第五章 千光 2
突然我に返ったシュチャクは辺りを見回した。眼に入るのはなぜか灰色ばかりでここがどこなのか全く検討が付けられなかった。何しろそこには何もないのだ。見慣れた道も空も人も動物も植物も建物も何一つ見えない。そこにはただただ灰色の空間が無限に広がっていた。自分の足下が地面なのだろうが、見た目にはそれすら認識が出来なかった。物と物の境界線のようなものが全く見当たらないのだ。
自分は本当に立っているのだろうか?
そんなことを思った瞬間、突然ふわっと体が浮いた。これまで感じたことの無い感覚だった。驚いて体勢を立て直そうと自分の体を見て彼は軽く悲鳴を上げた。なんと自分の体の色も灰色になっていたのだ。もちろん何もない周りと比べれば自分の体はくっきりと見えた。確かに自分は「ある」ようだ。しかしその色は自分の体とは思えないほど全身が灰色に染まってしまっていた。
ありえない状況にシュチャクは戸惑った。なぜこんなことになっているのだろう?
そこで彼は思い出した。
……ああ、そうか、ユレを助けるために僕は石化したんだ。
そしてどこかに落ちて……。
浮いているためか、とても不安な気持ちになった。体と一緒に心もふわふわしているみたいだ。手足をばたばたしているうちに何度か回転してしまい、もうどこが上か下かもわからなくなっていた。何しろ地面も空も同じ灰色なのだ。目印にするものが無い。それにしてもおかしい。ここが死んだ人間の来る場所なら他に誰か居てもいいはずなのに。
そう思ったシュチャクはあっと声を上げた。目の前に突如、人の姿のようなものが浮かんできたのだ。距離感は判り辛いがすぐ目の前という感じだった。なぜ今まで気付かなかったのか。人がいると思った瞬間、それははっきりと見えたのだ。でも様子がおかしかった。見えるのは相手の頭のてっぺんだった。つまりはその人間は逆さまになっているということになる。
待てよ、そうか、自分は浮かんでいるんだ。つまり僕の方が逆さまなんだ。
そう思った瞬間、シュチャクは突然落ち始めた。男の足元が地面だと判断し慌てて咄嗟に身を捩り受身を取った。鈍い音がした。しかし少し痛みはあったものの何とか無事だった。
ぶつけた腰をさすりながら立ち上がったシュチャクは照れ笑いを浮かべながら男の方に向き直った。やはり彼も灰色だ。それ以外は中年のどこにでもいそうな普通のおじさんだったが、一つ彼にはおかしなところがあった。上から人が落ちて来たにもかかわらずあまりに無表情なのだ。聞きたいことが色々あるのに普通の会話が出来る相手なのかシュチャクは心配になった。だが話し掛けてみなければ始まらない。
意を決したシュチャクはまず挨拶をしようと口を開いた。ところが彼の口から出たのは挨拶ではなく「えっ?」という言葉だった。目の前の男の姿が透け始めていた。現れた時とは反対にゆっくりぼやけていくのだ。まるで空間に溶け込んでいくかのようだった。シュチャクは慌てて「待って!」と手を伸ばし男の元に駆け寄ろうとした。
ところが踏み出した彼の面前に今度は横になった二本の脚が現れた。シュチャクはまた驚きの悲鳴を上げながら慌てて足を止めた。危ない。もう少しで膝蹴りを鼻に食らうところだった。驚いて脚の根元を辿って見ると先程の男とは別の人間が姿を現していた。同じ灰色の姿だが今度はかなり若く少年と言っていい風貌だ。その体はシュチャクに対して真横を向いていた。つまりそいつは壁に立っていることになる。その脚が塞ぐようにシュチャクの顔の前に現れたのだ。
こいつ、どこに立っているんだ?
シュチャクの左側、男の足の裏が踏んでいるはずの部分には何も見当たらない。男は空中で真横になり浮いていた。
それとも僕の方がいつの間にかまた空中に?
そう思った瞬間、シュチャクは左に強い力で引っ張られた。落ちる? 今度は受身が間に合わず体の左を見えない地面に思いっ切り打ってしまった。思わず「うぐっ」と声が出る。痛い。落ちた高さが低いので大事には至らなかったが危ないところだった。
「おっと、大丈夫かい? ああ、痛そうだな。駄目だよ、自分をちゃんと信じてなくちゃ」
先程の男とは違い、少年は気軽にこちらへ声を掛けてきた。シュチャクは少しほっとしながら少年に手を貸してもらい起き上がった。いつの間にか少年と入れ替わるようにあの中年の男は姿を消していた。
改めて少年の顔を見る。なぜかその顔に見覚えがあるような気がした。
「僕はシュチャクだ。君は?」(おれは、さ……? うう、おもいだせない)
自己紹介をしながらシュチャクは少年に話し掛けた。ところが少年はそれに答えず、いつの間にかシュチャクを化け物でも見るかのような眼で凝視していた。先程までは気さくな感じだったのに。様子が変だった。
「き、君のそれはまさか第二の唇? 君は語りの一族なのか?」
今度はシュチャクが驚く番だった。語りの一族のことを知っているなんて。いったい何者なのだ?
