第四章 穿孔 3




 ふと我に返ると功はまた誰かと並んで歩いていた。大きな廊下、両側に並んだたくさんのドア、現実世界でも見たことがないほど大きな建物の中だった。


「ウヒョット、お主も呼び出されていたのか。いったい何の話であろうな?」


 功に向かってそう話し掛けてきたのは隣を歩く巨漢だった。


「この前から奴は様子がおかしいからな。どうせ、ろくなことじゃないだろう」


 そう言ったのは功の口だった。先程、品田の中にいる時と同じ状況になっていた。痩せ型の男の中にいる功は男が見る物、聞く音はわかるが彼の体を操ることは出来なくなっていたのだ。


 どうも話の雰囲気からして功はウヒョットという男の中にいるらしかった。つまりここは「交わるパラレル」の世界ということだ。すると隣にいる巨漢はターインなのだろう。二人はどうやらタンクァに呼び出され彼の部屋へ向かっているところのようだ。


 もちろん功はこの場面を覚えていたし、この後、物語がどう動いていくのかもわかっていた。




 タンクァに呼び出されたウヒョットとターインはそこである人物と引き合わされる。それはタリラそっくりの外見をした女性クオーラだった。驚く二人にタンクァはこれまでの経緯を馬鹿正直と言えるほど包み隠さず話した。自分と同じようにタリラの補佐官を務めてきた切れ者である彼らには下手な言い訳など通用しないことがタンクァにはよくわかっていたのだ。それなら全て正直に話して協力を頼んだ方がうまくいくと彼は判断した。


 タリラとクオーラを引き会わせ結婚させるというタンクァの計画に初めは二人とも驚き、無謀過ぎると難色を示した。しかしタンクァの話術の賜物か、そのあまりに突飛な考えが現在の三国を複雑に縛り上げる問題を打開してくれるかもしれない、二人はそう信じてくれた。


 数時間の話し合いの末、とうとう三人はタンクァの計画を実行に移すことを決めたのだった。




 数日後タリラの書いている小説のある場面に出てくるような満月が空に浮かんだ。絶好のチャンスだった。まずはタリラに意識させることが肝心だ。


 その日タリラが床に就く前にタンクァは「今日はまるで小説の中のタリラ様とタリレ様が出会うような夜ですな」と満月のことをほのめかしておいた。これでロマンチストなタリラが行動を起こす可能性は十分にあった。


 息を殺し隠れて部屋を見守っていたタンクァたちの予想通り、深夜、タリラは一人で部屋から出てきた。廊下を歩く彼は自分が小説で描いた大鏡の方向へ向かった。やがてその鏡の前に立った彼は天窓から降り注ぐ月光を見上げた。その瞬間タンクァは合図を送りクオーラが陰から飛び出した。突然現れた人影に驚いたタリラはバッと振り返った。鏡の前で見合った二人は言葉を失い、ただ見つめ合った。


「き、君は!? 似ている……、いや、しかし、まさか、そんな馬鹿な、これは現実だぞ?」


 動揺した様子のタリラに対し前もってセリフを練習していたクオーラはこう答えた。


「まあ、なんて似ているの! あなたは私なのですか? そんな、まさか、ここは夢に見た異世界なの?」


「夢だって?」


「満月の光がこの鏡に当たり異世界への扉になるという夢なのです。眠れなくて城の中を散歩していたらその夢に見た光景が現れて、ふと気が付いた時にはもうここに……」


「あ、あなたの名は?」


「タリレです。第十代聖カンショネラ女王タリレ・パレルと申します」


 タリラがはっと息を飲んだ。すかさずクオーラはこう聞いた。


「どうなされたの? あなたは?」


「私は第十代聖カンショネラ王タリラ・パレルなのです」


 クオーラはハッと息を飲む演技をしてタリラを見つめた。タリラはそんな彼女をすっかり信じてしまったようだった。


「な、なんということだ……。私の書いていた物語が現実になるなんて」


 二人は鏡の前で静かに見つめ合った。


 全てはタンクァたちの計算通りだった。




 それからタリラとクオーラの奇妙な交際が始まった。クオーラはタンクァたちの指示通りにタリレを演じ続け、パラレルワールドから鏡を通してやって来たという設定を守り続けた。


 時と共に着実にタリラとクオーラの距離は縮まっていったが、そこに幾つかの問題が生じた。計画に気付いたミンシュア、スパイド、さらにタンクァの計画に異を唱えたイクサネールの「ご老人たち」の一部が二人の仲を裂こうと暗躍を始めたのである。


