第五章 千光 1




 菊嶋美花の想像力、自意識の強さは功が思っていた以上に圧倒的だった。ンダッヴァの影響を受けた人間の多くは自らが作り出した想像と創造の世界に飲み込まれ、記憶を失った状態で、その世界の登場人物に成りきるのが普通である。なぜなら何も無い永遠のような暗闇の中では自我を長時間保つことが難しいからだ。


 人は「世界」に所属することで初めて自分の存在というものを認識できる。見てくれる他者がいるからこそ見られている対象である自分という存在に気付く。しかし彼女は「物語る道の果ては」の世界を創り上げた後も誰かに認識されることを拒否し、美花としての孤独な意識をしっかり保っていた。彼女はその世界の特定の誰かになることを拒絶して世界そのものの傍観者になったのだ。


 彼女はある贖罪のため自ら醒めない夢を観ることを選んだ。


 そこに突然闖入者が現れた。坂成と功である。


 彼らはその世界と同一になっていた美花の強い意識に飲み込まれた。その衝撃で自我がバラバラに砕け散った彼らは美花の世界にガラスの雨のように降り注いだ。


 もう自分が誰かはわからない。


 誰かに成り切ることもない。


 世界にバラバラに突き刺さった彼らはそこで僅かに残る記憶を囁く。


 しかし美花の物語にとって部外者でしかない彼らの囁きがこの世界の住人たちに聞こえることは決してない。それは世界を小説に例えるならば、その物語とは無関係に(   )で括られる聞き手のいない独り言だった。





 1



 シュチャクとユレはどこまでも続く道を歩いていた。二人が旅を始めて既に五年という年月が過ぎている。訪れた村々でシュチャクは父から教わった昔話を語りユレはそれに合わせて手作りの人形劇を演じる。いつの間にか出来ていた役割分担だった。数え切れない村で興行を行なってきた二人は今や強い絆で結ばれていた。


「あ、新しい村の門が見えるよ。早く行こうよ、シュチャク」


 ユレが先立ってシュチャクの手を引っ張る。それは新しい村を見つけた時の二人の習慣になっていた。やがて門の前までやってきた二人は今までに感じたことのない違和感を覚えた。何かがおかしい。「静かだな」とシュチャクが呟いた。一言で言えばそうなる。他の村なら感じられる活気とか生活感みたいなものがまるで感じられなかったのだ。


 異様な雰囲気に飲まれた二人は村の入り口に立ち尽くした。やがて意を決したシュチャクが「入るよ」と声を掛けて一歩を踏み出し、ユレもその後ろに付いていった。二人できょろきょろと村を見ながら進んだ。


 人がいない。そもそもこの村って何をして生活しているんだ?


 ふとした疑問がシュチャクの頭に浮かんだ。何しろ畑のようなものが全く見当たらず、たまに家がある以外、道の両脇はただの原っぱにしか見えなかった。今まで色々な村を通ってきたシュチャクもこんな光景を見たのは初めてだった。どんな小さな村だって生活を支える産業というものは存在している。それが全く見えてこなかった。


「村が死んでいるみたい」(……シンデル? オレモ?)


 ユレがそう呟いた。シュチャクが漠然と感じていたことをまとめた言葉だった。不安からか、どちらからともなく手を繋ぎ二人はさらに村を進んでいった。


 やがて前方に何かが見えた。人影。そこには大勢の人間が集まっているようだった。


「シュチャク! あそこに人がいっぱいいるみたい!」


 ちょっと嬉しそうにユレが指を指した。


「本当だ。なんだ、ちゃんと人いるんじゃないか」(オレモイルノニ……)


 少し落ち着きを取り戻し二人はそこに近づいていった。そろそろ声が聞こえるだろう。シュチャクが声を掛けた。


「あの、すいま……」


 言葉が止まる。ほぼ同時にユレも気付いたようだった。そこには何十人という人が立っていた。まさに老若男女様々だ。しかし誰一人シュチャクの呼びかけに反応した者はいなかった。みんな思い思いの別の方向を向いている。その誰もが同じ色をしていた。そこにいたのは全て石像だった。