「……そうか、わかったぞ! 君の見た目の年齢からすると、ひょっとしてゴルンの息子じゃないか?」
「は、はい、そうです! 父を知っているんですか!」
さらにシュチャクの驚きは増した。
「ああ、もちろん。そうか、やはりな。私の名はフィニシ。ゴルンの兄だ。君の伯父ということになるな」
「ええっ! 父さんのお兄さん? 伯父さん?」
シュチャクは父から聞いていた語りの一族と落ちる者との因縁話を思い出した。祖父と祖母が別れることになった原因を作ったのが父の兄の石化だった。どうりで見覚えがあるはずだとシュチャクは思った。よく見ると彼の顔はゴルンやシュチャクにどことなく似ているのだ。
「伯父さん、話には聞いていました。まさか、こうして会えるなんて」
「私も驚いたよ。しかし甥っ子が自分より大人に見えるとは不思議な感じだな。まあ、当然か。私は弟のゴルンでさえ赤ん坊の時しか知らないのだから。ところでゴルンは元気なのか? 他の一族の者たちは? なぜ君はここに?」
「えっ、あ、あの……」
返答に困った。そうか、伯父は祖父と祖母の悲惨な最期を知らないのだ。正直に本当のことを言ってしまってもいいものだろうか? シュチャクは悩んだが本当のことを包み隠さず話すことにした。
父から聞いていた祖父母や父母の話、そしてその後、自分が体験してきた全てのことをシュチャクは話した。その間フィニシは頷きながらじっと話を聞いていた。
「……そうか。私が石化した後に色々あったのだな。苦労したな、シュチャク」(そう、おれ、くろうして……)
「いえ、僕なんて……。あっ、そうだ! 伯父さん、そういえばここってどこなんですか? 僕は確か石化したはずなのに」
「ここは石化した人間が『落ちてくる』場所なんだ。私もそうさ。おまえも石化したならわかるだろう? 心に深い傷が付き石化した人間はその開いた傷の裂け目に落ちるような感覚を味わう。精神と言うのか、魂と言うのか知らないが、それが落ちてきた終着点がここだ。石化した体を現実の世界に残し、意識はここに集まるんだな」
「じゃ、じゃあ、ここは現実の世界じゃないんですか? 死後の世界?」(せかい、せいしんの?)
「恐らく死後の世界ともちょっと違うな。普通に死んだ奴はここには来ないようなんだ。死んだ奴は何かに生まれ変わると聞いたことがある。ここに来た人間はたぶん生まれ変わることさえ出来ない」
じゃあ、もう生まれ変わってユレに会う可能性すらないのか……。シュチャクは力が抜けるようにうなだれた。
「あ、しまった! おい、シュチャク! 気を落としては駄目だ! この世界では命取りになるぞ!」
フィニシがシュチャクの肩を掴んだ。ハッとしたシュチャクは違和感を覚え自分の体を見た。灰色に見えるのは今までと同じだが先程より色が薄くなっているような気がした。先程消えた中年と同じだった。
「こ、これは?」
「いいか、シュチャク、これから私が教えることをちゃんと覚えるんだ。そうでないとおまえは消えてしまって、もうこの世界の表に出て来られなくなるかもしれないぞ」
「消える?」
その言葉にシュチャクはぞっとした。
「ああ。まずここが現実の世界じゃないってことは理解したな。そして世界が現実じゃないように俺たち自身も実は完全な現実の存在ではなくなっているんだ」
「現実じゃない? どういう意味ですか?」
シュチャクは思わず自分の体をまじまじと見た。
「そうだな、少なくとも物質的なルールで守られた存在じゃないって感じかな? 例えるなら『思いの塊』とでもいうべきか。わかりやすいのはさっきの奴だ。おまえ、さっき、私の前に落ちてきただろう?」
「はい、というか、最初はあなたの方が浮かんでいるように見えたんですけど」
「ずっとそう思っていれば良かったんだ。おまえ、途中でこう考え直したんだろう? 『自分の方が浮いていて、この人が普通に立っているんじゃないか』って」
「あっ、確かにそうです。自分の方がおかしいのかなって」(おれはおかしくなどない)
「だから落ちたんだ。つまりここは自分の思いが自分の現実になる世界なんだ。現実の世界は地面が決まっているだろう? だからみんな同じ地面を歩く。でもここは地面も空も決まったものが何一つないんだ。だから自分で地面だと思ったところがそいつにとっての地面になる。だから他の人間がどこをどんな向きに歩いていても気にするな。あっちが地面なのかと思った瞬間、そこに向かって落ちてしまうぞ」
「信じたものが現実?」(しんじていた。おれはおれのちからを。それなのに……)
「そうだ。最初、誰も見えなかっただろう? あれはおまえが他の存在ってものを信じられてなかったからだ。こんな灰色の妙な場所に他の誰かがいるわけないってな。でも誰かいるんじゃないかって思った瞬間、他の人が見え始めたんだろう?」
「確かにそうです。そういえば、あのおじさんはどこに?」
「そこがこの話の肝心なところなんだ。ここみたいに何もない、それこそ地面も空も見分けが付かない場所では自分自身さえ本当にいるかどうか不安になる。つまり自分の存在自体に疑問を持ってしまうのさ。特にこの場所へやってくる人間はみんな石化した経験のある奴だ。心の穴に落ちた記憶がある。それがどうしても足を引っ張る。自分は存在に値する人間かと嫌悪感にさいなまれる。その時こそ危険なんだ。自分から自分を否定してしまうと本当に存在自体があやふやになるんだ。つまりさっきみたいに自分が薄くなり周りの空間と自分との境までもが次第に見えなくなっていく」
「それって消滅してしまうってことですか?」(きえる? きえたくない!)
