第五章 千光 3




 「物語る道の果ては」の世界に付着した(    )の中の彼らは朧気な記憶を振り絞り、やがて世界とは無関係に会話を始めた。




「やあ、ミハリカ。久し振りだね」


「ええ、サイシ様、またこうしてお会いできて光栄です」


 不思議な光景だった。「神話に出てくる最初の人間」と「死んだはずの母」が会話している。シュチャクは夢でも見ているかのような気持ちでそれを見守っていた。するとサイシは彼の方に向き直り柔らかな笑みを浮かべた。


「そうか、君がミハリカの息子シュチャク、語りの一族の者か。話は母上から聞いている」(ドコダココハ?)


「は、初めまして。お会いできて光栄です」


「畏まることはない。迷惑を掛けているのは私の方なのだからな。さて……」


 そう言うとサイシはじっと真っ直ぐシュチャクの眼を見つめた。シュチャクは思わず緊張した。確かに今まで会った人間たちとは比べられないほど威厳がある眼差しだった。


「……なるほど、確かに君の中には創造の力を感じる。確かにナシハの子孫らしいな」


 懐かしそうにサイシは眼を細めた。シュチャクはそんな彼に「お願いがあるのです」と申し出た。


「わかっている。帰りたいというのだろう? だが不可能なのだ。恥を忍んで告白しよう。実はこの世界は私の力ではすでに管理出来なくなっている。創造の力が思っていた以上に暴走しているのだ。現実の世界に怪物が現れたということがなかったかね? あれも暴走したこの世界の影響だろう」


 怪物? 確かに昔話には数々の怪物が登場する。それはただのお伽話ではなく史実だったというのか。 


「で、でも、あなたがこの世界の創造主なのでしょう? なんとかならないのですか?」(だれかいる? おれのほかに)


「創造主か……。だが私はそう呼ばれる資格が無いのだ。この世界は創造の力が自らの姿を変えたもの。私の思考が影響を与えたことは事実だが私が創り出したわけではないのだ。人間にも落ちる者にも恨みを持った私がこの世界を想像し、創造の力がそれに答えてくれたに過ぎない。言うなれば私は『想像主』と言ったところだろう。私はとっくの昔に後悔し元の世界に帰りたいと思っていた。ところがその時にはもう手遅れだった。この世界は存在する意思に影響を受け物理的に姿を変えてしまう。石化して此処に来た人間たちの感情から悪い影響を受け過ぎてこの世界は想像主の私の思いを受け入れなくなってしまった。私の計画が甘過ぎたのだよ」


「では、どうすれば? 何か方法はないのでしょうか?」(オレトオナジセカイノヤツ?)


「無くはない。この世界は思いの世界。強い思いが現実となる。つまり帰りたいと願えば帰れるはず」


「願っていますよ。ここに来てからずっと願っているんです。帰りたいって」(しっているぞ、おまえ!)


「君ひとりだけでは駄目なのだ。この世界全てに願わせなければ。言い換えれば『この世界にいる意思を持った者全てに』だ。そうしなければこの世界は動かない」


「この世界にいる石化した人間全員を一人一人説得しろというのですか? 姿さえ表さない彼らを? 無理だ、そんなの……」(オレモオマエヲシッテル!)


「いや、この世界にいる者は全て世界を構成する一部でもある。だからこの世界自体を一人の人間として擬人化し、その世界の象徴となった存在に訴え掛ければいい。君なら出来るはずだ。この世界にいる者はみんなこの世界と多かれ少なかれ融合してしまっている。だが、ここに来て間もない今の君ならまだこの世界との関わりが薄い。この世界から見て君は唯一の他者といっても良い。擬人化した世界が唯一話せる相手ということだ。君の第二の唇の力を信じろ。眼を閉じて任せるのだ」


 シュチャクはちらっと傍らの母の表情を窺った。彼女は黙って頷いた。


 シュチャクは無言で頷き返し、すっと額に手を当てた。先祖代々受け継いできた力。第二の唇に神経を集中した。これを手にして以来、初めて心からその力を信じることが出来たような気がした。それは自分を信じることだった。やがて彼は額に熱を感じた。いけると確信し、さらに集中を深めるため眼を閉じた。