 誰も動かない。それぞれが着ている服だけが僅かに風に揺れていた。そこは砂地になっていた。シュチャクにとっては落ちる者と初めて会った時以来の砂地だった。


 絶句したままシュチャクは石像たちの側に近寄った。石像に触れてみる。父が死んだあの出来事、あの時にも感じた嫌な冷たさが伝わってきた。


「石化した人がこんなにたくさん……」


 自然にこれほどの数の人間が石化するわけがない。考えられるのはただ一つ。落ちる者の仕業だ。何の目的があるのかはわからなかったが、この辺に奴らが現れたのは間違いない。


「ユレ、気をつけ……、えっ、どうしたの? 大丈夫?」(オレハダイジョウブジャナイ)


 ユレの顔はひどく青ざめていた。いつもよりずっとか弱く見える。


 シュチャクはもう一度しっかりと少し強めに彼女の手を握った。


 二人がそのまま周りの様子を確認している時だった。石像が立ち並ぶ中にすっと動く影が見えた。


 生きている人だ! きっと何か事情を知っているに違いない。


 シュチャクは「すいません!」と大きな声で声を掛けた。歩き回っていた人影が止まり、ゆっくり道の方に出てくる。腰の曲がった老人が杖もつかずによたよたと歩いてきた。


「なんじゃ、おめえら」(オレノナハ……、オ、オモイダセナイ、ダレダ?)


 呟くような小さい声だが攻撃的な言い方だった。敵意に近いものを含んでいるように感じる。少しカチンと来たが落ち着いてシュチャクは穏やかに話し出した。


「怪しい者じゃありません。僕たちは旅をしている者です」


「ふん、そうかい。そんで旅人がわしに何のようだ?」


「このたくさんの石化した人々は一体どうしたんですか? やっぱり翼を持った灰色の奴が……」


「ほお、おまえさん、『落ちる者』を知っているのか? こいつは驚いた。この村以外の者がそれを知っているとはな。おめえは今までの無知な旅人とはちょっと違うらしい」


「落ちる者! なぜ、その名を? お爺さん、やはり見たことが?」


「わしは残念ながらお姿を拝見したことがないんじゃよ。こんな歳になるのにな」


「お、お姿?」


「ああ、尊いお姿じゃ。わしらに永遠を下さる存在だからな」


 どうも様子がおかしかった。


「な、何を言ってるんですか? あいつらは人間をこうして石化してしまう化物ですよ!」


「なっ……、き、貴様! 口を慎め! ふん、どうやらおまえも他の村の奴らとそう違わんらしい。どいつもこいつもこの村の者を頭がおかしいと決め付ける。いいか、小僧、よく聞け! 説明してやろう。この村では大昔から落ちる者を信仰し進んで自ら石化して頂くのが習わしなのじゃ」


「何だって! そんな馬鹿なことが……」


「馬鹿とはなんだ! ふん、やはり考え方が幼稚じゃわい。石化とは永遠を手にするということなんじゃよ。当たり前の話だが人は死ぬだろ。死ねば肉体は動かなくなり崖から投げ落とされ消える。そして魂は虫やら獣に生まれ変わることさえあると言われているだろ。考えてもみろ、こんな屈辱があるか? 生まれ変わりとは女神の永遠の呪いなのだ。石化こそがそこから逃げる唯一の手段。残念ながら彼ら『落ちる者』は気紛れだから選ばれた人間だけが石化してもらえるのじゃ。そのため悔しいことにわしは今もこうしてこんな歳になるまで生き恥を晒している」


「そ、そんなの間違っていますよ!」(ソウダ、マチガッテイルヨ、……ダレガ?)


「そう思うのはおまえさんの勝手じゃ。わしらは昔から落ちる者と共にあるんじゃ。彼らは我々の生きる糧まで置いていって下さる。このありがたみは余所者にはわからんじゃろ?」


 この村に何も無い訳がわかった。生活の糧まで落ちる者に任せるとは。


「わからない! わかりたくもない!」


 シュチャクは怒りに駆られて思わず喚いた。


「ふん、まあ、いいじゃろう。所詮文化の違いというものは埋め難いものだ。このハンギ村だけが落ちる者と共に栄えればいいだけの話。無知な旅人はとっととここから出て行け」


「言われなくてもこんな村……、痛っ!」


 その時、突然、鋭い痛みを感じて、驚いたシュチャクは思わず振り向いた。握っていた手をすごい力でユレが握り返してきたのだ。爪が食い込むほどの力だった。それと同時に震えが伝わってくる。ユレはさっきよりも一層青ざめてがたがたと震え出していた。


