生したデータに過ぎない。しかし現実では無意識が連動を起こしている。「夢の中でトイレに行ったら」という現象の実践だ。

 ずっと抑圧していた衝動を解放する喜びはなかった。

 ただ、涙が溢れた。



 充分以上に時間を見計らってアキラが電脳深度を落とし現実へ還ると、体がバスタブの湯船に浸かっていた。後ろの柔らかい感触はルーシーだ。腕が前に回って緩く抱かれている。

 視線を下げると女の体がある。それが嫌で、アキラは再び瞼を下ろした。

 保護されて以来トイレはもちろん風呂の時間も苦痛だったためにしっかりと体を洗えたことがない。しかし今は石鹸の香りがしている。ルーシーが済ませてくれたようだった。隅々まで垢を落とした爽快感はアキラにとって久しぶりに味わうものだ。

「ん、起きた?」

 ルーシーの問いかけに小さく頷く。

「電脳端末外せなかったから、髪はあとでちゃんと洗い直すね。ホントは電脳深度を上げてる間は触っちゃいけない決まりになってるからこれも内緒だよ」

 それは決まりというよりも、触覚を刺激することが電脳活動を妨害することになるからだった。アキラのように現実に呼び戻されることなく完全に遮断できる例には関係がない。

 もう一度ただ頷いたアキラの内心を読んで、ルーシーは戸惑う。

「そんなに……違いがないものなの? アキラの感じてるバーチャルは、現実――ううん、『この世界』と、そんなにおんなじ?」

 言い直した優しさが、アキラに言葉を返す気持ちを起こさせる。

「……うん。全部おんなじ。違うのは向こうのほうが元気で、調子良いってとこくらい」

「アタシが知ってるバーチャルは全然鈍くて、痛いのとかないけど」

「痛いの、あったよ? 特にお腹、たまに具合悪くなるんだよ。お腹がぐーっと痛くなって、そういうときはなんにもできなくなるんだ」

 ルーシーはもしかして、という閃きを働かせた。

「それって一ヶ月おきくらいで、一回始まったら3日くらい続かなかった?」

「……そうかも」

「そっかぁ。あとで生理用品の使い方教えるね」

「セーリヨーヒン?」

 どれほど当人がそれを疑おうと、アキラが監禁され仮想空間にいたことは事実だ。それを現実だと信じられるのは、限りなく環境が整えられていたせいに過ぎないことをルーシーはわかっている。

(なんで……そんなことしたんだろ)

 虐待の被害者でかわいそう、電脳の化け物、というところで大抵は終わってしまう感想から一歩踏み込んだところを、ルーシーは初めて考えた。

(自分の子供を監禁したかったんなら、現実と同じ状態にこだわる必要なくない? 痛覚は繋げなくてもいいんだし、嫌なことなんてなんにも無い、夢みたいな世界のほうがいいでしょ)

 アキラは仮想空間にいた時間を幸せに感じていたからこそ戻りたいと願っている。

(本当に……虐待だったのかな)

 電脳と切り離された生活をしていただけで同じ判定を下されたルーシーだからこそ生まれた疑念。

(もし違うなら――あれっ?)

