第四章 穿孔 1




 岡澤功が意識を取り戻してから一週間が経っていた。そしてそれはある意味入院患者らしからぬ慌ただしい日々だった。ニュースを見て駆け付けた親戚、見舞いに来た友人たち、謝罪に訪れた本好社の関係者、入れ替わり立ち代わりやってくる面会者たちに少し辟易しながらも功は順調に体力を回復していった。


 主治医を勤める高校の同級生伊佐から退院の許可が出たのは午前中の回診の時である。本来なら素直に喜ぶべきところだが功には引っ掛かっていることがあった。それは物書きとしての師匠である相浦作三郎、さらにこれまで切磋琢磨してきたライバルであり友人でもある、菊嶋美花、源後朋美、この三人の意識がまだ戻っていないということだった。もちろん医者でもない自分が側にいようが退院しようが彼らの病状に変化を与えることはないとわかっていたが、それでも同じようにンダッヴァの煙を吸い込んだ上竹吾郎が死んだと聞かされ、功は不安を抑えきれなかった。


 自分だけが先に助かったという罪悪感に似た思い。それを抱えているうちに彼はある些細な矛盾に気付いた。それが非科学的でひどく馬鹿げた考えだということはわかっていたが、それでも自分が感じた思いを否定することは出来なかった。彼はある決意を持ってその日の夜を迎えていた。




 白衣姿の伊佐が病室に入ってきたのは功が夕食を食べ終え廊下に出されたワゴンに食器を返しに行った直後のことだった。軽く手を上げ挨拶をした彼に功は軽く頭を下げた。


「悪いな。忙しい先生を仕事の後に呼び出したりして」


「ああ、気にするな。患者の悩み事を聞くのも大事な仕事の一つだからな」


「他の先生や看護師からは話が聞きづらくてさ。明らかに困った顔をされるから」


「お仲間の病状のことだろう? 病棟でちょっとした噂になっているからな。おまえが毎日しつこく他の患者の病状を聞いてくるって」


「あっ、すまん。皆さんに迷惑を掛けてしまったかな?」


「気にするな。無理も無いさ、大事な知り合いがいつ死ぬかわからないという状態が続いていれば誰だってそうなる。特にお前は自らそれを体験したんだし心配になる気持ちはわかるよ。だけど自分だけが先に助かって申し訳ないなんて思うなよ? ンダッヴァの創り出す脳内世界から抜け出せるかどうかは本人次第なんだ。医者である俺だって根本的な治療が出来ないから歯がゆく思っている。でも出来る限りのことはやっているつもりだ。おまえも自分の体のことを一番に考えて後は俺たち専門家に任せてくれ」


「ありがとう。もちろんお前を始め医療スタッフの皆さんには感謝しているよ。ただ、一つ気になることがあって……」


「気になること? 何だ? 何でも言ってみてくれ。治療の手掛かりになるかもしれん」


「俺は自分の体験したあの異世界がただの脳内の幻だったとは思えない」


「ああ、なるほど、そういう話か。まあ、無理もないとは思うが。うむ、それについては、この前、説明したとおりだよ。ンダッヴァを吸った人間は元の人格を一時的に喪失してしまうほどリアルな夢を見るがそれは決して現実の体験ってわけじゃない。それでも体験者はあんなリアルな世界が幻覚だったはずはないって口を揃えて言うんだ。だけどな、科学的に言っても異世界なんてものは……」


「幾つか納得できないことがあるんだ。科学的な疑問かどうかはわからないけど」


「……わかった、そこまで言うなら言ってみろ。ンダッヴァによって創られた偽りの体験はリアル過ぎてトラウマになる可能性が高いんだ。今後不安を抱えたままだとあまり良くないからな」


「ありがとう。じゃあ、まず上竹の死についておかしな点がある。彼は最後に蛙のような呻き声を上げて死んだって言っていたな? 最終候補の中に『帰蛙』という蛙の世界を描いた作品があった」


