お隣さんは引き籠りで、神さまでした。
第1話 神さまは日常系
始業から二ヶ月、六月に入ったばかりの初夏だというのに気温は止まるとこ知らず、外は湿気と熱気が渦巻く蒸し風呂のようだった。
空の高い所で太陽が熱烈に自己主張していて、クリーム色のカーテンを通して入ってくる射光にさえ殺人的な勢いがあった。
しかしそんな外気とは無縁のように、特別棟にある広報委員会の教室は涼やかな空気に満たされていた。
壁際のパソコンから祐(ゆう)がカタカタとキーボードを打ちこむ音が教室の中を流れていき、その背後では勇(いさむ)が教室の中央にある机に向って椅子に浅く腰掛け、片方の手で頬杖を付きながらスマホでニュース記事を読み漁っていた。
エアコンから低く唸るような音と共に吐き出される冷気に、烏の濡れ羽のような黒髪を揺らしながら淀みなくタイプをしていた祐の指が動きを止め、次の瞬間、霞むような速度で右腕が跳ね上がった。
――ッタァーン!
「……おい、祐」
沈黙を打ち破ったスパンキング音に勇は徐にスマホを置くと、ぐんっと勢いよく上半身を反らしてシャフ度に構える。男にしては長い黒髪が躍り、髪の隙間から覗く切れ長の目からは凄まじい眼力が発せられていた。
「エンターキーさんをイジメるなッ」
銀縁眼鏡のブリッジをピンと伸ばした中指で押し上げ、勇は図ったようにレンズを光らせた。
しかし、よくよく見れば眼鏡に超小型の機械が取り付けられており、勇が眼鏡を押し上げる度に絶妙な具合でレンズに光を反射させて輝かせているのが分かる。
一八〇を超える長身に見合った長い足を大仰に組んで見せる姿に、振り返った祐は普段から平坦として変わらない眠たげな半眼のまま、片手で顔を覆うと小さく首を振りながら、これ見よがしに溜め息をついた。
「はぁ……。分かってないですね、勇。いいですか」
二人は見つめあったまま、一拍の間が空く。
「この娘はドMです」
「……なん……だと……? エンターキーさんは女の子だったのか!」
「当り前じゃあないですか。このヌレヌレの嬌声が聞こえないんですか?」
――ッタァーあぁン!
「エンターキー 叩き滴り 雌の声」
「字余り、季語『滴り』で夏。これは後世に残る一句だな。お○いお茶の新俳句大賞に応募したら、大賞は間違いない。
むしろ、中身が本当にお茶なのか気になってくるレベルだ」
――ッタァーあぁン(棒)!
「ちなみにCV仲間ゆき○」
「おい馬鹿ヤメロ」
――ッタァーあぁン(どんがらがっしゃ~ん)!
「なら、中村繪里子で」
「ヴァイッ! いやアイドルの闇は深いんだ。閣下なら裏も表も出来ないとな。むしろ脳内再生が余裕過ぎて面白味がない」
――ッタァーあぁン(真実【意味深】はいつも一つ)!
「大穴で高山み○み」
「バーロー。コ○ン君で大穴とか、どれだけの額をどこの穴に突っ込めと言うんだ……むしろアリだな」
「十メートルほど離れて貰って良いですか? 息臭とか体臭がホモ臭いんで臭ッ!」
「今、一文の中に四回も『臭(くさい)』って字を入れたな、傷ついたらどうしてくれる。勘違いするな、俺は……バイだ」
静寂の中でエアコンの作動音がどこか遠くの方で鳴っているように聞こえていた。
突然すぎるカミングアウトに二人の視線が数秒の間、絡む。
無言のまま見つめ合った二人は、何事もなかったかのようにそれぞれ視線を戻した。二人の中から音という存在が消失したかのように静寂に支配され、二人は心も静けさに包まれていた。
「で、何見てたんだ?」
「ニッコニコで新着の神動画のチェックです」
頬杖を付きながら祐が眺めている画面には、それなりに有名な動画投稿サイトが開かれており、スクロールホイールがカリカリと音を立てるのに合わせて画面も上へ上へと流れていく。
「面白いのはあったか?」
「馬の頭をした犬の人が、今になって神になったそうです」
「時代が追い付いてきたな。もちろん神技はハイポーションなんだろ?」
「そのまんまですね。謎の液体(ハイポーション)が入った丸型フラスコを手から無限に出現させられるようになったことに、最近になって気が付いたそうです。
しかし、アンリミテッド・ポーション・ワークス(UPW)って、安直が過ぎるんじゃないですかね」
――ポーションの貯蔵は十分か?