 腕の中から泣き声が聞こえていることに気が付いて、思考が切られる。アキラが泣いている。

「どうしたの? お湯熱かった?」

「違う! そんなんで泣かないよ! 『セーリヨーヒン』で検索したら、なにコレ。女って毎月そうなの? この体って、そんななの? ヤダヤダ絶対ヤダ!」

「それはアタシだってそう思うけど」

「ヤダ! おうち帰る!」

「アンタのおうちは今のところココだよー。はーい、髪洗おうねー」

「シャンプーハットがないからヤダ!」

 駄々をこねるアキラに呆れながら、ルーシーは容赦なく頭からお湯をかぶせた。


「ボクのいた世界がニセモノだったとしても、ココがホンモノとは限らない」

 ドライヤーで濡れた髪を乾かしている間に、ルーシーは耳を疑うようなセリフを聞いた。「文明って便利」などというのん気な気分は消え失せる。

「……なんだって?」

 思わぬ低音が自分の喉から出たことに驚いている場合ではない。振り向けばアキラは真剣そのものだった。

「ココじゃない他にホンモノがあって、そこはちんこがある世界かもしれない」

 聞き違いではなかったことを確認する。短い髪が先に渇いてベッドに寝転ぶアキラの顔つきは生きる道を探すかのような凄みを持っている。

「ボクは行かなければいけない。ちんこのある世界に」

「ちん――? アンタなに言ってんの? 女がそんなに嫌か? いい加減腹立つんだけど」

「うるさいうるさい! とにかくボクは十才の男だから! ちんこでヨロシク!」

「違うっつってるでしょうが! あとアンタねえ、会長とケンカするとき電脳深度100%にしたんだって? 危ないでしょ! 100%までいったら仮想空間から戻ってこれない〝電脳オバケ〟になっちゃうんだからね!」

「都市伝説だよ! そんなことあるならボクきっともうなってるよ!」

「あーもういい! 明日お父さん――じゃなかった、会長に説教してもらうから。……今日は寝よ」

 疲れでルーシーの眼はトロンとしている。

 自然に合わせて暮らしてきたルーシーの就寝時間は一般的な高校生よりもずっと早い。それは十才児と丁度合致するが、すっかり興奮している今夜のアキラは違っていた。

 部屋の照明を落とすと当然のようにアキラの隣へ体を横たえたルーシーの隣で、アキラはギンギンに目を冴えさせている。

「こうしちゃいられねえ。帰る方法を探すんだ」

「こうしてていいんだから寝なさい」

 起き上がろうとしたアキラがラリアットでベッドにふんわり沈む。

「眠れないならなにかお話してあげよっか」

「要らない。それよりボクみたいなといっしょに寝ていいの? さっき『生理』調べたときに色々エッチなこと知ったんだけど」

「それはエッチなことじゃなくて『保健体育』。全然平気だよ。だってアンタ女の子だから」

 アキラが頑ななことでルーシーも意地になってきている。アキラは更に張り合って、強引な行動に出た。

「ならこれでどうだ」

 隣で仰向けになっているルーシーの胸に手を伸ばし、その豊かな膨らみを掴む。

 驚いたルーシーが首を横へ倒すと、勝ち誇った顔が鼻先にあった。「どうだ、まいったか」と上手うわてに立つ優越感が伝わる。これでルーシーはまたムキになる。

「別に、女同士でよくあるスキンシップでしょ。アンタおっぱい無いから羨ましいんだ」

 女扱いされたことでアキラも熱を増し悪循環が加速する。

 逆側へ寝返りを打ち手を振り切ったルーシーの脇の下へ腕を滑らせ、両側からしがみ付くようにして再び掌を這わせる。今度は触れるだけでなくしっかりと揉んだ。

「これでもスキンシップ?」

「……よくあるよくある」

 動じたら負けだと、ルーシーは一切の反応を抑える。どこか別の所へ神経を追いやろうと意識を集中するやり方は電脳深度を上げる方法に似ているが、この状況で感覚を遮断するには奇跡が起きても覆せないほど電脳技能が不足している。そもそも電脳端末は外してベッドサイドにある。

 端末はともかく、下着を付けずに眠る習慣を後悔しながら、ルーシーはアキラが飽きるのをただ待つしかなかった。

 一方のアキラば多少知識を得ただけで性愛もその意味についても理解がない。従ってこの猥褻的接触も別段楽しんではいない。肩叩きをするに近い感覚で飽きるのは時間の問題だった。

(こんなことが面白いなんて、大人ってへんなの。……もういいや)

 もう手を引っ込めようとしたとき、ルーシーが身を縮ませて声を漏らした。

「ん、っふぅー……」

 反応があった。しかも急いで姿勢を戻すあたり、それを悟られたくない意思が現れている。

 アキラはにんまり笑った。欲情はなくとも自分より大きな存在を困らせて面白がるイタズラ心がある。子供がロクでもないことをしでかす無限の原動力だ。

(こうかな、ここかな)

 わずかな動きを逃さず、より強い反応を求めて握力のトレーニングのような単調な動きから巧みな愛撫へと研ぎ澄ませてゆく。

 刺激で弄ばれるルーシーの呼吸は不安定に踊り、浅く熱く湿り気を帯びる。

 なにが起きているかを正確には把握していないアキラは「くすぐりごっこ」のつもりで熱中していたが、唐突に手を掴まれて驚いた。やり過ぎて叱られると思ったからだ。

「あのね、こういうことされるとさ……アタシまでアンタが男じゃなきゃ困るようになるんだよ」

「うん? 困らないで平気だよ。だってボク、男だもん」

 ふてくされるこの分からず屋になにを言って聞かせれば意地を曲げさせることができるのか。ルーシーには伝えるべき言葉が思いつかなかった。今の彼女は平常な判断力を欠いている。