「ああ、それは知っている。選考会の時の様子は俺も調査させてもらったからな。選考員の中でも上竹さんが『帰蛙』を推していたんだろう?」


「ああ、そうだ。登場人物は全部蛙で人間が全く出て来ないファンタジーなんだけど、それが次第に文明批判のSF的な結末に向かっていくところが面白いって評価していたな。俺はちょっと結末のネタがありふれている気がして推さなかったけど」


「それなら別におかしくはない。ンダッヴァが見せる幻覚は無から生じるものではなく脳に存在する記憶から創り上げられるものだからな。つまり記憶が新しければ新しいほど印象に残っていればいるほど影響は受けやすい。上竹さんがンダッヴァを吸い込んでしまう前に『帰蛙』って作品のことを熱心に論じていたんだとすれば意識を失った彼がその世界の幻覚を見ていたとしても不思議じゃない」


「いや、俺もその事には異論はない。現に俺も自分が推していた『マンドレイク村おこし騒乱記』の世界にいた。俺がおかしいと思っているのはあいつがその世界で死んだってことだ」


「だからそれは脳内で創り出された物語の中で起きたショックに現実の脳、心臓が耐え切れなくなったからだ。ンダッヴァ患者には稀にそういうことも起きてしまうんだよ」


「現実の脳が止まるということはかなりのショックを受けたってことだろう? 例えば自分の成りきっていたキャラが耐えられない程の苦痛を伴う死を迎えたとか」


「その可能性が高いな。ンダッヴァの見せる幻覚は当然痛みも感じさせるから」


「だけどな、『帰蛙』の主人公であるフロアはそんな死は迎えないはずなんだ。彼は見事に危機を乗り切り滅亡したホモサピエンスに代わり進化した蛙人類たちの新しいリーダーとなっていくというのが『帰蛙』の結末なんだから。ハッピーエンドなんだよ」


「いや、待て、上竹さんが『帰蛙』の物語を夢で見ていたからと言って彼が『主人公』と同化していたとは限らないぞ? 『帰蛙』を読んだ彼が他の脇役のキャラに感情移入していれば夢の中でもそっちに成りきっていたのかも知れない」


「上竹は脇役に感情移入するような奴じゃないさ。常に自分が主人公じゃないと我慢出来ないナルシストなんだから。『交わるパラレル』って作品があっただろう? 俺はあれを読んだ時、タリラって王様のモデルになったのは上竹じゃないかって思ったくらいだよ」


「うーん、つまり、おまえは『物語上、死なないはずの主人公に成りきっていた上竹さんが死んだのはおかしい』と言いたいのか?」


「ああ、そうさ」


「しかし原作の『帰蛙』と上竹さんの記憶が創り出した物語が全く同じになるとも限らないからな。その疑問だけでンダッヴァが創り出すものが幻じゃないなんて推測はできないだろう?」


「それならもう一つ疑問がある。俺は眠っている間、『岡澤功としての自分』を喪失して『マンドレイク村おこし騒乱記』という物語の主人公である『須田大樹』に成りきっていた。五感もしっかり感じていたし途中までは自分が大樹であることにこれっぽっちも疑問を抱かなかった。今でもあの体験が幻覚だったなんて信じられないほどだ。そして今、岡澤功としての自分を取り戻してみてはっきりわかったことがある。あれはンダッヴァを吸い込む前に俺が読んでイメージしていた『マンドレイク村おこし騒乱記』の世界そのものだったということだ。大樹の親父の須田源三、ヒロインの金田春香、他の登場人物たちもだいたい俺があの作品の人物描写の文章を読んでイメージしたとおりの姿をしていた」


「それはそうだよ。何度も言うが君が現実のように感じていたその世界はあくまで君の記憶から創り出された幻覚だったんだから、君がイメージしたとおりの世界になるのは当然のことだ。それは逆に君の体験したことが脳内だけのものだった証拠だろう?」