「いや、正確に言えば無くなるわけじゃない。空間に染み込むって言う方が正しいかもな。目には見えなくなるが世界の一部となって存在はしているんだと思う。だからおまえみたいに誰かに会いたいと願う奴が来ればまた存在を現すことが出来る。ただ自分で自分の存在を確定することが出来なくなっているから長くは実体化出来ないんだろうな」
「自分の存在すら人任せになってしまうんですね?」(おれのそんざいはおれがきめる)
「そういうことだ。そしてこの世界じゃ、そういう奴の方が当たり前なんだ。まあ、実は私も消え掛かっていたところを偶然ある人に救ってもらったんだよ。今、話したことはその人に教えてもらったってわけさ。自分がどういう立場にいるか判れば意識の力で対応することが出来る」
「現実の世界に戻ることは出来ないんでしょうか?」(……もどりたくなどない)
「出来るならとっくにしているさ。ただ『彼女』なら何か知っているかも知れない」
「彼女? 伯父さんにこの世界のことを教えてくれたと言う人ですか?」
「そう、おまえも知っている人だ。彼女に会えれば……」
その言葉を最後に突然フィニシの体が揺らいだ。まるで水面に写った像が揺らめいたかのような動きだった。「あっ……」という表情のまま彼の体は薄くなった。
結局その姿は跡形もなく消えてしまった。声を掛ける間もなくシュチャクはまた独りになった。
この世界で実体化を持続することの難しさをフィニシは身を持って教えてくれた。再び灰色の世界だけがシュチャクを包み込んでいた。憂鬱な光景だ。
なぜここは灰色なんだ? いっそ何も見えない暗闇の方が良かったのに。ふとそんなことを思う。人間は見えないなら見えないなりに自分の存在を心の中心に置こうとするだろう。そうすることで落ち着ける。それに対してこの灰色の世界は見えてしまう。見えるのに何もないのだ。ある意味で闇以上の闇である。これまで生きてきた世界を否定され、いつしか自分自身をも否定してしまうのだろう。
シュチャクは悪い方に考え始めている自分に気付き慌てて頭を振った。
まずい、前向きにならなければ。
……そうだ!
「よし、出発!」(どこにいけばいい? おれのいばしょ)
ふと思い付き、シュチャクはいつもユレが口にする掛け声を真似てみた。いつもは子供っぽい掛け声だなと思っていたが、今は確かに元気が出た。どこに行けばいいのか、全くわからないが歩き出してみよう。彼は素直にそう思うことが出来た。
そうだ、僕は旅をする語りの一族だ! 前に進まなければならない。僕の踏み出した方向が前なんだ!
忘れていたものを取り戻し一歩を踏み出した、その瞬間、目の前で何かが揺らめいたことにシュチャクは気付いた。彼は慌てて立ち止まりそれを見守った。やがて揺らめきは人の姿へ変わっていった。髪の長い若い女性のようだ。そうか、恐らくこの人が伯父の言っていた人なのだろう。今まで会った人間とは明らかに雰囲気が違っていた。姿をはっきりと現した彼女は大きな眼で真っ直ぐにシュチャクを見つめた。その目が突然点になった。
「ああ、なんということでしょう! シュチャクなのでしょ? 私はミワリカ。あなたの母よ!」
頭の中が一瞬で真っ白になり、彼女の言葉の意味を理解するのに時間が掛かった。大きく手を広げる彼女にシュチャクは一歩ずつ幼児のように近付いた。急にしょっぱさを感じ、自分が泣いていることにその時初めて気が付いた。彼は「母さん」と叫び、自分とそれほど変わらない年齢に見える母へと抱き付いた。迷子だった子供のように涙が止まらなかった。初めて会うのに懐かしい気がするのが不思議だった。
「ああ、大きくなったわね、シュチャク。お父さんそっくりよ。すぐあなただとわかった」
「母さん、ずっと会いたいと思っていたんだ。本当に会えるなんて」
「私も会いたかった。でも、あなたがここにいるということは何か大変なことが起きたということね? 聞かせて、私がいなくなった後にあなたと父さんがどうなったのか」
シュチャクは今までの経緯を全て母に話した。ミワリカは時折頷き、時には何かを考える様子でシュチャクの話を聞いていた。
「そんなことが……。事情は大体わかったわ。そう、もうゴルンは死んだのね……」
「ごめん、母さん。僕のせいなんだ。僕が父さんに負担を掛け続けたから。『誰も恨んではいけない』って父さんは言い残したけど……」
「あのね、お父さんの言葉にはね、色んな意味があると思うの。一つはユレさんのこと。きっとゴルンはユレさんの正体を心のどこかで見抜いていたんだと思う。それに今こうして自分を責めるあなたのことも心配していたのよ。他人も自分も同じように許せって彼は言いたかったんだと思う」
そうだったのか。そこまでは考えなかった。自分も父のことは理解していたつもりだったが、母はもっと深く理解している。父と母の結び付きの強さをシュチャクは改めて感じた。
「……シュチャク、あなたにこれから話さなければならないことがあるの」