 いつものように第二の唇が語る物語が始まるのだろうと思っていた。しかし第二の唇から聞こえてきたのは物語ではなく歌だった。初めて耳にする絶唱とも言える歌。今まで感じたことがないほど第二の唇は大きく開かれ動いていた。


 シュチャクは思わず恐怖を感じ、眼を開けてしまった。唖然とする。その眼に飛び込んできたのはたくさんの「耳」だった。灰色の世界に灰色の巨大な耳が散らばっている。いつの間にかサイシもミハリカもいなくなっていた。シュチャク一人だけが回りの空間全面に浮き上がる耳の集団に取り囲まれていたのだ。そんな中で歌だけは依然として続いている。彼は強い不安に襲われた。


「駄目だ、シュチャク!」(おかざわこう! やはりおってきたのか)


 聞き覚えのある声にシュチャクは振り向いた。数ある耳の中に一つだけ「唇」が浮いていた。


「なぜ眼を開けてしまったのだ! まだ世界が擬人化される途中だったのに!」(サカナリ!)


 サイシの声はそう告げた。しかしシュチャクは言い様の無い恐怖に包まれていた。目の前にある、これまで見たことのない異様な光景を理解することが出来なかった。


 幻想、現実、幻、物質、精神、事実、夢、物体、妄想……。何なんだ、これは?


「シュチャク、混乱しては駄目だ! 自分をしっかり持つのだ。さもないと君は力を失い、君まで世界に取り込まれてしまう。そうなったら対話する相手を失った世界は……」


 サイシの声が急に途切れた。シュチャクは今見たものが信じられなかった。サイシの唇が突然現れた別の唇に喰われたのだ。シュチャクは呆然とその唇を凝視した。唇はくるっと向きを変えシュチャクの方を向いた。


「俺は友達に裏切られたんだ!」


 聞き覚えのない男の声がそう叫んだ。誰なんだ、こいつは?


 そう思った矢先。


「私は彼氏に騙された!」


 今度は耳元で別の女性の声がした。驚いた彼が振り返るとそこにはいつの間にか、たくさんの唇が浮かんでいた。耳と唇が灰色の世界を出鱈目に漂っていて唇たちは思い思いにそれぞれの心の傷を叫び始めた。悲しい悲痛な叫び声は交じり合い世界自体を振動させていくようだった。


 動揺したシュチャクは思わず走り出した。どこまで行っても耳と唇は世界を覆っている。逃げる場所などどこにもない。交じり合った叫びはずっと続いていた。


 暫く走った彼は何かに躓き悲鳴を上げながら転んだ。咄嗟に地面は柔らかいと自分に言い聞かせる。思いが形になるならなんとかなるはず。綿に突っ込むような感触。何とか事なきを得て、自分が躓いた物を確認するため彼は振り返った。


 それは鼻だった。


 たくさんの大きな鼻がいつの間にか地面に生えていた。シュチャクは立ち上がり果てなく広がる鼻の絨毯を見回した。空には耳と唇。聞こえてくるのは重唱の叫び声と自分の第二の唇から発せられ続ける歌。混乱はもう最高潮に達していた。


 耳と口と鼻……。じゃあ眼はどこだ? 


 自分の中の僅かに残っていた理性がそんなつまらないことを考えた。彼は立ち止まったまま、意味もなくきょろきょろと眼を探し始めた。


 バシャ!


 シュチャクは「わっ!」と悲鳴を上げた。頭から突然水を被ったのだ。そして口に入ったその水はしょっぱかった。上を見る。唇や耳が並ぶ空間の遥か上空。そこに数え切れない程の眼が並んでいた。そこからまた彼の周りに水の塊が落ちてきた。涙だ。落ちてくる巨大な雫は次第に数を増やしていく。やがて避け切れない量の水の塊が落ちてきた。それはもう雫ではなく全面が滝になったような豪雨だった。


 世界全てが号泣し始めたのだ。


 シュチャクは塩辛い雨から逃げるように再び走り出した。しかし逃げても逃げても雨は止まなかった。寒い、怖い、楽になりたい。思わず彼はそう思った。その瞬間すうっと苦しさが消えていった。それと同時に彼は奇妙な感覚に襲われた。自分がふやけている、そんな感覚。濡れたからだろうかとシュチャクは自分の体に眼を向けた。そして気付いた。


 体が……、無い……?