「俺がおかしいと思ったのはそこじゃない。ンダッヴァの効果が切れて意識が戻る時、俺は『マンドレイク村おこし騒乱記』とは違う世界を見たって説明したよな?」


「ああ、確か、他の最終候補作の場面みたいだったという話だったな。それはカウンセリングの時に聞かせてもらったよ。ただ君は審査員として最終候補作を全部読んでいるんだからそれを見たとしても不思議ではないだろう。意識が戻るか戻らないかの不安定な状態でランダムに記憶から引き出された映像を見たということだ」


「ところが今その映像を落ち着いて思い出してみると違和感を覚えるんだ。その時、俺が見たのは次の三つの場面だった。『交わるパラレル』の主要登場人物であるタリラが本来彼の影武者になるはずだった女性クオーラと出会うシーン、『オモイデアゲイン』の主人公、私こと広川博文が同じ職場で働く品田佑と杉川メイにアドバイスを貰いながら亡き息子博人の作ったゲームを会社の昼休みに食堂でやっているシーン、『物語る道の果ては』の主人公シュチャクと旅の途中で出会った少女ユレがどこまでもまっすぐに延びている世界を歩いているシーン。どれもそれほど長く見ていたわけじゃないけどはっきり覚えている。でも、あれは俺が須田大樹だった時に見ていたものとは明らかに感じが違うんだよ」


「どういうことだ? それは覚醒前の不安定さによる勘違いじゃないのか?」


「そういうのとは違うと思う。その違和感が何だったか、この一週間ずっと考えていたんだ。そしてようやくわかってきた。あれは、あの三つの場面は俺の脳が創り出したものじゃない」


「はっ? どういう意味だ? お前の見た夢を他の誰が創るんだよ?」


「はっきりわかったのは『物語る道の果ては』の場面を思い出した時だ。空中に浮かぶどこまでも延びる道をシュチャクとユレが仲良く歩いているという何でもないシーンだった。でもその時見た二人の姿は俺のイメージした二人と少し違っていたんだよ」


「ん、どういうことだ? もう少し詳しく説明してくれ」


「映画やテレビ、漫画と違う『小説の長所』というものが幾つかある。その一つが同じ文章からイメージしても人によって全く別の映像を想像出来るということだ。例えば登場人物がいかに美人かを説明する文章があるとする。作者は具体的に説明しようと色んな表現、喩えをして彼女の説明をするだろう。それでもその文章を受け取った人間によって彼女の顔は全く違うものになってしまうってことだ。例えば『色白のモデルのような美人』と書かれた登場人物がいるとしても俺とお前では違う顔の人間を思い浮かべるってことだ。小説の説明が細ければ細かいほど誤差は少なくなるだろうがそれでも全く同一にはならないだろう?」


「まあ、それはそうだろうな。そういえば指名手配された人間の顔もリアルなモンタージュ写真より曖昧さが残された似顔絵の方が意外に情報が集まるらしいからな。あえて想像の余地を残すって奴だ」


「そういうことだ。俺は『物語る道の果ては』を読んだ時、主人公であるシュチャクの姿を思い浮かべた。偉大な父を尊敬しているもののわずかに劣等感を抱えたおとなしい少年。それが俺のイメージしたシュチャクだった。では外見はどんな姿なのか。序盤の方に彼の衣装について説明する文章がある。赤い帽子に黄緑の服。語りの一族と言われる彼らだけが染色方法を知る独特の衣装だ。俺がその説明からイメージしたのは原色に近いど派手な色だった。ところがンダッヴァを吸った後に夢の中で見たシュチャクの衣装はもっと淡い色をしていたんだ」


「待て、小説読む時にイメージした色なんて一々覚えているものか?」


「職業柄なのかな? 俺は物語を読む時、文章から得られた情報を出来るだけはっきり頭の中で映像に変換させる癖が付いている。その逆のことをするのが小説家の仕事なんでな。実は自分の勘違いかもしれないと思って『物語る道の果ては』を読み直してみたんだが、やはり色の濃さについての詳しい描写はなかったよ。赤と黄緑ということしか書かれていなかった。その情報からイメージされる実際の色は読んだ人それぞれということだ」