「伯父さんに話したこと? それならさっきも説明したように大体聞いたよ」
「あなたが聞いたのは全てじゃないわ。肝心な話はここから。この灰色の世界の管理者であり、女神様に創られた最初の人間にして、落ちる者の初代の王でもある、サイシ様の話よ」
シュチャクとミワリカが話をしている頃、ユレはハンギ村で倒れ込んでいた。時間のない世界にいるシュチャクは気付いていなかったが、彼が石化してもう三日も経っていたのだ。その間ユレは何も口にせず毎日ずっと空に向かって大声で叫び続けていたのである。
シュチャクが石化したあの日以来、父はおろか他の落ちる者も姿を見せなかった。父のような翼を持たないユレには呼び掛けることしかできなかった。疲れ果て声も嗄れ空腹のため倒れた彼女はただただ悔し涙を流していた。
このまま何も出来ずシュチャクを失ってしまうなんて耐えられない。いっそのこと、このまま力尽きた方が……。
彼女がそんなことを思った時だった。
「全く諦めの悪い娘だ」(あきらめるものか。おれはしょうせつかになりたい)
ユレはハッと驚いて顔を上げた。いつの間に現れたのか、父親が腕組みして自分を見下ろしていた。
「仲間が余計な心配をしてな。おまえが死ぬかもしれないと」
ユレはよろけながらも最後の力を振り絞り必死に父親に跳び付き、そのまましっかりしがみ付いた。もう離さないつもりだった。知っていることを全て話してもらうまで帰すわけには行かなかった。
「と、父さん! 石化のことを話して! ひょっとしたら完全に石化した人間でも元に戻せる方法があるんじゃないの?」
「それについては本当に知らぬ。だが今日は落ちる者たちの物語をおまえに話すつもりで来た。石化というものが何を意味しているのか、この話を聞けばわかるだろう」
ハウオウは静かに語り始めた。
創世の女神が地面を作り忘れたせいで最初の人間である男性サイシと女性ツーレはどこまでも落ち続けていた。まだ「死」を与えられてなかった彼らには「永遠の落下」からの解放という救いは何時まで経っても訪れなかった。
それからどれほどの年月が経った頃だろう、膨大な時間の流れの果てにサイシとツーレはふとあることに気が付いた。
落ちていない!
いつの間にか二人は無意識に空中に浮かべるようになっていたのだ。翼が生え空中を自由に移動できた。落下時の風圧による乾燥を防ぐために変容した灰色の皮膚と合わせ、すっかり人とは違う異形の姿への進化ではあったが、二人は空に適応した体を誇りに思い、ずっと空で生きていくことを決めた。
さらに年月が流れた。二人の間にはたくさんの子供が生まれ、その子供たちの間にさらに子供たちが生まれた。こうして空に生きる人間たちはどんどん増えていき、いつしかサイシは王と呼ばれる存在になっていた。
そんなある日、王サイシの元にある情報が伝えられた。自分たちの住む空の遥か上空に「陸地」というものが浮かんでいて、そこには自分たちとは違う人間がいるようだ、と。サイシは別の人間たちに興味を持った。そんなものを創れるのは女神しかいない。その女神から落とされた時の絶望感は今でも忘れられない。次第に復讐の気持ちが湧き上がってきた。その陸地の人間たちに会いに行けば自ずと女神にも会えるだろう。
サイシは落ちる者たちのことをツーレに任せると遥か上空の陸地へと向かって舞い上がっていった。
やがて陸地へと辿り着いたサイシが見たものは自分とは全く違う色をした人間たちだった。肌色とは灰色のことだと思っていたのに彼らの肌の色は不思議な色だった。実は大昔、自分もその色の肌だったことをサイシはすっかり忘れていた。不思議そうに見回すサイシを地上の人間たちは逆に不思議そうに指差した。
「おい、何か、変なのがいるぞ! 化け物だ!」
遠巻きに観察し始めた陸地の人間たち。その人々の輪の中から一人の男が進み出た。
「私はここの長ナシハだ。君は何者だ?」
「私は遥か下の空に住む者の長サイシだ。女神に会いたくてここまで飛んでやってきた」
「なんと、下から? そうか、陸地が創造される前に落ちていった『最初の人間』のことは聞いたことがある。女神様に用があるというのか。だが女神様も最近忙しい。この陸地の人間が増え過ぎたものでな」
それを聞き、サイシは内心面白くなかった。無下に放り投げた我らは今までほったらかしにしておいたくせに陸地の人間の言うことは叶えてやるなんて。しかし復讐という目的のため、彼はぐっと我慢した。
「何とかならぬか。女神様にどうしても用があるのだ」
「よし、わかった。呼んでみよう」
ナシハは空に向かって大声で女神を呼んだ。一度目は何も起こらなかった。彼は二度、三度繰り返し女神を呼んだ。四度目、空に変化が起きた。光が射し、その中から女神が現れたのだ。彼女はゆっくりとナシハたちの元に降りてきて、ふわりと地面に着地をした。女神を初めて間近で見たサイシは一瞬にして心奪われた。
な、なんと美しいお人だ。……惚れた!