 そうだ、ユレは落ちる者にさらわれた経験がある。きっと怖かった体験を思い出してしまったに違いない。


 シュチャクはユレをそっと抱きしめた。「大丈夫だよ」と言いながら頭を撫でる。しかしユレはなぜか立ち尽くしたままで抱き返してはくれなかった。


 シュチャクはユレの眼を見たが彼女は首を横に振った。おかしい。ただ怖がっているだけの感じでもない。ただ、今にも泣き出しそうな顔だ。自分がしっかり守らなければ、シュチャクがそう決意した、その時だった。


 突然、空から大きな音がした。何かが羽ばたく音。地面に映った黒い影。それは一気に下降してきた。ふわりと着地する。石のような皮膚、大きな翼、それはまさに「落ちる者」だった。シュチャクは少しだけ怯んだ。何しろそいつは以前会った奴より一回りでかかったのだ。筋肉の質さえ違う感じがした。


 これまでの奴とは格が違う……。やばいぞ、こいつは……。


 守ることだけ考えてシュチャクはユレの前に出た。ところが睨み合う二人の間に突然場違いな老人が後ろから割って入ってきた。


「おお、落ちる者よ! 来てくださったのですね。ありがたや、ありがたや」


 老人が落ちる者を拝み始めた。一方、拝まれた相手は老人を興味無さげにちらっと一瞥しただけだった。


「お願いです、私に永遠をお与えください。年老いた私を石化してください」


 声は聞こえたはずだが落ちる者は老人を完全に無視し真っ直ぐシュチャクだけを見ていた。


「どうか、どうか!」


 老人は我を忘れて叫んだ。落ちる者はようやく彼に顔を向けた。


「うるさい奴だ。おまえなど石化出来ん」


 初めてそいつが口を開いた。同じように軋んではいるが他の落ちる者よりはるかに威厳のある声だった。


「な、なぜですか?」


 老人は意外な答えにうろたえていた。


「石化とは心に深い傷が付く現象。普通は死に匹敵するほどの絶望を感じた人間だけがそうなる。しかし我ら落ちる者はその心の傷を相手に故意に付ける能力を持っている。しかしおまえのように自分勝手で人の痛みに全く無頓着な奴には付けたくても傷を付けられない。要するにおまえには傷付くべき心がない」


「そ、そんな! お願いですじゃ! わしに永遠を、永遠を!」


 するとごねる老人の腕を落ちる者は突然無言で掴んだ。


「お、おお、石化をしてくださるのか! ありがた…、ほわっ!」


 それは一瞬の出来事だった。老人の言葉が終わらないうちに、落ちる者は彼を片手で空に向かってまるで小枝でも投げるように軽々と放り投げたのだ。老人は空中で放物線を描いた。小さな悲鳴を残した彼は大きな音を立てて民家の屋根に突っ込んだ。シュチャクたちはそれを唖然と見守るしか無かった。


「き、貴様! なんてことを! 理由はどうあれ、あんたを慕っている人間だっただろ!」


「崖下に落とさなかっただけ優しいとは思わぬか? それにこの村は古くから我々が生活の面倒を見てやっているのだ。その代わり、生きることに疲れた人間から石化の実験台になってもらう。持ちつ持たれつというわけだ。村人は我々に対して絶対の信仰心を持っている。何をされても文句は言わん。どうだ、不満かな? 語りの一族よ」


「やはり僕のことを知っているんだな? おい、おまえたちの目的は何なんだ?」


「目的か。それは……、隣の娘にでも聞いてみたらどうだ?」(モクテキ、ナンダッケ?)


 落ちる者が指差したのはユレだった。


 ……えっ、な、何を言っているんだ、こいつ? 


 シュチャクは一瞬わけがわからなくなった。慌てて振り向くとユレと自分の手が離れていた。いつの間に? ユレは数歩下がった場所で涙をポタポタ落としながら真っ直ぐにこっちを見ていた。


「……聞いて、シュチャク。私、あなたに話さなくちゃいけないことがあるの」


「ユレ?」


「ある少女の物語よ。ある村に優しい女の子がいた。彼女は家族を早くに無くし一人ぼっちで暮らしていた。その娘はある日、村の道路で青年が倒れているのを見つけたの。何とか家まで連れ帰り必死に看病した。おかげで青年は意識を取り戻し快方に向かった。そして二人は恋に落ちた。ところが村人に彼のことがばれてしまった。村人たちは彼が村にいることを許そうとしなかった。なぜなら……」


「待って、ユレ、何の話を……」(ハナシ……、モノガタリ?)


