9話 頼み事

1540年某月。


虎千代がこの寺に来てから既に数年の歳月が流れている。その間虎千代は最初こそ真面目に取り組んでいた修行も次第に疎かになり現在では軍学にばかり傾倒していた。聞かされるのは毎日毎日戦術についての話ばかりで仮想の敵を造ってはどう討ち取るのかをシミュレーションしている。

漢詩を教えてくれと殊勝な事を言ってきた虎千代などもういない。完全な軍学オタクが出来上がっていた。


お陰で天室光育和尚の愚痴が日に日に増えていき、それを聞かされる俺は溜まったものではない。


和尚が虎千代を寺から追い出してから既に4年。虎千代の父親である長尾為景に言われて仕方なく寺に戻したはいいが一向に修行に身が入っていない姿勢に和尚は煮え切らない気持ちで一杯なのであろう。

一応領主であるし守護代と言う上人である。いくら俗世間から離れた身となった僧としても一応は立てなくてはならないのが世辞辛い世の中の処世術。一応は毎日虎千代に修行として教養を教えてはいるが、いつも上の空なのが和尚自身分かっているのだろう。

その分俺に対する当たりが強くなっていい迷惑だ。虎千代にも少しはこっちの気持ちも分かって欲しいものである。


いつもの様に昼間の教養の勉強が終わり、虎千代が席を立って居なくなった部屋では俺と天室光育和尚の二人だけが残っている。特別待遇として直接教えを受けているこの部屋には先程まであった気の張った雰囲気は無く、気の知れた一人の老人と一人の孫。そんな関係にしか感じさせない穏やかな雰囲気が漂っている。


天室光育和尚は開け放たれたままの障子を見つめ一つ大きなため息を付くとポツリと言葉を漏らした。


「虎千代は何時になれば真剣に修行に身を入れるのだろうか」


儚げに、朧げに、消え行きそうな程弱い言葉。


きっと和尚自身どうすれば良いのかは分からないのだろう。確かに言動の端々には理性を感じさせ知性が滲み出て、一種の悟りにも近い何かを感じさせるものが確かにある。為景に言われた事も一因であろうが、それを感じてしまった和尚だからこそどうにかしたい、でもどうにも出来ないという煮え切らない気持ち。


天室光育和尚ほどの高僧にもなれば相談される事は数あれど、相談する事など殆どない。殆どの事象を自らの経験と知識で解決できてしまうからだ。

しかし今そんな和尚をしても解決できない程の問題が目の前に立ちはだかっている。問題を解決する為に誰かに相談したくても近隣には和尚程知識を持つ者もいなければ訪ねてくることも無い。


ただ一人心の内で悶々としている気持ちを消化するしか方法は無く、そんな時だからこそポツリと出てしまった弱音が先程の言葉だったのだろう。


「虎千代様は僧には成れない、しかし将にも成れない、ですか」


「そうじゃ。虎千代は僧に、というのが長尾ながお為景ためかげ様の意向じゃしの。しかし肝心の本人は一向に修行をせんと軍学にばかり興味を持つ始末。加えて虎千代には三人の兄がいる。先年せんねんには長尾為景様は隠居するに当たって嫡男の長尾ながお晴景はるかげ様に当主の座を譲ったが、その政策には多くの将が不満を抱いていると言うし、加えて非常に病弱でよく床にしているという。このままでは次代にという事になろうが、例えそうなったとしても長尾晴景様の嫡男である猿千代さるちよ様は既に亡い」


「長尾晴景様は病弱という事もあり他に御子様はいらっしゃらない。そうなれば長尾為景様の他の御子にと言う声もありましょうね」


「その通りじゃ。虎千代も確かに長尾為景様の御子であるが、後二人虎千代には兄がいる。せつも知っておろうが長尾ながお景康かげやす様と長尾ながお景房かげふさ様のお二人じゃ。二人とも虎千代とは違い既に元服し初陣まで済ませている。よほどの事が無い限り虎千代が将になることなどないじゃろうて」