生まれてすぐ落ちていってしまった彼はそれまで女神の姿をまともに見たことがなかったのだ。
初めて見た女神の姿は文字通りこの世の者とは思えない程美しかった。
女神に対する復讐の気持ちも妻であるツーレの存在さえもあっという間にサイシの中から消え去っていた。彼の心の中は禁断の恋心で満たされてしまったのだ。
「まあ、最初に創った人間ね。私、あなたのことをすっかり忘れていたわ。ごめんなさい」
「はっ、い、いえ、いいのです。女神様、こうして再会できて光栄です。今や空下にも翼を持つ人間がたくさんいます。私はその代表者サイシと申します。今日はご挨拶に」
「そう。サイシ、これからよろしくね。あなたたちのこと憶えておきましょう。それでは」
女神はそれだけ言うと天に昇りやがて消えた。彼女の消えた空をいつまでもぼけっと見つめ続けるサイシを怪訝に思いナシハはこう語り掛けた。
「話したいことがあったのではなかったのか?」
「あ、ああ、そうだったのだが……。もうよいのだ」
「そうか。そうだ、良かったら今日は私の家に泊まっていかないか? 君とゆっくり話をしてみたいんだ」
「良いのか? では世話になる」
女神が気になったサイシはもう少し陸地に留まりたいと思い、ナシハの家に泊めてもらうことにした。酒を酌み交わしながら二人は色々な話をした。それぞれの人間たちの長である二人は悩みや考え方が似ていたため、とても相性が良く話が合った。時間を忘れて二人は話し込んだ。
そして次の日ナシハに案内されサイシは陸の村を見学した。空中には無い物ばかりで興味深かった。時間が経つのも忘れ、あちらこちらを見て回った。次の日もその次の日もサイシの興味が尽きることはなく彼は村に居続けた。やがてサイシは帰ることを忘れた。そのままあっという間に数年という時間が経ち、サイシとナシハは今や親友と言える間柄になっていた。
その日もいつものように二人は酒を酌み交わし話し込んでいた。しかしなぜかナシハはいつもより神妙な表情で何かを考えていた。心配したサイシは声を掛けた。
「どうした、ナシハ? 元気がないな。何かあったのか?」
「実はおまえが出掛けている時に女神様がおいでになった。陸地がだいぶ小さくなってきたから世界を広げたいと仰ってな。暫く旅に出るつもりだそうだ」
「旅立たれるのか! じゃあ、もう会えないというのか! 俺は……、俺は女神様を愛しているんだ!」
突然湧き上がった思いを叫んだサイシにナシハは驚いた。
「……おまえもだったのか?」
「何だって? 『おまえも』ってことは、ナシハ、おまえも女神様を?」
二人は初めてお互いが同じ気持ちを持っていたことを知った。二人は笑った。
「そうか。よし、そういう事なら恨みっこ無しだ。この機会に二人で思いを告白しようではないか」
こうして二人は次の日女神を呼び出した。現れた女神に二人は同時に叫んだ。
「私、サイシは女神様を愛しています」
「私、ナシハは女神様を愛しています」
真剣に愛を告白した二人に女神は困惑の表情を浮かべた。とても悲しげな顔でもあった。
「二人ともお待ちなさい。まずサイシ、あなたは下界の空に妻がいるのでしょう?」
女神はお見通しだった。サイシは唇を噛み締めた。そんなことはわかっている。
「何だと!? おまえ、奥さんがいたのか! 初耳だぞ」
ナシハが呆れたように睨んだ。
「あなたには下の空の世界を守る役目があります。特にこれから私がいなくなればあなたが空の神のような存在にならなくては。いいですね?」
女神はうなだれるサイシを気にしながらも今度はナシハのほうを向いた。
「ナシハ、あなたもそんなことを言っている場合ではありません。大変なことが起きてしまったのです。実は生きるのに疲れたという人間がやってきたので『死』というものを与えたのですが、彼らはそれをうっかりばら撒いてしまったのです。本当なら使いたい人間だけが死を経験するはずだったのに、これでこれまで不老不死だった陸地の人間は皆平等に寿命のせいで死ぬことになってしまいました。おそらくこれから陸地は混乱するでしょう。ナシハ、あなたには私の代わりを頼みたいのです」
ナシハは頷いた。満足そうに微笑んだ女神は光るものを取り出し、それを二人の目の前に置いた。それはあまりの輝きに形さえわからないものだった。
「これは『創造の力』です。これがあればある程度私のように好きなものを創造出来るはず。二人で平等に分けてうまく使いなさい。それからこれはサイシに」