「なぜなら彼は灰色の肌と翼を持っていたから。そう、彼は落ちる者だったの。ちょっとした油断から空を飛ぶクァズラとぶつかってしまい怪我をしたのよ。その村の人たちは彼を得体の知れない化け物だと決め付けた。仕方なく彼は争いを避けるため一度村を出た。しかし二人は村人に隠れて人目のない夜に会うようになったの」


「ユレ……」


「それから時が流れ、ある日、少女が自分が妊娠したことに気付いた。村人たちは化け物の子だと言って少女を責めた。でも彼女はそれに耐え、ついに女の子を産んだ。子供が産まれた後も密会は続いた。ところがある時それを村人に感づかれてしまった。怒った村人たちが武器を持ち出して彼女の家に押し寄せた。そして彼を庇った彼女は死んでしまった」


 シュチャクはもう何も話すことが出来ず黙ってユレの話を聞くだけになっていた。


「彼は子供と彼女の遺体を置いてその場から逃げるしかなかった。元よりその子は母親似で翼を持っていなかったから彼は連れていけなかったのね。残された赤ん坊をどうするか、村人たちは話し合った。その結果、殺すのはあまりに不憫だという理由で、ある女が母親代わりになり育てることになった。その義理の母親は引退した旅役者だったわ。若い時は旅をしながら何人かで一座を組み芝居をしていたみたい。でも歳を取ってから酒に溺れて一座を追い出され、その村に置いていかれた。その女も村の厄介者だったから化け物の子を押し付けられたというわけ」


 その時、目に見えない何かが怒っているような、そんな強い風が吹いたが、ユレは構わず話を続けた。


「やがて女はその子が少女と言える歳になると芝居を教え始めた。自分が果たせなかった夢を押し付けるために。指導は厳しかった。何かある度に殴られ蹴られ何度も死にたいと少女は思った。家では母に殴られ、外では化け物の子だと言われて村の子供たちに苛められた。化け物と言う人間たちの方こそが本当の化け物だと少女はずっと思って育った。そのまま彼女は十二歳を迎えた。その頃、義理の母親が死んでしまったの。少女は途方に暮れた。するとそこに物心付いてから初めて父親が現れた。そして彼女が赤ん坊だった時の経緯を話してくれた。『おまえの半分は落ちる者だ。使命を果たす時が来た』と彼は言った」


 ユレの話はいよいよ核心に近付こうとしていた。


「そして彼はこうも言ったわ。『人間たちに復讐する時だ』と。父親が説明した計画はこうだった。ある村に行き、そこで三年ほど普通に暮らせ。そうすれば語りの一族という者たちがやってくる。こいつらは人間どもの代表とも言える憎むべき連中だ。落ちる者の天敵であり女神に祝福された一族。一芝居売ってそいつらと親密になれ。そして数年行動を共にしたら、正体をばらし裏切ってやれ。語りの一族の心に奇跡の力でも修復出来ない傷を付けて奴らを石化してやるのだ、と。少女はその計画を受け入れた。その村にはもう居たくなかったし、人間そのものをずっと恨んできたのだから。そしてその少女こそ……、もうわかるよね? それが私なの、シュチャク」


 途中からなんとなくではあるが話は見えてきていた。しかし実際ユレの口からはっきりと打ち明けられた事実はシュチャクの心を大きく揺さ振った。目の前が白くなる。その中でいつの間にか回り込んでいた落ちる者がユレの肩にそっと手を置いた。彼女は嫌がる様子もなかった。


「我が名はハウオウ、落ちる者の女王ツーレ様の側近である。もう気付いているだろうがユレの父親だ。似てはいないがね。こいつの外見は完全に母親似なのだ。もっともそのおかげで計画通りに事を進められたのだから感謝しなくてはな」


 シュチャクは力なく「……嘘だ」と呟いた。ごちゃごちゃの頭の中から出てきたのはそんな現実逃避の言葉だけだった。頭ではなく心が現実の理解を拒否している、そんな感じだった。


「嘘じゃないの。私は落ちる者の娘。ゾセ村で私がさらわれたのは全部芝居。あなたと一緒に旅を始めたのも父の命令だった。私のせいであなたのお父さんは……、死んだってこと」


「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!」 


 狂ったようにシュチャクは叫び続けた。


 第二の唇の力を持っているというのに僕は自分の問題さえ解決できないのか。ではこんなもの何のためにある? 他人は救えても自分は救えないのかよ!