 それぞれの国から送り込まれた諜報部たちの妨害工作に対しタンクァ、ウヒョット、ターインは力を合わせ対応しタリラとクオーラの関係を保とうとした。


 その中でタンクァはクオーラの一番の相談相手として心を通わせ、いつしか彼は彼女に対して恋心に近い感情を抱くようになっていた。


 やがて三人の努力のかいもあって三国の首脳部たちもタリラとタリレを演じるクオーラの結婚を認めようという風潮に変わっていったが、それと同時にクオーラを愛してしまったタンクァは苦しむこととなった。


 ある日タンクァたちは突然タリラに呼び出された。いよいよ結婚を決意されたのだろうかと盛り上がるウヒョットとターインに対しタンクァは浮かない顔だった。


 ところがそこでタリラは「自分は隠居するからタリレを次の王にせよ」と誰も予想しなかったとんでもないことを言い出したのである。


 実はタリラはクオーラの正体やタンクァたちの計画について全て気付いていたのだ。クオーラが本当は自分ではなくタンクァに思いを寄せていることも見抜いた彼は身を引く決心をしたのだった。


 こうしてクオーラはタリラ公認という形で彼の影武者となり補佐を務めるタンクァたちと共に三国の緊張緩和のため生涯を捧げたのである。




 功が記憶している交わるパラレルのストーリーは大雑把に言えばこんな感じだった。それはこの世界において未来の出来事である。しかし先程のように原作である小説には無いトラブルが発生する可能性は高い。功は改めてウヒョットの中で気を引き締めた。


 やがてある扉の前でウヒョットとターインが止まった。どうやらここがタンクァの執務室の前らしい。ターインがノックをすると中から返事があった。ドアを開け二人は中へと入っていった。王の補佐官という国の中でも高い地位にあるはずのタンクァの部屋は驚くほど物が少なく小奇麗だった。ウヒョットたちの部屋にあるような高級調度品はあまりなく必要最小限の机と書類棚があるくらいの実務重視の部屋になっていた。軍事国家イクサネールの軍人出身である彼らしい部屋だと功は思った。


「わざわざ我々だけ呼び出すとは何かあったのか?」


 額の汗を吹きながら少し苛々した様子でターインがそう言った。


「まさか、また、タリラ様が無理難題でも言い出したのかね?」


 ウヒョットの不安そうな震えた声は中にいる功も不安にさせた。呼び掛けられた人物は、というと癖なのか立派な口髭を撫でながら椅子から立ち上がった。緊張しているせいか、禿げ上がった頭が真っ赤に染まっていた。


「うむ、すまんな、わざわざ来てもらって」


 そう言いながらタンクァは二人の間を素通りしドアの鍵を掛けた。いつもならやらない行動だけにウヒョットもターインも少し驚いたようだった。


「どうした? 何か、他の奴に見られて困ることでもあるのか?」


 ターインが訝しげにそう聞くとタンクァは苦笑いのような表情を浮かべた。


「城内が大騒ぎになるかもしれんからな。特にまだタリラ様に見せるわけにはいかない」


「どういうことじゃ? お主、何を企んでいる?」


 タンクァはウヒョットのその問いには答えずに部屋の隅へと歩いて行った。そこには大きな書類棚が備え付けられていたが彼はその左端に手を掛け、本来ありえない方に棚を回転させた。隠し扉。その陰には何者かが立っていた。


「ん、タリラ様ではないですか! なぜそのようなところに?」


「タンクァ! 貴様、タリラ様をこんな所に閉じ込めておくとはあまりにも無礼ではないか!」


 ウヒョットとターインは目の前に現れた人物をタリラだと信じて疑っていないようだった。目の前のクオーラはあまりにもタリラに似ていたので無理も無いことだ。


 しかしその陰で功も別の意味の驚きの声を上げていた。クオーラの雰囲気が源後朋美にあまりにそっくりだったのだ。きつめの印象を与える眼はまさに彼女の象徴だった。間違いない、朋美はクオーラと同化しているのだ。


 何とか先程のように声を出して朋美の記憶を取り戻さなくては。


 功は必死にウヒョットの体から主導権を奪おうとした。


 思い出せ、さっき師匠を助けた時、俺はどうやった?


