第49話エーリスの宮殿

その頃、キューピッドはハーデース住まうのエーリスの宮殿にいた。


 そこは冥府の宮殿ではあるが暗くよどんだ空気が漂う陰鬱な宮殿ではなく、オリンポスの宮殿ほどではないにしろ絢爛と荘厳を併せ持った輝きに満ちた宮殿であった。

流石、冥府の神でありながら豊穣の神。そしてオリンポスの十二神と同格の神でもあるハーデースの宮殿である。


 その宮殿の広間にはドーリア式の柱が両側に規則正しく並んでいた。その玉座に続く見上げるように高い天井の広間をキューピッドは大股で歩いていた。赤い絨毯が玉座まで続いている。


 ハーデースは宮殿の玉座に座っていた。まるでここにキューピッドが来る事を予想していたかのように。

ハーデースの玉座に横には三つの頭を持つ冥府の番犬ケルベロスが座っていた。


 ひな壇を上がり玉座の前まで来ると

「今日は冥府の入り口ではなく、ここにいたのか?」

とケルベロスの3つの頭を交互に撫でながら蜂蜜と芥子で作られた甘いクッキーを与えた。

ケルベロスは気持ち良さそうな表情でキューピッドの手からお菓子を食べた。ケルベロスはこのお菓子に目が無い。


「おお、クピドではないか?どうしたのじゃ」

とハーデースはキューピッドを彼の愛称で呼んだ。


「何が『どうしたのじゃ?』だよ。まったく……わざわざサリエルを遣わせておいて……」

と呆れたように言った。


「ああ、その事かぁ……お主にしては珍しく一人の女に執着しているようじゃのぉ」

と意外そうな顔をしてキューピッドを見た。


「そんなことはない」


「ほほぉ、その割には余計な事をぺらぺらと話して居るようではないか?」

とハーデースはキューピッドを詰めたが、その言葉に怒気は全く含まれていなかった。


「あれはちょっと口が滑っただけだ。ただ、少し気になっているのは事実だ」

とキューピッドもハーデースの前では正直に話した。


「ふむ……お主が人間の女に固執するのは久しぶりじゃな」


「だから今回は違うと言っているだろう。そういうものではない。サリエルから聞いていると思うが、彼女は本当に綺麗な命の持ち主だ。それは判るよな」


「うむ。そんな事はお主に言われるまでもない事じゃ」

 ハーデースはそう言いながらも小気味良さげだった。冥府の神という立場からなのか地味にとらえられがちな神だが、本来はゼウスやポセイドンにも勝るとも劣らない実力者だ。

しかし、元々も温厚な性格からか彼も物腰はいつも柔らかい。それにもまして彼はキューピッドに対してはいつも気にかけているようだった。


「時間が余りないから単刀直入に言おう。彼女の寿命を延ばしてもらいたい」

キューピッドはハーデースの瞳をじっと見据えて言った。



「ふむ。やはりそう来たか」

そういうとハーデースは目を閉じ玉座の背もたれに体重を預けた。


 キューピッドはじっとハーデースを見つめていた。

彼は何かを考えているように目を閉じたまま黙って座っていた。

豊かに蓄えられた口ひげが微かに揺れている。


 ゆっくりとハーデースは目を開けると

「しかし……それはならんな」

とひとことだけ言った。


「何故?」


「お主の頼みじゃからな聞いてやりたいのはやまやまじゃが、それは出来ん」


「不死にしろと言っているんじゃない。少しだけ寿命を延ばしてもらいたいと言っているんだ」

キューピッドは引き下がらなかった。


「それは判っておる。分かっておるが出来んモノは出来ん」


「だから何故!? 実は……ペルセポネーの事を根に持っているのか?」



「そんな事ではない。そもそも、その件に関しては感謝する事さえあれ、恨む理由などない」


「そうなのか……」


「お主がワシを例の弓で射抜いてくれたからこそ、ワシはコレ―と一緒になれたのじゃからな」

とハーデースは妻ペルセポネーをコレ―という愛称で呼んだ。


 ペルセポネーがハーデースの妻となったきっかけは、母親アプロディーテーの悪ふざけの命を受けた息子のキューピッドがハーデースに射た矢のおかげであった。

矢を受けたハーデースはいつもの温厚な神ではいられなくなった。


その時ペルセポネーはニューサの野原で妖精(ニュムペー)たちと供にのどかに花を摘んでいた。するとそこにひときわ美しい水仙の花が咲いているのを彼女は見つけた。

もちろんこれは既に射貫かれていたハーデースが用意したものだったが、ペルセポネーがそれを知る訳はなかった。彼女がその花を摘もうと妖精たちから離れた瞬間、急に大地が裂け黒い馬に乗ったハーデースが現れ彼女を冥府に連れ去った。


 このアプロディーテの悪ふざけが、結果として冥府の女王として君臨するペルセポネーを誕生させた。


 ハーデースはこの事実を後で知ったのだったが、無口で愚直な彼にとってはキューピッドに矢でも射抜いてもらわない限りそもそも妻を娶る事などできる訳もなく、それを誰よりも知る彼はキューピッドに対しては好意的であった。

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