「そうね……。そうなのかもね」

 判断力を欠いている。握ったアキラの手を下へ導くなど、血迷うほどに。



 翌朝アキラが気持ちよく目を覚ますと、隣ではルーシーが塞ぎ込んでいた。

「……なにやってんのアタシ……」

 両手で顔を覆って嘆いている。昨夜のことを思い出しての自己嫌悪だ。

 とは言え脇腹をつついてくるアキラの心細そうな顔を見れば、自分の落ち込みは一旦置いて不安を消してやりたいという気持ちが働く。

「アンタが悪いんじゃないから。ああ……よくなかったほうが、よかったんだケドね」

 正直な気持ちの吐露。しかしアキラには伝わらない。

「どういうこと? ボクが女だとおねえちゃんが困るって言ってたのも、意味わかんない」

 説明できるはずがない。自分で追及することも避けたいところだ。

「もう考えたくない。……朝ごはんを食べよう。朝ごはんを食べる、それだけをしよう」

 不思議そうにするアキラの背中を押し部屋を出る。室内履きでペタペタと階下の食堂へ向かった。

「今朝の献立はなんだろうね。アキラも食べられるのがあるといいけど」

「野菜スープと豆のおかゆ。あとミルク」

「今調べたの? 柔らかいのばっかりだし、こりゃ早速会長が口出ししてるねきっと」

 食堂へ着くと既に大勢の生徒が集まっていた。ルーシーとアキラの姿を見て一様に緊張し、幾人かは顔を険しくする。

 歓迎されていない空気を読み取ったアキラは後ろに隠れ、ルーシーはその肩に手をやって励ましながら食堂を奥へと進む。ふたりで隣り合って座れる空席はなかなか見つからない。

「いっぱいだよ。もう帰ろうよ。ボク、ごはん食べなくても平気だから」

「アタシはお腹空いて死にそうだもん。大丈夫、ココのどこかに絶対……ホラ、いた」

 突然生徒の列が途切れ、見えない壁で区分してあるかのように空席が広がった。波打ち際よりもクッキリした線の向こうにいるのはデイジー・グレースただ独り。自由な室内着で過ごしている寮生ばかりだというのに律儀に制服を着こんでいる。

 デイジーはスプーンを手にしたまま眉間に厚くシワを寄せ、複合現実で視覚化したニュースに目を通しているところだった。

 データを読み込むだけなら電脳で済ませたほうがずっと速い。それでもデイジーは時折こうして肉体を通して情報を得る習慣を持つようにしている。電脳の天下がいつまでも続くとも限らないからだ。有害・危険視する論説がそのうち常識に成り代わって規制が始まるかもしれないと保険をかけている。

 寄せては返す時代の波に身を任せることを由とするほどデイジー・グレースは従順ではない。「いつも怒られそうな気がして肩が凝る」とは同室を辞退した元ルームメイトの証言であった。

 かくして彼女の周りには空席の層ができていた。この余裕があれば入り口近くはあれほど混雑しなくて済むのではないかと思われるほどだ。

 配膳窓口で朝食のトレーを受け取ったルーシーとアキラも彼女と距離を空けて席を選んだ。その際、近くの生徒たちが騒ぎ出すようなことはなかった。

 生徒会が転校生の暴走を抑えた――というニュースが出回ったことでアキラは「誰にも止められない電脳の化物」から脱し、かえって不気味さを増した生徒会と代わってやたらと恐れられてはいない。この学校にデイジー・グレース以上の嫌われ者はいないのだ。

 ふたりに気付いたデイジーが腰を上げると、それだけであちこちから食器のぶつかる音がして何人もが食堂を出ていく。

 その意味をかわいそうなデイジーだけが知らない。


「やあ君たち、来ていたなら近くに座ればよかったのに」

 デイジーの不自然なくらいに親し気な態度は元からだが、今は仲間意識が加わってより鮮明化している。それを察したルーシーは内心気鬱に陥るも、それを抑えて笑顔を返した。そういう意識を持つだけの根拠があることを理解し同時に尊重するつもりも多少ながらあるからだ。