「二人ともよく見ろ。よく似てはいるが『彼女』はタリラ様ではないぞ」


「彼女!?」


 功の懸命な足掻きをよそにタンクァとウヒョットたちの会話は小説通りに進んでいた。この後クオーラの正体がウヒョットとターインに明かされタンクァの計画が説明されるというシーンになるはずだ。


「この御方はタリラ様ではないというのか? ……うむ、確かに近くでよく見ると表情がタリラ様と少し違うな。女性なのか、この方は。しかし、まさか、これほどまでに似ている人間がいるとは」


「うむ。それについて少し説明せねばならんのだが‥‥」


 タンクァがそう言った瞬間だった。ガシャンという大きな音と共にタンクァの執務室の大きな窓が割れて弾き飛んだ。部屋にいた四人は驚き一斉に振り返った。幸い、窓の側にいた者はいなかったが、飛び散ったガラスと目の前に現れたものを見て皆が一瞬で青ざめた。


 そこに現れた者は得体のしれない「怪物」としか言い様のないものだったのである。


 そいつは全体的なフォルムはいわゆる西洋の「ガーゴイル」というものに似ていた。


 ガーゴイルとは雨樋から流れてくる雨水の排出口部分の飾りとして中世西洋建築の屋根に設置された石像、またはそれを模した怪物であり、背中に生えた大きな翼、悪魔のような顔などの特徴があった。


 目の前のそいつも形としてはそれと同じだったが唯一違うのはその材質だった。そいつは石ではなく紙で出来ていたのである。しかも普通の紙ではなくそこにはびっしりと字が印刷されていた。巨大な本から破り取られた紙を使った折り紙の怪物、功はそんなイメージを持った。


「な、ななな、何だ、貴様は!」


 すっかり怯えた声でウヒョットがそう言うと怪物はにやりと笑った。


「架空の存在であるおまえになど用はない。俺が話したいのは貴様の『中』にいる奴だ」


 なっ、何だと!?


 功は心の底から驚いた。なぜこいつはウヒョットの中にいる見えない自分の存在に気づいたのだろうか? それに目の前の怪物は明らかに「交わるパラレル」の世界観から外れた異質な存在だった。「交わるパラレル」はファンタジーの要素を含む小説ではあったが非科学的な存在が現れるような物語ではなかったはずだ。どちらかといえばそいつは「小説のオモイデアゲイン」の中で描かれた「ゲームのオモイデアゲイン」に出てくるモンスターに近い存在だった。魔女に楽しい思い出を盗られた人間、そのトラウマが具現化した怪物。目の前の姿はまさにそれだった。


「貴様、恐らく『岡澤功』だろ? 折角拾った命をわざわざ捨てるためにこんなところまでやって来るとはな。おまえのせいで一番消してやりたかった相浦の野郎に逃げられちまっただろうが! てめえだけは許さんぞ!」


 俺の名前まで知っているのか? しかも師匠を消したかっただと?


「この世界は俺と同じ小説家の卵たちが創った神聖な世界だ。だから本来ならあまり荒らしたくなかった。しかしこれ以上おまえを野放しにしておけば、みんな目を覚ましてしまいそうだったからよ。スマートなやり方とは言えないが、そろそろ終いにさせてもらうぞ!」


 小説家の卵という言葉を聞いて功はピンと来た。


 この世界に介入できる唯一の人物。そうか、こいつは……。


 功は思いを爆発させることでウヒョットの支配を振り切り彼に成り変わった。


「わかったぞ! おまえ、坂成だな? 俺たちにンダッヴァの煙を吸わせた逆恨み野郎め!」


 ウヒョットの口を借りてそう叫んだ功に化物は驚きの表情を見せた。


「ほお、話せるか。この世界で自由に喋れるとは大したものだ。他人の意識の中で自意識を保つことだけでもここでは大変なのに存在を借りている体をコントロールするとはな」


「おまえになど褒められても嬉しくない。それより相浦先生に向かって車を突っ込ませたのは貴様だな? それに『帰蛙』の世界を改悪して上竹のことも……」


「ふん、上竹吾郎か。あんな女たらし死んで良かったと思わないか? 色々お噂は聞いてるんだぜ。稀代のプレイボーイで色んな女を泣かせてきたらしいじゃねえか? あんたのお仲間もその一人なんだろう?」


 坂成は嫌らしくケタケタ笑った。こんな奴に美花のことを笑われたことが功は許せなかった。


「貴様! 自分の書いた小説が評価されないからって俺たちを全員この世界に引き摺り込んで殺すつもりだったのか? なぜだ、なぜお前はこんなことが出来る?」


「うはははは、才能と経験という奴だよ。俺はンダッヴァを手に入れてから研究を重ねてきた。実際何度か危ない目にあったこともあったがな。しかしおかげでンダッヴァが連れて来てくれるこの世界を多少コントロール出来るようになった。明晰夢の応用という奴だ。岡澤功、おまえも初めてにしては良い線いっているようだな。残念だよ、ここで消し去るのは」