祐が開いた動画の中では、額に犬と書かれた馬が「やぁ」とお馴染みの挨拶をしてから、手から次々にハイポーションを生み出しては大型段ボール箱の中に敷き詰めていくのが映し出されていた。
「なるほど。で、味は?」
「自分にだけデバフの効果があるそうです。
具体的には、自分で飲むと顔色が蛍光紫になって頭の上に緑色の泡状のものが湧き上がる毒状態に加え、時折麻痺が入り、移動速度が半減し、被魔法ダメージが増加するんだとか……魔法ダメージはどうすれば受けられるんだろうか」
「まさしくハイポーションだ」
「ちなみに他の人が飲むと、ちょっと元気になった気がするけど気がするだけでゲロマズなのは変わりないそうです。
あと、飲むと嘔吐魔法をマスター出来るそうです」
「まさに四天王。彼はもう、宴会芸に悩まずに済むんだな……」
画面上では試しにと自分で飲んでみた馬で犬が極大嘔吐魔法ゲロジャを発動させ、Nice boat.していた。
蛍光紫に染まったマスクの奥から響く軽快なえずきを聞き流しながら、二人は揃ってカーテンの隙間から覗く外へ視線を向けた。
初夏の空に騒ぐ蝉の声は、煩わしいようでいて何処か忘れ難いノスタルジィな調べを耳の奥に残していく。
二人は、大きな入道雲が見下ろす青空の下、虫籠を持って駆けていく少年の後姿を幻視して「(暑そうやな)」という感想が浮かび、何故か関西弁に侵されてしまった思考に、少しだけ、自分が信用出来なくなった。
「旅に出るか」
「行き先は?」
「まずは新宿駅を攻略しないことには冒険にも出られんな」
「御前はアレか。始まりの街から外に出られない系の人間ですか。もしくはバイオの始動画面でスピンし始める感じの」
「最大の敵はコントローラー」
「タイラントは強敵でしたね」
「オマエら二人っていう強敵のせいで、オレの人生ハードモード通り越してルナティックだよ。どしてくれんだ。
っていうか人に作業押し付けておいて遊んでんなよ。シバクぞ。それと、そのパソコンはどっから持ってきたんだ」
低く沈んでいるにも関わらず可憐さに満ち溢れた声の出所に二人が揃って顔を向けると、小柄で線の細い男子が可愛らしい童顔を盛大に歪め、ぱっちり二重の瞳の間に皺を寄せて睨みを利かせていた。
白く滑らかな指の桜色の爪が机を叩き、コツコツと苛立たしげな音を鳴らしている。
如何にも『自分、怒ってます』と言いたげに口をへの字に曲げ、聞こえよがしに舌打ちまでしているのに、その全身からはどうしたって可愛らしさが爆発していた。
そして二人は鼻から父性が暴発しそうだった。
「いたんですか、陽(ひかる)」
「どこから入った、陽」
「昼飯食べようと弁当持って廊下歩いてたら、目の前にいるお馬鹿コンビに拉致されたんだっ! オレは生徒会室に行こうとしてたんだ。弁当食べながら作業しようしてたんだ!