 いつの間にか眼を向ければそこに見えるはずの自分の手や胸や足や何やら全ての体が無くなっていた。見えないだけかと思い、手を動かそうとしてみたが全くその感触が伝わって来なかった。やはり動かすべき体自体が無くなっているのだ。


 先程の感覚を思い出しシュチャクは一つの結論に達した。


 さっきのは自分の体がこの涙の雨で溶ける感覚だったのか。


 今、世界を見ているのは「シュチャクの眼」ではなく「眼だけとなったシュチャク」だった。


 僕の他の体の部分はどこにいってしまったんだろう? そんなことを考えているとどこかで音がしていることに気が付いた。しかしそれは見えている範囲でのことではなかった。すでに彼の耳は眼からずっと離れた場所にあったのだ。迷子の耳が異常な音の変化を捉えていた。


 これは風の音だ。


 そうシュチャクが思った瞬間、強烈な旋風に世界は襲われ始めた。たくさんあった眼、口、鼻、耳と一緒にシュチャクの眼や耳も空に巻き上げられた。視線がかき乱されて眼が回る。自分の向かう場所の正体を見ることなく彼の意識は遠くなっていった。




 あれっ? ここは……。 


 突然我に返ったユレは辺りを見回した。どこまでも続く灰色の世界が全周囲に広がっていて立体的なものは何もなく地面も空も見分けがつかなかった。


 そうか、これがサイシ様の創った世界。なんて寂しいところなの。


 あまりに何もない世界に彼女は驚いた。こんなところに自分から望んで引き籠ったとすればとても悲しい話だ。呪いを掛けて人間を引きずり込んだこともわかるような気がした。


 このどこかにきっとシュチャクがいる。


 今すぐにでも走り出したい気持ちだったが、どこに行くにしても目印が全くなかった。途方に暮れたユレは意を決し取り敢えず最初に向いていた方向に歩き出した。


 暫く歩きながらふと彼女は自分の体を見た。灰色だ。でもそんなに驚かなかった。「へえ」というくらいだった。世界すべてが灰色なのだから自分が灰色でも当たり前な気がした。


 シュチャクなら大げさに驚いただろうな。すぐびっくりするんだから。


 そんなことを考えると少し元気が出た。そのついでに彼女は何かを見つけるまでは休まず歩き続ける覚悟をした。


 それからどのぐらい歩いた時だろう。突然どこからか声のようなものが聞こえてきた。驚いてユレは歩みを止めた。確かに聞こえた女性の声。しかしいくら見渡してみても周りには誰もいなかった。


「ごめんなさい。下よ、お嬢さん」(サカナリ、オマエモイッショニカエルンダ)


 ハッとしてユレは足元を見た。そしてそこにあるものを見て仰天し思わず彼女は後ろに仰け反った。それはどう見ても人間の唇だった。落ちている。しかも二個。その一つが声を出したのだ。


「驚かせてごめんなさい。あの、お願いがあるの。そこら辺に私の目や耳が転がっているみたいだから集めてもらえないかしら。今のままだとあなたの姿が小さくしか見えないし、声も聞きにくいから。それを集めて私の顔を作って欲しいの」


「えっ、は、はい、わかりました」(なんだと? ばかをいえ、おれはここでえいえんに……)


 何が何だかわからなかったが取り敢えずユレは辺りを探してみた。すると確かに眼や耳があちらこちらにばらばらと散らばって落ちていた。恐る恐る拾った眼や耳を口のある場所まで持っていって子供の時にやった福笑いの要領で並べてみた。目隠しをしてないから自分でも驚くほどうまく並べられた。ほっと一息つき改めて落ち着いて見てみると部分部分しかないのにこの顔が美人であることがわかった。恐らくまともな顔だったらものすごい美人なのだろう。恐怖心がちょっとだけ和らいだ。 


「ありがとう。話しやすくなったわ」(モウワカッテイルンダ)


 口角がきゅっと上がった。微笑んだのだろう。かわいい笑顔だった。こんな状態でもその表情から彼女の優しさが伝わってくる気がした。


「あの、それで、これはどうしたら?」(き、きさまになにがわかったというんだ?)


 ユレは遠慮がちにもう一つの唇をつまみ上げた。誰のものかは知らないが、まだそれは言葉を発していなかった。この人のように他の部分もどこかにあるのだろうか?