そう言って女神は袋を一つサイシに手渡した。彼は無言でそれを受け取った。
「これは空の下の人間、『落ちる者』のための『死』です。いいですか、くれぐれも間違った使い方をしないように。地上の人間みたいに大変なことになりますよ。では二人とも頼みましたね」
その言葉を最後に女神は天空に浮かび消えた。そして残された二人の顔は対照的だった。悲しげでも吹っ切れた笑顔のナシハと無表情のサイシ。最初に口を開いたのはナシハだった。
「残念だったな、お互いに。でも、この『創造の力』はどうする? どう使えばいいものやら」
「……そんなものに興味はない。おい、おまえは彼女に受け入れられなくても平気なのか?」
「仕方ないさ」
あっけらかんとナシハは答えた。
「私はそんなふうに諦められない」
サイシは少し震えていた。怒りを言葉に含ませながら彼は続けた。
「本気だったのだ。全てを捨て、付いていく覚悟をしていた。あいつはそれを踏みにじった」
「おい、女神様に対して口が過ぎるぞ。おまえは『落ちる者』の王だろう? おまえはその死と創造の力を使って空下の世界に安定をもたらす使命があるじゃないか」
「使命? くだらん! 私は女神と一緒に居たいだけだった。落ちる者の王になどなりたくてなったのではない。私はただの一人の人間として愛してもらいたかった!」
サイシはそう吐き捨てるように言うと断崖へ向かって歩き出した。余程ショックだったのか、呼び止めるナシハの言葉に全く耳を貸さずせっかく貰った創造の力も死も陸地に置いたまま彼は飛び去ってしまった。
突然帰ってきた王サイシを落ちる者たちは驚きを持って迎えた。数年間も帰って来なかった王。死亡説も流れ、落ちる者たちにとって彼はもう過去の人になりつつあったのだ。今の王は間違いなく女王ツーレであり、それで落ちる者の世界は充分うまくいっていたので、表面的には王の帰還を祝ったが影では明らかな戸惑いが囁かれていた。
あいつ、ツーレ様がいながら女神を口説いたらしいぜ。
ふられてのこのこ戻ってきたんだってよ。
女神様に大事な仕事を任されたのに投げ出してきたらしい。
やっぱりあいつはそもそも王の器じゃなかったんだ。
飛べない陸地の人間たちも噂しているってさ。落ちる者の王は見掛け倒しって。
噂はサイシの耳にも入ってきた。直接批判する者は無くとも陰口だけが漏れ聞こえてくる。部下だと思っていた連中は皆ツーレに助言を求め、サイシは形式だけの孤独な王となってしまった。
それからさらに数年後サイシは密かに上空へ向かい、人間たちの村へ着陸した。サイシが来たという情報はすぐにナシハの元に入った。ナシハはすぐに彼の元に駆け付けたが、サイシは眼もどこか虚ろで挨拶すらしなかった。彼の異常な姿にナシハは少し不安を覚えた。
「久し振りだな、サイシ。使命を果たしてくれる気になったのだろう? さあ、これは預かっていたものだ」
ナシハは落ちる者の「死」が入った袋を差し出した。サイシは無言でそれを懐に入れた。
「じゃあ、こっちの『創造の力』は半分ずつ分けるとするか」
そう言いながらナシハは次に光を差し出した。するとサイシは急に人が変わったかのように目の前のそれを突如乱暴に掴み取り、その端っこを小さく引き千切ると地面に叩きつけた。
「な、何をする!?」
唖然としたナシハにサイシはこう言った。
「こちらの大きな塊は私が貰う。貴様は地面の奴を拾って使え」
「なんだと? おい、貴様、いくらなんでもそれはおかしいだろう? 血迷ったか!」
半分どころかサイシが抱えている塊は元の光の九割ほどの大きさだった。ナシハの足元に叩きつけられたものは林檎ぐらいの大きさの小さな光でしかなかった。
「うるさい! どいつもこいつも馬鹿にしやがって! おまえら陸の人間も私を影で笑っているんだろう?」
「何を言う? そんなことはない。誤解だ。卑屈になるな!」
「もうたくさんだ、女神も人間も落ちる者も。私はこれを使って新たな自分だけの世界を創ってやる!」
サイシがそう言った瞬間、彼の持つ創造の力が邪念に反応するように光り輝いた。そしてその光と共になんとサイシの体は次第に空間に溶け込み始めた。ナシハは悟った。彼の望む世界がどこかに出来上がり彼はそこに移動しようとしているのだ。
「待て、サイシ! 話し合おう。そんなところに行くな!」
しかしもう手遅れだった。すでにサイシの体は消え掛かっていた。
「待ってくれ! また会おう! おまえの世界へはどうすれば行けるんだ?」