 坂成はそう言って巨大な爪を振り上げた。


 絶体絶命の恐怖。


 悲鳴を上げることも出来ず反射的に功は眼をぐっと瞑った。


 やられる! ここまでか……。


 功が覚悟を決めた瞬間、突然足元がぐらりと揺れた。驚いて目を開くと床だけでなく真っ直ぐなはずの壁や柱までがぐにゃぐにゃと曲がっていた。そう、世界そのものが揺らぎ始めていたのだ。


 ハッとした彼はクオーラの様子を確認した。


「げ、げん、ご、と、ともみ? 私はタリレ、クオーラ、トモミ?」


 クオーラである朋美は坂成と功の会話を聞いたことがきっかけとなり心を乱し始めていた。ここは彼女が想像して創造された「交わるパラレル」の世界だ。彼女の動揺と同様に世界が揺れ始めていた。


「ちっ、しまった! 思っていたよりも記憶が早く戻り始めやがったか」


「物語を創る人間は読者を異世界に引き摺り込むために用意周到な設定を考えるものだ。派手さばかり考えてそんな姿でこの世界に乱入してきたおまえはやはり小説家に向いていないんだよ、坂成。なあ、考え直せ。おまえも一緒に現実の世界へ帰ってやり直そう」


「う、うるさい! 俺はもう肉体など捨てたんだ。この精神世界の神として好きに……、なっ!」


 坂成が最後まで言い終わらないうちに彼のいた部分の床が溶け落ちた。慌てて窓から飛び出した彼は大きな翼を羽ばたかせた。その先にはいつからあったのか、空中に浮かぶ一枚のドアがあった。彼はそのドアノブに手を掛けた。


「ちっ、この世界にだけは入らないつもりだったのにな。しかしこの世界はもう長く持ちそうにない。こうなったら仕方ねえな」


 開けられたドアの中の様子が功の目にもチラリと見えた。そこにはどこまでも続く長い道があった。


「おい、待て! 坂成!」


 功の呼び止めを無視して坂成はその中に飛び込んだ。ドアは閉じると同時にすうっと薄くなり消えてしまった。それとほぼ同時に交わるパラレルの世界も次第にぼやけながら消えて無くなった。


 現れたのは漆黒の闇。そこに功と朋美だけが存在していた。


「な、なに、今の? えっ、功君? ここは? 何がどうなってんの?」


 朋美はすっかり取り乱していた。功は相浦の時と同じように丁寧に一から事情を説明した。徐々に落ち着きを取り戻した彼女はようやく笑みを見せた。


「はあ、とても信じられない話だけど、この何も見えない異様な暗闇を見る限り信じるしかないようね。そうか、あの『交わるパラレル』の世界に私がねえ」


 朋美は交わるパラレルの物語を読んだ時、一見滅茶苦茶そうに見えながらも結末に向かい突っ走っていく楽しげなその世界に憧れに近い感情を持った。こじれてしまった上竹や美花との関係を忘れ、この世界のお姫様になってみたい、そんな気になった。だから選考会でこの物語を推薦したのだが、そのせいでここに迷い込むことになったのだった。


「そう、吾郎、死んじゃったんだ……。きっとバチが当たったんだね。美花を泣かせたから」


「泣かされていたのは朋美も一緒だろう。先に付き合っていたのは君だ」


「いや、私はいいんだよ。ほら、私は彼の女癖がひどいのを知った上でそれでも割りきって付き合っていたんだから。私と吾郎は似たもの同士だった。ナルシストで自分が一番で、だけど寂しがり屋でさ。だからお互い様の恨みっこなしって感じだったからね。本当に可哀想なのは美花の方だよ。あの娘、純粋過ぎるんだ。功も知っているだろ?」


「確かに融通が効かないタイプだとは思うよ」


「そうなんだよ。あんな馬鹿みたいな男を真剣に愛しちゃってたんだ。私や他の女がいるの知ってたのにね。見てられなかったよ、段々壊れていくあの娘の様子は」


 デビュー当時の美花は秀作を連発し期待の新人と持てはやされていた。しかし上竹との関係が始まってからここ数年は明らかに量も質も落ちていた。


「でも、まだ間に合うんじゃないかな? 功、あんた、前から美花のこと好きなんでしょ?」


「やっぱり気付いていたのか」


「あんた、顔に出やすいのよ。美花本人だって多分気付いている」


「えっ、そうなのか?」


「そうだよ。これは神様がくれたチャンスなんだよ。こんがらがった糸を解く機会を神様が与えてくれたんだと思う。吾郎が死んだのは可哀想だったけど、まあ、自業自得かもね」