なのに、なんでこんな特別棟の端も端にある広報委員会の部屋に拘束されて、委員会の業務を押し付けられて。押し付けた張本人達のコントを見せられなきゃならないんだ。
間違いだらけだわ、世の中! むしろ間違いしかねーよ、この場!」
抱え難いストレスを振り払うように陽が頭をシェイクすると、指の間から零れた濃い栗色の髪から辺りに良い匂いが漂った。
二人はそれを胸いっぱいに吸い込み、一息ついて。
「悲しいことを言わないで下さい、陽。僕達トリオじゃないですか」
「オマエらの馬鹿騒ぎにオレを巻き込むな。というかなんだ、今の間は」
「名前はどうしましょうか」
「ガチョウ倶楽部はどうだ?」
「人の話を聞け。というか、マジで怒られるからヤメロ。
そんなことより、パソコンだよ、パソコン。ユウ、まさか他の教室からかっぱらってきたりしてないよな?」
ふっくらした小さな手でテーブルをパンパン叩きながら身を乗り出した陽は、下から抉り込むような上目使いで祐を睨みつけると人差し指を突き付けた。
「自前ですが何か?」
「……デスクトップだよね、それ」
「これがノートに見えるんだったら、あれですよ陽。
御前、タイムリープしてるよ。時代は常に進んでるんだよ。時間は誰も待ってくれないんだよ。未来に向かって走ってこいよ。
乗れよっ、むしろ作れよっ、ビッグウェーブ!」
「むしろ馬鹿の奔流に飲み込まれそうだわ。というか、どうやってそのアホみたいにデカいタワー型持ち込んだんだよ」
「宅配に決まってるじゃないですか。神社(うち)の無駄に急で長い石段をこんな重い物を持って下りろって言うんですか。
馬鹿なんですか? えっ? 馬鹿なんですか?」
「バカにバカって言われるこの感覚、毎度のことなのになんだか新鮮だ。心が枯れていく感じがする」
陽が椅子の背もたれに体重を預けて天井を仰ぐと、顔から表情が抜け落ち瞳から光が消えていく。心が枯れていくのと同時に人間らしい情動も瀕死の重体であった。
「ちなみに着払いだった」
「バーーーカッ!」
「ちゃんと黒ネコを使いましたけど?」
「さり気なく狭川をディスってんじゃねーよ、そういう問題じゃねーから。
というか、えっ、何? ここに黒ネコの宅配員が来て、着払いの御届け物で~す、とか言ってノックした訳? いやホントに何やっての、オマエ。
ここ学校だから、むしろ宅配の人も何で普通に届けたんだよ、疑問に思えよ。
しかも着払いって、着払いって! しかも払ったのがイサムって!
どういうことだよ。聞いたことねーよ、こんな案件。生徒会役員としてどう対処しろって言うんだよ。
なんでオレが試されてるみたいになってんだよ、可笑しいだろ!
もっかい言うよ? バーーーカッ!」
溜め込んだものを全て吐き出す勢いで息もつかずに捲し立てた陽は、一息で言い切れたことにちょっとした充足感に浸って、肩で息をしながらも小さく笑みを零した。
「いつも思うんですが」
「はぁっ、は……ん。なんだよ、あぁ」
「その表情(かお)はアウトだ。少年誌では規制に引っ掛かる」
「人の顔面を卑猥な物みたいに言うの止めてくれる⁉」
「いえ、ギリギリモザイクですよ。そんなことより、卑猥なモノって何ですか?」
「そこは流しとけよ! 想像を掻きたてられるような極細のモザイクが必要な顔って、オレの精神衛生とか社会的な立場とか色々ギリギリだからっ」
「……で、ナニのことを言ったんですか?」
「だ、だから……」
二人はじっと耳を澄ませて待った。頬を朱色に染めながら言い淀む、陽の次の言葉を。
同時にエアコンもその動作を止め、教室の中が静けさに満たされる。それは図ったように出来上がった音の空白、まさにエアコンの空気呼んだファ(イ)ンプレーだった。
「だ、から。それは、その……チ……」
「んんん? なんて言ったんですかね。もう一度お願いしますよ」
「だ、だからっ。チ……コだ、って」
「おい、今の聞こえたか?」
「いえ全く」
真剣な表情で顔を見合わせて首を振った二人を前に、頬どころか顔全体が真っ赤に染まった陽は、容易く臨界点を突破した。
「だ・か・らぁ! チ○コだって言ってんだろ! ああ一物だよ、一物! ペニスって言えばいいかっ⁉ オマエら、オレにこんなこと言わせて楽しいかよ?
言っとくけどこれはイジメだからな。オレが訴えたらオマエら一〇〇対〇で敗訴確定してるから。教育委員会だって黙っちゃいないぞ。
最後に言い残しておきたいことがあるなら聞いてやるよっ。そこら辺どうなんだよ。言ってみろよ、オラぁッ!」
「……録音は?」
「カンペキだ」
「オマエらなんて嫌いだぁあっ!!!」
陽の瞳は今にも零れそうな程の涙を湛え、
――カシィイ
その瞬間を一二〇〇万画素のスマホカメラは鮮やかに描写する。
「友人のモザイクが必要なエロい顔も撮り逃さない、そうiP○oneならね」
「僕は海苔の方が好みです」
「いいから祐のいつも思ってたことってのを言えよ!」
その強引な催促に襟を正して咳払いを一つ。椅子の背に肘を乗せてもたれ掛っている勇と、目を吊り上げながら猫の威嚇のように息を荒げる陽を見やって、祐は真面目腐った態度で言い放った。
「陽ってスケベだね」
「異議ナシ」
「異議大アリだわっ!」
――コンコンコン
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