第21話我が名はキューピッド

 キューピッドはその当時日本ではなくまだヨーロッパにいた。そうそこは英国。当時ロンドンに次ぐ大都市であったリヴァプールに彼は腰を落ち着けていた。


 世の中は第二次世界大戦の真っただ中。

キューピッドが自分の力の虚しさを感じる事が多い時代でもあった。


――愛の力だけでは戦争は防ぐことができないのか――


 愛を司る神キューピッドとしては、この世界的な規模の戦争を止められなかった事で忸怩たる思いで日々悶々として過ごしていた。


 ある日キューピッドはレンガ造りのアパートメントの最上階の部屋の窓の手すりに座って、リヴァプールの景色を眺めていた。この街にしては珍しく雲一つの無い青空が広がっていた。


 建設中の大聖堂をキューピッドは何も考えずにただ飽きずに眺めていた。金髪の髪の毛が風に揺れていた。大聖堂のその周りにはレンガ造りの建物や倉庫が並び更にその先にはマージ―川がゆったりと流れていた。彼はこの赤レンガ色の景色を非常に気に入っていた。この景色を見ていると日頃、感じていた鬱々とした気持ちが少しは晴れるような気がした。


 キューピッドが景色に心を奪われていると隣の窓が開いた。観音開きの窓を開けたのは若い女性だった。その女性は遠い空のその先を見つめるようにじっと一点を見つめると、かわいらしいため息を薄い唇の隙間から漏らした。


「ほほぅ」

とキューピッドの関心が景色からその女性へと注がれた。彼はその姿を見て微笑んだ。

 久しぶりにキューピッドはこの時代にそぐわない儚い可憐な想いに触れたような気がした。


 その声に気が付いた女性はキューピッドに振り向いた。

「あら?あなたこんなところで何をしているの? お隣さんではないわね」

 彼女は疑惑と好奇心とが交じり合った表情でキューピッドを見つめていた。

亜麻色の長い髪が緩やかなカーブ共に風に揺れていた。見開かれた大きな瞳はキューピッドでさえ思わず引き込まれそうになぐらいの深い青色をたたえていた


 キューピッドは一瞬不思議そうな顔をしたが、直ぐに

「こんにちは。お嬢さん。僕はここでこの景色を見ているだけですよ」

と満面の笑みで応えた。流石は愛の神である。この笑顔を見て彼女の彼に対する不信感はほとんどなくなったと言ってよい。それは彼女の表情からも見てとれた。


 そう言ってキューピッドは視線を戻し、また景色を見た。それにつられて彼女もリヴァプールの街へと視線を移した。この日の空はどこまでも青い。


「ここから見た景色はとっても落ち着きます。その上この青空。つい最近まで爆撃があったなんて嘘みたい」

とその女性はキューピッドに話しかけた。


 ここリヴァプールでも、ある時期ナチス・ドイツの空爆が続いていた。ただ連合軍の攻勢の影響もありナチス・ドイツの注目は東部戦線へと移り空爆もほとんどなくなっていた。


「ところであなたは誰? こんなところで何をしているの?」

 キューピッドの笑顔をもってしても、この女性から完全に不信感を取り除くことは無理だったようだ。

思い出したように同じ質問をキューピッドに浴びせた。


「お嬢さん、あなたには僕の姿が見えるんですか?」

キューピッドは笑顔のまま彼女に聞いた。


「勿論、見えておりますけど?」

彼女は怪訝な顔で聞き返した。


 キューピッドはそれを聞くと座っていた窓の鉄の手すりの上にスッと立った。まるで宙に浮くように。


「え?」

彼女は驚いた表情でキューピッドを見上げた。


「我が名はキューピッド。愛の神です」

そういうと彼は窓から離れ文字通り宙に浮いている状態となった。

青空を背景に広がるキューピッドの白い羽はとても綺麗で、彼女はその白さがとても眩しかった。


 そのままキューピッドは彼女の目の前に立ち……この場合は目の前で浮かんでいると言った方が正確だが……ニコッと笑うと彼女の横を通り抜けてそのまま彼女の部屋へと入ってしまった。


 慌てて振り向いた彼女の眼に映ったのは、ベッドの上に座っている愛の神という名にふさわしい美少年の眩しいほど爽やかな笑顔だった。すでに羽根は消え去っていた。


「本当にキューピッド?」


「はい」

キューピッドはにこやかに笑って答えた。


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