「確かにおっしゃる通りですが、しかし今は戦乱の世です。兄弟の殺し合いや親しき友の裏切りなどは当たり前の事ではないですか。もしかしたらその“よほど”が起きるかもしれませんよ」


俺は若干笑いながら和尚へと言い放った。そう、史実ではそのよほどが起きるのだから。


少し挑発気味に話す俺の口調に普段は感じなかった違和感を感じ取ったのか、天室光育和尚はピクリと目じりを動かすと腹の底から出る様な静かな声を出した。


「ふむ……何が言いたい?」


よし、喰い付いた。そう思った瞬間、天室光育和尚は何かを探る様に目を細めた。

睨み付ける様に、こちらを値踏みするかのように、とても70歳を迎える老人とは思えぬその眼光。並みの者ならば一瞬で身がすくみ硬直してしまうであろう程の目力。


だが俺だって伊達にこの戦国の世を10年も生きて来たわけではないし和尚の教えを受けて来たわけではない。刀を帯刀し鎧を着込む寺に来る武士の相手も最初こそ臆したが、徐々に慣れて胆力だって付いたんだから。

到底10歳ほどの子供に向ける視線ではない向けられた瞳を真っ直ぐ見返しはっきり言い返す。


「虎千代様の事、後2年。後2年だけ待ってはもらえませんか」


「後2年、か。虎千代を城に返してから既に4年経つが一向にその行動に変化はなかった。もう2年待った所で何が変わるというのだ」


「越後の全てが変わる、とだけ」


「雪よ、お前が何故それを知っている。先のことなど誰にも分からん事は皆が知っている。しかし何故お前はその“先”を知っている様な口振りで話すのだ」


「それはいくら和尚様でも申し上げられません。今は信じて貰う他ありませんので」


この時代の子供など無力以下の虫同然だ。

子供の多くは小さい内に死に、無事に大人になっても周囲に影響を及ぼす人など一握りにも満たない。領主などの子供ならば話は別かもしれないが、俺はこの世界では親すらいない嬰児えいじである。

天室光育という名僧を納得足らしめる理由や権力、地位や名誉など持ち得ないのだから。


だから信じてもらうしかない。今までの俺の行動を知っている和尚にただ信じてもらう、ただそれだけ。


和尚は一つ目を閉じて何かを考えるかのように瞑想を始めた。何を考えているのかは分からない。しかし和尚には和尚なりの悟りを見付けた様に独自の価値観がある。きっとその自らの信念と今の話を照らし合わせているのかもしれない。


数分瞑想した和尚はゆっくりと何か納得したように瞼を開いた。


「雪は昔からよく分からない子供であったな。腹が減ってもオシメを汚しても何をしても泣かん、まるで赤子であって赤子でない。大人が子供になったような子であったな」


さすがこういった所は鋭い和尚である。今になってもう少し赤ん坊らしい行動をしておけばよかったと反省してしまう。


「文句は言うがそれでも何かして欲しいとは言って来た事はなかった。しかし今儂は初めて雪から頼み事をされた。何と嬉しい気持ちか、雪には分からんかもしれんが孫からお願いされた爺というのはこう言うものやもしれんな」


先ほどとはうって変わって目尻は下がり口元は緩む満面の笑みが和尚の顔にはあった。


「雪、お前の頼みを受けよう。後2年、その間は虎千代の言動に文句は言わん。だが2年後もし今と同じような態度であったのなら、その時はどうなるか分かっているであろう?」


「ありがとうございます。それについては大丈夫です、分かっていますよ。もし2年後まだ同じ様な態度であったのならば虎千代様をどうしようと、私は文句は言いません」


俺は和尚へと感謝の言葉と共に一つ頭を下げた。2年後虎千代がどうなっているのか和尚には分からないからこその牽制の意味を含めた言葉。でも俺には2年以内に必ず虎千代が改心することを知っている。


だって2年後には虎千代の父――――――長尾為景は死んでいるのだから。

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