「じゃあ、おまえはこう言いたいのか? おまえが夢で見た『物語の道の果ては』の一場面は自分の頭の中で創られた映像ではなく誰か違う人物の頭の中の映像だったと。そんな非科学的な話を俺に信じろと?」


「非科学的といえば『ソウルメイト』という考え方を知っているか? 人生の中で不思議と縁のある相手っているだろう? それは前世で同じ魂を共有していたグループの仲間であるって考え方なんだ。人間は自分の意識は自分だけの物だと思っているが実は意識のずっと深い部分は大きな一つの場所に繋がっているんじゃないかな? ンダッヴァには自分が自分で無くなる全ての意識が溶け合った深層まで魂を連れて行く力があるのかもしれない」


「おいおい、岡澤、オカルトかぶれもいい加減にしろよ。ンダッヴァは魔法のアイテムだとでも言うのか? 馬鹿げている! 少し頭を冷やせよ」


「おまえこそそんなに真っ赤な顔して怒るなよ。変だぞ? そんなにムキになって」


「い、いや、俺はただ医者として……」


 そう言いながら実のところ伊佐は内心ギクリとしていた。


 実は彼も「ンダッヴァ」を知ったばかりの頃、今の功と似たような考えを持ったことがあったのだ。


 ンダッヴァには精神を異世界に送る不思議な力があるのではないか、伊佐は大学の恩師の教授に冗談半分にではあるが、その考えを言ってみたことがあった。結果返ってきた言葉は叱責だった。


 医者が根拠もなく非科学的な考えを気易く口にするな!


 恩師の言葉は重く伊佐の心に残り、その後の彼の研究にも影響を与え続けていた。ンダッヴァの体験者が「あれはただの脳内の幻覚なんかじゃない。本当にある世界だ」と言い出すのは珍しいことではなかった。それを彼はこれまで一つ一つ医学的な説明を行い否定してきた。それが正しい仕事と信じて疑いを持つことへ恐怖に近い感情を持っていたのだ。


「伊佐、別に俺は君の医者という立場を否定しているわけじゃない。小説家の戯言だと思って聞いてくれればいい。ただ一つ君にしか頼めない頼みがある」


「……今の話の後に頼みなんて言われても嫌な予感しかしないな」


「君は日本で唯一と言って良いンダッヴァの研究者なんだろう? 研究者ということは研究資料としてンダッヴァの試薬を持っているってことだな?」


 功がそう指摘するとそれまで真っ赤だった伊佐の顔から急速に血の気が引いていった。


「お前が何をしたいか、わかったぞ! 駄目だ。それだけは駄目だ!」


「まだ何も言っていないじゃないか」


「聞かなくてもわかるさ。長い付き合いだからな。ンダッヴァを使ってもう一度夢の世界に行きたいっていうんだろう? 駄目だ、駄目だ! やっと回復した患者に毒を盛るような真似をする医師がどこにいる? おまえは色々勘違いしているんだ。今回はたまたま運良く助かったが次は無いかも知れない。上竹さんみたいに死んでもおかしくないんだ。ンダッヴァは面白半分に使えるものじゃない」


「ンダッヴァはアマゾン奥地の先住民が精霊と交信するために使っていたと言っていたよな? つまりそれは用量なんかをきちんと管理して使えば安全だということじゃないのか?」


「そんなにうまくはいかないんだよ。先祖代々、ンダッヴァを使ってきたその部族の中でも亡くなった人間は結構いるんだ。それを彼らは精霊に見初められジャングルと一体化した英雄だということにして誤魔化しているのさ。おまえみたいな馬鹿が死んでも誰も敬ってなんかくれないぜ?」