「……そうだな、私と同じように心に傷を負った陸の人間にだけ私の世界への扉を開いてやろう。但し、その鍵の方は落ちる者たちにくれてやる。うはははは! 互いに争え! 私の感じた痛みをおまえらも知るがいい!」
狂気。再び光が放たれた。そして陸地も空も不気味な空気に覆われた。
サイシは光と共に完全に姿を消してしまった。
「……ナシハはやがて僅かに残されたその小さな創造の力を手にし側近の人間たちと旅を始めた。それが語りの一族だ」
「じゃあ、語りの一族の力の源は創造の力? でも石化とそれに何の関係が?」
「整理して話そう。全てはサイシ様が我々落ちる者の『死』を持ったまま自分の創った世界に閉じ籠ったことが原因なのだ。そのため我々落ちる者は死ぬことが出来なくなってしまった」
「死なない!? そんな信じられない……」
「事実だ。そしてそのために我々落ちる者には様々な問題が起きている。病人は動けなくなっても死ねないため永遠に苦しみ続ける。人口は増え続けているから争いの種になる。死なないという危機感の無さが生物としての落ちる者の弱体化にも繋がってしまっている。死は生きる者に必要なのだ。我々は目の前を落ちていく陸の人間の死者たちに憧れさえ持っている。だから我々もサイシ様の世界に行き、なんとしても死を手に入れたいのだ。そして現実世界とは違う異空間にあるその世界に入るための方法こそが……」
「石化! でもなぜ陸地の人間を? 落ちる者の問題なら落ちる者が直接行けばいいじゃない?」
「無理なのだ。呪いのせいでな。さっき言ったようにサイシ様は自分の世界に閉じ籠る前にこの世界に呪いを掛けて行ったのだ。その呪いのためにややこしいことになってしまった。陸の人間はサイシ様の世界へ入る資格がある。心に開いた穴から精神が向こうに行き、体は取り残されて石となる。これが石化だ。一方落ちる者は人間を石化させる能力を得たが自分自身は決して石化しないのだ」
「じゃあ落ちる者は望んでもサイシ様の世界に行けなくて、人間は行きたくないのにそこに落ちてしまうってこと? なんて矛盾なの」
「それが扉を通る資格と鍵の意味だ。自暴自棄となったサイシ様は落ちる者と人間を争わせるためにこの呪いを掛けたのだ。このため我々はそれからというもの悪役に徹しなければならなくなった」
「そんな、だって人間に頭を下げて協力を求めればいいだけじゃないの? 自分たちは行けないから代わりに落ちる者の死を取り返してきて欲しいって陸の人間に頼めば……」
「駄目なのだ、ユレ。石化とはそんな簡単なものじゃない。確かに我々は人間を石化出来る。しかしそれは人間の方にも心に傷が入る要因があるからこそなのだ。例を挙げてみよう。まだ思考の未熟な赤ん坊を我々は石化出来ない。この前の爺さんのように人の気持ちをまるで考えないような傷付く心がない外道も石化出来ない。それと同じでこれから自分が石化されることを知った者を石化することも難しいのだ。前もって石化されると聞いた人間は無意識に身構え心に防御壁を創ってしまう。それでは石化出来る可能性がかなり低くなる。だから我々はいつも人間の不意を付いて何の説明もせず石化するしかないのだ。そしてその人間がサイシ様の心を変えてくれることを期待して待つことしか出来ない」
「でも、そのためにどれだけの無駄な犠牲を出してきたか。シュチャクのお父さんだって……」
「わかっている。弁解は出来ない。だがあれくらいの悲劇を起こさなければ語りの一族を石化することは出来なかった。語りの一族の者をサイシ様の世界に送り出す。これが我々の最終目的だったのだ。そしてそのためにこの村で石化の実験を続けてきた。奇跡の力を持つ語りの一族の者ならきっとサイシ様の支配する世界でも何か奇跡を起こしてくれるはず。その実現のために多くの人間たちに犠牲を出してしまったことはツーレ様も心を痛めている。だがユレ、おまえのおかげで目的は果たせた。後は見守るだけ……、おい、待て、ユレ、おまえ、まさか変なことを考えているのではないだろうな?」
ユレは真っ直ぐハウオウを見つめていた。その眼には決意の光が見えた。
「落ちる者と人間のハーフである私ならたぶん自分自身を石化することが出来る。だってこの間、私は石化し掛けたのだから。そうすれば彼を追い掛けられるわ」
「……やはりか。お前ならそう言うんじゃないかと思っていた。心配した通りだったな。だから今日までおまえには本当の目的を隠してきたのだ」(おれのもくてき? なんだっけ?)