 そう言って寂しそうに笑った朋美の眼には涙が浮かんでいた。


「行きなよ、功。きっと美花は『物語る旅の果ては』の世界にいるよ。いわゆるボーイミーツガール形式であの娘が好きそうな話だったもの。正直にあんたの気持ちを伝えればきっと受け入れてくれる。いや、寧ろあんたを待っているんだよ。ただ、さっきの化物、坂成って言ったっけ、あいつには気を付けなよ」


「ああ、わかっているよ。必ず美花も連れて帰る。師匠にもそう言ってくれ」


「うん、言っとくよ。いやあ、それにしてもあんたかっこいいねえ。こんなにやる奴だとは思わなかった。あんたを好きになれば良かったよ、私も」


「お、おい、ちょっと待てよ」


「ハハ、冗談だよ。でもきっと美花もそう思うはずさ。自信持て!」


「参ったな。でも、ありがとう。朋美も気をつけて帰れよ」


「うん。えっと、帰るイメージだったっけ。えーと……」


 朋美が目を瞑った。すると突然ボンという音と共に場違いな赤いスポーツカーが現れた。一瞬二人とも唖然としたが顔を見合わせ同時に笑い出した。


「これがおまえの帰るイメージなのか。おかしいだろ、だって、おまえ……」


「そう、私、免許持ってないのよ。でも、まあ、イメージだからね。なんとかなるんじゃない?」


 免許を持っていた功はひと通り発進の仕方を朋美に教えた。慣れない様子で運転席に乗り込んだ彼女は窓越しにニコッと敬礼をした。功もそれに同じポーズで返した。


 彼女が鍵を回すとリズム良いエンジン音がした。こちらを向いた彼女が窓越しに何か言ったが功にはその声が聞き取れなかった。聞き直そうと彼が近寄った瞬間、爆音と共に車は急発進した。悲鳴と共に尻餅を付いた功が我に帰った時にはすでに車は暗闇の遥か先に消えて見えなくなっていた。静寂が戻った闇の中で功の心臓だけが暫くバクバクと鳴っていた。


「こ、殺す気か! 坂成なんかよりあいつの方がよっぽど危ないじゃないか」


 ようやく落ち着いた功はゆっくり立ち上がった。今度は自分の番だ。目を瞑り美花がいる世界への入口をイメージした。パッと目を開いた彼はそこに出現しているものを見て驚いた。暗闇の中に浮かび上がったそれは坂成が消えたあのドアと同じものだった。これまでの光の窓とは形が違う。急に不安になった。それはこの先に坂成がいるということへの恐怖ではなかった。確かに彼の存在は不気味だったがそれ以上にドアの向こうにもっと得体のしれないものが潜んでいる気がしてならなかった。


 ドアノブに手を掛けたまま逡巡した功はもう一度美花の姿を思い浮かべた。彼女を救う、そう決めてここに来たはずだ。意を決した彼はドアを開けた。そこには先程チラリと見えたどこまでも続く果てしない道が見えた。この先のどこかに美花や坂成がいるのだろうか?


 功は思い切ってそこへ足を踏み入れた。その刹那、彼は理解した。あの強気だった坂成がなぜこの世界に入ることを躊躇していたのか。外から見えていたはずの道は一瞬にして見えなくなり強烈な渦のような感覚が功を飲み込もうとしていた。


 これは美花の意識だ。


 今までの相浦や朋美の時とは明らかに違う。そう、それは自分の精神世界へ入ってくる者への「敵意」に近い感情だった。


 功はその時はっきり悟った。


 自分が誰であるかという記憶がなければ他者に敵意など持てない。


 つまり美花は記憶を失っていないのだ。


 帰れないのではなくンダッヴァによって連れられてきた世界に自分の意志で留まっているということになる。


 なぜだ、美花? なぜ俺を拒絶する? 俺は迎えに来たんだ!


 功は必死に叫んだ。しかし返事はなかった。渦は激しさを増し、功の意識を激しく揺さぶった。功の持っていた決意が、思いが、存在そのものが徐々に揺らいでいった。


 ミ、ミカ、アイシテ……。


 最後の言葉が発せられることはなかった。功の精神は粉々に砕かれ美花の世界へと呑み込まれていった。





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