「それのおかげで私は助かったのよ」(オマエハヒトリデセカイヲツクレナイ)


 女性はそう言った。ユレは耳を疑った。目の前の顔はとても「助かった人」には見えなかったからだ。助からなかったらこの人はどうなっていたのだろう? そんなことを考えていると突然彼女がこう言った。


「……あらっ? まさか、あなた、ひょっとしてユレさんじゃない?」


「ええっ! そ、そうですけどなぜあなたが私の名前を?」


「あなたのことは聞いているわ。私はシュチャクの母親です」


「えっ! あ、あなたが!」


 ユレは心の底から驚いた。


 シュチャクの父親の身代わりになって石化したという母親。確かにここが石化した人間の来る場所なら居てもおかしくはない。


「あ、あの、聞いたってシュチャクにですか? それにあなたはなぜそんな姿に? シュチャクは今どこにいるんで……、あっ、ごめんなさい、初対面なのに一方的に質問ばかりしちゃって」(ち、ちがう、おれは……)


「いいのよ。混乱するのは仕方ないわ。ここで起きたことを順番に説明するわね」


 ミハリカは丁寧にこの世界で起きたことを話し始めた。ユレは頭の中で必死に整理しながら話を聞いた。しかし一度聞いただけではなかなか複雑な経緯すぎてうまく頭の整理が出来なかった。


「あ、あの、大まかにはわかったんですけど最後の方がよくわからなくて……」


「そうね。私もなかなかうまく説明できないんだけど、この世界から出るためにはこの世界と融合して影響を与えている人々を全員説得しなければならない、でも全員ひとりひとりに会いに行くのは不可能だから、それでこの世界自体を語りの一族の力で一人の存在として擬人化しようとした、ここまではいいかしら?」


「は、はあ、なんとなく」


 正直ピンと来なかったがユレは取り敢えず頷いた。


「世界を一つにするためにはまず全てが溶けた状態で混ざり合わなければならなかったの。そして本当なら第二の唇を持つシュチャクはこの中に混じらないはずだった。でもね、擬人化の途中でシュチャクは集中を欠いてしまった。世界が一点に集中している途中であの子も一緒に巻き込まれてしまったのよ。たぶん体が溶けて、今の私みたいな姿になって」


「それじゃあ、シュチャクは……」(ジャア、ナゼヒトノツクッタセカイニニゲコム?)


「今は擬人化した世界の一部となってしまったのだと思う。ねえ、ユレさん、お願いがあるの。今、あなたが握っているそれはシュチャクの第二の唇よ」(くっ、それは……)


「えっ! これが、あの?」


 いつの間にか握っていた唇をユレはまじまじと見つめた。


「さっきも言ったけど、それのおかげで私は助かったの。こんな姿になった私の前に偶然それが落ちてきた。光っていたからすぐ第二の唇だとわかった。慌てて私それを咥えたの。おかげで私は擬人化した世界に吸収されなくて済んだみたい」


「これをどうしたら? 早くシュチャクに返さなくちゃ」


「いえ、それはあなたが使いなさい」


 静かにミハリカはそう言った。


「わ、私が?」


 ユレは思わず叫んだ。彼女にとって思いも掛けない話になっていた。


「ええ、お願い。今、この世界で擬人化した世界と対話できる人間はもうあなたしかいないわ。私はこんな状態だからその唇を付ける場所もない。擬人化した世界の中にはシュチャクもいる。それを信じるしかないわ。お願い出来るかしら?」(オマエハショウセツカニハムイテナイ)


 ユレは一瞬躊躇した。自分にそんな大役が務まるだろうか? でもやるしかない。シュチャクに会う。そのためにここまで来たのだから。


「……わかりました。やってみます。きっと何とかします」(おまえになにがわかる!)