「すいません。気付かなかったもので。気付いていたら、必ずそうしていたんですけど」

 物言いがぎこちなくなるほど露骨なウソである。言った当人はヒヤヒヤしているが、デイジーは目の前で行われている過保護に気が行っている。

「ハイ、あーん。もぐもぐもぐ……。ハイ、ごっくん」

 ルーシーがシチューを掬うスプーンの一杯ごとに息を吹きかけ、アキラの口元へ運ぶ。「自分で食べたほうが早い」と見ていて苛立つほどじれったい繰り返し。

「君のその構いぶりは、初回お試しキャンペーン中だからなのか? それとも今後ずうっとそうするつもりでいるのか」

 されるがままにしているアキラも不満なのではないかと、デイジーにしてみれば代弁したつもりだったが、ルーシーはいかにも心外とばかりに機嫌を悪くした。

「だってゆっくり食べないとまた戻しちゃうかもしれないでしょ」

「それにしたって目に余る。どうしても食事が辛ければ栄養剤を取り入れたほうが賢明だろう。簡便化目的でなら最早珍しくはない。私も卒業したらそうするつもりだ」

「そういう食事は不健全だからダメなの。自然の食べ物を摂り入れて循環する大地のエネルギーと一体にならないと、穢れた肉体が魂と反発してオーラが淀んじゃうんだから」

「出たなナチュラリスト。主張を通す為実証が不完全な論を並べ立てたところで聞く耳は持てんな」

 やいやいとやり合うふたりの間でアキラは口を開いたり閉じたりしながら次のスプーンを待つ。

 そんな3人の様子を、他の生徒たちは離れた位置から戸惑いでもって見守った。

 この学校で知らない者はない悪目立ちの有名人たち――不世出エリート規格外イレギュラー非合法イリーガルがモメている。にも関わらず、不穏な空気が漂わない。端的に言うならば「仲が良さそう」に見える。

 彼女たちの印象は、このあとデイジーの勧めでアキラが昨日迷惑をかけた女子に謝罪して回ることで更に改善されていった。


「アタシとしては気に入らないんだけど? まるで生徒会の勝利宣言みたいでさ」

 数日を経ての放課後、不満はむしろ身内側から出た。

「いや別にそんなつもりはないのだが。アキラがスカートめくりをしていたところを私が止めたわけではないのだし」

 険悪な半眼に見つめられたデイジーは内心に怯えを隠す。その攻撃的な眼差しの主が突然に「もっと自然を」と喚き備品を分解して作った弓と槍を手に校内を駆け回った先日のことを思い出したからだ。

 のちに正気に戻った当人の証言によれば「大地のエネルギー不足による禁断症状」であり、寮の花壇に小さな彼女専用の畑を設けたことで一応の対策は立ったものの、学校中を震え上がらせた記憶は消えていない。生徒の誰もが「やっぱコイツが一番ヤベー」という感想を持った。

「私は生徒個人の利益と学校全体の調和を願っていて、すべての行動はその結果だ。信じてくれ」

 なぜか自分ばかりが狙われた恐怖がフラッシュバックして割と真剣な懇願になっている。その想いが通じ、ルーシーの視線は緩んで力の抜けた嘆息だけで赦された。

「……ま、いいけどね。おかげでアキラも受け入れてもらってるみたいだし」

 その主な理由はアキラが男子の集まりに混ざろうとしなくなったおかげでトラブルが起きなくなった、というところが大きい。しかしそれはルーシーに始終ついて回っているからであり、デイジーは本当によくなったのかを疑問視している。