「だってそんなのやっぱり卑怯よ。戻れるかどうかわからない場所へ説明も無しにシュチャクを突き落としておいて、娘の私には行くななんて」
「行くなとは言っていない。こうと決めたら私の言うことを聞くような娘ではないからな。まったく、そんなところまで母親に似おって。ただ、先程も言ったように身構えた人間は石化しない。こうして事情を知った上で自分を石化するのはかなり難しいことだぞ? 失敗すれば中途半端に石化してしまい死ぬ可能性もある」
「わかっている。でもやらなくちゃ。シュチャクに会って今の話を伝えないと」
「親としては行かせたくないが……、どうやら止めても無駄そうだ。では父としてではなく女王の側近としておまえに命じる。ユレ、行って来い!」
ユレは黙って頷くとシュチャクの残した袋からあの服を取り出した。
シュチャクが残してくれた黄緑の服と赤いとんがり帽子。ユレはそれを身に着けた。ぴったりだ。いつ測ってくれたのだろう。微笑みながら彼女は眼を閉じた。自然とシュチャクの顔が浮かんでくる。後悔。彼との五年間は壊れてしまった。もう取り戻せないかもしれない。それでも仕方ない。まずは謝るために会いに行かなければ。
精神を集中したユレの眼から後悔の涙が溢れた。それと同時にその体が石化を始めた。ハウオウは娘が石化していくのをじっと黙って見守った。「……行ってくるね」の一言を最後にユレは見事な石像となった。石に変わった娘を見ながらハウオウは産まれて初めて会ったことがない創世の女神に祈った。
その頃シュチャクは母の話を聞き終えていた。驚くような話だった。その話はサイシとナシハの伝説、ユレがハウオウに聞いていた話と同じものだった。
「事情はわかったよ。でも、なぜ母さんがそんなことを知っているの?」
「サイシ様本人に聞いたから」
「本人だって!? じゃあ、母さん、サイシ様に会ったことがあるの?」
「ええ。私がこの世界にやってきてすぐのことよ」
ミハリカは灰色の世界に来て以来一人さ迷っていた。会う者もなく目の前はただただ灰色で心細さは頂点に達した。そんな時に思い出したのはゴルンが聞かせてくれた数々の物語だった。ミハリカは愛するゴルンの声を思い出すようにその物語の一つを呟き始めた。悪者に連れ去られた幼馴染の少女を少年が見事助け出すという単純な物語。しかし自分も路賊にさらわれゴルンに助けてもらった経験のあるミハリカにとっては思い出の物語だった。
すると一人語りを終え感傷に浸っていたミハリカの目の前に突然男の姿が浮き上がってきた。色は自分と同じ灰色だが背中には大きな羽が生えていた。自分がここに来ることになった原因を作った落ちる者。突如現れた災厄に彼女の震えが止まらなかった。
くっきりと出現した男。ところが彼は意外なことを口にした。「今の物語は面白かった」と。優しい口調。声も軋んではいなかった。村を襲った落ちる者とは雰囲気が違う。恐怖が少し薄れた。
「もっと物語を聞かせてはくれまいか? こんなに楽しいのは久し振りなのだ。私はサイシ。この灰色の世界の創造主であり女神に創られた最初の人間、落ちる者の王でもある」
最初の人間! ミハリカは創世の神話を思い出した。目の前の人間が神話に出てくる存在だとは。
「私は退屈していたのだ。この世界に閉じ籠り途轍もなく長い時間が過ぎた。女神を恨み、落ちる者を恨み、人間を恨み、今までここに居続けた。しかし、もう退屈なのだ」
寂しそうな男の眼にミハリカは同情を覚えた。ゴルンに聞いた物語はたくさんあったので幾つか話してあげた。話し手と聞き手。お互いに親近感が沸いてきた。いつしか二人は作られた物語ではなくお互いの身の上を話すようになった。ミハリカは驚いた。神話に出てくる存在と思っていた彼が恋に破れた挙句やけくそでこんな世界を創ったなんて。
「サイシ様、もうこんな世界終わりにしましょう? 石になった人々もみんな帰してあげるべきです」
「駄目だ、出来ないのだ」
空間が揺らいだ。悲しそうな眼をしたサイシの姿が徐々に薄れていった。
「待って!」
ミハリカは大声で呼び止めた。
眼を伏せ、泣きそうな表情のままサイシは消えた。
「そんなことが? じゃあ、そのサイシ様という方を見つければ……」
「ええ、たぶん。でもサイシ様はあれ以来私が呼びかけても姿を現してくれないのです。シュチャク、あなたはお父さんからたくさんの話を教わっているのでしょう? それをこの世界に向かって話してごらんなさい。私がサイシ様に会った時のように興味を持たれるかもしれない」
「わかった、やってみるよ」
シュチャクは心を込めて昔語りを始めた。英雄譚、由来譚、動物譚など父と学んだ様々な話を灰色の世界全てに語り掛けるように話し続けた。
時間の感覚がない。いったい自分はいま何番目の話をしているのだろう? それさえわからぬほど疲れ果て諦め掛けた時、目の前でそれは起きた。空間の揺らぎ。やがてそれは徐々に人の形をとった。これまで見たことがないほど大きな羽が、彼は何者なのかを表していた。
ついに全ての元凶、最初の人間、落ちる者の王サイシがシュチャクの前に姿を現した。
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