 ユレは持っていた唇をそっと自分の額にあてがってみた。途端に焼けるような熱さを感じた。痛みにも似たそれに耐え彼女は眼をぎゅっと瞑った。やがて全身に熱が広がるような感覚があった。それがすうっと收まり始めると彼女は押さえていた手を恐る恐るゆっくり離してみた。


 額の唇は確かにユレの一部となっていた。


「女の子にこんなこと言っていいのかどうかわからないけどお似合いよ」


「喜んでいいことかどうかわかりませんけど、ありがとう」


 二人は笑った。笑い終わるとユレはふうっと一息ついて気を引き締めた。


「じゃあ、行ってきます」(セカイヲツクルチカラガマダタリナインダ、オマエハ)


「シュチャクのこと、お願いね。ユレさん、あなたに会えて良かったわ」(それでも……)


「ミハリカさん、私もです。あなたに会えて良かった。きっとシュチャクを連れて戻ってきますね」(なりたいんだ)


 優しくミハリカは微笑んだ。


 何度も振り返り、手を振りながらユレはシュチャクが取り込まれている擬人化した世界に会うために歩き出した。


 ……ふう。


 ユレの姿が見えなくなるとミハリカは弱々しく溜息を吐いた。少し苦しい。でも最後にあの娘と会えて本当に良かった。彼女はそう思った。


 ミハリカはわかっていた。第二の唇をユレに渡してしまえば擬人化し一つになった世界の外にいる自分は存在を保てず消えていくだろう。しかしシュチャクにも会えたし思い残すことは何もない。


 死んだら何に生まれ変わるのかしら?


 ミハリカの眼が、耳が、鼻が、唇がぼんやり光り出した。やがてそれは光の粒へと姿を変え、ふわりふわりと舞うように天に昇り出した。色が無いはずの灰色の世界がその時だけ眩いくらいの七色に染まった。


 生まれ変われるならどんな小さな虫でもいいからまたゴルンに会いたいな。


 そう思いながらミハリカは最後まで笑顔のまま消えていった。




 一方ユレは歩きながら擬人化した世界というものを探し続けていた。どんな姿をしているのか、見当も付かない相手。擬人化というからには人の姿をしているのだろうが、もしとんでもない巨人だったりしたらどうしよう。ユレは一人になり少し弱気になっていた。こんなことではいけないと思い直す。そしてひとつの思い付きを得た。彼女は空気をいっぱいに吸い込んで思い切り叫んでみた。


「やーい、出て来い! え、えっと、そういえば何て呼べばいいんだろ? うーん、出て来ーい、世界さーん!」


 するとある変化が起きた。彼女の目の前の空間に揺らぎが生じたのだ。ユレは「あっ!」と声を上げ立ち止まりそれを見つめた。やがて揺らぎは人の姿へと変わっていった。後姿。背格好はユレよりちょっと大きい程度。髪は短く男のように見えた。全身が灰色なのは彼がこの世界の象徴なのだから当然か。ユレは意を決し彼に向かって声を掛けた。


「ねえ、あなたが『世界』さんね?」(こどものころからはなしをつくるひとになりたかったんだ)


 ユレの声に反応し、くるっと男は振り返った。彼の顔、それを見たユレは思わず吹き出しそうになった。男の顔はまるで福笑いだったのだ。右目は右上がりに斜め、左目は真っ直ぐ、鼻は左に曲がっていて、口も斜めに付いていた。さらに一番ひどいのは耳が顎の辺りに付いていることだった。完全に失敗した福笑いだ。これならユレが並べたミハリカの顔の方が余程美人だった。


「いかにも私は世界」(ソレナラドリョクスレバイイ。カキツヅケレバイイ)


 響く声で男は答えた。何人もの人間の声が混じったような重厚で厳かな声だった。思わずユレはたじろいだ。ミハリカに頼まれて彼に会いに来たものの具体的に何をすればいいのか、彼女は全くわからなかった。


「私の言葉はこの世界の意思の総意。聞きたいことがあるなら聞くが良い」


「じゃ、じゃあ、この世界に閉じ込められた人たち、私も含めて、その人たちはどうすれば元の世界に帰れるの?」


「……おまえは帰りたいのか?」


 不思議そうに世界は呟いた。


「当たり前よ。私はシュチャクとシュチャクのお母さんとみんなと一緒に帰りたいの!」


「シュチャクの母という者は私の中にはいない」(かいているさ。もうなんねんも!)


「そりゃそうよ。あっちにいたもの」(ミトメラレルマデカクシカナインダ)


「では、その者はもう消えたことだろう」(もうつかれたんだ。みとめられないことに)


「えっ……」 


 ユレは絶句した。消えただって? どういう意味なの?