「いくらなんでも一緒にい過ぎではないのか? 仲が良いというより逃避・依存に見えてしまう」

 現に今もアキラはルーシーの膝の上で、自分の話をされていることにも意に介さずウトウトしている。服装は運動着で、未だ現実スカートを受け入れていない。

「特にだ。一緒にトイレに行くアレは理解に苦しむ。他の生徒にも言えることだが」

 ルーシーはギクリと身を震わせた。「一緒にトイレ」の程度が他の生徒とは異なる事情については隠している。

「べ、別にいいじゃないの。アンタに友達がいないだけでしょ」

「君が時折先輩後輩の垣根を忘れ過ぎではないかという点も気になる」

「そこはホラ、アタシたちがそれだけ仲良しってことで」

「それは……それもそうか。ふふっ」

 苦し紛れの一言にデイジーの機嫌がよくなったことで、ホッとしたような今後トイレに誘われると困るような、ルーシーは複雑な表情を浮かべる。

「では話を変えよう。親しい友人として心配なのだが、君は最近随分と疲れていないか? 寝不足のように見えるのだが」

 またギクリとした。「寝不足」の指摘は図星で、ルーシーは日中意識が朦朧とすることが日に日に増えて来ている。

 というのも眠る前のアキラとのが初日以来ずっと続いているからだった。初日というよりも初夜である。

 対してアキラは溌剌としているので、疲労困憊の原因は純粋な寝不足よりも自己嫌悪による精神的なものが大きいのかもしれなかった。

 勿論そんなことはデイジーには打ち明けられない。

「いやホラ、慣れない環境に手こずってるのはアタシもおんなじだからさ。大地のエネルギーも枯渇してるし」

「それはもう堪忍してくれ。猪や鹿の代わりに追い駆けられるのはもうたくさんだ」

「……なにソレ?」

「君がやったんじゃないか! 私を棒にくくりつけて! 火の上でクルクル回して! あのとき君が剥いだのは獣の皮じゃない、私の服と自尊心だ!」

「ヤダなあ。ウチに人間を食べる文化なんてないよ、今時」

 ルーシーは笑ってごまかそうとしたが、やはり彼女の寝不足は限界のところまで来ていた。その日の夕飯をアキラに食べさせたところで完全に意識を失ってテーブルに倒れ込み、台車で食堂から部屋へと運ばれた。


「入浴はもう諦めて――って、オイオイ、なにをしてるんだ」

 昏睡状態にしてはあまりにも平和的で間の抜けた寝姿を晒しているルーシーの隣に、平然と寝そべろうとしたアキラの首根っこを捕まえたデイジーが顔を覗き込む。

「もしかして君たちは、いつも一緒に眠っているのか」

 躊躇なくコクンと頷いたアキラを見て、デイジーは首を引いて驚く。

 転校から二日目以降、アキラはルーシーにぴったりついて回るばかりで自発的に喋ることすら少なくなっている。内向的、というより幼児返りをしているかのようにデイジーには思えた。

「なるほど、『一緒にトイレ』どころではないわけか。よし、アキラ。とりあえず今夜は私の部屋に来なさい。どうにも君は依存しようとする傾向が強いようだ。年相応なひとり立ちをするために、少し環境を変えてみようじゃないか」

