10話 訃報
1542年1月29日。
まだ日も出たばかりの早朝、林泉寺は何時にもなく騒然としていた。
早朝には氷点下にまで低下する冬の寒さが肌を刺し、雪は絶えることなく天から降ってくる。昼間に僅かばかりの雪が溶けて生まれた雪解け水が早朝の寒さで凍り、朝日の光が鏡の様に反射している。軒下には大きなつららが内部で光を乱反射させ水晶の如き輝きを放つ。
現代の排気ガスで汚れた空気とは違い澄んだ空気を肺一杯に吸い込んでも一切の息苦しさも感じられない、まさに自然溢れる人が少ないこの時代ならではの贅沢ではないだろうか。
しかしそんな穏やかさは俺の心の中にしか存在していない。
早朝になったかならないか、そんな時間にこの林泉寺には春日山城から数人の武装した人物がやって来た。
内何人かは既に寺に入って住職の天室光育和尚と何やら話をしている。表情は何処までも険しくそして不安げで、一刻を争う思い詰めた雰囲気を感じさせる。寺に多くいる小僧もその雰囲気を感じ取ったのか、どうすれば良いのかと右へ左へ右往左往している者も少なくない。
いつもなら既に朝の作務が始まっている時間帯。寺の内部には天室光育和尚を始め修行僧が発する念仏が聞こえているのだが、肝心の住職である天室光育和尚が居ないのだからそれも出来ないのだ。
変わりに修行僧たちはせっせと寺の内部を走り回っていた。
武装した人物たちが和尚と話し合いを始めてから数刻、俺はいつもの様に庭の掃除と、この季節の風物詩でもある積もった雪の除雪をしながらその行く末を眺めていると寺の玄関から話し合いをしていた男たちが和尚と一緒に出て来た。
先頭に絶望したような焦燥し切った表情の虎千代を歩かせながら。
男たちは和尚に一度礼をすると真っ直ぐ寺門前に居る残りの男たちの元へと、降り積もった雪に足を捕られながらも一度も振り向きもせず向かって寺から出て行った。虎千代ら一行が惣門を潜り見えなくなった頃、和尚は掃除しながらその様子を眺めていた俺に視線を移す。
「雪、少しばかり話がある。掃除はいいから部屋に来なさい」
和尚から突然の呼び出しが掛かった。
和尚から部屋に呼び出されるのは何時ぶりだろうか。
小さい頃は色々とこの時代の常識を知らなかった事もあり、結構な頻度で呼び出されては常識を解かれていたものだ。
しかし俺も今では数えで14歳、この時代的にも十分に大人として受け入れられる年齢になっており、将の子供では多くの者達が
元服、それは12から16歳の男子が大人として認められる儀式。現代でいう所の成人式をより厳格にしたものと言えるかもしれない。元服を済ませてしまえば大人としての責任も生じるのだが、それは現代も同じ事か。
久し振りにやって来た和尚の部屋に俺と和尚の二人きり。最近は小僧としての勉強をするよりも寺男としての仕事に加えて田畑を耕す事に重きを置いているからこそ、和尚の部屋に何故か懐かしさを感じる。
懐かしさを感じる原因となっているのも全ては、この所の林泉寺の台所事情があまりよろしくない事が原因である。それは
一度は勝敗が決したが未だに大きな力を持っている
何かを考え込んでいる様に目を閉じていた和尚は何かを決めた様に目を開けるとポツリポツリと言葉を繋いだ。
「今朝から寺での騒動で何かあったのは気付いておろう。実はな昨夜、長尾為景様がお亡くなりになったそうじゃ」
「……そうですか。何かあったとは思ってはいましたが、それほどの大事とは。どうりで今朝は慌ただしかったのですね」
「揚北衆と呼ばれる方や上条上杉家の方々が最近になって動きを活発にしている事もあり、少しでも結束を強める為にも
「ですが仕方ありません。今の越後は不穏な空気が満ちています。長尾晴景様も頻繁に床に臥せっているとお聞きいたします。赤の他人に任せるよりも長尾為景様の血筋で少しでも地盤を固めたいと思うのは理解出ます」
兄弟で血で血を洗う様な殺戮を繰り返す事も普通にあるこの戦国の時代。
つまり親兄弟であっても本当に信頼できるのかどうか分からないという事である。勿論、
「……2年じゃ。あれから2年、この意味が分かるか?」
2年前、俺は天室光育和尚にある約束をしてもらった。
数々の説法も一切の効果なく、教養を教えても一向に変化のない虎千代に業を煮やした和尚は虎千代の実の父親である長尾為景に引き取りを要請した。しかし長尾為景の度重なる嘆願で再び修行を付けてくれと頼まれた和尚は渋々了承し再び寺へと向かい入れた。
それでも悶々としていた和尚に対し俺は一つの願いを請い約束を得た。
虎千代の素行について2年間だけ黙認してくれ、という約束を。
そして少し早いが1年少しの昨日、虎千代実父の長尾為景が死去した。死因は病死。
隠居していた身ではあったが、嫡男であり後継者でもある君主長尾晴景が床に臥せることも多く戦に向くような豪胆な性格でもなかった為に隠居してからも国内に大きな権力を有していた彼。
自らの持つ力で全ての呑み込み時代を変えていった奸雄であった彼、そんな実力者が居なくなった。つまりそれは越後に戦乱の風が吹く、という事である。
「さて、何の事でしょう?何分私も2年前ではまだまだ子供でして、記憶に残るほどの印象的な事は僅かしか残っていないのです。ですので私には和尚様が何を言っているのか皆目見当も付きません」
「すぐに分かってしまうような嘘を付くのではない。雪、オヌシにはこうなる事が分かっておったのか?」
滅多な事では俺に対し厳しく接しない天室光育和尚。その和尚が本当に珍しく眉間に皺を寄せた険しい表情で質問をしてくる。
「あの時、儂はこう言ったな。虎千代は僧にも将にもなれないと。虎千代の普段の行いを見ていれば誰であろうとそう思っただろう。置かれた立場も決して良くはなく、誰もがその将来に悲観すら覚えておった。だがその中でも雪よ、オヌシだけはそうではなかった。でなければあの言葉は出て来なかったであろう?」
そう言って鋭かった視線をより一層鋭くさせ、俺の一挙手一投足も逃さないよう瞳全てに俺を映した。
「頼むから答えてくれ、雪。オヌシは一体何を知っておるのだ?」
それは生まれて初めて見た弱々しい天室光育和尚の姿だった。
でも俺は答えらない。だって俺は全てを知った上で長尾為景を見殺しにしたんだから。
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