「私こそ世界。一つとなった私の中に居ないならその者はこの世界に存在出来ず消滅する。消滅とは現実世界での死と同じ。今頃は現実世界で何かの動物にでも生まれ変わっているだろう」


「そ、そんな……」


 ひょっとしてそれは自分が第二の唇を譲り受けたせいではないのか。ミハリカはそうなることをわかった上でそれでも自分に第二の唇を託してくれたのかもしれない。


 ユレは先程の彼女の笑顔を思い出し、涙を浮かべた。


「それに『私たち』は現実世界になど帰る気はない。それが総意だ」


「なぜ!? あなたの中の全員がそう願っているっていうの? シュチャクがそんなこと言うわけない!」


「シュチャクは確かに私の中にいる。帰りたい気持ちは強いようだ。但し彼も私の一部となる時に他の者たちの心と交じり合い彼らの心を知ってしまった。そのために今は総意に従いつつある。石化には長い歴史がある。君は今、石化してきたばかりだろう。そういう者は帰りたいと考えて当たり前。しかし例えば百年前に石化した者はどう思う? 今更帰ってどうしろというのだ。親も兄弟も友達も愛した人もみんないない。そんなところに帰りたいと思えるか? 遅すぎたのだ、何もかもが。我々は傷を負った者同士で辛い現実から逃げ、ここで永遠に暮らしていくしかないのだ」


 みんな帰りたいはずだと疑いもなく思い込んでいたユレは言葉を失った。そうか、簡単にめでたしめでたしとはいかないのだ。これは物語ではなく現実なのだから。


「……ねえ、シュチャクに会えませんか? 彼と話をさせて」(カケ。カキツヅケロ)


 黙って頷くと、福笑いの顔が突如波打ち動き始めた。粘土のようにどんどん形が変わる。やがてその顔はシュチャクのものへと変わった。


 初めて見る第二の唇がないシュチャクの顔。


 どこか生気が無く無表情で少し違和感があるが確かに彼だった。


「ユレ? どうしてここに?」


 会えなかった時間以上に懐かしい声だった。


「父にこの世界のことを聞いて、それで自分を石化して追い掛けて来たの」


「君までここに来るなんて。帰れなくなるかもしれないって思わなかったのかい?」


「それでもシュチャクがここにいるってわかっていたから」


「それは僕の第二の唇か。僕の母さんに貰ったんだね。今の話、聞いていたよ」


「うん……。ねえ、シュチャク、帰ろうよ。他の人には悪いけど私たち二人だけでも帰ろう?」 


 ふいにユレの涙が溢れた。悲痛な叫びだった。しかしそれを聞いてもシュチャクは首を横に振った。 


「それは出来ないんだ。僕はもうこの世界の一部。僕の意思は今や総意と等しくなってきている」


 そう言ったシュチャクの体が突然あちこちぼこぼこと蠢いた。そしてそれは次第に何かに変化していった。肩やら腹やらに浮き出てきたのはユレの見知らぬ顔だった。


 老人、女、青年、子供。怒りに満ちたそれらの顔は思い思いに叫び始めた。


「おまえらだけ幸せになる気か!」


「私たちは取り残されるの?」


「この裏切り者!」


 重なり合った恨みの声が辺りに響き渡った。ユレの前向きな心がかき消されそうになった。激しい動悸。ユレは心で感じた痛みに耐えきれずに胸を押さえてうずくまった。ところがそんな彼女を見つめるシュチャクは平気な顔をしていた。いや、それどころかまだ無表情なままだった。目の前で大切なユレが苦しんでいるというのに心配する様子が全くなかった。


 シュチャク、もう外の世界の心を失ってすっかりこの世界の人間になってしまったの?