「それでも専門家のお前がやってくれれば危険性はぐっと減るんだろう? 少なくともどっかの馬鹿なクレーマーから不意打ちを食らった時よりはずっと安全なはずだ」


「落ち着けよ。お前が良くても俺の立場はどうなるんだ? 患者の意思とはいえ、わざわざ有害な未知の物質を投与したなんてバレたら俺は医師免許取り上げられるんだぜ?」


「今のところ専門家は日本でおまえだけなんだろう? それなら何とでも説明できるじゃないか?」


「て、てめえ……。いったいどうしちまったんだ? 命が惜しくないのか、おまえは? 何をそんなに拘っているんだよ? 小説家のくせに『好奇心は猫をも殺す』って言葉を知らんのか?」


「ただの好奇心なんかじゃないんだ。俺は行かなくちゃならない。あいつのために」


「あいつ? あいつって誰だ? 三人の中の誰かってことか?」


 功は別の意味で先程の伊佐以上に顔を赤くしていた。


「美花だよ。菊嶋美花。俺は彼女のことがずっと好きなんだ」


「はっ? 惚れた女のために自分の命を懸けるっていうのか? おまえがさっきから言っているのは単なる妄想だ。小説ならそれでもいい。でもこれは現実だ。違う人間の意識が深い部分でひとつに繋がっている、そんなことありえない。おまえがンダッヴァを使ってまたリアルな夢を見たとしてもその世界に彼女は居ない。おまえの独りよがりで終わるだけなんだ」


「さっきシュチャクの服の色が俺のイメージした色と違っていたと言っただろ? もっと濃い色を想像していたのに淡い色だったって。あれは美花の好みなんだ」


「おい、待てよ。それならこういう解釈もできるぞ。おまえは美花さんが好きだったから無意識に自分の夢の中で彼女の好む色を登場させた。それだけだ」


「おまえがどんなに論理的な説明をしてくれても俺の気持ちは変わらない」


 真っ直ぐな功の視線を受けて伊佐は大きな溜息を吐いた。


「俺が何を言っても納得しないのか? 全く強情なところだけは高校の時と変わらないんだな。それにしても、彼女はおまえにとって命を懸けるほどの価値がある女性だってことか? こんなこと言いたくないが、そこまでして見返りは期待できるのか? 美花さんってどんな女性なんだ? なぜそこまで彼女のために?」


「そうだな、それを説明するにはまず選考委員全員の関係を話さないといけないな」


 功は懐かしそうに昔の話を始めた。


「十年前のことだよ。相浦先生の家に通うようになった俺はそこで上竹吾郎と源後朋美の二人に出会った。上竹は俺と同じ歳、朋美は二つ程下だったけど二人とも作家としては先輩だった。上竹は一流大学卒業後なぜか職を転々としてその経験を元に自分をモデルにした探偵もののミステリーを書いて話題になっていたし、朋美はファンタジー色の強い恋愛小説を連作していてすでにファンも多かった。二人ともすでに名の売れた作家だったから俺は最初少し遠慮がちに接していたんだが、二人とも明るくてお喋り好きな性格だったからすぐに打ち解けたんだ。そして二人が付き合っていることもすぐに知った」


「ほお、そうなのか。それで?」


「見ているだけで幸せな気分になる似合いのカップルだなと思っていたよ。それから三年経ち、俺も何冊か本を出した頃に現れたのが菊嶋美花だった。彼女も相浦先生が選考委員長を任されていた地方の小説賞の新人賞受賞者でね。受賞作はいじめられっ子の少年がふとしたことから指名手配されて逃げている男を家の古い物置に匿ってしまうっていう作品でさ。命とそれを奪う行為について少年が悩み苦しみながらやがてある結論を導き出していく、その展開が見事な物語だった。精神を病んだ男が見る奇妙な幻覚も要所要所でストーリーに絡んできて凄みのある作品だったよ。しかもそれを書いた時、彼女はまだ高校生だった。全くどんな女傑だろうって思うじゃないか? ところが高校を卒業したばかりという彼女と先生の家で会ってみたら驚くほど普通の小柄な可愛い女の子でさ」