 そう思った瞬間シュチャクの顔が突然重くなった。ハッとして額を触る。第二の唇がある額の部分が石化していた。幸い、まだ石化したのはそこだけだったが頼みの綱は完全に断たれてしまった。


 それはまさに絶望の瞬間だった。


「フッ、馬鹿な奴だ。自ら、力を放棄するとは。これでおまえは切り札を封じられた」


 シュチャクは膝から崩れ落ちた。もうどうでもいい、そんな気持ちになっていた。


「さあ、ユレ、おまえの最後の仕事だ。こいつに言ってやれ。旅した五年は幻に過ぎなかったと。おまえも落ちる者の血を引く娘。今のこいつなら簡単に石化出来るはずだ。人間の代表者である語りの一族を石化に追い込み、母の仇を取れ!」


 ユレはすっとシュチャクの前に立ち、じっと彼を見つめた。シュチャクはうなだれて覚悟を決めた。しかし彼女は黙ったままだった。


 すると彼女の頬を溢れた涙が流れた。


「……出来ない、お父さん」


「何だと! 何を言っている、ユレ、血迷ったか! 母さんの恨みを忘れたか!」


「忘れてはいない! でも、シュチャクと過ごしたこの五年間は私にとって芝居でも嘘でもなかったから」


 シュチャクは顔を上げた。ユレの瞳は真実を語っていた。


「最初はシュチャクにうまく近づいて仲良くなった振りをしていただけだった。でも幾つかの村を過ぎた頃から私は次第に使命を忘れていった。いつも一生懸命なシュチャクと一緒にいるのが心の底から楽しくて、色んな村を通って、色んな経験をして世の中にいるのは悪い人間だけじゃないって知った。シュチャクと一緒にいつまでも旅をしてみたいって本気で思い始めていた。ハンギ村という村で決着を付けるって、お父さん言ってたよね? いつ、その村に着いてしまうんだろうって私はいつしか怖くなっていた。嘘を吐いているのが苦しくて苦しくて……」


 シュチャクは立ち上がりユレを抱きしめた。ユレはやっと抱き返してくれた。


「いつの間にか、あなたを本当に好きになっていた。今まで騙していてごめんなさい」


「もういいんだ。僕も好きだよ、ユレ」(スキ? ソウダ、オレガスキナノハ……)


 抱き合う二人を見たハウオウは激怒した。


「ユレ! 村で迫害されていたおまえを救い出し、生きる目的を与えたのは父親である私だぞ!」


「もうやめて、お父さん! ……うっ!」


 そう叫んだユレが顔をしかめた。慌ててシュチャクは離れた。なんと彼女の両腕は石化を始めていた。


「馬鹿者! 自分自身を石化したのか。なんと愚かな娘だ。こんな奴のために!」


 目の前でユレが見る見る石化していく。奇跡を起こそうにもシュチャクの第二の唇も石化してしまっているのだ。


「……これでいいの。当然の報いだわ。私のせいで多くの人が死んだり石化したんだから」


「なんてことを! そんな、嫌だ、僕は君を失いたくない!」(ウシナイタクナイ)


「あなたはあなたの使命を果たしてね」(シメイ? オレノシメイナンダッケ?)


 ユレの泣き顔を見ながらシュチャクは考えた。


 何か方法はないのか。死んだ父ならどうしただろう? 誰か助けてくれ……。


 シュチャクは父に、先祖に、女神に、考え付く全てのものに祈った。会ったことがない母にさえ祈った時、そこで「あること」を思い出した。賭けにも近いことだがやるしかない。シュチャクはほぼ半身が石化したユレを抱きしめた。


「もうお別れだね、シュチャク」


 覚悟を決め涙を浮かべ微笑むユレ。そんな彼女にシュチャクは突然意外なことを言った。


「……後で僕の持っていた袋を開けてみてくれないか?」


「えっ、後で?」


 何のことかわからずユレは聞き返した。


「第二の唇は石化してもう使えない。だけど僕にはもうひとつ別の力もあるはずなんだ。君が落ちる者と人間との子供であるように、僕も語りの一族である父と別の力を持った一族の母との子なんだから」


 眼を閉じたシュチャクは精神を集中した。


 自分が持っているはずの力。意識の闇の奥底に。きっと見つけられる。


 母さん、お願いだ、力を貸して!