 自分に心を向けないシュチャクを見てユレは絶望に襲われた。もう頼れるものは一つしかない。ユレは第二の唇に助けを求めた。しかし何も起きなかった。そこであることを思い出した。シュチャクが言っていた、語りの一族の力は望むだけでは使えない。然るべき時と意志が必要なのだ。今あるユレの思いは唯一つだった。


「私は……、シュチャクと帰る!」(かいてもだめだった。かいてもかいてもだめだったんだ)


 ユレはそう叫んだ。そして次の瞬間、額に熱を感じた。力が宿ったのだ。ユレは眼を瞑り、第二の唇に意識を集中した。彼女の第二の唇がゆっくり口を開いた。(アキラメルナ、ダッテ……)


「アルキツヅケルカギリミチハツヅク」(アルキツヅケルカギリミチハツヅク)


 第二の唇の言葉を聞いた瞬間、シュチャクの顔をした世界の表情が変わった。彼は助けを求めるように手を伸ばした。それはもう世界ではなくシュチャクだった。ユレは咄嗟にその手を握った。


 一滴、二人の握り合った手の上にユレの涙が落ちた。するとふいに別の涙が落ちた。無表情なままではあったがシュチャクも涙を流していたのだ。二人の涙は繋いだ手の上に落ちて、そこで交じり合った。


「や、やめろ! 外の世界の涙をここに持ち込むな!」(あるきつづける?)


 シュチャクの体に浮かんでいた顔たちが苦しそうに叫び始めた。ハッとしてユレは握った手を見つめた。


 色が着いている!


 全てが灰色の世界の中、涙の落ちた所にだけいつも見ていた肌の色が戻っていた。そこからゆっくり滲むように色は広がっていった。ユレとシュチャク、二人の腕に色が戻り、そしてそれは皮膚だけに留まらず次第に着ている服も鮮やかなあの黄緑色に染まっていった。


 シュチャクに取り憑いていた顔たちは広がる色から逃げるように背中の方に移動した。そして追い込まれると寄せ集まるように融合し一つの灰色の塊になって悲鳴を上げながら体の外へ飛び出した。それと同時にシュチャクは表情を取り戻し我に返っていた。


「……ん、……ユレ!? ああ、会いたかった!」


「シュチャク! 良かった、いつものあなたに戻ったのね!」


 ユレは彼に抱き着いた。灰色の世界の中、抱き合った二人にだけ現実世界の色が蘇っていた。


 二人は抱き合ったまま灰色の塊を見つめた。それは次第に一人の人の形に変わり、やがてそれはサイシの姿となった。


「……シュチャク、おまえはどうやらこの世界から切り放たれたようだな」(ソウダヨ)


「サイシ様!」(ここまでだってあるいてきたんだ。まだあるけというのか)


「私はサイシであってサイシではない。先程までのおまえがそうだったように」


「あなたはこの世界の化身なのですね。あなたたちはまだここに執着し続ける気なんですか?」


「いや、君たちの涙は我々に僅かな影響を与えた。今、総意に変化が起きようとしている。待ってくれ」


 そう言うと世界は暫く黙った。シュチャクとユレは黙ってじっと彼らの結論を待った。


 数分後、世界は口を開いた。


「……今、総意が決まった。我々はミハリカに倣い消滅することにする。この灰色の世界の呪縛から解き放たれるために」(ジブンノアシモトジャナクヨコヲミテミロ。ミンナアルイテルジャナイカ)


「それでいいんですか?」(みんな? そうなのか。つらいのはおれだけじゃないのか?)


「ああ。久し振りに外の心に触れたおかげで皆、決心が出来た。希望のない馴れ合いの永遠より可能性が小さくても生まれ変わり大事な人との再会が出来るかもしれないという希望のある未来を目指そう。ここにいる全員、生まれ変わりの果てにまたどこかで会うこともあろう。そこで今度こそ皆が笑顔になれればそれで良い」


「そうですね」(ソウダヨ、サカナリ、ツカレタラトマッテモイイ。アキラメタラオワリダ)


「ユレ、これを」(こんなことをやらかしたおれなんかがまたあるいてもいいのか?)


 世界は懐から何かを取り出した。小さな袋だった。それは紐で厳重に縛ってあった。


「これを君の父上に渡してくれ。落ちる者の『死』だ。待たせてすまぬと伝えて欲しい」


「はい、わかりました」(オマエニアルクキガアレバダレニモトメルケンリハナイサ)