「そんなに美花さんって若いのか。その歳でもう選考委員やっているなんてすごいな」


「ゴールデンルーキーを名乗る雑誌の賞だからな。『顧問である相浦先生以外の選考委員は出来るだけ若い人で』っていうのが出版社の意向だったらしい」


「ふーん、それでおまえはその十歳近く年下の女の子に心を奪われちまったわけか」


「最初は『可愛いお嬢ちゃんだな』くらいの印象しかなかったさ。でも話をすればするほど彼女が年齢以上に聡明な女性だとわかって惹かれていった。ところがうまくいかないもんだな。彼女が好きになったのは俺じゃなく上竹だったんだ。もちろん上竹が朋美と付き合っていることは美花も知っていた。それでも恋心なんてどうにも出来ないものだからな。美花は気持ちを抑えられなかった。上竹も受け入れた。二股ってやつさ」


「おまえはどうしたんだよ? 美花さんをたしなめるとか上竹さんに忠告するとかしなかったのか? 自分の気持ちは彼女に伝えなかったのか?」


「結論から言えば何もしていない。俺は黙って三人を見ていただけだった。怖かったんだ。上竹や朋美との友人としての関係も壊したくなかったし、美花も俺のことを先輩として慕ってくれていたからな。あいつらが泥沼にどんどん嵌っていくのに俺は一歩を踏み出すことが出来なくて結果傍観していただけだった。卑怯者だよ。いつか何かしなければとずっと思ってきた。今それをやるべき時が来たんだと思う」


「つまりおまえがもう一度ンダッヴァを使いたいというのは贖罪のつもりなのか。しかし罪滅ぼしなんて彼らが意識を取り戻した後でゆっくりやればいいじゃないか。お前の言う『意識の世界』なんてあるわけがない。そんな幻に命を懸ける意味はないんだよ」


「何度も言うがあれはただの幻じゃない。たぶんこれはンダッヴァの力を体験した人間にしかわからないんだ。俺は助けに行かなくちゃならない。迎えに行ってやらないと三人が帰って来ないような気がしてしょうがないんだ。なあ、頼む、一生のお願いだ」


「しかし、気持ちはわかるが……」


 伊佐はそう言いながらハッとした。功の眼には何の迷いも感じられなかった。その眼を覗き込んだ彼は妙な感覚に襲われた。功の瞳の向こうに彼の主張する「意識の世界」が本当にあるような気がしたのだ。それは非科学的で説明の出来ない根拠なき確信だったが、確かに感じた思いだった。


「……ふう、今のおまえに何を言っても無駄なようだな。俺が手を貸さなくても、どんな手を使ってでも自力でンダッヴァを手に入れてしまいそうな、そんな危ない眼をしてやがる。おまえは昔からやると言ったらやる奴だったもんな。そんな無茶をされるくらいなら俺が管理してやった方がよっぽど安心して待っていられそうだ」


「伊佐! ありがとう! 手を貸してくれるのか?」


「しょうがねえよ。一度言い出したら曲げないのがお前の長所でもあり短所だろ? まったく高校の頃から少しも変わっていないんだからよぉ。それにそれだけ頑固な強い意思があればなんとかなるかもしれん」


「意思? それはンダッヴァを使うことと関係があるのか?」


「ああ、すごく重要なことだ。おまえが無事にここへ戻ってくるためにはな」


 伊佐は改めて功の眼を真っ直ぐ見つめた。


「功、おまえは『明晰夢』って奴を知っているか?」


「ああ、確か、夢の中で『自分はいま夢を見ている』って認識出来ている状態のことだろう? 夢の内容を自在にコントロール出来ることもあるらしいな。うまくいけば魔法を使ったり空を飛んだり夢の中で自由にし放題なんだろ?」


「そうだ。そして訓練すれば見る夢の殆どを明晰夢にすることも出来るらしい。ただやり過ぎると夢と現実が混同するような感覚に襲われて錯乱してしまうこともあり危険だと指摘する研究者もいるな。どうだ、ンダッヴァの見せる夢に似ていると思わないか?」


「そうか、わかったぞ! つまりンダッヴァの連れて行く世界でも明晰夢の状態になることができれば意志の力で危険を回避することが出来るってことだな? 具体的にはどうすればいいんだ?」