 ……あった!


 シュチャクは自分の中にそれを見つけた。その瞬間、彼の体はぼんやりと光り出した。それを見て驚いたユレが声を上げた。


「な、何なの、シュチャク、これは?」


「母から受け継いだ力。一度だけ愛する人の身代わりになれる力なんだ」


 光と共にすうっとユレの石化が解け始めた。そしてまさにそれと入れ替わるようにシュチャクの体が石化を始めていた。数分の間にユレは元の体に戻り、代わりにシュチャクの体は首の下全てが石化していた。石化の呪いをシュチャクが引き受けたのだ。ユレはようやく事の重大さを理解した。


「そ、そんな……。いやあ! シュチャク、何で? 悪いのは私なのに」(ワルイノハオレナンダ)


「これは母から受け継いだ使命なんだ。いいんだよ、ユレ」


 その言葉を最後に口まで石化が進んだ。もう話せない。ユレは泣きじゃくっていた。


「シュチャク、嫌、行かないで!」


 返事をすることも頷くことも出来ない。シュチャクは一生懸命、眼で返事を伝えようとした。ユレが何かを叫んでいた。


「     」(……アイシテル?)


 もう耳まで石化していたせいでユレの声はおろか何も聞こえなかった。泣き続けるユレをただシュチャクは見つめた。じわじわと眼にまで石化が進んでいく。最後に見えたのは見上げるユレの泣き顔。五感も何もかも失い、シュチャクはただユレのことだけを思った。


 これからのユレが幸せでありますように。


 やがて底が抜けたような感覚がしてシュチャクの精神はどこかに落ちていった。




 残されたユレはずっとシュチャクに抱き付いていた。冷たいただの石となった体。ぴくりとも動かない。それを五感で感じ、ユレの涙は止まらなかった。ハウオウはそんなユレをじっと無言で見詰めていた。先程までの怒りも使命を果たした後の喜びもなぜか彼は表さなかった。暫く黙って娘を見守ると彼はただ静かに断崖に向かって歩き出した。


 えっ、もう帰るつもりなの? いったいどういうつもり?


 ユレは驚き、父に向かって叫んだ。


「待って、父さん! あんなにこだわっていた語りの一族を倒したのにどうして何も言わないの?」


「おまえは勘違いしている。落ちる者の目的は語りの一族を倒すことではない。そんな単純なことではないのだ。まだ何も終っていない。いや、始まってすらいないのかもしれん」


「終わっていない? まさか、シュチャクは死んでないって言うの?」


「それはあいつ次第だ。もう我々に出来ることはない」(オレノデキルコト?)


 そう言い残すとハウオウはそのまま飛び去っていった。


 呆然としたままユレは一人取り残された。目の前のシュチャクを見つめる。石の体は冷たくて生きている感じはとてもしなかった。


 そういえばそもそも石化とは何なのか。自分の知らない秘密が隠されているとでも言うのだろうか?


 いくら考えてもわからなかった。そこでユレはシュチャクの言葉を思い出した。傍らに落ちている袋を開けてみる。そこから見慣れた色が眼に飛び込んで来た。鮮やかな黄緑と赤。ユレはそれを取り出した。少し小さいが目の前で石像となったシュチャクが着ているものと同じものだ。語りの一族だけに伝わる製法で作られるため他には絶対無い色だとユレは聞いた覚えがあった。


 いつの間に作ったのだろう? この寸法はおそらく私の物だ。


 ユレは服を握り締めたまま再度泣き崩れた。一族しか着られない服を用意してくれた意味。シュチャクが前の村を出てからそわそわしていた理由。それを知り、なおさら後悔が募ってきた。取り返しはもう付かない。奇跡はもう起きないのだ。奇跡の力を持つ最後の人間が石となってしまったのだから。


 絶望の中、父の言葉が気になった。父は何を知っているのか、突き止めなければならない。


 ユレは何とか立ち上がった。手にした服をぎゅっと握り締め、物言わぬシュチャクに語り掛けた。


「これはもう少しあなたに預けておくね」(モウスコシ? ソウ、モウスコシデオレノキオクガ……)


 ユレは服を袋に戻して石像となったシュチャクにそれを掛けると決意に満ちた眼で父が消えた空を見上げた。





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