「君たちの帰り方はその語りの一族の力が教えてくれるだろう」


 そう言うと世界は眼を瞑った。すると先程のシュチャクの時のように誰かの顔が表に浮き出てきた。それは満面の笑みを浮かべたフィニシの顔だった。


「シュチャク、世話になったな。ではこれでお別れだ。生まれ変わればいつの日かゴルンとも会えるだろう。そしてまたみんなで会おう」


「はい! 伯父さん、きっとまた会いましょう!」


 二人はがっちりと握手を交わした。


「ではさらばだ、語りの一族よ! ありがとう!」


 世界がそう告げた瞬間、彼の体は七色に光り出した。それは光の粒となり、それぞれが様々な色となって舞い上がり始めた。灰色だった世界はまばゆいばかりの色に覆われた。


 天に昇る光たちの中から声が聞こえた。そのみんなの声は先程とはまるで違う優しい響きだった。


「シュチャク、ユレ、またいつか会おう、きっと」(やりなおせるかな、おれなんかでも)


 それを最後にゆっくりと光たちは消えていった。


 世界が消えた世界。


 二人きりになったシュチャクとユレはお互いを確認するかのように静かに見つめ合い、そして抱き合った。


 会話する時間すら勿体無いように二人はお互いの温もりをただただ感じ合っていた。どのぐらいそうしていたか。シュチャクがようやく口を開いた。


「……ユレ、帰ろう」(カエロウ、サカナリ、イッショニゲンジツヘ。カレラノヨウニ)


「うん。でも、どうすれば?」(……わかった。しかしどうすればいい?)


「帰れると信じよう」(ココハイシキノセカイ。カエリタイトネガエバカエレルハズダ)


「そうか、そうだね」(……ねがったがなにもおきないぞ?)


 二人は信じた。二人で帰れると、いや、二人だからこそ帰れるのだ。


「……あっ!」(タブンコノセカイノソウゾウシュデアル「ミカ」ガジャマシテイルンダ)


 突然ユレが悲鳴を上げた。額に付いていた第二の唇が動いたのだ。意志を持ったようにそれはユレの額から剥がれ落ちた。痛みなどは全く感じなかった。二人は呆然と空中に浮かぶ第二の唇を見つめた。それはやがて空間へと張り付き、パクパクと一人で動き始めた。


「我は『第二の唇』。君と話すのはこれが最初で最後だな。一言、お別れを」(ああ、「きくしまみか」か。なぜだ、かのじょはなぜじゃまを?)


 誰のものでもない声がそう言った。


「お別れ? 君は来ないのか?」(ミカハカエリタクナインダ。ソノツヨイオモイガジャマシテイル)


「君たちを外に出すためには私がここに残らなければ。それに二度とここに落ちてくる人間が出ないように見張り役もいるだろう。ここは創造の力で創られた世界。同じ力で出来た私こそがその役目に相応しい」(じゃあ、どうすればいいんだ?)


「そんな、これでお別れなのか。第二の唇、君にはいつも助けられてばかりだった」


「私もあなたがいなかったらシュチャクを助けられなかったわ。ありがとう」


 二人は心から礼を述べた。


「礼の代わりに私の言葉を覚えていて欲しい。語りの一族の者よ、私がいなくなっても奇跡の力が無くなっても最後まで諦めるな。人間がどこにいても何をしていても必ず女神様は見守っておられるのだから」


「わかった。その言葉、皆に伝えよう。今までありがとう」


「どういたしまして」(モウスグモノガタリガオワル。キットソノトキチャンスガアル) 


 そう言ってふっと第二の唇は笑った。シュチャクとユレも微笑んだ。


「語りの一族の活躍をこれからもここから見ているよ。まあ、私には眼は無いんだがね」


 唇は最後に笑ってそう言うと、あんぐりと大きく口を開けた。そこには漆黒の闇が見えた。唇は口を開いた形のままどんどん大きくなっていった。人が通れる程の大きさまで広がった時、その闇の向こうに薄っすらとどこかの風景が写り始めた。それを覗き込んだユレが何かに気付いた。


「あっ、あれ、お父さんだわ!」(ものがたりのおわり、そこになにが……)


 そこはどうやらハンギ村のようだった。ハウオウの心配そうな顔が見えていた。


「ユレ、じゃあ、帰ろう」(ワカラナイ。デモイクシカナイ)


「うん。よし、行くぞ!」(よし、おれがまいたたねだ。なんとかかのじょをせっとくしてみせる)


 二人は元気よく拳を突き上げながら並んで口の中に飛び込んだ。


 水面に飛び込んだような感覚。


 そのまま二人の意識は遠くなった。





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