「アマゾンの原住民のシャーマンはンダッヴァを使う前に『自分』を繰り返し確認するという。自分がそれまで現実世界で体験してきた記憶を何度も再確認し自分が自分であることに誇りを持って夢に入るんだ。そうすればジャングルに吸収されず現世に帰って来られると言われている」


「自分が自分であることへの誇り? なんだか難しいな」


「少しでも迷いがあるなら辞めておいた方がいい。無駄死にするだけだ。そうだな、一晩だけ時間をやるよ。自信が持てない時は明日の午前中に退院してもらう。覚悟が出来たなら退院は取り止めて午後からおまえのしたいようにさせてやる。いいな?」


 そう言うと伊佐は部屋を出て行った。迷ってなどいない、そう功は言いたかったが言葉が出なかった。ンダッヴァの世界を体験してしまった彼は自分が自分で無くなる体験をしていた。あの恐るべき力を上回る自我を自分は持てるだろうか? 自分とは何なのか、そんな答えのない問題をたった一晩で解かなければならないのだ。


 答えを持っているのはまだ自分が知らない自分かもしれない。そう功は思った。


 彼はその日一晩眠れぬ夜を過ごした。




 次の日の午前中、昨夜のことなど何もなかったかのような顔で伊佐が回診に来た。目が合った瞬間、功はただ黙って大きく一つ頷いた。それで十分だった。それに答えた伊佐もわかったというように軽く頷いただけだった。彼が出て行くと功はほっとして少しだけ眠った。これから嫌となるほど眠らなくてはならないのに。おかしな話だった。


 そしてその時が訪れた。検査と称して病室にやってきたマスク姿の伊佐は個室の入口の戸を閉めると懐から何かプラスチック製の容器のようなものを取り出した。


「鼻炎治療薬用のスプレーだ。中にはンダッヴァが入っていて鼻に突っ込み胴体部分を軽く押せば適度な量が噴出されるようにしてある。もちろん意識が戻りやすいように量を計算したつもりだが、まだ研究途中のデータだからな。何が起きても俺は責任を持てないぞ?」


「大丈夫だよ。何かあったとしても化けて出たりしねえからさ」


「馬鹿野郎! 縁起でもないこと言うなよ。……そうだ、美花さんたち三人に会って行かなくて良いのか? 今まで面会謝絶だったが顔を見るくらいなら特別に許可を出そう。どうだ?」


「いや、向こうで会えると信じているから。必ず三人を連れて帰ってくる」


「そうか、わかった」


 そう言うと伊佐は功の肩をがしっと掴んだ。


「岡澤、俺はな、今回だけ『非科学的』って奴を信じようと思っているんだ。お前の言うとおり三人の精神が囚われている世界が本当にあるってな。おまえにしか彼らは救えない。おまえならちゃんと彼らと一緒に帰ってくる。そう信じている」


「ああ、何とかやってみるよ。ちゃんと帰ってきておまえの研究の役に立ってみせるさ」


「そうしてくれ。じゃあ、これを」


 伊佐が差し出した噴射器を功は受け取った。キャップを外しノズルを鼻に突っ込み軽く握るとシュッと液体が放出されたのがわかった。


 「大丈夫か」という伊佐の声に「大丈夫だ」と功は答えようとした。ところがその瞬間「穴」が開いた気がした。突然出現した暗闇の中に落ちて行くのは体ではなく意識の方だ。「そう、これだ」、功はそう思った。あの時に感じたのもこの感覚だった。


 功は強く念じた。俺は岡澤功だ。伊佐との高校時代を思い、死んだ両親のことを思い、相浦の教えを思い、上竹や朋美との出会いを思い、そして美花のことを思った。


 それらの思いに支えられ功は一つの思いを自分の中にしっかりとしまい込んだ。


 俺が絶対にみんなを助ける!


 その決意が功を功として保つ柱であった。


 暗闇の中に光が見えた。その光の中に功は思い切り飛び込んだ。






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