 ふたつ年が下なだけの高校生に対する提案ではないが、デイジーは前向きに状況に対応しようとしている。

「どうしてもひとりで眠るのが嫌なら私の隣で寝てもいい。今夜は私が『おねえちゃん』だ」

 末っ子なりに姉の気分を味わいたいという下心も多少なりある。

 アキラはベッドの脇に屈み込んでルーシーの寝顔を見つめ、そして向き直って頷いた。頷き返すデイジーは満足そうに微笑み、アキラの肩を撫でる。

「よし、聞き分けの良い子だ」

 アキラを連れそっと部屋を出る。しかしながら激昂したデイジーがこの部屋に戻って来るのは、ほんの十数分後のことになる。


「一体どういうコトなんだ! 君たちは毎晩こんなことをして、寝不足になるほどお愉しみか!」

 まだ消灯時間になっていないとは言え騒ぐには非常識な夜。他室訪問禁止のルールも忘れたデイジーが大声で怒鳴った。

 怒りの矛先は床に正座するアキラとルーシーのふたり、この部屋の主だ。ルーシーは眠っていたところを起こされたばかりで、顔つきはぼんやりキョトンとしている。

「あのぅ、会長? なんで怒ってんのかわかんないんですケド……」

「どういう事情があればルームメイトの乳を揉むのかという話だ!」

 アキラを連れたデイジーが部屋を移ってベッドで寝転がったとき、アキラはデイジーが「今夜は私がおねえちゃんだ」と言った通りに、デイジーを「ルーシーの代わり」にした。

「え……もしかして、見た?」

 そんな一連の出来事を知らないルーシーは蒼白になる。

「いや違うって! そうすればアキラが落ち着くからっていうだけで――そう! 寝る前のリラックス法なのです!」

「動機はなんであれ、私にしたようなことを毎晩繰り返すというのであれば、少なくとも君たちを同室のままにしておくわけにはいかない」

「ちょっと待ってよ! アタシ別にムリヤリさせてるワケじゃ――えっ、『私に』ってなに?」

 判決を下したデイジーの怒りの中に羞恥を見つけて、ルーシーは勘違いに気が付く。

「アタシがされてるところを見たわけじゃなくて、アンタもされたの?」

 返答はなかったが、反応だけで充分だった。デイジーのこれほど「女の子」らしい表情をかつて見たことがなかったからだ。

 こうなれば責められるのはアキラになる。

「ちょっとそれはないんじゃない? 揉めれば相手は誰でもいいってこと? こんな伊達や酔狂でブラジャー付けてるような奴でも!」

「オイ。誰が伊達ブラジャーだ」

「おっきくなくてあんまり面白くなかった」

「ふたりがかりか。ああ……もういい。私にしたことは事故で、君たちは本来恋仲だという理解でいいんだな?」

 傷つくことに疲れたデイジーが話を進めると、ルーシーは真っ赤な顔で強く首を振った。

「違う違う! だって女同士でそんなワケないでしょ? アキラが『自分は男だ』とか言って触ってくるから、アタシも混乱するだけだってば」

「今時なにを言っているんだ。同性婚は広く認められているだろう? 校内で完全な公平を実現するのは難しいが、この寮内にだって君たち以外にもいないわけではない」

「だからアタシは違うって。女同士なんて自然の摂理に反するし」

「またかナチュラリストめ」

 反省の色なくふたりのやりとりを見ていたアキラが急にハッとした顔をする。電脳からの通信を察知したからだ。

「はい、もしもし?」

「あのなあ、今君は説教をされているところなんだぞ」

「一体誰から――まさか、ブルーハギルドの奴らがまたちょっかいかけて来てるんじゃ」

 ルーシーが殺気を纏う。今すぐ飛び出して男子寮を襲撃しかねない危険を感じて、デイジーが慌てて手を振って否定する。

「違う! これは外部からだ」

「え、でも校内って外部から繋がらないようになってるんじゃなかったっけ? アキラからかけたんなら関係ないだろうけど」

「ああ、そうだ。つまりそれなりの電脳技能を持った相手、ということになる」

 デイジーの緊迫に釣られてルーシーも真剣にアキラの通話を見守った。通信を傍受するような技術を持たない彼女はアキラの表情や話の内容からどういう関係かを推し量るしかない。

 一方アキラに気負いはない。なにしろここにいるふたりよりも付き合いの長い相手からの通信だったからだ。通信の相手は彼女の担当保護官――ゴトウだ。

「ひさしぶりって、転校した日に連絡したら『早過ぎる』って怒ったくせに。心配しなくてもちゃんと仲良くやってるよ。ちょっと今怒られてたけど。え? おっぱい揉んで叱られたの。そうじゃなくて、毎日揉んでたのに急に。え、スカートめくりはやめたよ? うん」

 相手の人物像を探るべくしっかりと耳を傾けていたルーシーの顔がどんどん赤くなっていく。

「……とりあえずアキラにとって嫌なヒトじゃないみたいね」

「君にとってはどうなるだろうな。多分痴女扱いになるぞ」

 デイジーが相手を電脳端末から確認しようとしてもすべて弾かれてなにも引き出せなかった。情報を秘匿したまま制限された領域へ侵入してくるなど、ただごとではないと戦慄する。

(まさか、母親――なんてことはないだろうな。アキラには隠して実は近くに潜んでいる……などは考えられないか?)

 生徒会AIの手を借りて強引にでも調べるかデイジーが迷っていると、アキラが思いもよらぬことを言い出した。

「なんか、おねえちゃんたちと話したいんだって。ゴトウさん」

「……それはどこのどなたかな」

 動揺を抑えながら尋ねると、アキラは一瞬考え込んでからつるつるの鼻にシワを寄せて苦い顔を作った。

「ボクをこの世界に引っ張り込んだ悪い奴」


<続く>


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